石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

61 東京大空襲関連の石仏、石碑(東京都板橋、文京、台東、墨田区)

2013-08-15 01:48:27 | 戦災殉難者供養塔

今日は8月15日、終戦記念日です。

このブログも太平洋戦争に関連した内容にしたい。

と、いうことで、東京大空襲の被災者を悼む石仏、石碑を巡ってきました。

 

私は、昭和20年4月、佐渡が島の小学校に入学しました。

入学予定だった東京・板橋の小学校は集団学童疎開で閉校中で、両親の故郷である佐渡に疎開したのです。

佐渡へ向かう朝、省電から見た一面の焼け野原が今でも脳裏に焼き付いています。

巣鴨から上野までの、車窓から見た光景は、3.10東京大空襲の後だっただけに実に惨たるものでした。

3.10東京大空襲では、板橋は比較的軽度の被害で済みましたが、その後、4月13日と6月10日、2回にわたり広範囲に壊滅的打撃を受けます。

4月13日は板橋10丁目も空襲され、我が家の目と鼻の先まで焼失しました。

佐渡にいた私はその恐怖を味わずに済んだのです。

「空襲警報が鳴っている。午後11時ごろだった。ラジオのスイッチを入れる。『敵はB29数編隊で、本土に侵入しつつある。防空の用意はできたか!水は十分用意したか!逃げずあわてず、初期消火が大切です!』。ドンドンズドンズドン。焼夷弾が投下され、遠くに近くに何十何百もの火災が発生している。初期消火に必要な水を、水槽、四斗樽、ばけつ、たらいなどに井戸水を汲んで貯水した。敵の1機が豊島病院上空から投下した焼夷弾が山崎さんの家の屋根にドシーンと地響きとともに落ちた。火は増田さんの防空壕入口の土嚢の俵に点火し、辺りは火の海と化した。防空壕の中の貴重品にまで火がついて、おばあさんがコンチクショウ、コンチクショウと焦っているが、防空壕がかまどになってしまって、火は消えるどころではない」

入り口を直撃されると逃げ場のない防空壕は地獄でした。

 防空壕での爆死者供養の地蔵幢(板橋区大山金井町)

板橋区大山金井町のマンション敷地に立つ八面体の地蔵石幢は、、4月13日、防空壕で爆死した人たちを悼む供養塔です。

 

 

銭湯の広い敷地に近隣の人たちの為にと大きな防空壕を設けたのが、あだとなってしまいました。

死者は9人。

8体のお地蔵さんのうち1体は童子をだいているから、乳幼児がいたことが分かります。

 

昭和20年6月10日は、南常盤台、東山町、東新町が爆撃され、269名もの死者を出しました。

 

 

南常盤台の天祖神社の狛犬には、被弾の跡が今も残っています。

宮司の小林保男さんは、当時、小学1年生。

その瞬間をこう記憶しています。

「粗末な朝食がすんだ直後だったろうか、突然ヒューンという金属音、同時に大爆音、家が木の葉のように揺れ、あたり一面砂ボコリ、一瞬なにが起こったのか分からない。母が『畳、畳がない』と叫ぶ。家中のホコリが床を覆いつくしていたのである。
外に飛び出る。知り合いの女の子が血だらけになって戸板に乗せられて病院に向かう。まち一番の元気ものTさんは足をやられた。時がたつにつれ、恐怖感がつのる。小学生であった筆者は、泣き叫ぶことができぬほど体が硬直、ワナワナとふるえ、おもわず失禁したことをいまでも思い出す」。『写真は語る』ー板橋区教育委員会ー

当時、29歳だった女性の回顧録は、

「東上線の踏切を渡って職場に着いた時、ものすごい轟音がして、地獄の底から盛り上がってくるような地響きと同時に、川越街道の町中から黒煙が上がった。ある者は髪の毛がはがれ、ある者は腕を皮一枚残してぶらさげて『助けてくれ!』と私に向かってくる。目に入ったのは、形のなくなった防空壕の土盛りで、その上に足だけが出ていた。引いてみると足だけがぽろっと抜けた。川越街道に出ると、牛、馬、人が転がっている。爆弾で燃えた工場の片隅で覆いかぶさっている男性の下で5-6名の女子工員さんたちが息絶えていた。トラックで遺体を安養院まで運んだ。扱った遺体は94体。土葬にして氏名を書いた墓標を建てる。隣の田圃では、身内の人たちが死体を火葬にする煙がいつまでも上がり、得もいわれぬ臭気が漂っていた」『火の海はもう二度と見ない』ー板橋区ー

南常盤台2に立つお地蔵さんは、6.10空襲の犠牲者269名を供養するために、3年後の1948年6月10日に建立されました。

 

                       平安地蔵(板橋区南常盤台2)

「平安地蔵」という命名には、犠牲者の冥福とともに不戦の誓いが込められています。

 

板橋区大山金井町の八面地蔵幢は、銭湯の防空壕で爆死した被災者を悼むものでしたが、文京区にも銭湯の防空壕に避難していて、直撃弾を受け21人全員が死亡したケースがありました。

板橋の石幢はマンション敷地の一角にありますが、文京区千駄木の地蔵堂も不忍通りに面したマンションの角にあります。

   平和地蔵堂(文京区千駄木3)

銭湯の広い跡地はマンション建設用地に最適だったのです。

お堂の名前は、平和地蔵堂。

ここ千駄木・谷中は、3月10日ではなく、3月4日の空襲で死者500人余りが出ました。

以下、お堂に立つ説明板の内容。

「『坂下平和地蔵尊』由来の記
この地には、銭湯『鹿島湯』があり、石炭貯蔵庫を防空壕に使用していました。同銭湯に爆弾が投下し、防空壕に入っていた赤ちゃんを含む23人の方が犠牲になりました。
1959年(昭和34年)、この方々の冥福と戦争を二度と起こさぬことを誓い、近所の人によって、この地蔵尊が建立され、『坂下平和地蔵尊』と命名されました。(平和地蔵尊を守り戦争体験を語り継ぐ懇談会)」

お地蔵さんの背後には、亡くなった人たちの名前があります。

山本家の父だとか末川家の子だとか、名前が不明な人がいるのが分かります。

戦後14年も経って、発起人の近所の人たちも名前を忘れてしまったのでしょうか。

無理もない話だと思います。

こうして立てられた平和地蔵も、関係者が死亡したり、移転したりして少なくなり、いつの間にか、忘れ去られてゆきます。

ある年、地元の中学校が社会科の授業にこの地蔵をとり上げ、生徒たちが走り回って関係者を探し出します。

見つけ出された一人は建立者の息子でした。

その人の話では、バブル時、地上げ屋に脅かされながらも裁判に持ち込み、みごと勝利して、地蔵堂を保存維持してきたということでした。

 これがきっかけとなって、中学生が主体の供養祭が行われ、戦争体験を語り継ぐ会も復活することになります。

話を聞き付けた地元のコーラスグループが、オリジナルの組曲「千駄木の平和地蔵さん」を創作し、合唱するという副産物も生まれました。

組曲「千駄木の平和地蔵さん」は4部構成。

その終局の歌詞を紹介しておきます。

いつまでも微笑んで ここにいてください
 道行く人や子どもらを見守りながら
 露地の片隅で ひっそり立っているお地蔵さん
 わたしたちの暮らしを 守っていてください

 誰が着けたか 赤い前だれ
 あすは小菊を供えましょう

 街のみんなの心のよすが
 浮世の移り変わり 見届けながら
 勝手なお願い 世知辛い悩み
 受け止めてください

 街のみんなの心のよすが
 浮世の移り変わり 見届けながら
 あなたがここにいらっしゃるから
 こうしてみんなが集まります
 あなたのお陰で心も和み
 人にやさしくなれるのです

 いつまでも微笑んで ここにいてください
 車の走る道端で 埃にまみれ
 雨や風の日も 平和を祈るお地蔵さん
 私たちの暮らしを 守ってください

 この世から 戦争を
 戦争をなくそうよ」

 

千駄木の平和地蔵から歩いて3分、台東区谷中にも空襲犠牲者を悼む線彫り地蔵がおわします。

地蔵の名前は「三四真地蔵」。

   三四真地蔵(台東区谷中3)

三崎町、初音四丁目、真島町のそれぞれ一文字をとって名付けたもの。

地蔵堂横に建てられた説明文を載せておきます。

 

谷中から言問通りを上って行けば、上野の山へ。

寛永寺塔頭・現龍寺の墓地前に「慰霊碑 哀しみの東京大空襲」が立っています。

現場は、上野駅のすぐ北、眼下に線路を望む崖の上、浅草、隅田川方面が一望できる絶景地です。(現在は林立するビル群で眺望はよくありませんが、3.10空襲時は一面の焼け野原が展開していたはずです)。

 現龍院墓地の並びの駐車場から城東方向を望む(中央やや左、ビルとビルの間にスカイツリー)

慰霊碑 哀しみの東京大空襲は、2005年に建立されました。

建立発起人に海老名香葉子さんの名前があります。

海老名香葉子さんは、落語家・林や三平さんの奥さんで、エッセイスト。

昭和20年は国民学校の5年生で沼津に疎開していて東京大空襲には遭わずにすみました。

しかし、東京にいた両親、兄弟の家族6人は空襲で亡くなっています。

慰霊碑の斜め後ろに黒御影の説明文があります。

多分、海老名香葉子さんの筆になるものでしょう、長文ですが、転載しておきます。

 

                        哀しみの心をいつまでも

今年は昭和二十(一九四五)年の第二次世界大戦の終結からちょうど
六十年、あの本所、深川を中心とした三月十日の「東京大空襲」も、
次第に人々の記憶から薄れていこうとしています。

この年は、元旦早々B29が飛来して、浅草付近を空襲したのに始まり、
一月だけでも百機を越える来襲があり、五百発もの爆弾と二千五百発
もの焼夷弾が投下され、何の罪もない千五百余人の一般市民が死傷さ
れました。

その後も東京は、実に数十回にも及ぶ空襲を受け、中でも三月九日の
夜半から十日にかけての空襲は言葉に絶する程凄まじいものでした。

房総半島を経て飛来したB29 は、十日の午前零時八分から一斉に
下町を襲いました。

この日来襲したB29は三百二十五機といわれ、実に千七百トンもの
高性能焼夷弾を投下したのです。

人々は隅田川や上野公園を目指して必死に逃げましたが、このたっ
た二時間の間に、実に十万人以上もの方が犠牲になられたのです。

それは今想いだしても、本当の地獄図といえる程、悲惨な光景でした。

そして、翌日からこの上野の山には焦土と化した下町から夥しい
数のご遺体が運ばれて来ました。この慰霊碑の付近の道端にも、米俵
や筵を掛けられたご遺体が並べられたのです。

やがて、大八車やリヤカーを引いて、ご遺体を引き取りにみえる方
もありましたが、多くのご遺体は身元不明のままでした。

そうしたご遺体は、この近くに巨大な穴を掘って、そこに仮埋葬され
二年後に改めて掘り起こされ、荼毘に付されたうえ、本所横網町の
震災記念堂にお祀りされました。

無論、こうした東京への空襲はその後も続きました。なかでも、こ
の上野の山とその周辺が罹災した五月二十四日、二十五日の空襲は、
凄まじいものでした。

今、終戦から六十年の歳月が経ち、こうした生々しい記憶が次第に
薄れていきつつある時、下町の焦土化を見守り、そこでの無辜の犠牲者
を暖かく迎えたこの上野の山に、私たちは心からの慰霊碑を建て、
東京全域に亘る悲惨な犠牲者の霊を弔い、これからの日本を支えていく
若い人々に、この「哀しみの心」を伝えていきたいと希っているのです。

平成十七(二〇〇五)年三月十日
海老名香葉子
建立有志一同

 

昭和20年3月10日の朝、この慰霊碑辺りを通った女性の記録があります。
 
   慰霊碑前から上野駅方向を望む
 
彼女は専門学校の1年生で18歳、都電が不通の為、南千住にある学徒動員の工場へ茗荷谷から歩いて行く途中のことでした。
 
「昨夜の空襲で、電信柱はまだくすぶりを残し、ときには炎をあげており、店の二階の窓ガラスは、ドロドロに溶けて流れ、ゆがんでいた。上野寛永寺にさしかかった。前方に枯れ木の山を見た。春まだ浅く、木の芽もかたく静まりかえった上野の山の異様な光景に近寄って見ると、なんとそれは、下谷の空襲で亡くなられたかたがたの死体だった。硬直してぴんと伸び、焼けただれた手足、それが山と積まれた枯れ木と見えたのである」。(『東京大空襲戦災誌 小石川区茗荷谷 Mさん 当時18歳)
 
 
 上野動物園も空襲を免れませんでした。

150発もの焼夷弾を投下され、象舎が焼失したのは、3.10ではなく、4月13日のことでした。

このブログ冒頭の板橋・大山金井町の防空壕直撃惨劇のあった同じ日です。

象舎は直撃されましたが、象に被害はありませんでした。

なぜなら、象舎に象はいなかったからです。

象だけでなく、ライオン、トラ、ヒョウ、クマ、にしきへびなど、猛獣と云う猛獣は全て、動物園にはいませんでした。

  

全部、殺されていたのです。

前年の昭和18年8月、「1カ月以内に猛獣類を射殺せよ」との東京都長官命令が出されます。

近隣住民に不安を与えないようにと、射殺は毒殺に変更され、直ちに実施されました。

8月末までに処分された動物は、14種27頭。

ほとんどは毒殺でしたが、生きた餌しか食べないガラガラヘビやニシキヘビは針金で頭部を突きさした後、頭を切り落とされました。摘出された心臓はその後1時間半鼓動していたと記録されています。

 園内には「工事中ニ付、猛獣ハ当分見ラレマセン」の張り紙が出されていましたが、「動物が殺されている」との噂は広がるばかり。

人々の不安を解消するために、都は猛獣処分を公表し、9月4日には「殉難猛獣慰霊法要」を行います。

 

          昭和50年に建立された動物慰霊碑

祭壇には生肉や野菜、果物が供えられ、公園課長は「このような非常措置をとらざるを得なかった時局の苛烈さをよく考えていただきたい」と挨拶しました。

昭和18年秋は南方戦線で日本軍は敗退しつつありましたが、東京が空襲されることはなく、時局の苛烈さはまだ実感されるには至っていませんでした。

ただ、動物たちの餌の確保が困難になりつつあったことは確かです。

この「殉難猛獣慰霊祭」は象舎のすぐ近くで催されました。

 戦時殉職動物慰霊祭(昭和18年9月4日)黒白幕の向こうに象がいた!

象舎には黒白の鯨幕が張られ、中が見えないように目隠しされていました。

なぜなら、慰霊されるべき象2頭は、その時、まだ生きていたのです。

毒物に鋭敏な象は、毒物を注射されたジャガイモだけを吐き出して、決してたべませんでした。

仕方なく、絶食させることになります。

この絶食期間が予想より長く続いて、慰霊祭の時にはまだ衰弱しながらも生きていたのです。

        現在の象舎

象の飼育員は次のように回顧しています。

「象の絶食が始まってから1週間というものは、ぼんやりしていました。トンキー(象の名前)は私を見ると、前足を折って鼻をたかくあげるのです。今まで、芸をすれば食物をやったので、芸をして見せたのです。これにはほんとに参ってしまいました。絶食をしてから十日も経つと、芸をしなくなったのです。身体もだるく、大儀だったのでしょう。一番困ったことは私の一挙一動をじっと見て目を離さないことでした。いつか餌をくれるとでも思ったのでしょうか。それからというもの、私は象の部屋へ余り行かないようになったのです」。

トンキーは絶食30日目、慰霊祭の3週間後に、やせ細った姿で息を引き取りました。

トンキーの死を看取った飼育員もまたやせ細っていました。

心痛の余り体重が8キロも減っていたのです。

 

東京大空襲犠牲者慰霊の石仏・石碑を探して、次は、城東へ。

墨田区は被害が甚大だった地域のひとつです。

地域の犠牲者を供養する慰霊碑がある寺院が少なくありません。

  

 戦災殉難諸精霊供養塔      戦災殉難者慰霊之塔    大東亜戦争殉難者之碑
 慈光院(立花1)            明源寺(立花1)        円通寺(押上2)          

 

 

   戦災殉難諸精霊供養之碑         戦災殉難者供養之碑
   能勢妙見山別院(本所4)         法恩寺(太平1)

一面の火の海に囲まれて、人々が押し寄せたのが、鉄筋コンクリートの小学校と川にかかる橋でした。

しかし、学校も川も安全ではなかったのです。

むしろ、結果的には、一か所で多数の死者を出したのが、学校と橋でした。

地面の空気が熱くなり、上方に向かって炎の竜巻が発生、折からの強風とあいまって、想像を超えるスピードで人々を襲いました。

広い閉鎖空間も炎の竜巻の餌食でした。

川に飛び込んだ人たちも炎を免れませんでした。

焼夷弾のガソリンが川面に広がって、文字通りの火の海と化したのです。

運よく炎を逃れても冷たい川水に体温を奪われて、凍死する者が相次ぎました。

そうした場所の一つが、菊川橋。

      現在の菊川橋

大横川にかかる新大橋通りの橋で、この狭い場所で3000人もの人が亡くなりました。

すぐ北の菊川小学校でも多数の犠牲者が出ています。

横川橋のすぐ西側の菊川児童遊園に朱色の幟にかこまれたお堂があります。

 菊川児童遊園の地蔵堂

幟の文字は「夢違(ゆめたがい)之地蔵尊」。

昭和60年(1985)、3000人の犠牲者の追善供養のため地元民により建立された地蔵菩薩です。

「夢違い」とあれば、観音が普通でしょう。

夢違い観音は、悪い夢を見た時に、お願いすると良い夢に取替えてくれるという観音さま。

しかし、観音さまは現世利益の仏。

亡くなった犠牲者のあの世での安寧を願うのはお地蔵、ということで「夢違之地蔵尊」が建立されたのでしょう。

3.10を悪夢として、せめてあの世ではいい夢を見てほしいという生存者の必至の願いがこめられています。

       夢違地蔵尊

その心からの願いが、お堂の横の「夢違地蔵尊縁起」ににじみ出ています。

  夢違地蔵尊縁起
 一九二三年(大正十二年)関東大震災に於ける下町の惨禍は遭難死者縁起(由来碑)五万八千名に及びその遺骨を収納し、東京都慰霊堂が建立され、その加護と平安を願い毎年九月一日を記念日と定め、官民あげて法要が営まれているが、この地も焦土と化しその物故者も多いため、毎年その慰霊法要を行うに至った。一九四一年(昭和十六年)太平洋戦争勃発し、戦局利にあらず、殊に一九四五年(昭和二十年)三月九日より十日にかけての米戦略爆撃機B29による東京空襲は最も熾烈を極め僅か数時間で下町を中心に二十七万八千余戸を焼失し無慮七万八千余の殉難者を出した広島長崎の原爆の戦史に比類する永遠に忘れ得ぬ悲惨な史実である。
 まだ、春浅き三月九日夜半、雨あられの如く投下された焼夷弾は、いとまなき出火となり立ち向かう術もなく、劫火の中を、親は子を子は親を呼び合い逃げまどい、或は壕に入り、水面に飛び込み、或は、公園、校舎に走りついに力尽きてその声も消え果てやがて倒れ重なりまっ黒な焼身と化し、水に入りては沈泥に骸と果て、翌朝光の中の惨状は目を覆うばかりであった。生き残れる者僅かにしてそのさまは亡者のようであった。この地の殉難者数約三千余名といわれている。
 この地蔵尊の在わします菊川橋周辺の惨禍は、東京大空襲を語るとき後世まで残るもので霊地として守らねばならない。而して復興なり一九八三年(昭和五十八年)三月十日誠心集い、浄財を集め仏縁深き弥勤寺住職の教訓を得てこれが悪夢の消滅を願いこれを善夢に導き、再びこの悲史をくり返さないようにと、夢違之地蔵尊と命名され開眼法要、殉難者追悼供養を施行した。
 時移り、再び多大な協賛を得て夢違之地蔵尊縁起の史碑建立となり地蔵講が生まれた。願わくば子々孫々への加護と人類の平和を祈念して本日此処に慰霊法要を謹んで行うものである。
 一九八五年三月十日
 弥勒寺第五十七代住職 岩堀 真至
 夢違之地蔵尊縁起碑建立 協賛者一同

『東京大空襲戦災誌』には、菊川町民で辛うじて生き延びた人たちの記録が載っています。

「ゴーという落下音と共にドラム缶のような大きな円筒が落下して中空で「ドドーン」と30数本の細長い油脂焼夷弾に分裂して、ザッ、ザザーとまるで雷雨のときのような音とともに落ちてきて、家といわず道路と云わず突き刺さり、ガソリンで練ったようなにおいのするネバネバした油脂が四方八方に飛び散って所かまわず付着する。それらの油脂が一斉に火がついた状況は、想像以上にものすごいものであった」。(菊川町1、Aさん、当時26歳)

「これでもか、これでもかといわんばかりに焼夷弾は落とされました。そんな中で母が『雨かな、ありがたいねー』とつぶやくましたが、それはまかれたガソリンだったのです」。(菊川町1、Kさん、当時17歳)

    川橋から新大橋方向を望む

「空を見ると、真っ赤にいろどられた火炎の中に超低空飛行で飛ぶB29の巨大な機影。ゆうゆうと旋回して焼夷弾を容赦なくばらまく。建物が崩れ落ち道路に広がる。ものすごい灼熱地獄にみまわれる。火のかたまりが飛んできてベタベタと服にくっつき燃えだす。兄が「おい、ふとんが燃えてるぞ」と言う。危うくカチカチ山になるところだった。
ついにしらしらと朝を迎えた。一瞬目に入った者は死体だ。風呂にでも入っていて逃げ遅れたのかと思った。マネキン人形そっくりだ。あらゆる姿態で倒れ真っ黒に焼け、男女の区別もつかず、焼け死んでいる。避難場所の学校へ行って見る。裏門での想像を絶する地獄図は到底直視できませんでした。」(菊川町1・Nさん、当時17歳)

         現在の菊川小学校

 「町内指定の菊川小学校も危険だと分かり、猿江公園に逃げるべく菊川橋まで来た時、烈風と火のため先が見えず、とうとう家族と別れ別れになってしまいました。橋の途中まで来た時、上からガソリンをまいたらしく周囲からウワッと火が出て、一面火の海と化し、私も川の中に落ちてしまいました。顔と手にやけどを負いながらも必至で命の綱の橋げたをつかんでいました。その間、助けを求めながら流されてゆく人、死んでいった人がいっぱいでした」。(菊川町2、Tさん、当時21歳)

  菊川橋から北方向を望む(中央にスカイツリー)

 

両国駅から「東京江戸博物館」前を通り北上すると横網町公園があり、そこに関東大震災犠牲者を祀る東京都慰霊堂があります。

      東京都慰霊堂

大正12年9月1日(1923)の関東大震災時、公園予定地として更地だったこの場所には、避難場所として多くの罹災者が家財道具を持って集まりました。

 横網町公園(ブログ「のりみ通信」より無断拝借)

不幸なことにこの家財道具に火が移り、火災旋風となって、この地だけで38000人もの人が亡くなりました。

それは東京全体の犠牲者の約半数にも上る数でした。

この記憶は、人々の脳裏に焼き付いていたようで、次のような記録があります。

「防空壕へ避難したのもつかの間、バラバラと投下された焼夷弾はたちどころにさく裂し、壕から脱出した瞬間もはや周囲は火の海と化していた。避難する群衆に交じって二葉国民学校まで来て、「開けてくれ!」と叫んでも固く閉ざした扉は開けられることはなかった。
私は、とっさに震災記念堂の広場を思い立ち、人垣から離れて唯一人風上へ向かった。広場の中は不思議なほど人影はまばらだった。関東大震災のとき、何万という人命を奪ったこの地に、下町の人たちは言いしれぬ縁起をかついだのだろうか」。(横網町、Hさん、当時17歳)

平成13年、東京大空襲の犠牲者を追悼する碑が、慰霊堂に向かって右に造立されました。

  東京大空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑

デザイン花壇の内部には、東京大空襲犠牲者名簿が納められています。

 

板橋区から始まった東京大空襲犠牲者の供養碑巡りは、これで一旦終了。

実は、江東区、港区、品川区、大田区へも足を伸ばしているのですが、ブログの容量が一杯で、これ以上、記事にはできません。

来年の3月に、続きを書きたいと思っています。

 

 

 

 


60 椀状凹みを探して日光街道を行く(4・最終回)宇都宮宿-日光

2013-08-01 06:59:18 | 民間信仰

「椀状凹みを探して日光街道を行く」の最終回。

椀状凹みが東京と埼玉県にあるのは分かったが、これは地域的な現象なのか否か。

  観明寺(板橋区)の宝筐印塔台石の椀状凹み

椀状凹みを探して、東京から日光まで144キロをチェックしてみようという試み。

せいぜい関東ローカルの傾向が分かるだけで、試みにさほどの意味があるとは思えないが、しないよりはましだろう。

と、いう程度のかったるい、いい加減な調査もやっとゴールの日光に到着する運びとなった。

 

前回は、雀宮駅でレンタサイクルを借り、宇都宮市へ入るところまで報告した。

日光街道と奥州街道が分岐する不動前に到着。

 不動前を左へ。

間もなく東武宇都宮線を越える。

 ー宇都宮宿ー

右手に宇都宮市有形文化財蒲生君平勅旌(せい)碑がある。

  蒲生君平勅旌(せい)碑(花房3)

ここが宇都宮宿の入り口。

木戸や番所があった。

蒲生君平の先祖は蒲生氏郷だという。

会社勤めをしていた頃、同僚に蒲生氏郷の子孫がいた。

殿さまの子孫らしい、おおらかな男だった。

 

日光街道沿いにまず現れるのが、台陽寺。

 

                     台陽寺と参道の子安地蔵(新町1)

 長い参道に子安地蔵尊がおわす。

寺にも地蔵堂にも、椀状凹みは見られない。

今は影も形もないが、かつてこの一帯は寺がひしめいていたという。

宇都宮城下入口の防衛線の役割を果たしていたとあるが、寺が多いと防衛線になるとはどういう事なのか。

 

地図では、台陽寺のワンブロック東に、英厳寺という寺があるので行って見る。

この辺かなと思しき場所を探すが寺らしき建物はない。

ないはずで、戊辰戦争で焼けおち、廃仏毀釈で廃寺になっていた。

石柱には「宇都宮城主戸田家菩提寺」とある。

通路のような、公園のような不思議な空間を行くと正面に亀趺を台石にした墓がある。

 

             宇都宮矦忠列戸田公之墓(花房本町)

「宇都宮矦忠列戸田公之墓」と刻されている。

近くに一族の墓があるらしいのだが、野草が茂っていて見当たらない。

 

日光街道に戻る。

一向寺から報恩寺へ。

 

    一向寺(西原2)                  報恩寺(西原1)

報恩寺の、茅葺の山門がいい。

本堂前には、京都龍安寺の蹲(つくばい)を模した小さな蓮池がある。

上から右回りに、五・隹・疋・矢が配されている。

夫々を真ん中の口につけて「吾唯足知(われただたるをしる)」と読むらしい。

Good design賞をあげたい気分だ。

反対側に「戊辰薩摩藩戦死者之墓」がある。

 戊辰薩摩藩戦死者之墓

慶應4年(1868)4月の戊辰戦争で、宇都宮は2000余戸が灰塵に帰した。

薩摩藩は官軍だから、戦死者はこうして墓を建てられたが、旧幕府軍の戦死者の遺体は意図的に放置された。

賊兵の遺体を集め仮埋葬したのは、住民たちだった。

死臭にたえきれなかったからである。

       戊辰役戦死墓(西原1)

報恩寺の先200mに立つ戊辰役戦死墓は、香華を手向ける人もないまま100年が過ぎた昭和42年、賊軍兵士の霊を本式に供養するために建てられたものである。

この戊辰役戦死墓の道を挟んだ反対側にあるのが、閻魔堂。

      閻魔堂(六道町)

その敷地の一角に3基の六字名号塔が立つ。

 

その真ん中の石塔の台石には、椀状凹みがあるように見えるのだが、そうとは断言できない事情がある。

この石塔の石材は、大谷石であることは明白です。

大谷石は風化するとボコボコと穴があきやすい。

 

上の写真は、閻魔堂の土台の大谷石だが、穴がいくつも開いている。

人工的にあけられた穴ではないことは明らか。

だとすると六字名号塔の台石の穴も椀状凹みなのかどうか疑問符が付くのです。

 

光淋寺には、官軍と賊軍双方の墓が向かい合っている。

 

  戊辰の役官軍因幡藩士之墓           戊辰の役幕府軍桑名藩士之墓

ありうべからず、と云うほかない光景だ。

こんな石碑が立っている。

「討つ人も討たるる人ももろともに同じ御国の為と思えば」

肝心の椀状凹みは、光淋寺にも、観専寺にも安養寺にもない。

 

  観専寺(材木町)                  安養寺(材木町)

 

日光街道に戻って進むと裁判所にぶつかる。

裁判所の前の通りの国道119号を右折、100mほど先の十字路が日光街道と奥州街道の分岐点です。(地図では、三峰神社右の道)

左折すると日光へ向かうのだが、そちらへは行かず、反対の今来た道を戻って、宇都宮城址へ。

800mほどバックすると宇都宮市役所。

市役所を東へ進むと城址公園が見えてくる。

 

宇都宮城は、将軍の日光社参において重要な役割を果たしてきた。

        宇都宮城址(本丸町)

将軍の行列は一日目が岩槻、二日目、古河と宿泊して三日目、宇都宮城に宿泊するのが通例でした。

本陣でもないのに、将軍の宿泊施設であった珍しい城と言えます。

吉宗の社参の行列の人数は13万3000人。

先頭の10時間後に最後尾が江戸城を出立するほどの大人数。

宇都宮城内は、宿泊施設の確保に大わらわでした。

城主戸田家の家臣団の屋敷38軒が将軍近習と大名の下宿にあてられ、不足分は旅籠、大ぶりな町家が充てられたがそれでも収容できず、周辺村落に分散して宿営したと言われている。

無名の従者は野宿を余儀なくされたはずです。

 

119号線に戻って、清住町通りに入るとそこが日光街道。

 ビルとレンガ色の建物との間が日光街道

宝勝寺、延命院、琴平神社、桂林寺と回るが、いずれも椀状凹みはない。

 

  宝勝寺(小幡1)                   延命院(泉町)

 

 

 琴平神社(清住1)             桂林寺(清住1)

桂林寺が宿の北のはずれだから、宇都宮宿には椀状凹みはないないことになる。

日光街道最大の宿場というので期待するものが大きかっただけに、失望も大きい。

急に疲れを覚え出す。

レンタサイクルのバッテリーも底をつき始めたようなので、駅へ向かう事に。

宇都宮宿から離れながらも寺社があれば、停車しては椀状凹みを探す。

真福寺、正行寺、浄鏡寺、二荒神社でも空振り。

 

    真福寺(泉町)                 正行寺(泉町)

 

 

   浄鏡寺(塙田2)                  二荒山神社(塙田2)

これが最後と寄った慈光寺では、山門前の石段の下でつなぎ地蔵が迎えてくれた。

         慈光寺(塙田4)

人々の願いを聞いて浄土につなぎもすれば、地獄の門番として不心得者を見極める役割もするのだという。

椀状凹みを見つけたいという私の願いはお地蔵さんに届いたようで、境内の一角におわす巨大な石仏の台石に凹みがあった。

 

終わり良ければ、すべて良し。

電池切れでひときわ重い自転車を押して駅へ向かった。

 

日を改めて、宇都宮から日光へ向かった。

まずは18番目の宿、徳次郎宿を目指す。

日光街道最大の 宇都宮宿では、とうとう椀状凹みは見つけられなかった。

最後の最後、慈光寺で見つけはしたが、宿場から離れた場所だった。

問題は、宿場にあるかではなく、宇都宮市にあるかだから、目的は達成したと考えてよい。

だが、あるにはあったけれど、その数は少なかったところを見ると、椀状凹みを穿つ風習がこの地方では希薄だったのかもしれない。

そんなことを思いめぐらしながら、ひたすら真っ直ぐ伸びる日光街道を進んでゆく。

薬師堂がどこにあるか、ガソリンスタンドで訊いた。

地図の上では、すぐ傍にあることになっている。

しかし、若い女性の従業員は「知らない」と云うばかり。

ガソリンスタンドの隣は空き地になっている。

道路からやや奥まった場所に薬師堂はあった。

  薬師堂(宇都宮市若草3)

 大きな木の下にあって、垂れ下がる枝や葉で半分は隠れて見えないが、昔からそこにあったのだから、「知らない」という方がおかしい。

しかし、お寺やお堂の在りかを聞いてきちんと答えられる若者は、最近、ほとんどいなくなった。

私は、若者には訊かないことにしている。

訊くだけ無駄だし、不愉快になるからです。

ガソリンスタンドで若い女性に訊いたのは、他の従業員は作業中で、暇そうなのは彼女しかいなかったから。

薬師堂の裏に10基ほどの石仏群があり、その内、十九夜塔と宝筐印塔の台石に椀状凹みがあった。

 

  薬師堂裏の石造物群                   凹みのある十九夜塔台石

 

              宝筐印塔と台石の椀状凹み

宇都宮ではほとんど見られなかったので、なぜかほっと一安心。

面白いことに隣の高尾神社でも椀状凹みがあるのです。

 

                高尾神社と椀状凹みのある手水鉢

手水鉢の縁がぼこぼこになっていました。

 ー徳次郎宿ー

東北自動車道を過ぎるとバス停「下徳次郎」の看板が見えてくる。

  バス停「下徳次郎」(宇都宮市宝木本町)

徳次郎宿は宇都宮から行って、下徳次郎、中徳次郎、上徳次郎と宿が三つに分かれている。

まとめて一つにするか、三つに数えるかで、日光街道の宿場の数は変わることになる。

人馬継立ての問屋場は初め上徳次郎にしかなかった。

享保の頃、中、下が加わって、月に10日ずつ問屋場が場所を変えたのだという。

町並みは約1キロと宿場としては長いが、寺はない。

代わりにというわけではないが、堂や路傍の石仏が目立つ。

 

 六本木の一里塚の十九夜塔とお願い地蔵(宇都宮市石那田) 

 

椀状凹みは、寺院よりもお堂に多いので、もしかしたらとと期待したが、成果はなし。

しかし、徳次郎宿唯一の神社智賀津神社の灯籠に穴があいていた。

  智賀津神社(宇都宮市徳次郎町)

燈籠は、鳥居の前、道路に面してある。

 

凹み穴が大きく、深いのは、燈籠の場所と関係があるようだ。

境内の外で、神主の目の届かないというような・・・

智賀津神社から10分も歩くと上徳次郎宿に入る。

   バス停「上徳次郎」(宇都宮市徳次郎町)

バス停「上徳次郎」あたりが本陣跡地らしいが、どこか特定はできなかった。

 

宇都宮市から日光市へ。

やがて、山口で道が分岐する。

左は4号線、右へ直進すると旧日光街道。

鬱蒼とした杉並木が陽光をさえぎって、やや暗く、涼しい。 

   杉並木街道(日光市山口)

左に石塔、石碑、看板が立っている。

 

まず目につくのが「特別史跡 特別天然記念物 日光杉並木街道」。

日光杉並木街道という名称は、日光、例幣使(壬生)、会津西の3街道の総称で、総延長37キロ。

ギネスブックにも「世界一の並木道」と認定されている。

もう一本は、「杉並木寄進碑」。

杉並木寄進碑(日光市山口)

寄進したのは、徳川家譜代の松平家。

寛永2年(1625)から20数年かけて紀州熊野から取り寄せた杉苗を街道の両側に植え続けた。

その数約5万本。

減り続けて今は1万本を辛うじて超える数となってしまった。

自動車の排気ガスや振動が、減少の原因とされている。

 

 ー大沢宿ー

大沢宿は何度かの火事で昔の面影を失った。

宿場の総鎮守王子神社へ寄ってみる。

 

          王子神社(日光市大沢町)と椀状凹みのある手水鉢

手水鉢の縁に凹みがあるように見える。

王子神社の裏手の竜蔵寺は、社参の際、将軍の休憩所だった。

   竜蔵寺(日光市大沢町)

椀状凹みはない。

日本橋から32番目の大沢の一里塚(別名・水無の一里塚)。

  水無一里塚(日光市水無)

その反対側の地蔵堂に石仏群がおわす。

 地蔵堂と石仏群(日光市水無)

残念ながら椀状凹みは、みつからない。

所々、車道と並行して砂利道の杉並木が走っている。

  未舗装の杉並木道と小川

人通りは皆無。

森閑とした静けさの中で聞こえるのは、川の水音だけ。

 

来迎寺がある。

 来迎寺(日光市森友)

今市に入ったことになる。

 

 ー今市宿ー

今市市は、平成の大合併で日光市になった。

だから日光の表示ばかりで、分かりにくい。

追分地蔵の前の蕎麦屋で昼食。

 

 追分の地蔵(日光市中央町)の前の並木蕎麦

追分は、日光街道と例幣使街道の分岐点。

121号が例幣使街道です。

食事後、如来寺へ向かう。

町の中央に広大な空き地。

作曲家船村徹記念館の建設用地だというが、集客は見込まれるのだろうか。

如来寺は、将軍の休憩所だった格式ある寺。

   如来寺(日光市今市)

これまでの経験から格式高い寺には椀状凹みは少ないことが分かっているので、期待はしていなかったが、観音堂前の手水鉢が穴だらけだった。

 

            如来寺境内の観音堂と手水鉢

 報徳二宮神社がある。

    報徳二宮神社(日光市今市)

二宮尊徳は晩年今市で暮らし、ここで死去したのだという。

今市の総鎮守滝尾神社を過ぎる。

   滝尾神社(日光市瀬川)

どこから日光に入ったのか分からないまま、いつの間にか日光市街へ。

 

 -鉢石宿ー

日光街道最後の宿場鉢石宿は、東武日光駅より上になるらしい。

宿場の「鉢石」の由来は「勝道上人開山ノ時、鉢石町ト名ク、此町ノ北、大谷ノ南岸ニ、鉢ノ形ナル岩アリ、因テ名トス」(『日光山堂舎建立記』)。

   鉢石(日光市上鉢石町)

鉢石は、今でも日光市指定の文化財として残されている。

ところで、日光にも椀状凹みはあるのか。

早速、竜蔵寺へ。

 

                      竜蔵寺と稲荷神社(日光市稲荷町1)

竜蔵寺にはなかったが、裏の稲荷神社に椀状凹みがあった。

境内にずらりと並ぶ庚申塔には見当たらなかったが、手水鉢の縁に穴があいている。

       稲荷神社の庚申塔群

 稲荷神社の椀状凹みのある手水鉢

初めての寺社を探し当てて行くほどの時間がない。

土地勘のある一度行ったことのある場所を回ることに。

星の宮磐裂神社から浄光寺へ。

 

  星宮への石段(日光市上鉢石町)       浄光寺(日光市本町)

門前の庚申塔群に椀状凹みがないのでがっかり。

      浄光寺山門前の庚申塔群

最後に寄ったのが磐裂神社。

   石造物だらけの磐裂神社(日光市本町)

石碑、石塔の宝庫なので1基位は椀状凹みがあるのではないかと期待していたが、残念な結果に終わった。

日光市内をもう6,7個所回ってみたかったが、東京に帰るので、諦める。

 

東京から日光まで、日光街道の宿場を中心に椀状凹みを探しての旅はこれで終わり。

終わっての感想は、「昔の人はすごい!」。

将軍の社参ですら3泊4日。

一般人は、なんと日光まで2泊3日で到達していたのです。

一日、12里、48キロ歩く計算になります。

信じられない。

 

旅の目的であった椀状凹みについては、日光まで途切れることなく、その痕跡を確認することが出来ました。

その目的や理由は分かりませんが、石造物に穴を穿つ風習が東京、埼玉、茨城、栃木の都県に広がっていたことになります。

恐らく全国的に椀状凹みはあるものと思われますが、断言はできません。

 

日本橋から日光まで、日光街道沿いに立ち寄った場所は、154か所。

寺院88(19)、神社46(17)、堂15(6)、公民館(寺跡)1(1)、路傍4(1)。

( )内は、椀状凹みがあった個所。

総数44基。

その内訳は

手水鉢     18(寺3、神社15)

狛犬        2

燈籠        3(神社3)

石塔・石碑    5(弘法大師碑、四国四十八ケ所巡礼供養塔、南無遍照金剛塔、普門品供養塔、石経供養塔)

地蔵        3 

宝筐印塔     4

庚申塔       3

十九夜塔     12

廿三夜塔      1

道標         3 (*道標を兼ねた地蔵と庚申塔あり。それぞれのカテゴリーに入れてあるので2基重複)

不明         2

(注:手水鉢と狛犬を除いて、椀状凹みは石造物の台石に穿たれている。石仏、石碑本体に傷はない)

以上のことから、おおまかに言えることは次の通り。

①椀状凹みは、社寺の山門、鳥居の前の石造物に多く見られる。
 石を穿っていても、住職や宮司に叱られない場所ということか。
 手水鉢は境内にあるが、祭事と深い関わりがあるわけではない。(祭祀の前の禊の代わりだから、無関係ではないが)

②社寺にある庚申塔、十九夜塔は、元々は、集落の路傍にあった。
  造立者は集落の講中だから、凹みを穿っても誰からも文句は言われなかった。
  道標の凹みも同じことである。

③墓地の墓に椀状凹みはない。

板橋区の椀状凹みのある石造物32基を加えると、これまで76基もの椀状凹みのある石造物を見てきたことになります。

にもかかわらず、なぜ石に穴を掘るのか、その理由については、まったく見当がつきません。

椀状凹みを探して東海道や中山道を京都まで上ってみるのも一興ですが、多分、理由は解明されないでしょう。

何かスッキリしない状態ですが、椀状凹み探しは今回で一応終わりと云う事にしようと思います。