迷っている。
何を迷っているかと云うと、成田山別院の境内にある石仏の写真を1基ずつ全部載せるかどうかということ。
問題の石仏は、不動明王八大童子と三十六童子。
珍品だから1基ずつ紹介したいのだが、全部だと不動明王を入れて、45基にもなり、写真の容量が莫大で、他の寺の石仏紹介に影響しかねない。
全掲載は断念することに。
成田山別院の三十六童子は、顔は前を向いているが、それぞれテンデバラバラ、統制を欠いたまま佇んでいる。
三十六童子と八大童子の区別すらない。
三十六童子の虚空蔵 八大童子の慧喜菩薩
そもそもこれら石仏群が貴重な不動明王の侍者であることの説明もない。
そういうせせこましくないところがいい、と云えばそれまでだが。
貞樹寺の前を通り、成田山別院の裏道へ出る。
道の向こうは、曹洞宗仏日山永泉寺(岡崎市能見町)。
参道入口の右手に地蔵堂。
その背後にびっしりと無縁墓標が並んでいる。
無縁さんに心優しい土地柄のようだ。
本堂に向かって参道を進む。
両側に十六羅漢さん。
私が好きな羅漢さんは、下の写真。
眉がいい。
白いコケが、ホントの眉毛のようだ。
鼻がいい。
デンと座っている。
口がいい。
歯が見える。
歯のある石仏は初めて見た。
羅漢さんに混じって龍がいる。
釈迦入滅の際、「十六羅漢、五百人の弟子、五十二類まで悲しんで・・・」と書かれているが、五十二類とは動物を指し、龍は動物のカテゴリーに入っていた。
つまりこの龍は釈迦入滅を悲しみ、その威徳を偲ぶ龍ということになる。(『岡崎の石仏』より)
永泉寺から一挙に西へ向かって、曹洞宗見松山観音寺(岡崎市城北町)へ。
セールスポイントは「報徳園」なる庭園。
庭園は、また、西国三十三観音お砂踏み霊場となっている。
お砂踏みというのは、西国三十三所の実際の砂を敷き詰めてあるので、ここを一巡すれば、三十三所全部を巡礼したと同じ功徳を得られるというのが売り文句。
お砂踏み霊場巡りのスタート地点に佳作石仏が2体。
左、十一面観音、右、地蔵菩薩立像。
石工の町岡崎でも屈指の石像です。
草花が枯れてもっとも景色に精彩を欠く季節だったので、寺のHPから初夏の写真を拝借、載せておく。
庭園の最上段、本堂の脇に十六羅漢さん。
最上段におわすのは、釈迦如来だが、この報徳園には庭園全体を見渡す巨大な釈尊像が座している。
逆光で像容がはっきりしないのは残念だが、大きな石仏であることは分かる。
弘正寺には、万を超える水子地蔵があると事前に情報を得ていても、実際にその場に立つとその膨大な数に圧倒されてしまう。
曹洞宗愛宕山弘正寺(岡崎市伊賀町)
想像は、その人の過去の経験や常識をベースになされるから、非常識なものに接すると驚いて立ちすくんでしまう。
弘正寺の万体地蔵は、まさにその典型例。
中有に迷う水子の霊を供養するという目的は、秩父の地蔵寺も同じでこちらも山肌を水子地蔵とカラフルな風車がうずめつくしている。
紫雲山(水子)地蔵寺(埼玉県小鹿野市)
その数は約1万5000基で、ほぼ同じ。
しかし、地蔵寺が人里離れた山中にあるのに対し、弘正寺は市内のど真ん中にあるのだから、そのインパクトは計り知れない。
水子地蔵が埋め尽くす、崖地境内の全景を撮るのは不可能。
どうとっても部分撮影になってしまう。
縦横に小道が走り、四国八十八ケ所の本尊模刻が新旧二体ずつ要所要所に置かれている。
水子地蔵ばかりで、真言宗の匂いがしない中での、唯一の例外。
最上段に立つ巨大弘法大師像にたどり着いて、ミニ四国霊場めぐりをしていたのだと再確認することに。
その足元には、各種弘法大師像もあるが、私には初見のものばかり。
中に1基、弘法大師の上に不動明王の二尊仏。
墓地には酒樽の墓がある。
岡崎の任侠・鈴木円蔵の墓。
明治21年、彼の死を悼み、その酒豪ぶりを偲んで、人々が建てた。
縄と竹の質感、そしてその締め方のリアルティに、素材が石であることを忘れさせる技巧がある。
石工の町ならではの作品か。
下まで降りて本堂へ。
「えっ、こんな所に!」と思わずつぶやいた。
寛永寺燈籠が2基ある。
解説版によると、右の燈籠は四代家綱の死に際し、豊後国日出城主から奉献されたもの。
城主・木下右衛門は、秀吉の妻ねねの方の甥っ子なのだそうだ。
下から改めて万体地蔵を見る。
40年かけて、約1万5000体となった。
一体ずつ名前が書いてある。
ここでクイズ。
水子地蔵は、1体いくら?。
答えは、台石に納骨すれば、10万円。
水子地蔵だけなら5万円。
高いか安いかは、あなたの信仰心にもよるが、高い?安い?それとも妥当金額?
蓮馨寺の門前に小祠。
浄土宗法羅陀山蓮馨寺(岡崎市伊賀町)
中に丸々と太った子供を抱くお地蔵さま。
庭に入る。
石塔以外何もない。
石塔は、滋賀県の石塔寺の阿育(あしょか)塔を模したもの。
銘文に「仏舎利奉納目次 浄土三部経江洲阿育王塔・・・現在江洲蒲生郡石塔寺今模倣之建立 願主 原田浜之助 大正十六年三月」とある。
大正十六年は、間違いではない。
昭和2年の異名。(『岡崎の石仏』から)
蓮馨寺を出て左へ進むと、そこは伊賀八幡宮一の鳥居。
本殿ははるかかなたにあって、見えない。
伊賀八幡宮は、徳川家の始祖松平家の氏神。
文明2年(1470)松平家4代親忠によって、伊賀の国から当所に移設された。
ちなみに家康は、松平家9代に当たる。
持参資料の「岡崎の石仏」(『日本の石仏48』の「石仏の旅18」)は、ガイドをここ伊賀八幡宮からスタートさせている。
伊賀八幡宮の重文石橋をまず紹介することで、岡崎市がいかに徳川家と関係が深く、同時に石材・石工の町であるかを、読者に一瞬にして理解させてしまおうという意図がそこにはある。
万物枯れはて、あまりにも精彩がない。蓮華が花咲いている写真を神社HPより借用し、後に載せてある。
「石仏の旅ー岡崎の石仏」の案内役・松村雄介氏の伊賀八幡宮紹介は力がこもっている。
「岡崎での石仏など信仰にかかわる石造物の探訪は、まずここ八幡宮で、国指定の重要文化財である石造の神橋を望見することから始めよう。石橋だけでなく、神域の豪壮でしかも精巧な建造物の大部分は寛永13年(1636)に完成し、いまいずれも国の重要文化財である。建造を命じたのが、時の権力者家光。工事を奉行したのが岡崎城主本多忠利であることを考えれば、石橋にも近世前期における石材加工と石造物構築の最高の技術が駆使されているのは当然であるが、この神橋が造形の細部に至るまで、忠実に木造橋を模していて、素材である石材の加工上の限界にまで迫っているのは、注目に値する。造形上のお手本を木造建築物などに求め、石独自の造形を追及しようとしなかったのは、古代以来のわが国石彫の伝統であったが、この伝統をもっとも高い水準まで高めたのが、近世の石彫技術であった」。
伊賀八幡宮の駐車場で、次の目的地「大樹寺」をナビに入力する。
「だいじゅじ」と入れるがヒットしない。
ナビに頼らず寺に到着。
寺の歴史をがなるスピーカーで「だいじゅうじ」が呼称であることを知る。
伊賀八幡宮が徳川家の祖、松平家の氏神ならば、ここ大樹寺は、菩提寺になる。
山門の前には、その名もズバリ「大樹寺小学校」がある。
その校歌の一番の歌詞は
「 丘の学校たのしいな
西を流れる矢作川
南の門のまん中に
岡崎城も絵のようだ
みんなの学校 大樹寺」
大樹寺は、岡崎城の鬼門に建てられた。
江戸城と寛永寺の位置関係に酷似している。
寛永寺から不忍の池越しに江戸城が見えるように、大樹寺の本堂、山門、総門と岡崎城の天守閣は一直線上にある。
「南の門のまん中に 岡崎城も絵」の様に見えたはずです。
大寺である。
ご朱印寺としても岡崎ではダントツのNO1。
朱印高616石、2位の真福寺354石を大きく引き離していた。
徳川家の庇護厚かったが故に、明治初期の廃仏毀釈の影響ははかりしれないものがあった。
塔頭の売却で苦境をしのいだと云われている。
門前の大樹寺小学校も塔頭跡地に建てられています。
大寺ではあるが、石造物には見るべきものは少ない(ように見える)。
松平歴代の廟くらいか。
墓地を歩くと、それでも彫りこみ五輪塔や板卒塔婆五輪塔を見かける。
自然石に五輪塔を彫り、中に「南無阿弥陀仏」を刻んである。
扁平角柱石を五輪型に刻んだ墓標。昭和54年の新しいもの。
現代風石仏があるので、よく見たら、台石に「奉納寄進 長岡和敬」とあった。
サッカーボールの墓もあれば、現代石彫家による羅漢?群もある。
現代羅漢群は、多宝塔の前にあるから、新旧の対比が、期せずして、面白い。
急に格式がなくなってしまうが、下の写真を見てほしい。
『岡崎の石仏』より
この立派な石棒が大樹寺の近くの「善揚院」なる寺にあるということで、探し回るが、寺が見当たらない。
開発が進んで、のっぺりと無個性な町では、金精様も居心地が悪かろう。
「子供の教育に悪いから撤去するように」と云われて姿を消したわけではあるまいが、早晩、そうしたクレームをバカ女たちが喚き散らすことは目に見えている。
万松院にもある、というので、行って見た。
写真では、光背付男根と見える。
『岡崎の石仏』より
光背つきとは珍しい。
是非、見てみたいものだが、境内に石仏は皆無、きれいさっぱり何もない。
山門脇の林の中に小堂があって、「諸祖神」なる文字も読める。
多分この中にあるのだろうが、カギがかかっていて、扉があかない。
桟枠が狭く、レンズも入らないから、撮影はお手上げ。
寺に断わって見せてもらおうとしたが、無住のようで、応答がない。
2か所続けてのカラ振りで意気消沈、疲れがどっと出る。
でも、次の恵日堂の石造物を見て、疲れが飛んだ。
素晴らしい石仏群なのです。
恵日堂は、現在、改築中。
右の白壁の先、もやもやっと低木がある所に石造物がある。
壁に沿って、まず右側に六地蔵。
工事中なのでごちゃごちゃと汚い。
地蔵は、柔らかいがキリッとして、手練れの作と見える。
左に並ぶのは、七観音。
恵日堂は、天台宗滝山寺の末寺なので、聖、千手、十一面、馬頭、如意輪に不空羂索観音を加えて六観音とし、更にそこに楊柳観音を加えて七観音としている。
揚柳観音
ちなみに真言宗だと、不空羂索観音ではなく、准胝観音。
六観音と七地蔵に挟まれて、立っているのが延命地蔵。
享保十一年(1726)、権大僧都良春を願主として造立された。
写真を見て、一目でお分かりの方もあろうが、お地蔵さんの前の石仏群は、十王。
閻魔王をはじめとする十王に奪衣婆、人頭杖、浄玻璃の鏡など一式がコンパクトにまとまっている。
閻魔王 奪衣婆
この場所には、十王堂があったそうだから、元々は屋内におわしたものらしい。
人頭杖は、檀茶幢(だんだどう)ともいい、亡者の罪の軽重を判定する道具。
男頭から火を吐けば重く、女顔からの火は軽い罪に処せられたという。
浄玻璃の鏡は、亡者の生前の罪を映し出す鏡。
時代は変わっても、人間の想像力はあまり変わらないなあ。
それにしても、今の子供たちは、十王を怖がるのだろうか。
折角の優品なのに、写真がひどすぎる。
とても人様にお見せするような写真ではない。
もう少しちゃんと記録できるカメラにしなくては。
真福寺は、岡崎市北部の山中にある。
仁王門の前の駐車場の一画にある覆屋に石仏群。
黒の細長い冠の三面菩薩は、馬頭観音。
配色、像容ともに初めて見る。
真福寺は、白鳳時代(594年)創建の古寺。
天台宗 霊鷲山 降劒院 真福寺(岡崎市真福寺町薬師山)
法隆寺、四天王寺、善光寺などとともに聖徳太子建立の寺と伝えられている。
境内の一隅に小さな五輪塔群。
塔高30-40㎝の一石五輪塔で室町時代の作品。
基礎は地中に埋まっている。
本来は、仁王門から長い急な石段を上って来る。
私は、車で上まで上がり、石段を見下ろす形になった。
だから石段の脇におわす羅漢さまを目にしたのは、ほんの2,3体。
全部を写真に収めるには下まで下りて、また上って来なければならない。
考えるまでもなく、断念。
三河誌に「門より登ること四五町沿途九曲なり。その間に十六羅漢を置く」とある。
宝篋印塔は、岡崎市最高の5.5m。
本堂へ向かう極楽橋の上からみた亀。
なぜ亀なのか、寺に訊いたが、格別な意味はないのだそうだ。
古刹だから、市の文化財に指定されているものもいくつかある。
しかし、石造物は皆無。
法華塔
ま、そんなものかなと思いながらも、なんとなく釈然としない。
時計を見ると2時。
6時間半、車で回ったことになる。
予定の半分も回れていないが、今回はこれにて終了。
帰途、岡崎城へ寄る。
石工の町・岡崎は、この岡崎城の築城に始まるものとされている。
天正18年(1590)、家康の関東移封と同時に岡崎城主となった田中吉政は、城郭、城下の整備に乗り出した。
強固な石垣構築に河内、和泉は勿論、近江の穴太(あのう)衆までも呼び寄せ、城下に住まわせた。(これが裏町の石工町)
石工たちは、香川県庵治、茨城県真壁と並ぶ岡崎の石をふんだんに使って石垣を築き、そのまま岡崎に定着、燈籠や墓石などの石造物を生産するようになる。
江戸城石垣構築のため集められた石工たちがそのまま江戸に定着して、石仏墓標を生産したのと、まったく同じ図式です。
東海道岡崎宿を往き来する旅人たちが、気に入った石造物を、運搬を気にせず、容易に購入できたことも岡崎が石都として名を馳せた要因です。
当寺、石造物の運搬は、陸路ではなく、舟運がメインでした。
矢作川
矢作川が町中を流れる岡崎は、太平洋回りの舟運に直結していて、どんな遠方の地からの注文にも応じられたのです。
これで岡崎石仏巡りは終了。
目的の半分も回れなかった。
石工団地で石工の話も聞きたかった。
先祖の作品の前で、何人か記念写真を撮りたいと思っていたが、叶わなかった。
もうひとつ、帰京してから知って根地団太踏んだことがある。
「抱き地蔵」を知らずに回って、写真を撮らなかったことが悔やまれる。
「抱き地蔵」は、別名「重軽(おもかる)地蔵」ともいい、両ひざをついて抱きかかえられれば、願いが叶うと云われるもの。
「岡崎市史」には、市内46か所の「抱き地蔵」が列挙されている。
「抱き地蔵」は全国的な習俗で、珍しくはないが、特に岡崎では多いということで、岡崎の石仏巡りをして「抱き地蔵」を逃したのは、大失態ということになる。