石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

73 それは佐渡から始まった(3)-木食弾誓とその後継者たち(但唱編)-

2014-02-16 10:01:42 | 木食弾誓と後継者たち

如来寺の五智如来と聞いて、あなたは、すぐ、イメージできますか。

マイナーなテーマの石仏を取り上げるこのブログにアプローチしたあなたなら、「ああ、あの大きな・・・」とすぐ思い出すでしょうが、仏像など興味がない大多数の人たちは、ご存知ないでしょう。

東京都品川区西大井にある如来寺には、都内最大級の木像五智如来が在します。 

 

向かって右から薬師如来、宝生如来、大日如来、阿弥陀如来、釈迦如来。

堂内の奥行きが狭く、5体をワンショットに収めることは、とても、できません。

私のカメラでは、手前の薬師如来が抜けています。

堂内が暗くて、像容がはっきり捕えられないのも、残念なことです。

この五智如来を造ったのは、如来寺を開山した但唱上人。

彼は、この五智如来を、長野県飯田市と駒ケ根市の間の松川町の山中で彫刻しました。

寛永期中ごろ、380年ほど前のことです。

但唱上人は偉大な作仏(さぶつ)聖ですが、その偉大さは、この巨大五智如来を彫ったからではありません。

江戸まで運んだことにあります。

巨大な仏像を造ることはできても、それを信州から江戸まで運ぶことは、誰にもできることではありません。

しかも但唱上人自らは、喜捨を受ける身で一銭たりとも持っていないのです。

天竜川を筏で下り、沿岸沿いに船で江戸まで運ぶ。

想像するだに膨大な人力と財力を要するこの大事業を、幕府や藩の力添えがない一介の木食念仏僧

がなぜ成し遂げることができたのか。

結論からいえば、信仰の力、信者の協力があったからでした。

要所要所を信者であるプロの職人集団がボランティアとして運搬輸送に携わり、バトンタッチしながら江戸まで運んだに違いありません。

但唱上人は、卓越した作仏聖であり、そして同時に、在野の偉大な実践的宗教家だったのです。

 

「イメージが崩れるな」。

坐像を見て、そう思った。

「如来寺の歴史と寺宝展」(品川歴史資料館、2013年10月-12月)の入口でのこと。

展覧会の主人公、如来寺開山の但唱上人座像が来館者を出迎えている。

但唱上人像があることが、まず、意外だった。

更に意表をつかれたのは、そのでっぷりとした体躯。

合掌する手も分厚く指も太い。

但唱上人は、普通、木食但唱と称せられる。

木食とは、木食戒(穀断ち)(火食・肉食を避け、木の実・草のみを食べる修行)を 受けた僧を意味します。

ならば、痩身の木食聖をイメージして当然でしょう。

この但唱像の作者は、但唱の弟子・林貞ですから、本人と酷似していることは、まず、間違いない。

痩身であるはずの木食但唱が肥満体型なのは、なぜか。

但唱の足跡を追うことで、その謎が明らかになってゆきます。

「それは佐渡から始まったー木食弾誓とその後継者たちー」の3回目は、弾誓の弟子・二世但唱編です。

(*1回目のNO41と2回目のNO64をお読みください。)

 

始祖・弾誓はじめ但唱らその後継者たちは、日本宗教史正史には登場しません。

だから、彼らを記録する文書はごくわずか。

関係寺院に残された伝記のたぐいと地域史の断片だけです。

『但唱伝記』によれば、但唱は、天正7年(1579)、摂津国多田郷有馬郡高杉(現兵庫県三田市高杉)の生まれ。

13歳で父と死別、母と暮らしていたが、18歳の時、弾誓と師弟となることを誓ったという。

時に弾誓46歳。

親子ほどの年齢差がありました。

修行中の弾誓を訪ねて佐渡・檀特山に分け入ったのは、但唱、21歳。

それから7年間、弾誓に従って厳しい木食戒の修行に明け暮れます。

不思議なことに、7年もいながら但唱の記録は佐渡には残っていません。

私の手元にある参考図書は、宮嶋潤子『謎の石仏ー作物聖の足跡』、五来重『木食遊行聖の宗教活動と系譜』、田中圭一『地蔵の島、木食の島』ですが、但唱がいつ佐渡を離れたか、その時期についても一致していません。

そればかりでなく、佐渡を離れてからの活動年月日にもズレがあります。

多分、根拠とする原資料の記述が異なっているからでしょう。

私にはどれが正しく、どれが間違っているか判断する基準も能力もないので、混乱を避けるため、時系列で足跡を辿るのをやめ、場所とそこで起きた出来事を中心に書いてゆくことにします。

 

 ◎須坂市奇妙山平の岩窟

佐渡を離れた但唱は、その後、各地を遊行して回ります。

一か所に一番長く滞在した場所は、須坂市奇妙山平でした。

奇妙山平は、須坂市と上田市の市境、東は群馬県嬬恋村に接する地点の四阿(あずま)山の麓にあります。

 この地に籠る前に但唱は、師弾誓を箱根に尋ね、そこで弾誓流仏頭相伝を受け、「念来称帰命山」の法名を授かっています。

帰命山=奇妙山。

但唱の修行地だったので奇妙山と呼ばれるようになった、そう私には思えます。

 

念願の奇妙山平を私が訪れたのは、2013年の9月のことでした。

標高は1400m位ですが、車でならなんなく上ることができます。

緩やかな山道は両側が樹木でおおわれて視界がききません。

たまに見通しがきくと、深い谷間の向こうに切り立った崖が見えます。

崖は岩山で、樹木も生えないほどの岩地です。

見方を変えれば、石仏の石材には事欠かない山ということになります。

入山禁止のバーの手前に駐車、、バーをくぐって奇妙山平へ。

上り坂を20分ほど進むと「奇妙山石仏」の標識。

人が来ないのでしょう、道らしき道の草木は踏みしだかれてはいません。

クマザサをかき分けて進む。

やがて平らな場所に出るとそこに巨大な岩が横たわっていました。

「大岩」です。

岩を抉って、中に石仏が安置されている。

但唱が彫った阿弥陀如来ではないでしょうか。

「大岩」を通り過ぎて、さらに100mほど進むとポッカリと浮かんだような岩が出現します。

「浮島」です。

「浮島」の上には6,7体の石造物がおわします。

全部、作仏聖但唱の手になる作品です。

接写をしたい。

が、岩の高さは約3メートル。

よじ登ることはできても、しかし、下りるのはやばそうだ。

自分の体の老化は認識しているので、あっさりと断念。

下からズームで撮ったお地蔵さんは、風化が進行しているように見える。

お地蔵さんの目線の先には、観光名所米子大瀑布の滝が白く光っています。

伝説によれば、但唱と閑唱は毎朝滝壺まで下り、滝行の禊をしてから作仏に取り掛かったといわれています。

「大岩」まで戻る。

但唱が弟子の閑唱と暮らしていた岩窟は、高さ1.5m。

奥行はせいぜい2mほど、作りかけの石仏や石材がごろごろしていて、居住環境は劣悪そのもの。

雨露が凌げればよい、そう思っていたに違いなく、住み心地を良くしようとした形跡はまったくない。

今でこそ、林道が近くを走っているが、但唱がいた頃は、人通りが全くない山奥。

念仏を唱えながら作仏をする乞食のような行者の噂は、どうして広まったのだろうか。

いつの間にか、「国郡貴賤道俗男女夜に日を継て群衆し」共に念仏を唱えるようになったという。

信じられない話だが、本当のことらしい。

流行るものあらば、嫉むものあるは世の習い。

麓の37か寺の僧徒が揃って上ってきて、但唱の行う弾誓流念仏を邪道と非難した。

帰命山弘め給ふ処の念仏の意趣詰問し、其の有様甚だもって理不尽の至りなり」。

論戦を受けて立った但唱が、彼らを論破したことはいうまでもない。

檀家制度に安住し、信仰から遠ざかっていた既成寺院と弾誓流派との軋轢は、弾誓の弟子たちが行く先々で生じて、彼らを疲弊させてゆきます。

この奇妙山平の岩窟で但唱が彫った小さな石仏は、里人たちに「奇妙山さん」と呼ばれ、それぞれの家で大切に扱われたという。

但唱は、また、この岩窟で、木像千体仏の制作にも力を注ぎました。

 

◎万竜寺(須坂市亀山)

 その但唱作千体仏があるというので、奇妙山平から須坂市街に向かう途中の万竜寺へ。

万竜寺は、但唱開山の寺。

木食僧といえども真冬に奇妙山平の岩窟で暮らすことはできない。

冬期間は、里に下りて庵で過ごしていたはずです。

その庵が寺になって、万竜寺が開山したということになります。

山号は「帰命山」、但唱の法名そのまま。

万竜寺の山門付近の石仏は、但唱作とみなしていいでしょう。

境内には、但唱の負い仏なる石仏がおわします。

いつもこの石仏を背負って歩いていたのでしょうか。

万竜寺の但唱と村人には、深いかかわりがあったことを示す逸話がある。

ある旱魃の年、亀倉村は水不足に悩んだ。村人の困窮を聞いた但唱は雨乞い地蔵を造り、本堂に巨大な南無阿弥陀仏の掛け軸をかけた。集まった村人に雨乞い念仏を教え、雨乞い地蔵を米子川の河原に安置して、自らは流水に入ってみそぎを行った。女たちは、万竜寺本堂で百万遍の念珠を回しながら雨乞いの念仏を唱えた」

面白いのは、雨乞い念仏を唱えても験力がない場合は、雨乞い地蔵は川に投げ込まれる風習があるということ。

    雨乞い地蔵の儀式(上越市三和)

これは、新潟県上越市三和の雨乞い地蔵とまったく同じで、(NO69新潟県立歴史博物館企画展「石仏の力」に見る佐渡の石仏)もししかしたら三和地区の雨乞いも但唱が教えたのかもしれない。

石仏とはいえ、仏像を川に投げ込むという手荒な行為は忌避されるのが普通です。

それをあえてやるのが但唱流、拝んでいては生じない仏と人間との密接な関係が生まれることを重視したのでした。

 

肝心の千体仏は、本堂の中に安置されています。

本尊の傍らの、朱色の縦長ケースにびっしりと並べられています。

その数1056体。

千体より多い理由を須坂市教育委員会は次のように説明しています。

「千体仏は、信者が家に持ち帰り、願いをかけた。特に子供のない女性や子供を亡くした母親が小さい仏を抱いて寝て、子授かりや安産を願い、また亡き子の菩提を弔ったという。人々は願いが成就するともう一体作り寄進した。現在はそのほとんどが寄進されたもので、但唱作はわずか17体となっている」。

但唱作の17体だけが、ガラスケースに収められ、他と区別されている。

なぜか、千体仏を撮った全カットがピンボケだった。

但唱の怒りを買ったようだ。

私の所業が悪かったからか。

だが、悪しき所業は枚挙にいとまなく、特定できないのがなさけない。

この万竜寺の千体仏が、但唱の2万体造立の皮切りでした。

帰命山平と万竜寺をベースに、越後米山の安楽寺にも千体仏を造り、信州野辺、井上村、松代、森山、矢代、こんやい村、田口村、平村、むれい村、六ッ川村と次々と寺を建て、本尊を彫刻して納めるという超人的活動を展開します。

その後、帰命山平を出て、居を富士山山麓に移し、伊豆の三島に一寺を建て、千体仏を納め、須走村には堂を建て、千体仏を安置する。川口大宮の信誉上人の寺に千体仏を寄進して再び信州に戻り、上穂に山居して飯田の光明寺に千体仏を安置する。次に休む間もなく、房州に現れ、清澄寺に千体仏、上総のお滝観音に千体仏、越後と信州松本、佐渡でも千体仏を寄進、千体仏だけで1万3000体、千体とまとまらない、バラバラな木彫仏を加えるとついにその数2万体に達したのです。

(五来重『木食遊行聖の宗教活動と系譜』より)

 その2万体を供養して造立したのが、冒頭述べた如来寺の五智如来ということになります。

佐渡でも千体仏を寄進とありますが、現在確認されているのは、3か所。

そのうちの一か所、旧佐和田町の常念寺の千体仏は、本堂内陣の壁にきれいに並んでいます。

 

但唱の師・弾誓が佐渡にわたって最初に修行したのが常念寺でした。

だから、但唱が千体仏を常念寺に持ち込んだとしても不思議ではありません。

しかし、住職の話では、千体仏は金で装飾されたものも多く、明治時代に相川金山の関係者の寄進によるものではないか、とのこと。

『謎の石仏』の著者、宮嶋潤子さんは「信州と佐渡の千体仏は但唱の流れをくむ同じグループの作品」とみています。

但唱の作仏聖としての技術と千体仏にかける篤い信仰心は、弟子たちにも連綿と受け継がれてゆきました。

弾誓から数えて6世の法阿(通称木食山居上人)が、弾誓派の聖地、信州虫蔵山の高山寺に千体仏を寄進したのは、但唱の時代から約半世紀後のことでした。

          高山寺(長野県小川村)

面白いのは、金で装飾されたものもあること。

木を荒削りした但唱の時代の、素朴な木彫仏から大きく変化していることが分かります。

ということは、佐渡の常念寺の千体仏も明治よりずっと時代をさかのぼった作品とみてもいいことになります。

 

千体仏を十数か所に造仏寄進し、念願の2万体造仏を成し遂げた但唱は、所願達成供養のために巨大五智如来を造ることを決意します。

奇妙山平を離れて、造寺、造仏をしながら信州、甲州、遠州、伊豆、房州、越後、佐渡と回った但唱は、五智如来制作のため、駒ヶ岳の東側、伊那谷を一望する原始林に入ります。

「山吹村小横沢に入給うに国仲の人民貴賤群衆をなして助成す。殊に領主座光寺殿帰慶斎、仏法帰依の志浅からず。依りて帰命山来給ふ事を悦び、供養尊敬し領内の材木を惜しまず・・・」

木食念仏僧であり、作仏聖の但唱は、行く先々で「貴賤群衆を成す」状態を作り出しました。

カリスマ的宗教者だったことは間違いないでしょう。

加えて、人々を魅了したのは、作仏聖としての但唱だったのではないか、そう思います。

民衆救済を請願して刻む、粗削りで素朴な仏像は、人々が手で触り、仏を実感して、生きる支えとなるものでした。

しかも、その仏はわずかな喜捨で入手できたのです。

寺の本堂の奥深くに坐す本尊が近寄りがたく、遠い存在であればあるほど、この小さな木像仏はありがたい存在でした。

この時代、檀家制度が実施され、人々はどこかの寺の檀家として組み込まれ始めました。

寺を介して、支配、管理されているはずの者たちが、どこの馬の骨とも知れぬ、住所不定の遊行僧を崇め、参集する、これは支配者側にとって、由々しい問題であったはずです。

こうした時代の変化を敏感に感じながら、但唱は伊那の山中で弟子と共に巨大五智如来の制作に励んだのでした。

 

ところで、この巨大五智如来 については、二つの素朴な疑問があります。

一つは、江戸までの運搬は、何故、可能だったのか。

運ぶことができると踏んだから、作ろうとしたわけです。

但唱は、天竜川沿いに、また駿河湾から伊豆半島の港みなとに弾誓流念仏信者が大勢いることを知っていました。

それぞれの場でのプロの職人である信者たちが協力してくれれば、運ぶことができると考えたに違いありません。

その判断は正しく、巨大五智如来は江戸まで運ばれました。

背景にあるのは庶民パワーです。

もう一つの疑問は、五智如来の安置場所。

安置場所があるから造り、運んだわけです。

しかし、但唱が五智如来制作に取り掛かったとき、如来寺は影も形もありませんでした。

伊那で五智如来を造りながら、彼は、江戸で新しい寺を造る必要に迫られていました。

巨大な五智如来を安置するにふさわしい広大な土地が、まず、不可欠でした。

そのうえ、江戸市中に新しく寺を造立することを禁ずるお触れが、但唱の前に立ちふさがっていました。

これは庶民パワーではいかんともし難い事案です。

では、彼は、どうしたか。

どのような策を弄したかは不明ですが、権力の中枢に取り入ったのです。

権力中枢とは、天海大僧正。

 天海大僧正座像(如来寺所蔵)

家康、秀忠、家光三代にわたる幕府の宗教顧問として有名でした。

 天海が但唱に与えた「融通念仏弘通朱印状」(如来寺所蔵)

如来寺に遺る一枚の朱印状「融通念仏弘通朱印状」は、天海が但唱に与えた書状ですが、これには如来寺を東叡山末寺と認めることと、天台宗の融通念仏道場とすることが書いてあります。

両者の歩み寄りは、双方を利する要素を孕んでいました。

幕府にすれば、在野のカリスマ宗教家である但唱を野放しにするのは、秩序を乱すものとして認めがたい。

かといって、弾圧すれば、大衆的蜂起が起こりかねない。

彼らの宗教活動を認める形で体制内に取り込み、管理しようと天海は考えた。

一方、但唱は広大な境内地の寺を江戸に新造するための土地と資金がほしい。

その寺を、弾誓流派の拠点と但唱はしたかったのです。

檀家制度が導入され、寺の本末関係が確立する時代の流れのなか、弾誓流派だけは、どの宗派にも属さず、岩窟に籠って修行に明け暮れしていました。

このままでは、尻すぼみに消滅してしまう、こう但唱は考えたはずです。

寛永寺の末裔になり、天台宗の一員として融通念仏道場となる、その代償として如来寺は誕生した、のでした。

東叡山に至って天海大僧正にまみへ、弾誓仏より伝授する所の念仏の大事を密に語り給へば、大僧正嘆いて曰く、汝の伝えるところの念仏の心地、天台宗に立てる処の融通念仏の秘法なりと称嘆したまう。依りて天台宗に帰服して寺号、山号を望みて東叡山の末寺と成給う」。(『但唱伝記』)

土地も資金も天海が提供したのではないか、そういう推測も十分可能です。

因みに、如来寺が発行するパンフレットの「帰命山仏性院如来寺歴代」には、「開基・慈眼大師天海、第一世・木食第一世仏性院満領但唱」とあります。

ここで、冒頭の但唱座像に戻ります。

木食修行僧に肥満は似合わない、だから違和感がある、と私は感じた。

だが、この如来寺建設に邁進する但唱には、宗教家というよりも清濁併せのむ政治家のイメージがぴったりします。

政治家但唱が肥満体型であることに違和感はない。

制作者の林貞は師の変身ぶりを見事に表現したといえます。

 

高輪にお目見えした帰命山如来寺は、「大仏の寺」として、たちまち江戸の名所となります。

                 江戸名所図会(如来寺)

「江戸名所図会」の如来寺は、芝下高輪にあったが、明治41年、現在地の西大井に移転してきました。

  帰命山如来寺(品川区西大井)

緩い坂道の参道を上ると正面に「五智如来 帰命山」の石碑。

石碑の後方の瑞応殿に五智如来がおわします。

宝永年間、火災に遭ったが、薬師如来だけは災禍を免れ、作仏師・但唱の技法を今に伝えています。

       焼失を免れた薬師如来

堂内の左端に但唱座像。

五智如来が大きいので、小さく見えるが、「如来寺秘宝展」に出品されていたものと同じです。

 

五仏殿に向かって左が墓地への入口。

通常ならば六地蔵がおわす場所に3体のお地蔵さんが立っていらっしゃる。

左と真ん中の2体は、但唱作。

背面に「作者但唱」と彫ってあるから、間違いない。

「石仏散歩」と銘打ちながら、石仏不在の記事で忸怩たるものがあったが、ほっと肩をなでおろす。

造立年は、左が寛永15年(1638)、中央が寛永14年。

如来寺が完成して1年後の造立ということになります。

念願の大事業を政治家的手腕で成し遂げ、充実感に満たされながら、政治家から作仏聖の顔に戻って、彫りこんだ逸品。

        寛永15年造立

丸い顔、肉付きのいい頬、分厚い唇は、奇妙平の浮島に立つお地蔵さんにそっくり。

    寛永14年造立

但唱作と知って見るからか、プロの石工の作品にはない精神性の高さがあるように見えます。

「五智如来を石仏として作ってほしい」、但唱に、そう依頼してきた人物が出ます。

日本橋の材木問屋、樋口平太夫は豪商でありながら、100観音霊場を回るなど信仰心の篤い人でした。

樋口平太夫は、商売柄、天竜川から江戸までの舟運について熟知していました。

もしかしたら、彼は五智如来輸送のアドバイザーであり、スポンサーだったのかもしれません。

平太夫の申し入れを但唱は引き受けます。

制作場所は、真鶴。

海岸近くに帰命山如来寺と芝高輪の寺と同じ名前の寺を建て、その境内で弟子たちとともに石仏五智如来の制作に励みました。

真鶴を選んだのは、良質な石材の産地だったからであり、完成した石仏を運び出すのに便利な港がすぐ近くにあるからでした。

『謎の石仏』の著者、宮嶋潤子さんは、真鶴は弾誓信者が多く、箱根の阿弥陀寺、伊勢原の浄発願寺の膨大な石造物の石材や石工は真鶴からのものであったとし、但唱はこの地で石仏彫刻の技術を覚えたのではないかと推測します。

真鶴の帰命山如来寺は、今はありません。

明治の廃仏毀釈で廃寺となりました。

しかし、寺の背後の崖下の洞窟に但唱らが彫った石仏群が並んでいます。

*ここでお断り。この如来寺跡の写真フアイルが消去されていることが今、判明。ショック。改めて撮影に行く時間がないので、仕方なく「鎌倉を歩くー真鶴の岩浦周辺 瀧門寺と如来寺跡」http://23.pro.tok2.com/~freehand2/rekishi/manazuru-shiseki.html

から写真を借用することに。無断借用です。すみません。)

まず、洞窟入口前に石造物の列。

寺は崖に接して建てられていて、洞窟は本堂最奥に位置していたと思われます。

洞窟に入る。

照明がないので、入口付近の明るさと奥の暗さのコントラスとが激しく、一瞬何も見えない。

目が慣れると、入口付近には、閻魔や奪衣婆などの十王がおわすのが分かる。

洞窟内は二部屋に分かれていて、手前が地獄、奥が極楽をイメージしているようだ。

地獄の裁きの道具である人頭杖や業の秤も但唱作と宮嶋さんはいう。

奥の極楽部屋の最奥には、大日如来と聖観音が並んでいらっしゃる。

石仏の横の立札に「聖観音菩薩」と表示されているが、宮嶋さんが意見を聞いた西村公朝(東京芸大教授)氏は、通常の聖観音とは違い、神像的なので、単に菩薩型座像とするのが妥当と答えたという。

真鶴の如来寺跡の石仏群についての記述が長くなった。

本題は、この地で但唱らが制作した石造五智如来です。

但唱とともに鑿を振るったのは、信州伊那の山中で木像五智如来を造仏した弟子、感悦、林貞、教念たちでした。

完成した石造五智如来は、寛永18年(1642)、海路、京都まで運ばれた。

設置場所は、京都鳴滝音土山上の蓮華寺。

五智如来安置の理想郷として施主樋口平太夫が選んだ場所でした。

現在、石造五智如来は、京都市右京区御室の蓮華寺に在します。

生垣に浮かぶように蓮台が並び、その上に大振りの仏さまがゆったりと坐していらっしゃいます。

表情は穏やかで柔らか、石でできていることを忘れてしまいそうです。

左から、、釈迦如来、阿弥陀如来、大日如来、宝生如来、薬師如来。

  

      釈迦如来             阿弥陀如来                  

      大日如来

  

     宝生如来               薬師如来    

背中には、作但唱とあります。

江戸の如来寺の五智如来と同じ並びです。

五智如来の後ろには、11体もの石仏が並んでいます。 

これらも、また、真鶴から運ばれてきました。

僧形のうちの2体が面白い。

一体は、但唱上人。

           但唱上人像

もう一体は、施主の樋口平太夫。

       樋口平太夫像

施主と、作者が並ぶのは前代未聞。

但唱上人が、木像の但唱像と酷似しているのは、作者が弟子の林貞だからでしょう。

双方とも微笑みを湛える笑顔がなんとも素晴らしい。

微笑みでその人物のスケールの大きさが分かるというのは、すごい。

モデルのスケールも大きいが、それを刻した作仏聖の技量も称賛に価する、双方相まっての、これは優品です。

 

石造五智如来の制作、輸送という大事業を終え、但唱は高輪の如来寺に戻る。

疲れた体を横たえて、彼は、再び起き上がることはなかった。

寛永18年6月15日、61歳でした。

 

彼の墓は、如来寺墓地にある。

訪れた2月のはじめ、咲き始めた白梅の中、無縫塔はすっきりと屹立していました。

法名「仏性院満嶺但唱上人」。

合掌。

 ー未完ー

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


64 それは佐渡から始まったー木食弾誓(たんせい)とその後継者たち(2)

2013-10-01 13:38:45 | 木食弾誓と後継者たち

前回は(と、いっても1年も前のことになるが。)、弾誓(たんせい)の佐渡での開眼と離島を決意するまで、が内容でした。(NO41をお読みください)

今回は、佐渡を出てからの弾誓の足取りを追います。

慶長9年(1604)、年の瀬も押し迫った凪ぎの日、弾誓は佐渡を離れます。(慶長9年は宮島潤子氏説、五来重氏は慶長2年としている。)

悟りを開いて得た教えを光明仏として布教したいと念じたからでした。

出航した佐渡の港や着岸した越後の港がどこか、記録にはありません。

分からないと言えば、船賃を払ったのか、乞食然としてるとはいえ修験僧、只で乗せてもらったのか、そうしたことも分かりません。

舟を下りた弾誓が向かった先は、善光寺。

今や生きる阿弥陀仏となった弾誓が阿弥陀三尊を本尊とする善光寺にお参りするのは当然のことでしょう。

善光寺から、彼は虫倉山の尾根伝いに西へと向かいます。

         虫倉山(長野市旧中条村)

古来から日本の山には、里人が知らない、山人のアンタッチャブルな世界がありました。

山岳修験者の弾誓は、こうした山人たちと昵懇の間柄でした。

弾誓や二代目但唱が金属鉱山に詳しい「山見わけ」であったのも、山人たちとの交流によるものです。

普通、弾誓らは里人が知らない山道を通ります。

雨露を凌ぐのは、洞窟。

これらの洞窟は昔からの行者の活動拠点でもありました。

勿論、弾誓とその弟子たちにとっても、虫倉山は、佐渡の檀特山とともに霊山でした。

そうした洞窟伝いに虫倉山を抜けて、弾誓はやがて現在の大町市へと下りて行きます。

大町市には、弾誓寺がありますが、これは弾誓開基の寺ではありません。

             弾誓寺(大町市)

開基者は、三世長音。

この地で弾誓が念仏を絶やさないことの大切さを人々に教えたことを記念すべく長音が建てた寺です。

寛永13年(1636)のことでした。

弾誓が立ちよった当時、ここは常福寺という寺でしたが、荒廃しきっていました。

弾誓は、この常福寺に常念仏の道場を開きます。

常念仏とは、常時念仏を唱え、絶やさないこと。

何人かで交代しながら念仏を途切れることなく唱え続けるのです。

その結果としての継続の日数を石に刻みたくなるのは、人の情というものでしょうか。

弾誓寺の境内には7基のノッポの石碑が並んでいます。

  

        7本の常念仏塔                      南無阿弥陀仏七万日回向

左から「南無阿弥陀仏五万日回向(文化10年・1813)」、「三万日(宝暦2年・1752)」、「一万日」、「四万日(天明3年・1783)」、「一万日」、「二万日」、「七万日(文久3年・1863)」。

七万日と言えば約200年、ひと時も念仏を絶やすことがなかったことになります。

弾誓の偉業を讃えて、長音は常福寺を弾誓寺に改名、新たに開基しました。

 

この石塔群の手前奥にある観音堂には、弾誓像があると聞き、観音堂保存会メンバーに鍵を開けてもらいました。

         弾誓寺観音堂

堂中央正面には、金色の聖観音立像。

10世紀に造られた長野県指定文化財です。

目的の弾誓坐像は聖観音に向かって右側に、三世長音像と並んでおわしました。

     長音                 弾誓

意外なのは、山伏姿ではなく、僧形であること。

髪も長髪ではなく、剃髪しています。

箱根塔ノ峰時代、小田原の大蓮寺で一度剃髪をしている記録がありますが、生涯を通して有髪だったと言われていますから、何故、この像が僧形であるのか、不思議なことです。

「有髪は、木食戒の一つ」とする人もいるほどです。(五来重『塔の峰本「弾誓上人絵詞伝」による弾誓の伝記と宗教』)

弾誓と長音、ふたりの坐像はこの上なくリアリテイに富んでいます。

想像では不可能な細部描写があります。

 

          長音                     長音の墓

しかも長音は、比類なき有能な作仏(さぶつ)聖だったわけですから、この作者は長音ではないか、そう推測してもよさそうです。

しかし、県や市の文化財の説明では、作者欄は白紙、つまり不明となっています。

長音ではない明らかな理由とは何なのでしょうか。

 

弾誓と長音の坐像の反対側のガラスケースには、なにやら人の歯らしきものが綿を敷いて置かれています。

これは、弾誓の6代目の弟子筋にあたる木食山居上人の歯。

「弾誓や長音に倣って、山居上人は享保9年(1724)、70歳を期してこの観音堂の地で入定、即身成仏した。地下の念仏の声と鉦の音が絶えた時、上人の死を知らせる寺の鐘の音に人々は涙を流して手を合わせた」という伝説がずーとこの町に言い伝えられてきました。

その伝説の真贋を確かめるべく、平成14年、発掘が行われ、遺骨や遺品の出土で伝説の正しさが証明されたのでした。

上の写真は、歯とともに出土した遺品の数々。

長音や山居については、改めて章を設けるつもりです。

 

木食行者の弾誓は、一か所に安住することはありません。

大町を後にした彼は隣村の雲照院(現松川村板取)に立ち寄り、ここでも常念仏を勧めます。

     雲照院阿弥陀堂(松川村)

雲照院という寺は廃寺となり、今は茅葺の阿弥陀堂が昔ながらの姿を残すだけ。

堂内の阿弥陀三尊を拝観したく、鍵を保管している区長の家を探すも分からない。

仕方なく桟の間にレンズを突っ込んで、パチリ。

このあたりは、『彈誓上人絵詞伝』(古知谷阿弥陀寺本・1767年)の「飯田の阿弥陀寺、大町の彈誓寺、松本の念来寺、百瀬の昌念寺、雲照院も上人を持って開基とし念仏不退の道場なり」によるのですが、各寺の開基は弾誓とする記述は正しくない。

弾誓の弟子たちにより開基されたものです。

次に弾誓が足を留めたのは、百瀬の昌念寺(現、松本市寿中の正念寺)。

   正念寺(松本市のHPより無断借用)

松本市文化財HP「松本のたから」では、正念寺を次のように説明しています。

「 木食寺院の正念寺はいわゆる仏餉(ぶっしょう)寺で、藩より鐘の音の聞こえる範囲の托鉢(たくはつ)を許され、それによって寺を維持しました。檀家は持たず、地域に奉仕し、喜捨によって寺が存続しましたから、それだけに地域の人々との結びつきが深く、その信頼を維持してゆくために木食戒、作仏の修業も厳しいものでした」。

正念寺には、弾誓上人立像があります。

  正念寺の 弾誓像(松本市HPより無断借用)

作者は、正念寺六世本光昭阿上人。

延享3年(1746)作仏と伝えられています。

松本市には、弾誓像がもう一体あります。

 西善寺の弾誓像(松本市HPより)

こちらは、西善寺(松本市和田境)の弾誓上人立像。

もともとは市内の念来寺にあったのですが、廃仏毀釈の難を逃れて西善寺に移されたものです。

作者は弾誓弟子6世相阿。

制作したのは、享保の後半、1720年代後半から1730年代前半と見られています。

いずれの像も長髪で顎髭があります。

制作者は二人とも弟子とはいえ、弾誓の死後100年のことですから、直接、師に会ったことはありません。

言い伝えか絵詞伝の像を参考にしたのでしょうか。

 

 

木食弾誓が山岳修験者であることは、佐渡の外海府の壇特山や信州虫倉山を縦横に歩き回っていることから分かることですが、それを実感したのは上諏訪の唐沢阿弥陀寺への道でした。

上諏訪から霧ヶ峰への道路を右折すると阿弥陀寺の参道へ。

 

  唐沢阿弥陀寺参道入り口(諏訪市)

勾配が急で私の軽自動車では、アクセルを踏み抜いても時速10キロも出ない。

アクセルを踏んだままズルズルとずり下がるのではないかという恐怖を感じるほどなのです。

同じ経験を箱根塔の沢の阿弥陀寺の参道でもしました。

だから、こうした急峻な崖の上の岩窟を、彼は好んで住まいにしたことは確かなようです。

松本を立ち去った弾誓は塩嶺峠を越え、岡谷から下諏訪を経てここ上諏訪の唐沢山へたどり着きます。

唐沢山では弾誓を心待ちに待っていた人がいました。

数年前にこの地に十一面観音を本尊として祀り、念仏に明け暮れていた念仏僧河西浄西でした。

法国山阿弥陀寺は弾誓開基とばかり思い込んでいたので、河西浄西開基と知って意外でしたが、浄西の登場はこの出会いの場面だけ、阿弥陀寺は弾誓とその信奉者の遺品と逸話で満ちています。

駐車場に車を停めて、参道を上って行きましょう。

        嶽門

石垣の山門をくぐると右手の谷川のほとりの巨岩が目につきます。

 

立て札には「弾誓上人の爪彫り名号碑」とある。

巌には文字が刻まれているようだが、光線の具合が悪くて読めない。

持参の資料では、正面に「南無阿弥陀仏 林誉一童」、向かって右に「乃至法界王 当山開基光明仏為」、左に「五十回忌千日結願王 相念 万治三庚子五月吉日」と刻まれているという。

 光明仏即ち弾誓の50回忌供養塔なのです。

ところで、弾誓50回忌で作成された石造物が下諏訪にもあります。

        万治の石仏(下諏訪町)

自然石の胴体に別の石に彫られた仏頭が嵌めこまれた巨大な石仏、通称「万治の石仏」は諏訪大社春宮の西を流れる砥川のほとりに鎮座しています。

「万治の石仏」に向かって左には「南無阿弥陀仏」の文字。

それより左方に少し下がって「万治三年十一月一日」、さらにその下に「願主 明誉浄光、心誉広春」とあります。

この仏頭には、仏頭伝授を教えの継承の儀式の中核とする弾誓派の崇拝の念が感じられると五来重氏は述べています。

大きな自然石なので身体だけでなく頭も線刻することは十分、可能です。

であるのに、わざわざ頭を嵌めこむようにしたのは、仏頭伝授のイメージが背景にあったからではないかと氏は推測します。

明誉と心誉の二人が木食作仏聖であり、万治3年が弾誓50回忌であることを突きとめたことが、宮島潤子氏が名著『謎の石仏ー作仏聖の足跡ー』を書くきっかけとなったのでした。

 

石段をのぼりつめた先の崖には、磨崖名号が2幅。

右は徳本上人、左はその弟子徳住上人の六字名号。

独特な字体の名号塔で有名な徳本上人は、弾誓上人を慕ってこの阿弥陀寺で数年修行したと伝えられています。

徳本六字名号は、磨崖の他、本堂内と本堂後ろ、それに石垣門を入ってすぐの4カ所にあります。

  

   本堂内                   本堂後ろ                 石垣山門入ってすぐ

一か所にこれほど徳本名号塔があるのも珍しいことです。

鐘楼前には弾誓の六字名号碑、その近くには祐天の名号塔もあります。

 

    弾誓名号塔                  祐天名号塔

本殿がやけに新しいなと思ったら、平成5年の火災で再建したもの。

善光寺大本願本堂「本誓殿」を移築したのだそうだ。

本殿の屋根の真後ろ、懸崖造りの奥に弾誓が籠った岩窟がある。

中は意外に狭い。

 

河西浄西が祀ったといわれる十一面観音の他は、小さい石仏ばかり。

何故か、弾誓とその弟子たちの手になる石仏、石碑は一つも見られません。

今風幼児のカラフルなオモチャが、修行岩屋の厳粛さを損なっていて誠に残念。

弾誓が籠っていた頃は、当然、懸崖造りはなく、むき出しの岩窟でした。

そこに座して念仏を唱える弾誓を慕って、諏訪の町から人々が押し寄せてきます。

そうした信者の寄進で、岩窟の前に庵が建ち、やがて庵が寺になる・・・これは弾誓が行く先々で繰り広げられたパターンでした。

集まってくる人たちは、当時のことですから、どこかの寺の檀家です。

しかし、信仰心の観点からは、寺と檀家の関係は既に形骸化していました。

ここにだけ、実践的念仏聖とその信奉者の間にだけ、迸る信仰の渦があったのです。

それがどのような熱狂だったのか、文字の記録は残されていませんが・・・。

 

私は心臓に持病かあるので、ハイキングや登山とは全く無縁です。

箱根塔ノ峰の阿弥陀寺は、箱根湯元駅をスタートとする塔ノ峰から箱根外輪山への登山道の入り口にあるのですが、ここがゴールではなく登山の出発点だということが、私には信じらません。

箱根湯本からの、わずかな距離の急峻な上り坂に辟易したからでした。 

それも歩いたわけではなく、車で上ったというのに・・・

その勾配と距離は唐沢阿弥陀寺とほぼ同じ、本堂と洞窟の位置関係も似通っています。

信州諏訪を後にした弾誓は、甲府からここ箱根塔ノ峰にやってきます。

慶長11年(宮島説)のことでした。

塔ノ峰という地名は、インドの阿育(アショーカ)王が仏舎利を納めた宝塔があったことからつけられました。

と、いうことは、この地が先人の修行地だったことを物語っています。

いつものように適当な洞窟を見つけて、弾誓は念仏を唱え始めます。

その風態は、人間離れしていました。

『弾誓上人略伝』は、次のような逸話を載せています。

「狩りの為に山に分け入り、思いがけない場所で、怪しげな者を見た小田原城主大久保忠隣は『怪しい奴、打ち殺せ』と家来に命じ、犬をけしかけた。しかし、犬は、なぜか、襲いかかろうとしない。大久保氏は自ら弓を取って矢を射るが、矢は届かない。男は『我は修行聖である。』と静かに念仏を続けたので、城主は自らの非を悟り、弾誓に帰依して寺地24丁を与えた」。

     弾誓上人絵詞伝 塔の峰本 『謎の石仏』より

 

私は、2度、塔の峰阿弥陀寺を訪ねています。

駐車場から寺の本堂までは緩やかな坂道。

 

石仏が点在して目を楽しませてくれます。

一か所、石仏の肩越しに、箱根の町が見える場所がある。

最初は、一昨年の3月。

洞窟を見るのを楽しみにしていましたが、「前夜の雨で足場が悪いから」と寺の人に行くのを止められました。

2度目は、去年の6月、ヘビに気を付けながら本堂脇の道を洞窟へと上ってゆきました。

6月だというのに、前の年の落ち葉が新緑を凌いで、薄暗くて茶色が支配する世界でした。

用意されたロープをつかんで上る場所もありますが、さほどつらさを感じない200メートルほどの坂道を上ったところに洞窟は口を開けていました。

石造物が10基ほど見えます。

そういえば、寺からの上り道には石仏も石碑もなかったことに気付きます。

洞窟の前に立って中を覗きこむ。

3メートル位は明るくて、その先は闇の世界。

何も見えません。

上諏訪の阿弥陀寺と塔ノ峰阿弥陀寺との違いと言えば、洞窟の広さ。

 「窟内良(やや)広(く)而風吹(けど)不入雨」「入(ること)数歩而内暗、其広縦横三間余」(『弾誓上人略伝』)

塔ノ峰阿弥陀寺の洞窟は、広いだけでなく、数多くの石造物が残されいることも特徴です。

私はうかつにも懐中電灯を持参しなかったので、カメラのフラッシュに浮かぶ石造物を瞬間的にみただけです。

ですから以下の窟内石造物については、宮島潤子『謎の石仏』、五来重『塔の峰本「弾誓上人絵詞伝」による弾誓の伝記と宗教』の丸写しです。(他の部分も丸写しなのですが・・・)

最も多いのが、圭頭板碑が51基。

圭頭というのは、上部が山形に尖っていること。

碑文は、中央頭に釣り針状のマーク、その下に「南無阿弥陀仏」、右に「設我得我」、左に「不取正覚」。

左右の銘文は『仏教無量寿経』の48願全てにつく「説我得仏」(たとえわれ仏を得たらんと)、「不取正覚」(仏にならない)。

宮島氏によれば、「たとえ我仏となることを得ても、(衆生と共ならざれば)仏にはなることを遠慮する」との弾誓仏の決意だという。

釣り針マークは、「心」だと五来氏は読み解いています。

その五来氏によれば、この圭頭名号塔は小田原を中心に広範囲に多数あるのだそうです。

しかも、塔ノ峰洞窟の慶長12年(1607)が最も古い製作年であることを考えると、弾誓のこの形式がこの地域を席巻したことになります。

洞窟正面には3基の無縫塔。

                 無縫塔3基(阿弥陀寺HPより無断借用)

うちの1基は、正面に名号、左右に願意と弾誓の名前が刻まれています。

ここでの名前は「法国仏」。

その左は「不取生(ママ)覚」。

弾誓仏と彫られた無縫塔もあるらしいのですが、真っ暗な中でシャッターを切ったので、その無縫塔は撮れていませんでした。

写真はありませんが五輪塔も8基、同型、同寸法の既製品らしきものがあるということです。

弾誓五輪塔の特徴は、空、風、火、水、地の代わりに南、無、阿、弥、陀仏と刻むこと。

阿弥陀仏に帰命する弾誓仏らしい五輪塔です。

 

ここでもう一つ、弾誓の常人らしからぬ、いかにも修行者らしい逸話を紹介しましょう。

以下は、『弾誓上人絵詞伝塔ノ峰本』下巻第八段から。

「同じ国の北山に紫の雲立まよひ、あやしき事のありけりと人々いへるを聞たまひ、上人自ら訪ね行き、彼所を見給に、人里遠き山にして、松杉まことに茂り合、鳥の声だに聞ねば、憂世を厭人住家なめりとおぼしめし、峩々たる岩の洞にいり、松吹風を共として、夜すがら声明声すめば、やがて一宇を造営し、貴賎群衆なせしかば、心驚無常山発願寺と額をかけ」と塔の峰にありつつ、伊勢原一の谷に浄発願寺を造った理由を明らかにしています。

   浄発願寺奥の院洞窟前の説明板より

驚くべきは次の一節。

「然るに此の一の沢と塔の峰とは相隔る事凡十里なり。二山の間上人日夜往来し給ふに、その疾こと風のごとし。或は晨朝は塔の峰にて勤修し、日中は一の沢にて執行し給へり。両山兼任の間、すべて六年を経たり」。

 

地図のBが塔ノ峰阿弥陀寺、Aが一の沢浄発願寺。(こういう地図を作りたいけど作れないとぼやいたら、友人が作ってくれた。持つべきは友)

直線距離でも30キロはあろうか。

私には、荒唐無稽の話としか思えません。

 

私が一の沢浄発願寺へ行ったのは、一昨年の正月4日。

弾誓が籠った岩窟がある寺の奥の院は、ヒルが多いということで、冬を選びました。

小田急伊勢原駅からバスで終点の日向薬師へ。

終点から歩いて約15分、川向こうに浄発願寺が見えてきます。

      浄発願寺(伊勢原市

歴史ある寺なのにどこか新しさがあるのは、昭和13年、山津波で寺は崩壊、4年後の昭和17年、約1.5キロ下の現在地に再建されたからです。

寺から更に歩くこと15分、奥の院入り口に着きます。

日向川に突き出た巨岩が、浄発願寺12世天阿上人の修行場所でした。

弾誓が、紫雲石と名付け、その上で念仏修行をしたという大磐石もこうした巨岩だったに違いありません。

川向うの旧山門前には、六地蔵。

揃って首がないのは、明治の廃仏毀釈の傷跡でしょうか。

奥の院までの参道両側に点在する石仏の大半には首がありません。

あるのが珍しいくらいです。

唐沢阿弥陀寺、塔の峰阿弥陀寺の参道を歩いてきた者には、この奥の院への参道はなだらかで歩きやすい。

道の所々に常念仏供養塔。

弾誓開基の寺らしい雰囲気です。

そして、53段の石段。

     罪人が造った石段

4世空誉上人が幕府から罪人53人を貰い受け、一人一段ずつ築かせたのだそうだ。

以降、浄発願寺は駆け込み寺として名を馳せ、殺人、放火犯以外は駆けこんで罪を免れたという。

 ちなみに佐渡相川の弾誓寺、京都古知谷の阿弥陀寺も駆け込み寺。

弾誓とその弟子たちの思想が窺われます。 

 石段を登りきると山中にしては、不自然な広場が出現します。

 

 山津波で流される前本堂があった場所 右に罪人の石段の上段が見える

そこが旧浄発願寺の本堂跡。

僧侶40余名を擁した大寺院でした。

正面に向かって左の崖下に石仏、石碑が列を成して、ここが寺院跡地であることを物語っています。

そこから更に迂回して斜面を上ると整然と並ぶ無縫塔を覆うかのように巨大岩壁が張り出して、その下にぽっかりと穴。

岩の天井からしたたり落ちる水滴の音が、窟内にこだまして、静けさを強調しています。

外の光が壁際の石造物をぼんやりと写し出しているので、洞窟の奥行きはそれほど深くはないことが分かります。

正面に素朴な阿弥陀如来座像。

『謎の石仏』(平成5年・1995)には、正面に弾誓立像があると書いてあるので、探したが見つからず。

周りの無縫塔には「法国満正光明仏」と刻してあると言うが、この日も懐中電灯を持参せず、確認できなかった。

 

塔の峰洞窟では見かけない聖観音立像が数体あるが、圭頭板碑はほんのわずかしかないようだ。

このちがいにはどんな意味があるのだろうか。

 

慶長13年(1608)、弾誓は相模を後に京都へ向かいます。

途中の村々で勧化をしながらの旅でした。

家康と信玄の見方ケ原合戦での戦死者の霊を沈めるため遠州で行った融通大念仏には、生き阿弥陀如来弾誓に結縁を願う大群衆が押し寄せたと絵詞伝は伝えています。

京都古知谷に分け入った弾誓は岩上で念仏を唱え、説法を行いますが、やがて弟子たちによって洞窟が穿たれます。

信者たちに日課念仏(一日百遍の念仏を唱えること)を授けるとともに、授与の印(しるし)に与える名号札を書くことに弾誓は精を出していました。

 

          『謎の石仏』より

一説では、その数四百万幅。

1分間に5幅ずつ書いたとして毎日3時間、即身成仏から示寂までの16年間揮毫していたことになると五味氏は言います。

私が古知谷阿弥陀寺を訪ねたのは、3年前の4月、京都市内からバスで30分、寺の山門前は桜が満開でした。

参道は林の中、なだらかな坂道。

唐沢阿弥陀寺や塔の峰阿弥陀寺の参道に比べれば上り坂とはいえない程の緩やかさ。

さすがの弾誓もみずからの老化を悟ったのでしょうか。

ここ阿弥陀寺は紅葉の名所として有名なのだが、4月の初めでは、紅葉を想像することも難しい。

本堂に入る。

    阿弥陀寺(京都市)

朝早いので参拝者は、私一人。

本堂を過ぎると、弾誓上人石廟がある。

弟子たちが穿ったというこの洞窟の下に弾誓の石棺があります。

傍らの説明文。

「正面に置かれた石館は信者の人たちによって収められたものです。開基弾誓上人は、穀断ち塩立ちのすえ、松の実、松の皮を食べ、体質を樹脂質化して後、念仏三昧をもって生きながら石窟の二重の石棺に入り、念仏の声が聞こえなくなった時、空気穴を密封し、現在でもミイラ仏として端坐合掌の相で安置されています」。

弾誓が即身成仏して入定したのは、慶長18年(1613)、63歳でした。

 

 洞窟の底のほうから冷気が吹きあげている。

「ウォーン」というような低音がかすかに聞こえる気がする。

霊気を感じて思わず辺りを見まわすが、もちろん誰もいない。

折角肝心の石廟まで来たというのに、ゾッとしてそそくさと立ち去ったのでした。

本堂の一隅には、弾誓上人の遺品が展示されています。

まずは、弾誓流相伝の儀式で重要な仏頭伝授に使用される仏頭。

          仏頭

弾誓が来ていた衣や履いていた鉄の靴もあります。

 

   弾誓の衣                              鉄の履物

鉄の靴を履いて箱根と伊勢原の山中を、日々、往復していたなんて、ますます信じられない。(未完)

次回3回目は、二代目但唱の足跡を追います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


41 それは佐渡から始まったー木食弾誓とその後継者たちー(1)

2012-10-16 19:42:11 | 木食弾誓と後継者たち

今年(2012)のロンドン五輪は、メダルラッシュで日本中が沸いた。

中でも、女子レスリングは金が3個と気を吐いた。

48キロ級は、「新顔」小原日登美(31)が制した。

オリンピック初出場で、金メダルの快挙。

しかし、優勝は番狂わせでもフロックでもなかった。

なにしろ、世界選手権8回優勝の実力者だったからです。

世界的実力者なのに、オリンピック初出場だったのには、当然ながら、理由がある。

彼女のクラス、51キロ級はオリンピック種目からはずされていたからでした。

エントリーしたくても、できなかったわけです。

表彰台上の小原選手を見ていて、私は、木食弾誓を思い浮かべていました。

あなたは、木食弾誓をご存知ですか。

作仏聖の木食行道は知っているけれど、木食弾誓は聞いたことがない、という人が多いのではないでしょうか。

実績と名声のある木食弾誓の名前が世に知られていないのは、名僧列伝に彼がエントリーされていないからでした。

厳しい寺院統制下の江戸時代、寺に定住せず、乞食のような風態で遊行する山岳修行聖の弾誓は、体制外のアウトロー的存在でした。

しかし、実践的民間宗教者としての彼は、行く先々で民衆の熱狂的支持を得ていたカリスマだったのです。

弾誓上人像(箱根塔の峰・阿弥陀寺蔵)

今回を1回目とするシリーズは、木食弾誓とその後継者たちの足跡。

佐渡、信州、東京、伊勢原、箱根、京都を巡る予定です。

弾誓とその弟子たちは、作仏聖としても有名で、多くの石仏を遺したので「石仏散歩」の格好なテーマでもあります。

 そして、私には、もう一つ、個人的な理由があります。

佐渡を故郷とする私は、弾誓開眼の地は佐渡、という一点に惹かれ、木食弾誓に興味を持ち始めました。

「木食弾誓をもっと知りたい」というのが、この企画の動機。

私が勉強するプロセスがシリーズとなってゆくことになります。

 

『弾誓上人絵詞伝(古知谷・阿弥陀寺)』によれば、木食弾誓は、天文20年(1551)、尾張国海部郡(あまべのこおり)で生まれました。

戦乱相次ぐ戦国時代末期のことです。

開山弾誓上人は父なし。母は尾張の国海辺里の人なり」。

これが、絵詞伝の書き出しです。

父なし、とはいかなることか。

母なる女性は、ある夜、弥陀の三尊が六字名号の短冊を差し出す夢を見ます。

汝是を呑べしと告させ給ふゆへにそのまま呑みしと見て夢は覚めたり。是よりして唯ならぬ身と成りぬ。やがて男子を生む。額に白毫相あり」。

父なしとは、処女懐胎だった!

キリスト生誕に酷似するこの逸話は、絵詞伝がいかに始祖弾誓を神格化するものであるかを物語っています。

幼名、弥釈(みしゃく)丸。

4歳の時の逸話も子ども離れしています。

弥陀の三尊化して三の童子とあらはれ来たりて、阿弥陀の三字を口ずさみ小児(弾誓)をなぐさめ給ひけり。小児是より怠らすつねに阿弥陀、阿弥陀ととなへける」。

弾誓が生涯唱え続けた、この「あみだ、みだ、みだ」の三字名号は、後に大原念仏として世に広まって行きます。

ちなみに、大原は、弾誓終焉の地、京都古知谷阿弥陀寺の所在地。

9歳にして、出家を志し、12歳で自ら弾誓と名を改め、放浪の旅に出ます。

美濃国の山奥に柴の庵を結び、一心不乱に称名を修行せらる。光陰速に移りゆきて程なく二十余回の春秋をわたる」。

そのあと諸国修行にでるのですが、詳細は不明。

運命の地、佐渡に渡ったのは天正18年(1590)、弾誓39歳のことでした。

後に佐渡・檀特山は木食行者たちの聖地として名を馳せますが、これは弾誓修行の地だったからです。

修験者による山岳修行は佐渡でも行われていましたが、本格的な山岳修行ならば、本州に候補地はいくらでもあるわけで、弾誓が、何故、佐渡に渡ったのかは不明のままです。

それより佐渡の国に渡り給ひ、相川の市に入り、水を汲薪をこり、貧しき家に助をなし、唯いつとなく打しめりて念仏し明し暮し給ひける」。

 

  下働きをする弾誓(『弾誓上人絵詞伝 浄発願寺本)』

相川が金山として栄えるのは、慶長になってからで、天正の頃は貧しい僻村だったはずです。

貧しい村の貧しい家での下働きは、これも遊行者の修行でした。

その後、人々の勧めで、相川の峠の南、河原田の、 浄土宗常念寺に入り、ここで得度、遊行僧から正式の坊主になります。

   常念寺(佐渡市河原田)

しかし、法衣を身につけても、彼の本質は変わりません。

堕落した同輩の寺僧たちを軽蔑の目で見ていたに違いありません。

寺僧の輩にくみ嫌ふこと甚し。これによりて又(相川の)市町に帰り、諸人の捨し食物を拾ひて命をつぐよすがとし、ひたすらに念仏修行し給へり」。

そして,翌天正19年(1591)冬、弾誓は相川を後にして、海岸沿いに北に向かいます。

木綿の単衣に数珠をかけ、乞食僧と見間違うばかりの弾誓に、吹雪と白い波花が叩きつけたことでしょう。

身体を左に倒すように、風に身体を預けながら歩いたはずです。

たどり着いたのは、岩屋口。

                 岩屋口の集落と行く手を阻む岬の岩壁

大岩壁がそそり立って、海沿いの道はここで遮断されていました。

岩壁の下には、二つの岩窟。

  岩壁前の墓地の左と右に洞窟がある

弾誓はこの岩窟を冬の拠点として、6年の苦行に励むことになります。

岩窟の高さは、二つとも約6m。

海岸からは100m。

浜辺に押し寄せる波音が洞に反響して、思いもしない大きな音でザザーンと耳を打つ。

古来、洞窟の向こうの闇は、黄泉の国だと信じられてきました。

弾誓は、あの世を身近に感じながら、念仏に明けくれていたことになります。

 春になれば、岩屋口の背後の山に居を構えました。

その名も「山居の池」。

佐渡の人でも訪れたことのある人はごくわずかの、人里離れた山中にポツンとある池です。

その池から尾根伝いに10キロ南の「檀特山」までが彼の修行地でした。

尾根伝いに毎日、檀特山と山居池の間を一本足の足駄で往復していたという言い伝えが残っていますが、これは箱根・塔の峰の阿弥陀寺と伊勢原・一の沢浄発願寺の間を毎日行き来していたとの伝説とそっくりです。

「山居」は、「山にこもって修行する」意であり、「檀特山」はインドの修行地の名前です。

両方とも、弾誓が修行したから付けられた地名だと言われていますが、そんなことはない、弘法大師によって開かれたのだという人もいます。

檀特山の仙人滝には「大同二空海」の五文字が岩壁に彫ってあるのだそうです。

空海開基の寺は佐渡にいくつかありますが、いずれも大同2年(807)開基ですから、不思議に岩壁の五文字と符合します。

ところで、檀特山は、佐渡の原始林地帯として有名です。

新潟大学農学部の保有林として保護され、入山が禁止されていたのですが、近年、解放され、佐渡のニュー観光スポットとして脚光を浴びるようになりました。

原始林ですから、弾誓の頃と山の感じは変わっていないはずです。

檀特山には、弾誓が再建したお堂がありました。

しかし、昭和42年の台風で崩壊し、今はありません。

大正14年、お堂を訪れた人の記録があります。

堂は天をさす老杉に囲まれて建つ。堂の左側には苔に朽ち、雨露に痩せて殆ど原形をとどめぬ石地蔵が百基、石塊のごとく散在している。苔は天然の古色を帯び、水は清澄にして氷の如く、古雅静寂さながらの仙境である。上人が此の絶対清浄の冷気に浸って、心の浄化信心の深化を願った処だと思へば尊くも又なつかしい」(若林甫舟)

堂の天井には80枚の板が嵌められているが、2枚欠けていたという。

その理由が面白い。

一説には、寒中、上人の三山(金北山、金剛山、檀特山)日登(毎日上る)を疑う村民の不信をとく為内二枚を持って下山したという」(若林甫舟)

弾誓の逸話として、秀逸ではないか。

次のような伝説もある。

寒中の三山詣りを聞いた若者が、行者とはいえ老人が登れるのだから俺にできないはずはないだろうと思い、連れて行ってくれと上人に頼んだ。しぶしぶ承知した上人は、連れて行ってやるが、必ずわしの足跡を踏んでついて来るようにと云った。上人の一本歯の足駄の跡を踏みながら苦も無く登ることができた若者は、足跡を踏まずとも登れるだろうと上人に先行して歩きだした。ところが雪の中に足が落ち込んでどうしても歩けない。あわてて上人の足跡を踏んで無事、下山。改めて上人の法力に驚いたという」。

上人賛歌の絵詞伝と違って、これは地元の言い伝えですから、信憑性が高い。

山岳修験者の超人的能力に疑いを抱く村人がいて、結局、納得させられるストーリーが多い。

ただし、ここに登場する上人が、弾誓なのか、その弟子たちなのか、判然としないのが惜しまれます。

 

 ところで、弾誓の木食行とはいかなるものだったのか。

修験道では、精進が第一。

血の穢れのある生臭ものを食べないばかりでなく、人間が栽培した穀類も口にしない。

木の実や草、きのこ、海藻などを煮炊きせず、塩味を付けず食すのです。

食べていいのは、アケビ、山ブドウ、胡桃、栗、トチ、松茸、なめ茸、蓮根、つくし、せり、うど、蕨、ぜんまいなど。

岩屋口の岩窟は海に近いので、海藻類や貝類なども弾誓は食べたと思われます。

現代人には想像もできない行為ですが、こうした苦行をすることで人間を超えた能力を有し、未来を予測し、病気を治し、雨を降らせることができるようになると信じられていたからでした。

生身の身体でありながら、神仏の能力を持つ、即身成仏、即身成神が目的でした。

神や仏が生身の人間に慿くためには、穢れや罪が払われていなければならない。

そのためにも、木食行は不可欠な修行でした。

そして、ついに6年の苦行の末、弾誓にも神が慿衣する時がやってきます。

滝に打たれていると、春日、住吉、熊野、八幡、大神宮の5社の神が現れ、弾誓の背骨を割って、凡骨(弾誓の骨)の代わりに神骨を入れる、換骨の儀式を執り行うというのです。

五社の神、形をあらはし出給ひ、汝に神道の秘奥を授くべし。去ながら凡骨では成がたし。今換骨の法をなさんとて、(中略)上人の背筋を裁割凡血を出し給ふ。此とき五社の神、異口同音に神道の奥義を授け給ふ」。

 換骨の儀礼(中央はだかの男が弾誓、取り囲む五社の神々) 『弾誓上人絵詞伝』浄発願寺本)

現身は死んで、この時、弾誓は神として再生したのでした。

「生き神さまなんて、そんなこと信じられない」。

そう思うのは自然なことです。

私たちは、西洋近代合理主義を信奉して生きているのですから、合理的でないことは受け入れられない。

しかし、宗教の世界に合理的論理を超える何かがあることも事実です。

たとえば、キリスト教における「ヨハネの黙示録」。

神の啓示なるものは、非合理そのものです。

弾誓の換骨の儀式の真偽を云々するのではなく、生き神さまとなった弾誓を敬う人たちが大勢いたという事実に、私たちは目を向けるべきでしょう。

厳しい修行を積めば、生きながらえて神になり、仏になることがありうる、と人々が信じていた時代があったことを認めなければなりません。

 弾誓蔵(浄発願寺)

 

話は戻って、弾誓「死と再生」のドラマ第2幕。

タイトル「神が憑けば、仏も憑く」。

時:慶長9年10月15日

場所:佐渡国岩谷口岩窟内

一夜清朗にして岩窟特に寂莫たれば心もいとど澄みわたりて念仏もっとも勇猛なり。その時岩窟変じて報土(浄土)と成れり。教主弥陀如来、大身を現じて微妙の法を説給ふ(説法する)。大日如来釈迦如来及び一切諸菩薩衆、星のごとく列りて虚空界に充満せり。時に弥陀尊、直に上人に授記して十方西清王法国光明正弾誓阿弥陀仏と呼びたまふ。その説法を書記して弾誓経と名く」。

  『弾誓上人絵詞伝』古知谷本

阿弥陀如来が弾誓に授けた 「十方西清王法国光明正弾誓阿弥陀仏」は、戒名。

戒名だから、弾誓は、この瞬間、死んでいたことになります。

弾誓自筆の「十方西清王法国光明弾誓阿弥陀仏」

そして、阿弥陀如来から受け取ったのが弾誓経。

弾誓が他の教祖と異なるのは、その信仰を文章として残さなかったこと。

唯一、弾誓経にその精神が見られるだけです。

その相伝の儀式には、弾誓流独特な儀礼があるのですが、その原形がこの夜、岩屋口の岩窟で執り行われました。

それは仏頭伝授の儀礼。

説法既に終る時、観音大士手づから白蓮所乗の仏頭をもって上人に授け給ふ。是伝法の印璽なり」。

 阿弥陀如来に抱えられている弾誓に観音菩薩が仏頭を差し出している。

 (『弾誓上人絵詞伝』塔の峰本)

 観音菩薩が手づから白い蓮の上に仏頭を乗せ、弾誓に授ける。

弾誓は、その仏頭を自らの頭として心に受け止め、即身成仏を果たす。

この瞬間、死んでいた彼は生き仏としてこの世に甦るのです。

よくは分からないのですが、宮島潤子氏や五来重氏の所説を読んでの、これが私の理解するところです。

断崖の上から見た岩谷口。ほぼ中央左から突き出た山裾の向こう側に洞窟がある。

生き仏となった弾誓は、いよいよ佐渡を発つことになる。

底辺の人たちへの布教という次なるミッション果たすためでした。

しかし、彼は、すぐに発とうとはせずに、檀特山に止まっていました。

その異相に天魔鬼神出現かと驚く木こりたちに、念仏を授けたりしていたから、噂はぱっと広がり、人々が押し掛けてきます。

称名声澄わたり聞えぬれば、各々随喜の涙を流し、藤や葛を取集め、木の枝を結びつなぎて輿に作り、上人をのせて麓の里に帰り、各々供養礼拝し貴賎群衆して利益(他の人々のために善をなすこと)日々に盛なり。其行化(修行を終えて教化のため巡りあるくこと)の跡寺と成て弾誓寺と号す」。

乞食僧のような風態は変わらずとも生き仏となれば、人々の扱いも格段に変わるという絵に描いたようなお話。

ところで、去年の秋、この弾誓寺を訪ねた際、珍しい石碑を見つけたことは、「16 佐渡相川の寺と石造物(3)」でも触れました。

 その写真と文は下記の通り。

「南無阿弥陀仏」と「南妙法蓮華経」が一石に刻まれた石碑が2基。

現世利益さえあれば、宗派などどうでもいい、という庶民の気持ちを現したものだろうか。

その真意を知りたいものだ。

その謎が、絵詞伝を読んでいて解けたのです。

弾誓の名声は佐渡中に知れ渡って、彼の筆になる「南無阿弥陀仏」の名号を掛けない家はないほどでした。

  弾誓自筆の名号

弾誓の名号を受けたいけれど、日蓮宗の信者なので願いを躊躇している人がいた。

人を介してやっとの思いで弾誓にお願いしたら「もうすでに出来ているよ」と授けてくれた。

彼人驚き件の料紙を見るに名号(南無阿弥陀仏)題目(南無妙法蓮華経)相並べて明らかに書給へり」。

この二つの石碑は、絵詞伝の逸話に則って彫ったものに違いないと私は思うのです。

セクト主義の激しい当時の仏教界にあって、弾誓の、枠に捕らわれない伸びやかな感性と独自の哲学は感銘的です。

 

6年の苦行の末、生き仏となった弾誓は、佐渡国の人たちを教化し、慶長9年(1604)の年も押し迫った頃、島を離れます。

行く先は信州でした。

弾誓在㠀の6年、佐渡は劇的な変化を遂げていました。

相川金山の本格的開発がスタート、町は未曾有の活気のなかにありました。

弾誓の噂は江戸にまで届いていたはずです。

赴任して来たばかりの佐渡奉行大久保長安に招かれて、両者は話を交わしたのではなかろうか。

私の、この想像はそれほど荒唐無稽ではないはずです。

なぜなら、山を自由に動き回る修験者や忍者は、長安の重要な情報源だったからです。

 

 

次回は、佐渡を離れた弾誓の足跡を追う予定。

 

参考図書

○宮嶋潤子『謎の石仏』(平成5年)角川書店

○宮嶋潤子『信濃の聖と木食行者』(昭和58年)角川書店

○五来重『修験道の修行と宗教民俗』(2008)法蔵館

○五来重『木食遊行僧の宗教活動と系譜』(2009年)法蔵館

○鈴木昭英『越後・佐渡の山岳修験』(2004年)法蔵館

○『浄土宗全書第17巻ー弾誓上人絵詞伝・古知谷阿弥陀寺蔵』(昭和46年)山喜房仏書林

○小松辰蔵『佐渡木食上人』(昭和46年)佐渡時事新報社

○西海賢二『漂泊の聖たち』(1995年)岩田書店

○『木食僧の寺ー一の沢浄発願寺』(昭和57年)伊勢原市教育委員会

○宮嶋潤子『第6回全国天領ゼミナールー木食行者をめぐって』(1990年)金井町教育委員会