石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

136 目黒不動の石造物 ⑱ 本堂前灯籠、境内西側不動明王文字碑

2018-10-28 09:11:51 | 寺院

本堂前に一対の灯籠。

高さ3m15cm。

胴部上部に「奉献」、下部に「武州江戸住/柏屋平兵衛/同五兵衛」の刻銘がある。

目黒不動尊では、石造物の移動がしばしば行われ、境内の様子は時代とともに様変わりしてきた。

『郷土目黒NO3』に「境内内外の金石物とその考察」を書いた関正二氏は、この灯籠は、以前は本堂裏の大日如来前にあったと言う。

しかし、私には、とてもそうは思えない。

そう思えない理由が、灯籠そのものに読み取れるからです。

それは、灯籠台石に見られる盃状穴の数々。

盃状穴は、誰がどんな目的でほったのか、これといった文献もなく、不明なのですが、明治から大正年間くらいまで、日本各地で行われた民間信仰の一つ。

ムラの広場や社寺の門前の石造物に盃状の穴をあけることで、幸せを祈願するというような。

私は、何度か、このブログでも盃状穴を取り上げてきましたが、(NO44,45,55,56,58.60)それで分かったことは、盃状穴はどの石造物にもあるものではない、ということ。

神社なら鳥居の前、お寺なら山門前の石造物に限られるのです。

お地蔵さんや観音さん、道祖神や庚申塔、宝篋印塔や鳥居など、聖なる石造物の一部を毀損するわけですから、神主や住職が認可するわけがない。

しかし、門前のものについては、黙認していたのでしょうか、どこでも当たり前のように、見られます。

と、なると、この本殿前の灯籠は、以前は、山門前のどこかにあったと考えるのが自然です。

本殿裏の大日如来は、目黒不動尊の聖地ですから、そこで、トンカントンカン、台石に穴をあけていたとは、信じられません。

 この灯籠の造立年は、宝暦三年(1753)であることは、銘から明らかです。

しかし、本殿に向かって右の台石には、「安政六己未年五月/再興/芝片門前/太田源四郎」とあり、4年前の安政2年の大地震によって破損した灯籠を修復したことが読み取れます。

更に、この再興者、太田源四郎なる名前は、本殿に向かって左側、境内西側の石造物群の中にも見られます。

台石5段の「不動明王」文字碑。

石像の不動明王ばかりの中で、文字碑は珍しい。

左面に「文政三年辰三月建之」とあり、台石最下段には「安政六己未年五月/再興/芝片門前/太田源四郎」と本殿前灯籠と全く同じ銘が彫られている。

安政大地震で、「不動明王」文字碑のどこがどのように壊れたのかははっきりしないが、修復、再興したことは確かのようだ。

なお、蛇足ではあるが、女坂下前の宝篋印塔にも「安政六己未年五月/再興/芝片門前/太田源四郎」の銘があります。

 

 

 

 


136 目黒不動の石造物 ⑰ 男坂上の都内最古の狛犬

2018-10-21 08:23:28 | 寺院

男坂を上がって、台地の上の境内へ。

崖の上下に境内が2層になっているのが、目黒不動の特徴です。

男坂を上がった右側に、百度石。

石仏巡りをするようになって、百度石には、何回もお目にかかっているが、実際にお百度を踏む姿を見たのは、一度だけ。

まるで、時代劇のワンシーンの様でした。

その百度石の前におわすのが、どっしりと座す狛犬さま。

この狛犬が凄い。

なにが凄いといって、とにかく都内最古の狛犬なのです。

石仏巡りをするようになって、誰もが陥る性癖は、古いものを有難がる癖。

都内最古なんていうレッテルは、それだけで痺れそう。

狛犬は、タイプ別に分類されるが、これは「江戸始め」というタイプだとか。

胸に彫られている銘は

「承応三甲午三月二十二日(1654)
  奉納 亀岡久兵衛正俊
 不動尊霊前 唐獅子二匹」

とあるから、確かに「江戸はじめ」。

造立後、370年近く、雨風にさらされいるというのに、古さを感じさせない。

博物館で保存されるべき石造物が、野ざらしで、触ることができるのだから、ありがたい。

奉納日の3月22日は太子講の日。

太子講は、曲尺を広めたといわれる聖徳太子を信仰する職人の集まりの日です。

大勢の石工の厳しい目にさらされることを覚悟の上、わざわざ太子講の日を撰んで、獅子狛犬を披露し、かつ奉納するのだから、久兵衛には、よほどの自信があったと思われます。

ところで、この江戸最古の狛犬には、そっくりな双子の兄弟がいることをご存知でしょうか。

下の写真が、双子の弟の「阿」像です。

男坂上の江戸最古狛犬の「阿」像と見比べてください、そっくりです。

弟のいる場所は、目黒駅から下る行人坂途中の寺、大円寺。

写真でも分かるように、弟は、なぜか、頭だけの姿で残されています。

で、肝心の胴体はどこにあるかというと、なんと目黒不動にあるのです。

場所は、独鈷の滝上の崖地スロープ。

目視にはやや遠くて、見つけにくい上、私のカメラでは望遠機能が貧弱で、写真を取れず、お見せ出来ません

この「大発見」をした日本参道狛犬研究会の報告によれば、その首無し胴体の胸には「奉献 不動尊前/江戸中橋南槇町亀岡久兵衛」、左足に「承応三年」、右足に「三月廿二日」と彫られているのだそうです。

亀岡久兵衛は、承応三年三月、太子講の日にそっくりな獅子狛犬2対を目黒不動尊に奉納したのでした。

なぜ、そんな手間のかかることをしたのか。

手掛かりは、石質と亀岡家の役職にあると推理します。

2対の狛犬は、そのフォルムはそっくりながら、坂上狛犬は、小松石、大円寺狛犬は伊那石と石材が異なることが報告されています。

江戸の石工を束ねる石切り方肝煎の亀岡家は、江戸城普請に当たり、その石材を伊豆に産する小松石に求め、船で江戸に運びました。

明暦の大火がまだくすぶっている時、亀岡家では何人かの手代に2000両という大金を持たせて、伊豆に派遣、小松石を買い占めさせたと伝えられています。

江戸再興に大量の石材の需要があると見越してのことでした。

石材の供給源は、伊那石にも求められて、亀岡家では、小松石と伊那石を扱う石工職人が混在していました。

目黒不動に狛犬を奉献しようと思い立った亀岡久兵衛正俊は、配下の、小松石派と伊那石派の石工職人に同じ図面を与えて競作させた、のではないかと私は思うのですが、どうでしょうか。

 

実は、亀岡久兵衛の名は、参道脇の水船、男坂の石垣寄進碑などで、これまでも散見してきた。

目黒不動尊に、亀岡家寄進の石造物はどれほどあるかというと、なんと11か所もあるのです。

1、承応3年(1654) 亀岡正俊献納 狛犬
2、万治3年(1660) 従五位上藤原勝隆奉献 石灯籠
3、寛文7年(1667) 御橋 正俊寄進
4、天和2(1682)  亀岡政房寄進 水船
5、元禄12年(1699) 亀岡政郷寄進 男坂石垣
6、寛延3(1750)  垢離堂
7、天明8(1788)  瀑場敷石
8、寛政8(1796)  役行者小角像
9、享和元(1801)  女坂土留石垣修復
10、天保3(1832)  男坂玉垣
11、天保5年(1834) 女坂土留石垣修復
             (都築霧径「目黒不動尊と亀岡久兵衛正俊/同久兵衛政郷」『郷土目黒NO9/昭和40年』より転載)

亀岡久兵衛正俊は、承応3年(1654)に初めて目黒不動尊の狛犬に、寄進者として名前が出ます。

既にその時、彼は、江戸の石工を束ねる頭としての要職にありました。

職人としての石工を束ねるだけでなく、石材の発掘、運搬、販売も手掛け、商売人としても急成長を遂げていました。

では、亀岡久兵衛正俊とはいかなる人物なのか。

この疑問に答える資料は、皆無、正俊像は不明のままです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


136 目黒不動の石造物 ⑯ 男坂

2018-10-14 08:30:35 | 寺院

 山門を入り、参道を進んで、右へ。

境内を右から左へ石造物を見て回り終えた。

男坂を上がって、本堂のある上の境内へ移動する。

 

石段を上るのは苦手だが、眺める分にはかまわない。

目黒不動の男坂は、スキッとした姿形が素晴らしい。

男坂下、右側の石垣にはめ込まれている石板には、

「奉寄進石垣
 亀岡久兵衛政卿
 元禄十二(1699)己卯年九月弐拾八日」とある。

石段とは書いてないが、石段は石垣に含まれるのではないか。

亀岡家は、目黒不動のメインスポンサー。

いろんな石造物の寄進者名に「亀岡」の名が見られる。

亀岡家については、男坂上、都内最古の狛犬の項で詳述します。

石垣の両側の玉垣には、普通、講中の名前が刻されているものだが、この寺ではちょっと違う。

なんとお経が刻まれているのです。

男坂下の道標に、「男坂 経につつまれ 不動心」とある意味が、これで分かる。

石段の一番下、右に、まず「佛説聖不動経」とお経の名前が。

 お不動さんをお参りするならば、真言とこの不動経を、唱えればいいのだそうだ。

お経の中でも短い方で、漢字102文字、唱えても1分もあれば十分という短さ。

次の経文は、石段の左側、左右交互に進んでゆきます。

この時大会に 一人の明王あり

この大明王は 大威力あり

大悲の徳の故に 青黒の形を現じ

大定の徳の故に 金剛石に座り

大いなる智慧の故に 大火焔を現したまう

大智の剣を執って 貪瞋痴を害し

三昧の索を持して 難伏の者を縛す

無相の法身は 虚空と同体なれば

その住む処なく ただ衆生の

心想の中に 住したまう 衆生の意想は

それぞれ不同なれば 衆生の心に従って

しかも利益をなし 所求円満せしたまう

その時 大会は この経を説きたたうを聞き

皆、大いに歓喜し 信受し奉行せり

ぶっせつしょうふどうきょう

これで仏説聖不動経は、終わり。

次の4本は、お経ではなく、山岳修行者の山伏の決まり文句。

我が身を見れば 菩提心を発し

我の説くを聴けば 大智慧を得る

 我が名を聞けば 惑いを断じて修善をなし

我が心を知れば 即身成仏す。

 

 

 

 

 

 

 


136 目黒不動の石造物 ⑮ 腰立不動、北向き地蔵他

2018-10-07 08:28:22 | 寺院

境内の西の端は、腰立不動堂。

腰立不動とは初めて。

先行ブログには「立身出世のお不動さん」とある。

堂の上部に「腰立不動由来」が掲げてある。

腰立不動由来…

『山不動。

 妙なる力に
 おこされて
 二度世に立
 不動尊
 かめの祝の
 末広く
 朝日ののぼる
 みごとさで
 東都のつどい
 善男女
 すくいとらすぞ
 妙なる力
 昭和32年12月15日」

堂前から振り返って写真を撮ったら、なんとも奇妙な写真が撮れた。

心霊写真かな。

右端の男は、自分のようでもあるし、そうでもないような。

白くかすんだ中の景色は、左右が逆転している。

 

西塀を背にして、寛文年間造立の墓標が1基、ポツンとある。

墓地ではなく、境内にあるのは、何か特別な意味がありそうだが・・・

「禅定尼」の戒名とともに「夢幻童子」の戒名も見える。

江戸期、子どもの戒名としては珍しくはないが、素敵な戒名だといつも感心する。

 

そして、六地蔵。

南面を背に、北を向いておわす。

仏は南向きで、拝む信者が北向きに座すのが普通だからその反対となる。、

お地蔵さんは、仏の身ながら、人々救済のために、菩薩のままでいらっしゃる。

だから人々と同じ立ち位置、すなわち、北向きに座しているというのが、北向き地蔵の意味だと思っていたが、ここの北向き地蔵は、違う意味合いの様だ。

立て看板に、こうある。

「北向き六地蔵尊。
 地蔵菩薩の浄土伽羅陀山は南方にあり、南を向いて地蔵菩薩を祈れば、直ちに浄土を発し、人々のいる北に向かって救いに来て下さるので、北を向いています」

 

下の写真は境内西端から仁王門方向を見た光景。

左に青木昆陽、北一輝碑があり、右に北向き地蔵がおわす、そういう位置関係。

何か所か、1,2本の樹木を石で囲ったサークルがある。

一番西端のサークルには、馬頭観音立像が、そしてその隣には、馬頭観音文字碑がある。

いずれも新しい。

わざわざ馬頭観音像を発注して、なぜ、ここに安置したのか。

不思議に思って、社務所で訊いたら、この辺りはイベントの際、駐車場になるそうで、交通安全祈願のため馬頭観音を設置したのだとの説明でした。

そして、下の境内最後の石造物は、馬頭観音隣におわす恵比寿さま。

目黒不動・瀧泉寺は、山手七福神のうち恵比寿さまをお祀りする場所なのです。