石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

99 愛知県岡崎市の石仏(2)

2015-03-16 05:44:28 | 石仏

迷っている。

何を迷っているかと云うと、成田山別院の境内にある石仏の写真を1基ずつ全部載せるかどうかということ。

問題の石仏は、不動明王八大童子と三十六童子。

珍品だから1基ずつ紹介したいのだが、全部だと不動明王を入れて、45基にもなり、写真の容量が莫大で、他の寺の石仏紹介に影響しかねない。

全掲載は断念することに。

成田山別院の三十六童子は、顔は前を向いているが、それぞれテンデバラバラ、統制を欠いたまま佇んでいる。

三十六童子と八大童子の区別すらない。

   

三十六童子の虚空蔵    八大童子の慧喜菩薩

そもそもこれら石仏群が貴重な不動明王の侍者であることの説明もない。

 そういうせせこましくないところがいい、と云えばそれまでだが。

貞樹寺の前を通り、成田山別院の裏道へ出る。

道の向こうは、曹洞宗仏日山永泉寺(岡崎市能見町)。

参道入口の右手に地蔵堂。

その背後にびっしりと無縁墓標が並んでいる。

無縁さんに心優しい土地柄のようだ。

本堂に向かって参道を進む。

両側に十六羅漢さん。

私が好きな羅漢さんは、下の写真。

眉がいい。

白いコケが、ホントの眉毛のようだ。

鼻がいい。

デンと座っている。

口がいい。

歯が見える。

歯のある石仏は初めて見た。

羅漢さんに混じって龍がいる。

釈迦入滅の際、「十六羅漢、五百人の弟子、五十二類まで悲しんで・・・」と書かれているが、五十二類とは動物を指し、龍は動物のカテゴリーに入っていた。

つまりこの龍は釈迦入滅を悲しみ、その威徳を偲ぶ龍ということになる。(『岡崎の石仏』より)

 

永泉寺から一挙に西へ向かって、曹洞宗見松山観音寺(岡崎市城北町)へ。

セールスポイントは「報徳園」なる庭園。

庭園は、また、西国三十三観音お砂踏み霊場となっている。

お砂踏みというのは、西国三十三所の実際の砂を敷き詰めてあるので、ここを一巡すれば、三十三所全部を巡礼したと同じ功徳を得られるというのが売り文句。

お砂踏み霊場巡りのスタート地点に佳作石仏が2体。

左、十一面観音、右、地蔵菩薩立像。

石工の町岡崎でも屈指の石像です。

 

 

 

草花が枯れてもっとも景色に精彩を欠く季節だったので、寺のHPから初夏の写真を拝借、載せておく。

庭園の最上段、本堂の脇に十六羅漢さん。

最上段におわすのは、釈迦如来だが、この報徳園には庭園全体を見渡す巨大な釈尊像が座している。

逆光で像容がはっきりしないのは残念だが、大きな石仏であることは分かる。

 

弘正寺には、万を超える水子地蔵があると事前に情報を得ていても、実際にその場に立つとその膨大な数に圧倒されてしまう。

       曹洞宗愛宕山弘正寺(岡崎市伊賀町)

想像は、その人の過去の経験や常識をベースになされるから、非常識なものに接すると驚いて立ちすくんでしまう。

弘正寺の万体地蔵は、まさにその典型例。

中有に迷う水子の霊を供養するという目的は、秩父の地蔵寺も同じでこちらも山肌を水子地蔵とカラフルな風車がうずめつくしている。

   紫雲山(水子)地蔵寺(埼玉県小鹿野市)

その数は約1万5000基で、ほぼ同じ。

しかし、地蔵寺が人里離れた山中にあるのに対し、弘正寺は市内のど真ん中にあるのだから、そのインパクトは計り知れない。

水子地蔵が埋め尽くす、崖地境内の全景を撮るのは不可能。

どうとっても部分撮影になってしまう。

縦横に小道が走り、四国八十八ケ所の本尊模刻が新旧二体ずつ要所要所に置かれている。

水子地蔵ばかりで、真言宗の匂いがしない中での、唯一の例外。

最上段に立つ巨大弘法大師像にたどり着いて、ミニ四国霊場めぐりをしていたのだと再確認することに。

その足元には、各種弘法大師像もあるが、私には初見のものばかり。

中に1基、弘法大師の上に不動明王の二尊仏。

墓地には酒樽の墓がある。

岡崎の任侠・鈴木円蔵の墓。

明治21年、彼の死を悼み、その酒豪ぶりを偲んで、人々が建てた。

縄と竹の質感、そしてその締め方のリアルティに、素材が石であることを忘れさせる技巧がある。

石工の町ならではの作品か。

下まで降りて本堂へ。

「えっ、こんな所に!」と思わずつぶやいた。

寛永寺燈籠が2基ある。

解説版によると、右の燈籠は四代家綱の死に際し、豊後国日出城主から奉献されたもの。

城主・木下右衛門は、秀吉の妻ねねの方の甥っ子なのだそうだ。

下から改めて万体地蔵を見る。

40年かけて、約1万5000体となった。

一体ずつ名前が書いてある。

ここでクイズ。

水子地蔵は、1体いくら?。

答えは、台石に納骨すれば、10万円。

水子地蔵だけなら5万円。

高いか安いかは、あなたの信仰心にもよるが、高い?安い?それとも妥当金額?

 

 蓮馨寺の門前に小祠。

  浄土宗法羅陀山蓮馨寺(岡崎市伊賀町)

中に丸々と太った子供を抱くお地蔵さま。

庭に入る。

石塔以外何もない。

石塔は、滋賀県の石塔寺の阿育(あしょか)塔を模したもの。

銘文に「仏舎利奉納目次 浄土三部経江洲阿育王塔・・・現在江洲蒲生郡石塔寺今模倣之建立 願主 原田浜之助 大正十六年三月」とある。

大正十六年は、間違いではない。

昭和2年の異名。(『岡崎の石仏』から)

 

蓮馨寺を出て左へ進むと、そこは伊賀八幡宮一の鳥居。

本殿ははるかかなたにあって、見えない。

伊賀八幡宮は、徳川家の始祖松平家の氏神。

文明2年(1470)松平家4代親忠によって、伊賀の国から当所に移設された。

ちなみに家康は、松平家9代に当たる。

持参資料の「岡崎の石仏」(『日本の石仏48』の「石仏の旅18」)は、ガイドをここ伊賀八幡宮からスタートさせている。

伊賀八幡宮の重文石橋をまず紹介することで、岡崎市がいかに徳川家と関係が深く、同時に石材・石工の町であるかを、読者に一瞬にして理解させてしまおうという意図がそこにはある。

 万物枯れはて、あまりにも精彩がない。蓮華が花咲いている写真を神社HPより借用し、後に載せてある。

「石仏の旅ー岡崎の石仏」の案内役・松村雄介氏の伊賀八幡宮紹介は力がこもっている。

岡崎での石仏など信仰にかかわる石造物の探訪は、まずここ八幡宮で、国指定の重要文化財である石造の神橋を望見することから始めよう。石橋だけでなく、神域の豪壮でしかも精巧な建造物の大部分は寛永13年(1636)に完成し、いまいずれも国の重要文化財である。建造を命じたのが、時の権力者家光。工事を奉行したのが岡崎城主本多忠利であることを考えれば、石橋にも近世前期における石材加工と石造物構築の最高の技術が駆使されているのは当然であるが、この神橋が造形の細部に至るまで、忠実に木造橋を模していて、素材である石材の加工上の限界にまで迫っているのは、注目に値する。造形上のお手本を木造建築物などに求め、石独自の造形を追及しようとしなかったのは、古代以来のわが国石彫の伝統であったが、この伝統をもっとも高い水準まで高めたのが、近世の石彫技術であった」。

 

伊賀八幡宮の駐車場で、次の目的地「大樹寺」をナビに入力する。

「だいじゅじ」と入れるがヒットしない。

ナビに頼らず寺に到着。

寺の歴史をがなるスピーカーで「だいじゅうじ」が呼称であることを知る。

伊賀八幡宮が徳川家の祖、松平家の氏神ならば、ここ大樹寺は、菩提寺になる。

山門の前には、その名もズバリ「大樹寺小学校」がある。

その校歌の一番の歌詞は

 丘の学校たのしいな
 西を流れる矢作川
 南の門のまん中に
 岡崎城も絵のようだ
 みんなの学校 大樹寺」

大樹寺は、岡崎城の鬼門に建てられた。

江戸城と寛永寺の位置関係に酷似している。

寛永寺から不忍の池越しに江戸城が見えるように、大樹寺の本堂、山門、総門と岡崎城の天守閣は一直線上にある。

「南の門のまん中に 岡崎城も絵」の様に見えたはずです。

大寺である。

ご朱印寺としても岡崎ではダントツのNO1。

朱印高616石、2位の真福寺354石を大きく引き離していた。

徳川家の庇護厚かったが故に、明治初期の廃仏毀釈の影響ははかりしれないものがあった。

塔頭の売却で苦境をしのいだと云われている。

門前の大樹寺小学校も塔頭跡地に建てられています。

大寺ではあるが、石造物には見るべきものは少ない(ように見える)。

松平歴代の廟くらいか。

墓地を歩くと、それでも彫りこみ五輪塔や板卒塔婆五輪塔を見かける。

 自然石に五輪塔を彫り、中に「南無阿弥陀仏」を刻んである。

扁平角柱石を五輪型に刻んだ墓標。昭和54年の新しいもの。

 

現代風石仏があるので、よく見たら、台石に「奉納寄進 長岡和敬」とあった。

サッカーボールの墓もあれば、現代石彫家による羅漢?群もある。

現代羅漢群は、多宝塔の前にあるから、新旧の対比が、期せずして、面白い。

 

 急に格式がなくなってしまうが、下の写真を見てほしい。

  『岡崎の石仏』より

この立派な石棒が大樹寺の近くの「善揚院」なる寺にあるということで、探し回るが、寺が見当たらない。

開発が進んで、のっぺりと無個性な町では、金精様も居心地が悪かろう。

「子供の教育に悪いから撤去するように」と云われて姿を消したわけではあるまいが、早晩、そうしたクレームをバカ女たちが喚き散らすことは目に見えている。

 万松院にもある、というので、行って見た。

写真では、光背付男根と見える。

  『岡崎の石仏』より

光背つきとは珍しい。

是非、見てみたいものだが、境内に石仏は皆無、きれいさっぱり何もない。

山門脇の林の中に小堂があって、「諸祖神」なる文字も読める。

多分この中にあるのだろうが、カギがかかっていて、扉があかない。

桟枠が狭く、レンズも入らないから、撮影はお手上げ。

寺に断わって見せてもらおうとしたが、無住のようで、応答がない。

2か所続けてのカラ振りで意気消沈、疲れがどっと出る。

 

でも、次の恵日堂の石造物を見て、疲れが飛んだ。

素晴らしい石仏群なのです。

恵日堂は、現在、改築中。

右の白壁の先、もやもやっと低木がある所に石造物がある。

壁に沿って、まず右側に六地蔵。

工事中なのでごちゃごちゃと汚い。

地蔵は、柔らかいがキリッとして、手練れの作と見える。

左に並ぶのは、七観音。

恵日堂は、天台宗滝山寺の末寺なので、聖、千手、十一面、馬頭、如意輪に不空羂索観音を加えて六観音とし、更にそこに楊柳観音を加えて七観音としている。

     揚柳観音

ちなみに真言宗だと、不空羂索観音ではなく、准胝観音。

六観音と七地蔵に挟まれて、立っているのが延命地蔵。

享保十一年(1726)、権大僧都良春を願主として造立された。

写真を見て、一目でお分かりの方もあろうが、お地蔵さんの前の石仏群は、十王。

閻魔王をはじめとする十王に奪衣婆、人頭杖、浄玻璃の鏡など一式がコンパクトにまとまっている。

 

  閻魔王             奪衣婆

この場所には、十王堂があったそうだから、元々は屋内におわしたものらしい。

人頭杖は、檀茶幢(だんだどう)ともいい、亡者の罪の軽重を判定する道具。

男頭から火を吐けば重く、女顔からの火は軽い罪に処せられたという。

浄玻璃の鏡は、亡者の生前の罪を映し出す鏡。

時代は変わっても、人間の想像力はあまり変わらないなあ。

それにしても、今の子供たちは、十王を怖がるのだろうか。

折角の優品なのに、写真がひどすぎる。

とても人様にお見せするような写真ではない。

もう少しちゃんと記録できるカメラにしなくては。

 

真福寺は、岡崎市北部の山中にある。

仁王門の前の駐車場の一画にある覆屋に石仏群。

黒の細長い冠の三面菩薩は、馬頭観音。

配色、像容ともに初めて見る。

真福寺は、白鳳時代(594年)創建の古寺。

    天台宗 霊鷲山 降劒院 真福寺(岡崎市真福寺町薬師山)

法隆寺、四天王寺、善光寺などとともに聖徳太子建立の寺と伝えられている。

境内の一隅に小さな五輪塔群。

塔高30-40㎝の一石五輪塔で室町時代の作品。

基礎は地中に埋まっている。

 

本来は、仁王門から長い急な石段を上って来る。

私は、車で上まで上がり、石段を見下ろす形になった。

だから石段の脇におわす羅漢さまを目にしたのは、ほんの2,3体。

全部を写真に収めるには下まで下りて、また上って来なければならない。

考えるまでもなく、断念。

三河誌に「門より登ること四五町沿途九曲なり。その間に十六羅漢を置く」とある。

宝篋印塔は、岡崎市最高の5.5m。

本堂へ向かう極楽橋の上からみた亀。

なぜ亀なのか、寺に訊いたが、格別な意味はないのだそうだ。

古刹だから、市の文化財に指定されているものもいくつかある。

しかし、石造物は皆無。

         法華塔

ま、そんなものかなと思いながらも、なんとなく釈然としない。

時計を見ると2時。

6時間半、車で回ったことになる。

予定の半分も回れていないが、今回はこれにて終了。

帰途、岡崎城へ寄る。

石工の町・岡崎は、この岡崎城の築城に始まるものとされている。

天正18年(1590)、家康の関東移封と同時に岡崎城主となった田中吉政は、城郭、城下の整備に乗り出した。

強固な石垣構築に河内、和泉は勿論、近江の穴太(あのう)衆までも呼び寄せ、城下に住まわせた。(これが裏町の石工町)

石工たちは、香川県庵治、茨城県真壁と並ぶ岡崎の石をふんだんに使って石垣を築き、そのまま岡崎に定着、燈籠や墓石などの石造物を生産するようになる。

江戸城石垣構築のため集められた石工たちがそのまま江戸に定着して、石仏墓標を生産したのと、まったく同じ図式です。

東海道岡崎宿を往き来する旅人たちが、気に入った石造物を、運搬を気にせず、容易に購入できたことも岡崎が石都として名を馳せた要因です。

当寺、石造物の運搬は、陸路ではなく、舟運がメインでした。

              矢作川

矢作川が町中を流れる岡崎は、太平洋回りの舟運に直結していて、どんな遠方の地からの注文にも応じられたのです。

 

これで岡崎石仏巡りは終了。

目的の半分も回れなかった。

石工団地で石工の話も聞きたかった。

先祖の作品の前で、何人か記念写真を撮りたいと思っていたが、叶わなかった。

もうひとつ、帰京してから知って根地団太踏んだことがある。

「抱き地蔵」を知らずに回って、写真を撮らなかったことが悔やまれる。

「抱き地蔵」は、別名「重軽(おもかる)地蔵」ともいい、両ひざをついて抱きかかえられれば、願いが叶うと云われるもの。

「岡崎市史」には、市内46か所の「抱き地蔵」が列挙されている。

「抱き地蔵」は全国的な習俗で、珍しくはないが、特に岡崎では多いということで、岡崎の石仏巡りをして「抱き地蔵」を逃したのは、大失態ということになる。

 

 

 

 

 

 


98 愛知県岡崎市の石仏(1)

2015-03-01 07:04:56 | 石仏

 岡崎というとどんなイメージをお持ちだろうか。

「徳川家康の故郷」、大方の反応はこれにつきそうだ。

「日本有数の石材産業の町」とイメージした人は少ないのではないか。

        弘正寺の万体地蔵の敷地から市内を望む

両者を合わせると、岡崎は「歴史的遺物にかかわる石造物が溢れる町」ということになる。

行ってみたい、とかねてより思っていた。

で、今度、行ってきました。

今回は、その報告です。

 2月の下旬、三寒四温の温に合わせて岡崎へ。

東岡崎駅をレンタサイクルで出発したのが、午前10時半過ぎ。

最初の目的地、「大泉寺」へ着いたのが11時ころ。

     大泉寺は左石段の上、右は白山神社

曹洞宗東林山大泉寺は、家康の母於大が安産祈願をした薬師如来を本尊として、天文12年(1543)、創建されました。

本堂脇の墓地丘陵を上った奥に於大の墓があります。

東京の伝通院にある巨大な彼女の墓と比べると、とても同一人物の墓とは思えない質素さ。

見上げるような高さにまでぎっしりと並んだ無縁仏。

何気なく撮った前面の一基が、貴重品だった。

都築輝元『岡崎の石仏』によれば、これは勢至菩薩座像。

二十三夜塔ではなくて、墓標、しかも合掌形ではないので判りにくいが、背面に「大勢至菩薩平等利益」と刻されているらしい。

「阿弥陀仏の脇侍以外に独尊として造立されるのはきわめてまれ」と都築氏はいう。

また、背後の丸石も墓碑で、「円は有限と無限を表現するもの。中央の線刻は室町時代盛んだった香道の識。香道は聞香といわれて一定の作法で香を焚き、その匂いを鑑賞することによって、茶道や禅のように人間の精神や人生観を培うという。迷路に香が流れるごとく、冥府で迷わない意図から刻まれたものか、石大工岡崎投石亭の銘がある」(『岡崎の石仏』より)

本堂向かって左の笠付六角柱は、宝篋印塔。

笠、燈身、基礎、基壇すべてが六角形。

らしくないが、塔身に大きく宝篋印塔と彫られているから間違いない。

覆屋の中の石造物は表面の文字が消え薄れて判読不能だが、下部の三猿の形だけは見分けられる。  

今回、1000枚ほど撮った写真の中で唯一の庚申塔。

路傍でも庚申塔を見かけなかった。

裏山へ伸びる道の両側には、西国三十三観音霊場の本尊摸刻が点在する。

参道入口の崩れた土壁は、台石の焦げ方からすると太平洋戦争の傷跡だろうか。

被害を蒙った寺と無傷だった寺があった。

大泉寺は、不幸にも全焼した。

 

変な写真だが、これは極楽寺の参道石段。

岡崎市では、どこの寺社の階段もコンクリートではなくて、石段なのです。

石段を上がると正面に本堂がポツンとある。

      曹洞宗大雲山極楽寺(岡崎市中町)

広い空間を持て余し気味に見えるが、戦災で全焼し、平成になって本堂だけ再建したもの。

墓地のスロープを上る。

もちろん石段です。

岩に腰かける人あり。

和製「考える人」か。

持参資料には、思惟型地蔵読誦塔とある。

「読誦」とは、経典を読み上げること。

読み上げた経典の部数や回数などを記録したのが読誦塔です。

地蔵が腰かける岩座に「妙典千部・読誦功成・功徳無辺願 雲晴秋後普 宝永四年丁亥歳九月 佳山北丘口」と刻されています。

墓地の右側は無縁仏コーナー。

膨大な数量に圧倒されます。

 

さすが家康関連の寺と思わせる大寺が岡崎にはいくつもあるが、ここ随念寺もその一つ。

下は、参道入口から山門を望んだ一枚。

石段両側の白土壁の壮麗さに目を奪われます。

土壁が厚いのは、防御のため。

寺は、城を兼ねていました。

随念寺は、家康によって1562年、建てられました。

祖父・清康とその妹久子の菩提を弔うためでした。

山門をくぐると左に六地蔵。

六地蔵の左に六観音もおわすのが、大寺ならではのことか。

墓地入口には、一石五輪塔があります。

『岡崎の石仏』によれば、この五輪塔は、岡崎で制作されたものではなく、大分県臼杵で造られたものたとか。

地輪から空輪にかけて三角錐をとるのが特色だと書いてある。

石段を上る。

石段は、石材の町ならではの産物です。

原材料の石材と加工する石工に事欠かない町だからこその石段なのです。。

墓地の下に岡崎の市街が広がっています。

三重塔は2011年建立の新築ホヤホヤ。

その背後の木立の中には西国三十三霊場の写しがあるが、そのなかの1基がユニーク。

千手観音が亀に乗っている。

観音の手が線彫りで千手に見えないことと亀の造形がへたくその上、写真の撮り方も最悪で、「亀に乗る千手観音」とはとても思えない。

 

随念寺で見逃せないのが、墓地最奥におわす二十五菩薩石仏。

 正面に阿弥陀三尊、その左右両側に二十三菩薩が並んでいる

極めて珍しい石仏で、さすが石工の町岡崎と云いたくなる石仏群です。

来迎二十五菩薩は、阿弥陀如来が観音菩薩と勢至菩薩の脇侍と共に二十三観音を伴い、臨終にある念仏往生の信者を極楽浄土に迎えるさまを表わしたもの。

 観音菩薩 阿弥陀如来  大勢至菩薩

随念寺の山号「現仏山」は、この来迎二十五菩薩を意味していると云われています。

山号にちなんで、家康が制作させたのが墓地最奥の二十五菩薩石仏群。

こんな由緒ある、しかも全国的にも珍しい石造物が、岡崎市の指定有形文化財でないのか、理解に苦しむ。

木造彫刻しか目が行かない頭の固い学識者ばかりのようだ。

下手な写真で恐縮だが、資料として二十五菩薩全部を載せておく。

  阿弥陀如来

 

  1 観音菩薩      2 大勢至菩薩

  

  3 薬王菩薩       4 薬上菩薩     5 普賢菩薩

  

6 法自在菩薩    7 獅子吼菩薩     8 陀羅尼菩薩 

     

  9 虚空蔵菩薩     10 徳蔵菩薩      11 宝蔵菩薩

  

  12 金蔵菩薩     13 金剛像菩薩      14 山海慧菩薩 

   

 45 光明王菩薩                   46 華厳王菩薩           47 衆宝王菩薩

  

 48 月光王菩薩   49 日照王菩薩    50 三昧王菩薩

  

 51 定自在王菩薩    52 大自在王菩薩   53 白象王菩薩

 

 54 大威徳王菩薩    55 無辺身菩薩

岡崎が石材産業の町として発展してきた要因に原材料の石材が手近にあったことが挙げられます。

随念寺では、安永7年(1778)から天明8年(1788)までの10年間、方丈、庫裏、長屋を造営した。

残されている建設資料によれば、大工、木挽、左官などにまじり、多数の石工も働いていて、その石は「大小共に山より下へ出し候故容易也」と記されている。

山というのは、境内の山だというから、石材費ゼロということになる。

ちなみに随念寺のすぐ下の町名は「花崗(みかげ)」町。

 

 

次いで、曹洞宗白雲山宝福寺へ。

参道の石段を上がると正面に本堂、本堂左に丘陵墓地という配置パターンは変わらない。

曹洞宗という宗派に関係があるのだろうか。

ここも無縁仏のボリュームが凄い。

墓を廃棄物にはしない決意の結果だろう。

真新しい如意輪観音の下に「骨塔」の二文字。

今回、あちこちで「骨塔」を見かけた。

中に遺骨を納めるのだろうが、墓の下に埋めるのと何が違うのか。

石材店で訊いてみた。

「共同埋葬墓」で大勢の遺骨が骨壺なしで、混じっているのだそうだ。

「所変われば、品変わる」。

旅することは、だから楽しい。

 

宝福寺を出る。

道路の向こうの辻角に常夜燈が2基ある。

1基はかなり大きくて古い。

その傍らには「石屋町通り」の標識。

石屋の看板やそれらしき店も見える。

多分この巨大常夜燈もこの石屋町の石工が造ったものと思われる。

誰がいつ造ったもので、寸法はどれほどなのか、『岡崎の石仏』を探すが載っていない。

これほど大きな灯篭なら、どんな市町村の「石造物のまとめ」でも記載されているのが普通なのに、載っていないのは何故か。

 推測するに、掲載の価値なしと判断したからだろう。

つまり、それほど岡崎の石仏のレベルは高いということになる。

これは私の推測だが、この常夜灯は秋葉信仰の遺物ではないか。

常夜燈は、東海道や脇街道の角・辻に建てられ、往還を行き来する人たちの目印であり、同時に町内安全祈願の火防神の祠でもあった。

岡崎では寛政期(1789-1801)に秋葉信仰ブームがあった。

当時建立された常夜燈は、今でも50基は下らないと云われている。

秋葉信仰のシンボル常夜燈を中心に秋葉講が組まれ、代表者が遠州秋葉山に代参して札を貰い請けた。

残念ながら、そうした人々の熱気を、常夜燈から偲ぶことはできないが・・・

岡崎の石工とその石造物の歴史について、以下は、市のHPからの転載。

岡崎石工品の始まりは室町時代後期に遡り、その後、安土桃山時代には、当時の岡崎城主が、城下町の整備のため河内、和泉の石工を招き、石垣や堀を造らせた際、この優れた技術を持った石工たちがそのまま住み移り、その技術技法に磨きをかけ春日型灯籠、六角雪見型等岡崎石工品の原型を作ったとされています。石材加工に適する優れた花崗石が近くで採取できたこともあり、19世紀の初めに29軒だった石屋は、市の中心部にあたる位置に「石屋町」を形成するなどして、19世紀の終わりには約50軒に増え、戦前、最盛期には350軒を数える程の隆盛をきわめました。」

 

誓願寺の参道入口で足が止まった。

土壁がむき出しで、その異様さに息を飲む。

随念寺の美しい白壁を見てきたばかりなので、その廃れようが、ひとしお強く感じられる。

この壁も白壁だったに違いない。

美しかったものがそうでなくなった時、無残さが倍増する。

土壁を復元したい気持ちは、寺の関係者が一番強いはずだ。

思いが達成されないのには、経済的事情があるからだろう。

これだけ寺が立て込んでいては、檀家の数も限定的で、寺の経営は苦しいに違いない。

そんな益体もないことを思いながら、境内へ。

市の観光協会のHPで誓願寺は「永禄9年(1566)、家康が自らの官位勅許のなかだちをした泰翁のために建立した寺です」と紹介されている。

NETで検索しても、大半はこの文章を引用していて、ほとんど同じ。

官位がほしい家康が願いがかなって喜んだ、のは分かる。

仲介者の泰翁にその労をねぎらいたい、というのも分かる。

だけど、その贈り物が寺だというのは、分かりにくい。

泰翁なる人物を調べたら、ちょっとばかり分かったような気になった。

泰翁は、岡崎城下大林寺の僧侶で、この時、京都の誓願寺の住職だった。

泰翁の、そして家康の故郷、岡崎に京都・誓願寺の末寺を建てる、これは立派なプレゼントではないか。

 

これまでもそうだったように本堂左の丘陵墓地を上る。

中腹に達者な彫りの石仏が数体。

もしかしたら同一石工か。

 

千手観音(寺伝では十一面観音とあるという)

如意輪観音

刻銘の国分八郎右衛門は岡崎傳馬の塩商人。

降三世明王?

(この像ほど儀軌にない像容も珍しい。火焔の光背や三面で足下に自在天と烏摩を踏む形態は降三世明王であるが、大憤怒相や躍動姿や羯摩印を取らない姿態は降三世明王とはきめがたい。後考を待ち残しておきたい貴重な像である)。『岡崎の石仏』より

施主の要望通りに仕上げたら、こんな地蔵になった。

仏というよりも人間そのもの。

施主の顔だろうか。

ここにも「骨塔」があるが、私の焦点は徳利に合っている。

誓願寺の境内は諏訪神社と地続きになっている。

廃仏毀釈が徹底して実行されなかったようだ。

大泉寺でも極楽寺でも同じだが、右に神社、左に別当寺というスタイルは江戸時代のまま。

諏訪神社の燈籠は、天正16年(1588)造立のもの。

市内最古の燈籠として市の指定文化財に登録されている。

石造物の指定文化財は、ゼロでないことは分かったが、少なすぎることに変わりはない。

時計を見たら、3時。

4時にはレンタサイクルを返却しなければならないので、今日はこれで終わり。

 

翌日は、レンタカーにする。

8時半、源空寺着。

 浄土宗吉水山法然院源空寺(岡崎市碑歌詞能見町)

山門右手に6体の石仏あり。

六観音かと思ったが、如意輪観音や馬頭観音、千手観音が見当たらない。

どうやら六体みな聖観音で、合掌するもの、蓮華を持つもの、宝珠をもつものと6種類の像容があるようだ。

  

『岡崎の石仏』では、「六体念仏塔」としている。

傍らの寺の由緒書きには「当山は専修念仏三河念仏根元の道場霊地」とある。

 

松應寺の所在を探し回った。

あった。

寂れた店と店の間のアーケードの上に「松應寺」の文字。

寿司屋の幟の文字の方がでかいので、「松應寺」がめだたない。

アーケードはどうやら参道のようだが、朝の9時だというのに、人っ気がなく、真っ暗。

なにやら不気味なのです。

暗い参道を抜けるとそこがもう寺域。

境内がガランとしているのは、空襲で全焼し、再建が進まないから。

浄土宗能見山瑞雲院松應寺(岡崎市松本町)

松應寺は、永禄3年(1560)、家康によって建てられた。

その11年前、今川方の人質として熱田から駿府に赴く途中、家康はこの地に立ち寄り、非業の死を遂げてここに埋葬されている父広忠の墓を参り、記念に小松一本を植えた。

永禄3年、岡崎城主として故郷に戻って来た家康は、この地に寺を建立する。

小松が大樹になり、自らも城主となったことを喜念して寺名を「松應寺」と号したと云われている。

本堂の後ろに広忠の廟は寂然とあるが、肝心の松は、平成3年、枯れてしまった。

廟を囲む白壁の漆喰は剥げ落ちて、むき出しの土壁が寂然たる空気を弥増しにしている。

廟の左に大量の無縁石仏が群立している。

六地蔵もあれば、六観音もおわす。

余りシャープではない彫りの西国三十三所観音も列をなしている。

その中に牛に乗る馬頭観音がある。

西国三十三札所の十七番に相当する石仏だが、十七番六波羅密寺の本尊は十一面観音で馬頭観音ではない。

牛に乗る仏としては、虚空蔵菩薩が牛を神使とすることはあるが、虚空蔵菩薩は三十三所観音の主尊にはない。

『岡崎の石仏』の著者都築氏は、移動の際置き間違えたのではないかと推測するが、では牛に乗る馬頭観音の正式な座所はどこなのか、難しい問題でこれまた答えに窮してしまうのです。

帰路、寺を出て、アーケードをまっすぐ帰らず、横の小路に入り込んでみる。

朝の光の中、白けた感じの雰囲気だが、どこかなまめかしく妖しい。

跡で調べたら花街の跡らしい。

元々は、松應寺の境内だったが、明治維新後、徳川家の庇護を失った寺は境内地を売却して台所を維持してきた。

寺社の前の色町は全国どこにでもある。

ここもその一つだが、すっかり寂れて、空き家率45%。

ゴーストタウンと化したバラック門前街の活性化運動に市が乗り出したという記事があった。

成田山別院、永泉寺、観音寺、弘正寺、蓮馨寺、伊賀八幡宮、万松寺、恵日堂、大樹次、真福寺は次回紹介予定。

 

≪参考≫

◆都築照元『岡崎の石仏』昭和56年

◆岡崎市史(近世)1985

◆松村雄介「岡崎の石仏」(『日本の石仏48号』1988年