石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

125 シリーズ東京の寺町(9)谷中寺町-12(谷中5丁目のロ)

2016-09-25 07:04:36 | 寺町

全生庵を出て左へ。

三崎坂沿いにまだ寺が続く。

42 新義真言宗天瑞山明王院歓福寺(谷中5-4-2)

歓福寺ではなく、明王院と呼ぶのは何故なのだろう。

谷中寺町には、御府内八十八ケ所が7カ寺あるが、明王院は、その五十七番。

札所石塔正面に「現世聖天尊」とあるのは、本堂に聖天さまを祀ってあるから。

聖天さまは、十一面観音が化身して歓喜天となったもの。

多大なる現世利益を与える仏として敬われています。

境内に入ると高い納経塔が目に入る。

浮彫の弘法大師が目立ちます。

無縁仏コーナーに白さが目立つ如意輪観音がいらっしゃる。

穏やかながらきりっとしたシャープなお姿。

白っぽいのは、表面を削りおとしたからか。

 

明王院の隣は、石屋さん。

寺町だから、石屋が多い。

店内に珍しい墓標があるので、パチリ。

日傘の下に頭巾を被った男、足元に天秤と籠が二つ。

「飴売り商人の墓」と表示がある。

男の右に「得善清居士」。

左に「天明四甲辰星九月二十九日」と刻されている。

ガラスに前の景色が映りこんで、見えにくいが、飴売りの像であることは判る。

主人がいたので訊いてみたが「どこの墓にあったものか知らない」との返事だった。

43 真言宗智山派初音山観智院(谷中5-2-4)

道路に面して広く開けた境内の右側が幼稚園なので、甲高い子供の声に包まれている。

明王院と同じく慶長16年(1611)に神田に創立、慶安年間一緒に移転してきた。

御府内八十八ケ所の一つであることも同じで、観智院は、六十三番。

隣同士なのだから、札所番号も連番である方が巡りやすいと思うのだが、大抵、こうしたミニ霊場では、そうしたことは無視されているようだ。

境内の左にあるお堂は、不動堂と大師堂。

黒ずんでいるのは、江戸の度重なる火災と地震、関東大震災、東京大空襲を免れて昔のままだから。

三崎坂に面して六地蔵が並び、その横に地蔵が2体おわす。

立像の地蔵は見なれているが、もう一体はなんと胸像。

胸像の地蔵は初めて見た。

元は立像だったものが何らかの理由で、上半身のみとなり、胸像に作り替えたのではないか、その理由を知りたいと思い寺に電話した。

「不動堂を造る時地下から掘りだされたものと聞いているが、原型がどうであったかは、知りません」との返事。

墓地に大名墓がいくつか点在する。

寛永12年(1635)に参勤交代が制度化されると、諸大名と藩士たちは江戸住まいを強いられ、江戸に菩提寺を持つようになる。

観智院には、播磨姫路藩酒井家、三河吉田藩松平家、越後三日市藩柳沢家の墓がある。

 

観智院を出て、左へ。

信号を左折、一方通行の道を逆に歩いて行く。

谷中らしい店や路地を見ながら行くと左に養泉寺がある。

44 日蓮宗長清山養泉寺(谷中5-2-28) 

山門から真っ直ぐの参道の突当りが本堂。

狭い境内の片隅に小堂があって、「聖観世音」と「浄行菩薩」の提灯が掛かっている。

浄行菩薩は普通だが、聖観音は崩れてそれと判らないほどの有様。

軟石ではないので、崩れの原因が不明。

45 日蓮宗感応山常在寺(谷中5-2-25)

立派な山門をくぐって境内へ。

境内には、無縁塔が1基あるだけで、他に石造物はない。

たまたま本堂の戸が開いていたので、いつもは見向きもしない本堂内の写真を撮る。

元々、この寺は感応寺(元天王寺)の末寺だった。

それが不受布施問題で、感応寺が幕府から改宗を迫られ、天台宗となったため、常在寺は身延山久遠寺の末寺となり、生き延びてきた。(森まゆみ『谷中スケッチブック』より)

 

*次回更新日は、10月1日です。

 

 ≪参考図書≫

 

 ◇台東区教委『台東区の歴史散歩』昭和55年

 

  ◇石田良介『谷根千百景』平成11年

 

 ◇和田信子『大江戸めぐりー御府内八十八ケ所』2002年

 

 ◇森まゆみ『谷中スケッチブック』1994年

 

 ◇木村春雄『谷中の今昔』昭和33年

 

 ◇会田範治『谷中叢話』昭和36年

 

 ◇工藤寛正『東京お墓散歩2002年』

 

 ◇酒井不二雄『東京路上細見3』1998年

 

 ◇望月真澄『江戸の法華信仰』平成27年

 

  ◇台東区教委『台東区の歴史散歩』昭和55年

 

 ▽猫のあしあとhttp://www.tesshow.jp/index.html

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


125 シリーズ東京の寺町(9)谷中寺町-11(谷中5丁目のイ)

2016-09-20 19:20:47 | 寺町

今回から谷中5丁目に入る。

南は三崎坂から北は谷中銀座、西は六阿弥陀通りと東は諏訪台通りに囲まれた区域。

谷中5丁目にある寺は、19か寺。

まず、谷中3丁目の大円寺と六阿弥陀通りを挟んで反対側の立善寺から。

38 日蓮宗長興山立善寺(谷中5-4-19)

幼稚園を経営しているので、日ごろは賑やかなのだろうが、訪れたのが日曜日だったので、森閑としていた。

山門脇の入口も閉ざされて、境内に入れず。

下谷金杉にあった寺は、家光の墓所建設用地として没収される。

開基・日栄聖人が不受布施派だったため、代替地も認められず、半世紀も不遇の時代を過ごす。(寺のHPより)

山門前脇の小堂に黒光りの大黒さん。

不受不施派のヒーロー「鍋冠り日親」は、俵に跨った自画像を遺したという。

表だって日親上人を祀れない不受不施派の信者たちは、似た造形の大黒様を代わりにした。

これもその一つだろうか。

立善寺を出て左へ進むと三崎坂にぶつかる。

三崎坂を上り、左へ回る順路で紹介してゆこう。

39 日蓮宗延寿山長久寺(谷中5-4-11)

前回は、三崎坂上に向かって右側、4丁目の寺を巡ったが、今回は、坂の左側。

大円寺の次が長久寺。

開基者は、谷中村の名主だそうだ。

特記すべき石造物なし。

山門前の題目塔背後の樹の切り株が新しく、痛々しい。

 

40 日蓮宗松栄山福相寺(谷中5-4-9)

慶安年間の創立は、この界隈では古株になる。

入口から山門、本堂へと緩やかに下る参道を下りてゆく。

入口脇に虚空蔵菩薩の文字塔がある。

工事中のカラーコーンが、寺のムードを台無しにしている。

本堂前の高い石塔は開山・日信上人の墓。

「  寛文二寅年
  開山自應院日信聖人
   三月二十一日  」

41 臨済宗普門山全生庵(谷中5-4-7)

俗に「鉄舟庵」とも言われるように、全生庵は、山岡鉄舟により、明治13年(1880)、上野戦争の犠牲者を弔うべく創立された。

江戸城の無血開城をもたらし、江戸を流血の惨事から救ったのは、山岡鉄舟の力によるところが大きい。

徳川慶喜や勝海舟の意向を受けて、単身、駿河の西郷隆盛に幕府恭順の意を伝えに行った時、官軍の取り囲む中を「朝敵徳川慶喜家来山岡鉄太郎、まかり通る」と名乗りをあげながら駆け抜けたという武勇伝がある。

全生庵の座禅会には、安倍首相や石破大臣など現役政治家が参禅していることが知られている。

山岡鉄舟のような決断力や実行力を座禅で養ないたいと思ってのことだろうが、決断し、実行する「政策」の中身に、まず、力を注いではどうか。

境内に「山岡鉄舟居士之賛」碑がある。

上部に、有栖川宮親王の篆書体で「山岡鉄舟居士之賛」とあり、碑文には浄土宗初代管長鵜飼徹定による詩文が、勝海舟の書によって刻まれている。

境内には、もう1基、重要な碑があって、それは「三遊亭円朝翁」追悼碑。

文と書は、明治の元老井上馨。

噺家と元老、組み合わせは尋常ではないが、それほど円朝が卓越した芸人だったということ。

円朝については、墓地で再び触れる予定。

墓地へ。

いくつか大型の顕彰碑があるが、知らない人ばかりで素通り。

粗末な小屋にお地蔵さんがいらっしゃる。

全体に白っぽくて、像容が崩れかかっている。

その崩れ方が、石仏の崩れ方とは違うような気がする。

薄れてほとんど読めないが、木札には「名工 伊豆の長八〇〇〇作」と書かれているようだ。

伊豆の長八は、左官職人。

漆喰をこてを使って浮彫にする名人として有名だった。

これは、長八がこてで造った漆喰造りのお地蔵さんということになる。

伊豆の長八の作品を見るのは初めて。

ちょっと感動的な出来事です。

全生庵といえば、鉄舟であり、円朝だが、どうやら今は、「黄金観音の寺」の方が通りがいいようだ。

高さ6.3mの観音様が、墓地の高台にすっくとお立ちになり、金色に輝いておわします。

作者は、北村西望氏。

平成3年開眼です。

        観音さまの目線での風景

平井庵主の開眼法語は

湧出す谷中観自在
大悲の請願、衆生を度し(救い)
大慈の慧日、世界を照らす
普門山頭 光明を放つ(普門山は、全生庵の山号)

 

円朝が、山岡鉄舟と会ったのは、「怪談・牡丹灯篭」を完成させて、既に名声を得ていた明治10年(1877)頃。

その円朝を「噺は上手いが、死んでいる」と鉄舟は批判する。

鉄舟の人柄に惚れた円朝は、鉄舟に師事することに。

修行の上、噺は口でするものではなく、心でするものと悟り、鉄舟をして「噺が生きている」と言わしむる。

全生庵では、毎年、8月、幽霊画を公開するが、48点もの絵は全部、円朝が収集したもの。

創作噺の参考にと集めたのだと云うから、並みの噺家でないことは確かだ。

            山岡鉄舟の墓

明治21年(1888)、鉄舟の死に際して、駆けつけた円朝は涙ながらに一席演じた。

鉄舟の、たっての願いを聞き入れてのことだった。

「腹はって 苦しきなかに 暁烏」。

鉄舟、辞世の句です。

それから12年後の明治33年(1900)8月11日、円朝も後を追った。

「今すこし遊びたけれどお迎かひに
 ひと足先にハイ左様なら」

戒名は、三遊亭円朝無舌居士。

墓石側面の「耳しひて 聞さだめけり 露の音」は、辞世句。

 

鉄舟、円朝の墓の近くに見覚えのある名前の墓がある。

作曲家・広田龍太郎の墓。

墓域右側に「叱られて」の楽譜と松村貞三による撰文がある。

撰文は以下の通り。

 広田龍太郎 昭和27年、文京区本郷の自宅にて没、ここに眠る。
 彼は大正・昭和にかけて、器楽曲、オペラ、舞踏曲等活発な作曲活動もしたが、中でも千数百曲におよぶ歌曲と童謡の作曲は彼の代表的な仕事となった。彼のうたは人の心の最も自然な息吹きであり、その瑞々しさは風説をこえ些かも色褪せることはない。数多くの曲が発表当時から国民的な規模で愛唱されつづけ、日本人の心の原風景の中に光を孕んだ風のように棲みつづけるものとなった。「千曲川旅情のうた」、「叱られて」等の歌曲、「春よ来い」、「靴が鳴る」等の童謡は最も人口に膾炙した傑作である。                     撰文 松村貞三

 

*次回更新日は、9月25日です。

 ≪参考図書≫

 ◇台東区教委『台東区の歴史散歩』昭和55年

  ◇石田良介『谷根千百景』平成11年

 ◇和田信子『大江戸めぐりー御府内八十八ケ所』2002年

 ◇森まゆみ『谷中スケッチブック』1994年

 ◇木村春雄『谷中の今昔』昭和33年

 ◇会田範治『谷中叢話』昭和36年

 ◇工藤寛正『東京お墓散歩2002年』

 ◇酒井不二雄『東京路上細見3』1998年

 ◇望月真澄『江戸の法華信仰』平成27年

  ◇台東区教委『台東区の歴史散歩』昭和55年

 ▽猫のあしあとhttp://www.tesshow.jp/index.html

 

 

 

 

 

 

 


125 シリーズ東京の寺町(9)谷中寺町-10(谷中4丁目のニ)

2016-09-15 06:57:43 | 寺町

36 曹洞宗興福山永久寺(谷中4-2-37)

玉林寺の末寺であるのは、玉林寺の和尚の隠居寺として創建されたから。

江戸の戯作者であり、明治の新聞記者である仮名垣魯文の墓がある。

猫好きだった仮名垣魯文を反映して、猫関連石造物がいくつかある。

まず、墓地入口にある墓石から。

聖観音を線刻した中世板碑が嵌め込まれているが、線刻の悲しさ、よく見えない。

側面には「遺言本来空 財産無一物 俗名 假名垣魯文」と刻されているのが、魯文らしい。

境内に戻ろう。

本堂前に、2基の石造物。

左が「山猫めお登塚」、右が「猫塔記念碑」。

「山猫めお登塚」は、函館戦争敗軍の将・榎本武揚から魯文に贈られた山猫の死を悼んでの石碑。

福地桜痴の碑文は「明治十四年十月建 山猫めを登塚 桜痴居士源喜」。

裏面には「榎本武揚君嘗賜雌雄山猫于猫々道人魯翁 該猫病而斃標石一基 卿表追悼之意 嗚呼」とあり、16人の飲み仲間?の名前が列挙されている。

こうした洒落た石碑、墓標は、江戸、明治に多く、近年はさっぱり見かけない。

おおらかさに欠けた世の中は、洒落を愉しむ余裕も無くなったということか。

その右の「猫塔紀念碑」は、燈籠のようであり、五輪塔のようであり、宝篋印塔のようであり、いずれでもないという変わった石塔。

中段の箱型石に開いている丸い穴は、猫が喜びそうな形。

中に潜って顔だけ出している猫の姿が見えてきそうだ。

明治11年(1878)、両国の中村楼で開かれた、猫グッズ即売会を兼ねた「珍猫百覧会(仮名垣魯文主宰)」の利益で建立したもの。

檀那に変人がいれば、住職も変わっている。

下の地蔵さん、どこが変わっているか、分かりますか。

頭上の光背部分にあるのは、一円玉。

立派な通貨である一円玉が粗末に扱われる風潮を嘆いて、住職が檀信徒に呼びかけ、一円玉基金で、昭和45年(1970)に建立したものという。

私事で恐縮だが、昭和37年、新米デイレクターとしての私の最初のドキュメンタリーは、「一円玉が泣いている」だった。

寺を出ると道の向こうに猫グッズ専門店がある。

若い女性で混雑しているが、明治時代の「猫き〇〇い」仮名垣魯文の墓がすぐそばにあることは知らないようだ。

37 日蓮宗安産飯匙の祖師(谷中4-2-5)

右門柱に「東京七面山」。

左門柱に「除厄安産 江戸十大祖師 飯匙(しゃもじ)祖師」とある。

瑞輪寺の一画にあるので、谷中4丁目の一番最初、NO22「日蓮宗慈雲山瑞輪寺」で取り上げるべきだったかもしれない。

谷中4丁目を瑞輪寺から始めて、ぐるっと回って再び瑞輪寺に着いたという感じ。

「江戸十大祖師」という名称に初めて出会った(ような気がする)。

Wikipediaによれば「江戸にある10ヶ寺の日蓮宗寺院を参拝することにより祖師(日日蓮)のご利益にあずかろうとする民間信仰」。

10ケ寺の中には、これまで参拝したことのある寺もある。

谷中の「宗林寺」もその一つで、谷中寺町シリーズの6「20日蓮宗妙祐山宗林寺」で取り上げたばかり。

宗林寺では、「江戸十大祖師」に触れなかった。

境内のどこにも、そのような表示がなかった(ように記憶する)から。

江戸時代には流行したが、今は廃れたものは多い。

「江戸十大祖師」巡りもその一例ということになる。

飯匙(しゃもじ)祖師の由来を説明板から引き写しておく。

文永十一年(1274)三月十三日、日蓮聖人佐渡配流、赦免となり鎌倉に向かうの途路、武蔵国粂川の辺りに関善左衛門という者あり、その妻難産に苦しみ救いを請う、聖人その家に入り、飯匙ありたるに御本尊をしたため産婦にいだかせ給うに、たちどころに安産して母も子もつつがなし、一家一門その感応を拝みて入信、かしこみて聖人のご尊像を彫みて武州谷中(現在東日暮里)に善性寺を建立しその尊像を安置す。
のち谷中感応寺(現在の天王寺)に移す。
以来安産救護の利益あらたかに多く庶民の信仰を得、元禄十一年(一六九八)十一月十二日、感応寺改宗を命ぜられし折り、ご尊像を瑞輪寺に勧請、利益昔に変わらず。
平成二十一年五月吉日 瑞輪寺第五十七世 井上日修代

宗祖が起こした奇跡伝説は、特に、空海と日蓮が多いようだ。

熱烈な信者がいるということだろうか。

 

境内に「包丁塚」がある。

「鳥供養」とあって施主名に「日本全鳥調理師司」と刻されている。

何故、鳥供養を飯匙祖師にするのか、知りたくてうずうずする。

「お百度参り」石塔もある。

谷中寺町、37か寺目にして初めての百度石。

廃れ方は、世代ごとに、加速度的に進んでいる。

今や、「百度石」を知らない人の方が多いだろう。

知らないと云えば、この人の名前はどうだろうか。

玉垣に「伴淳三郎」の名前。

明治、大正ではない、れっきとした昭和の、喜劇俳優だが、どうだろうか。

78歳の私には、自分史の一部だが、20代の孫には、歴史的人物だという事実を忘れるから、話がかみ合わなくなるんだよなあ。

 

 

*次回更新日は、9月20日ですが、旅行中で更新できず、22日か23日になるかもしれません。

  

≪参考図書≫

 ◇台東区教委『台東区の歴史散歩』昭和55年

 ◇石田良介『谷根千百景』平成11年

 ◇和田信子『大江戸めぐりー御府内八十八ケ所』2002年

 ◇森まゆみ『谷中スケッチブック』1994年

 ◇木村春雄『谷中の今昔』昭和33年

 ◇会田範治『谷中叢話』昭和36年

 ◇工藤寛正『東京お墓散歩2002年』

 ◇酒井不二雄『東京路上細見3』1998年

 ◇望月真澄『江戸の法華信仰』平成27年

 ◇台東区教委『台東区の歴史散歩』昭和55年

 ▽猫のあしあとhttp://www.tesshow.jp/index.html

 

 

 

 

 

 


125 シリーズ東京の寺町(9)谷中寺町-9(谷中4丁目のハ)

2016-09-10 15:36:54 | 寺町

地下鉄「千駄木」駅を出た四つ角が、団子坂下。

    団子坂下から三崎坂を望む

西から団子坂、東から三崎坂がぶつかったところだから、「三崎坂下」でもいい。

三崎坂は「みさきざか」ではく、「さんさきさか」と呼ぶ。

谷中、駒込、田端の三つの台地が岬になっていたことから「三崎坂」と呼ばれるようになった。

上野戦争では、官軍の本郷側からの「攻め口」が三崎坂で、坂の両側の寺に潜む彰義隊に悩まされたという。

谷中4丁目の続きの今回は、三崎坂の南側の寺々、妙円寺、妙法寺、天龍寺、本通寺、龍谷寺、永久寺、飯匙の祖師堂が対象です。

では、坂を上って行きましょう。

31 日蓮宗円十山妙円寺(谷中4-4-29)

山門周りは、白黒モノトーンが重厚な雰囲気を醸し出している。

山門から長い参道が真っ直ぐに本堂へと延びている。

15段の石段の効果は、本堂から見た景色に現れている。

高低さを巧みに生かした景観。

樹木がないから広さが際立っている。

層塔の前に勢至菩薩、大型石仏を久しぶりに見たような気がする。

 32 日蓮宗龍江山妙法寺(谷中4-4-30)

楼門の向こうに参道が緩やかにカーブしている。

カーブする参道の先には、意外に広い境内と本堂。

境内左の墓地入口に巨大な五輪塔。

「大黒氏萬霊塔」と刻されている。

史跡指定もなく、説明板もないので、知られていないが、マルチアーティスト本阿弥光悦の墓がある。

京都の本阿弥寺は、元々本阿弥家の位牌所だったものを、光悦の死後寺にしたもの。

ここには、光悦だけでなく、本阿弥家の墓が20基くらいあり、妙本寺が本阿弥家の菩提寺であったことが分かる。

本阿弥家は、代々、京都における日蓮宗寺院の大スポンサーとして知られてきた。

同時に、不受布施派との付き合いが深かったとも伝えられている。

 

 

 33 臨済宗海雲山天龍寺(谷中4-4-33)

 狭い境内には、わらべ地蔵がおわすのみ。

本堂左の通路を行くと裏に墓地が広がっている。

墓地入口には、地蔵が並んでいるが、六地蔵ではない。

墓地に、都指定旧跡として、蘭方医・伊東玄朴の墓がある。

1週間前、伊東玄朴は、洋書の翻訳本に名前貸しをしていたという話を聞いたばかりだった。

台東区郷土資料室の企画展「蘭学者がつづる江戸 柴田収蔵日記」のトーク・イベントでのこと。

柴田収蔵は、詳細な世界地図を作製した佐渡出身の蘭学者で蘭医。

彼は、詳細な日記を書き残した。

その日記から浮かび上がる伊藤玄朴は、弟子の翻訳書出版に際し、翻訳者として伊東玄朴の名前の使用を許可していたこと。

無名の弟子の名前で出版するより本は売れる。

名前貸しで玄朴は労せずして分け前を得、弟子は売り上げが伸びて利益を得るという一挙両得作戦。

金がからむと、昔も今も、人がやることは変わらないことが分かる。

34 日蓮宗法栄山本通寺(谷中4-2-33)

山門前に「谷中七福神毘沙門天安置」の石標。

谷中七福神を巡ったことがあるが、本通寺に来た覚えがない。

ネットで調べたら、谷中七福神は250年の歴史を持つ江戸最古の七福神で、本通寺の毘沙門天が、そのうちの一つだったこともあるのだそうだ。

 35 日蓮宗栄照山龍谷寺(谷中4-2-35)

 境内右手に小堂があって、提灯には「百日咳守護」と書かれ、石塔には「たんぼとけ」と刻されている。

拝めば、咳やたんが治るということだろう。

笠付石塔には軍配が描かれ、その下に「源家侍所別当 佐奈田余一義忠 相州石橋山合戦討死」とある。

Wikipediaには、佐和田義忠は、源頼朝の家来で、源平相戦った石橋合戦で討ち死にした武将とある。

義忠が組み合っていたとき、痰がからんで声が出ず助けが呼べなかったという言い伝えがあり、彼を祀る佐奈田神社は喉の痛みや喘息に霊験があるといわれていて、ここも佐和田神社と同じ効能があると云いたいようだ。

石塔に「治承四年」(1180)と刻されている。

そんなに古い石塔は、大発見と興奮したが、単に、義忠が戦死した石橋合戦のあった年を指しているようだ。

治承年間に、当然、龍谷寺も存在してないから、そんな古い石塔がありうるはずがない。

興奮して、損した気分。

*次回更新日は、9月15日です。

  

≪参考図書≫

 ◇台東区教委『台東区の歴史散歩』昭和55年

 ◇石田良介『谷根千百景』平成11年

 ◇和田信子『大江戸めぐりー御府内八十八ケ所』2002年

 ◇森まゆみ『谷中スケッチブック』1994年

 ◇木村春雄『谷中の今昔』昭和33年

 ◇会田範治『谷中叢話』昭和36年

 ◇工藤寛正『東京お墓散歩2002年』

 ◇酒井不二雄『東京路上細見3』1998年

 ◇望月真澄『江戸の法華信仰』平成27年

 ◇台東区教委『台東区の歴史散歩』昭和55年

 ▽猫のあしあとhttp://www.tesshow.jp/index.html

 

 

 

 

 


125 シリーズ東京の寺町(9)谷中寺町-8(谷中4丁目のロ)

2016-09-05 04:37:16 | 寺町

地図を見てほしい。

本妙寺を出て、右へ。

変形四つ角が、このブログ「谷中寺町4」でも触れたヒマラヤ杉とミカドパン店がある場所。

右に、赤門の蓮華寺があるが、その前に蓮華寺の右わきの細い道を通って頤神院に寄ることに。

28 臨済宗象頭山頤神院(谷中4-3-27)

参道の両側は、クチナシ。

開花シーズンなので、咲いてはいるが、なぜか印象が薄い。

道の右側は、瑞輪寺の墓地。

そういえば、森まゆみ『谷中スケッチブック』には、頤神院は瑞輪寺の子院とある。

日蓮宗の寺の子院に臨済宗寺院がありうるのだろうか。

庫裏の呼び鈴を押して、訊いてみた。

「初耳だが、子院ではないと思います」とは、若い住職の答え。

聖語がある。

何かを手に入れたら何かを手放せ。そうしないとかえって身動きが取れなくなる

ごもっとも。

舛添前都知事に教えてあげたい。

墓地の入口に、聖観音を主尊とする無縁塔がある。

庫裏と庭の一部が見える。

東京らしからぬ静寂に引き込まれる思い。

 

29 日蓮宗寂静山蓮華寺(谷中4-3-1)

 本堂とは別にお堂があって、清正公大神祇、毘沙門天王、鬼形鬼子母神の三神を祀るとある。

いずれも法華信仰の守護神のようだが、きちんとしたことは判らない。

さらに言えば、蓮華寺のセールスポイント「六三除・虫封」も分からない。

「六三除は、身体の部分的厄除け」とは、いかなることか。

日蓮の銅像は珍しくはないが、これは子供の頃の銅像。

 

境内至る所に「仏とは」、「法華経とは」など、日蓮の言葉が掲示されている。

住職の努力が感じられるので、少し、紹介しよう。

お寺とは永遠の生命である仏様の顕現されるところです。そこは、明るい喜びの場であります。己を戒め、己を懴悔し、己の欲を捨てる場であります。
仏さまに生かされていることをしみじみと感謝し、その恩に報じたいと誓う場であります。我々を守って下さっているご先祖の霊に感謝し、供養する場であります。
そして、心を鎮め、真実を認識し、生きる力を充電してゆく場であります」。 

妙法蓮華経と唱えるとき、われわれの生命にある仏性(仏さまと同じ性質、仏さまと同じ知見、智慧)が顕われるのである。また、妙法蓮華経を耳にした人たちは、無量阿僧祇劫と言う非常に永い間に犯した罪を滅し、少しでも随喜するとき、即身成仏するのである。そして、たとえ信じなくても、妙法を耳にしたことが種となり、それが次第に熟し、必ずこれによって成仏するのである。       一念三千法門        」

 

「それ水は寒さ積もれば氷となる。
 雪は年を重ねて水精となる。
 悪積もれば地獄となる。善積もれば仏となる。
       日蓮大聖人「南条殿女房御返事」

「南無妙法蓮華経 臨終正念と祈念したまへ
      日蓮大聖人「生死一大事血脈抄」
 臨終が正念であるために、平素より深く信仰し、日夜仏さま
 大曼荼羅におまいりし、ご先祖さまの供養を怠らず、懸命に
 信仰を持続し、信心の世界に安住しなければなりません」

 「たとえ理解がなくとも、信心のある者は、鈍根(才知の鈍い性質)
 であっても正見(正しく道理を見る)の者です。
 たとえ理解があっても、信心のない者は、誹謗闡提(法をそしる、
 信じないために成仏できない)の者であります」
                  日蓮大聖人「法華題目抄」

「仏に成るということについて、凡夫(欲望・迷いを捨てきれないまま一生を送る)は、志(新年・真心・供養)という文字を心得ることによって、成仏を遂げるのである。志とは何であるかと詳しく考えてみれば、それは観心の法門である。この観心の法門とは何であるかといえば、身につけているたった一枚の衣服を法華経(南無妙法蓮華経の御本尊)に供養することが、身の皮を剥ぐことになるのである。また飢餓の世にこれを手ばなしては今日の命をつなぐ物すらない時に、ただ一つの食物を仏に供養することが、自らの身命を仏に奉ったことになるのである。  白米一俵御書

功徳とは六根(眼、鼻、舌、身、意)清浄の果報である。
結論として、いま日蓮ならびに弟子檀那が南無妙法蓮華経と唱え奉ることによって、六根清浄となるのである。それゆえ妙法蓮華経の法が師となって大きな徳がある。功徳の功の字も幸ということを表わしている。または悪を滅することを功といい、善を生ずることを徳というのである。       日蓮大聖人のお言葉『御義口伝』 

多分、あなたは、読み飛ばしたことでしょう。

それでいいのです。

住職もそのことを承知の上で掲示しているはずです。

それにしても、宗祖の思想のエッセンスをこうした形で掲示している寺は初めて見た。 

有意義な試みだと思う。

続けてほしい。

 

30 日蓮宗日長山領玄寺(谷中4-3-5)

仏教とは無関係な、貝塚で有名な寺。

モースによる日本初の大森貝塚発見は、明治11年のことだった。

それに遅れること5年の明治16年のことだから、日本考古学の黎明期に当たる。

墓域から多種類の貝とともに、縄文式、弥生式の土器も出土したという。

何度も掘り返されて、今は、こまかな貝の破片らしきものが白く光っているだけ。  

  

 *次回更新日は、9月10日です。

 

≪参考図書≫

 

 ◇台東区教委『台東区の歴史散歩』昭和55年

 

 ◇石田良介『谷根千百景』平成11年

 

 ◇和田信子『大江戸めぐりー御府内八十八ケ所』2002年

 

 ◇森まゆみ『谷中スケッチブック』1994年

 

 ◇木村春雄『谷中の今昔』昭和33年

 

 ◇会田範治『谷中叢話』昭和36年

 

 ◇工藤寛正『東京お墓散歩2002年』

 

 ◇酒井不二雄『東京路上細見3』1998年

 

 ◇望月真澄『江戸の法華信仰』平成27年

 

 ◇台東区教委『台東区の歴史散歩』昭和55年

 

 ▽猫のあしあとhttp://www.tesshow.jp/index.html

 

 

 


125 シリーズ東京の寺町(9)谷中寺町-7(谷中4丁目のイ)

2016-09-01 05:49:46 | 寺町

今回から谷中4丁目に入る。

谷中4丁目の寺は、10か寺を数えるが、瑞輪寺とその末寺、瑞輪寺西側と三崎坂南側の寺々が該当する。

では、まず、一際大きく、広い瑞輪寺から。

22 日蓮宗慈雲山瑞輪寺(谷中4-2-5)

谷中名刹の一つ。

身延山久遠寺の関東お触頭(ふれがしら)で、この寺の上人が本山の管長になるのが慣例とされているという。

昔は、4院、11坊を数えたが、3度の火災で大幅に縮小、現在は、わずか5院が参道東側に並ぶのみ。

       正面突当りが瑞輪寺

谷中寺町では、他を圧倒して広い。

墓地には樹木が少ないから、特に広く感ずるのかもしれないが。

日蓮宗寺院おなじみの、日蓮大聖人銅像と、「南無日蓮大菩薩」塔がある。

客人稲荷は「お釈迦様が衆生を救済する為に菩薩の姿となり現れたもので、法華経の守護神」(瑞輪寺HPから)なのだとか。

瑞輪寺にある墓といえば、神田上水を引いた大久保主水の墓が有名。

家康は、天正18年、江戸に入るやいなや、飲用水確保の設計、工事を大久保藤五郎に命じた。

神田上水を完成させた藤五郎の功を賞し、家康は、主水の称を与え、濁音は清水に似合わないから「モント」と訓むように指示したという。

主水は、また、菓子作りの名人で、幕府への菓子御用舗として累代、その業に従った。

主水の墓に行く道の途中にある八角形の井戸は、菓子製造用の井戸で、十代目が掘削し、碑を建てたもの。

宜しく井を穿つべし、吉と。果たして是の清冷浄水を得たり」は、井泉碑の刻文の一部。

慶安を刻む墓標もあり、瑞輪寺が歴史ある寺であることを物語っている。

山門を出る。

山門に向かって左側に日本美術院の建物。

右に瑞輪寺塔頭が並んでいる。

23 日蓮宗浄延院(谷中4-1-8)

門を別にして「谷中学寮」があるが、立正大学学生で僧門子弟が暮す寮だそうだ。

24 日蓮宗躰仙院(谷中4-1-7)

7月31日に行う「ほうろく灸」が、谷中の夏の風物詩だったが、今は行われていない。

頭の上にお経とほうろくを乗せ、お灸を炊く。

      長国寺HPより借用

頭痛が治ると評判だった。

境内に立つ、ほうろくなどの灰をまつった灰塚が、往時の賑わいを想起させる。

25 日蓮宗正行院(谷中4-1-6)

うかつなことだが、塔頭寺院に山号がないことに今気づいた。

そして、これら塔頭寺院の墓地は、みな、瑞輪寺墓地にあることも知った。

26 日蓮宗久成院(谷中4-1-5)

報恩塔の前のツツジが境内を明るくしている。

唯一の石仏、浄行菩薩が手持ちぶたさげにおわす。

27 日蓮宗本妙院(谷中4-2-11)

瑞輪寺山門に向かって参道右側に位置する塔頭が多いなか、本妙院だけは、左側にある。

瑞輪寺の広い墓地を南に進むと自然と本妙院境内に出るようになっている。

瑞輪寺にもある客人稲荷がおわす。

 

傍らに小さな祠があって、中に堂々たる男根さん。

 客人稲荷とどのような関わりがあるのか,偶々通りかかった住職に訊いた。

「客人稲荷とは無関係」とのこと。

前住職が持ち込んだもので、「氏素性、謂れが全く不明」だということでした。

 *次回更新日は、9月5日です。

≪参考図書≫

 ◇台東区教委『台東区の歴史散歩』昭和55年

 ◇石田良介『谷根千百景』平成11年

 ◇和田信子『大江戸めぐりー御府内八十八ケ所』2002年

 ◇森まゆみ『谷中スケッチブック』1994年

 ◇木村春雄『谷中の今昔』昭和33年

 ◇会田範治『谷中叢話』昭和36年

 ◇工藤寛正『東京お墓散歩2002年』

 ◇酒井不二雄『東京路上細見3』1998年

 ◇望月真澄『江戸の法華信仰』平成27年

 ◇台東区教委『台東区の歴史散歩』昭和55年

 ▽猫のあしあとhttp://www.tesshow.jp/index.html