本堂前に一対の灯籠。
高さ3m15cm。
胴部上部に「奉献」、下部に「武州江戸住/柏屋平兵衛/同五兵衛」の刻銘がある。
目黒不動尊では、石造物の移動がしばしば行われ、境内の様子は時代とともに様変わりしてきた。
『郷土目黒NO3』に「境内内外の金石物とその考察」を書いた関正二氏は、この灯籠は、以前は本堂裏の大日如来前にあったと言う。
しかし、私には、とてもそうは思えない。
そう思えない理由が、灯籠そのものに読み取れるからです。
それは、灯籠台石に見られる盃状穴の数々。
盃状穴は、誰がどんな目的でほったのか、これといった文献もなく、不明なのですが、明治から大正年間くらいまで、日本各地で行われた民間信仰の一つ。
ムラの広場や社寺の門前の石造物に盃状の穴をあけることで、幸せを祈願するというような。
私は、何度か、このブログでも盃状穴を取り上げてきましたが、(NO44,45,55,56,58.60)それで分かったことは、盃状穴はどの石造物にもあるものではない、ということ。
神社なら鳥居の前、お寺なら山門前の石造物に限られるのです。
お地蔵さんや観音さん、道祖神や庚申塔、宝篋印塔や鳥居など、聖なる石造物の一部を毀損するわけですから、神主や住職が認可するわけがない。
しかし、門前のものについては、黙認していたのでしょうか、どこでも当たり前のように、見られます。
と、なると、この本殿前の灯籠は、以前は、山門前のどこかにあったと考えるのが自然です。
本殿裏の大日如来は、目黒不動尊の聖地ですから、そこで、トンカントンカン、台石に穴をあけていたとは、信じられません。
この灯籠の造立年は、宝暦三年(1753)であることは、銘から明らかです。
しかし、本殿に向かって右の台石には、「安政六己未年五月/再興/芝片門前/太田源四郎」とあり、4年前の安政2年の大地震によって破損した灯籠を修復したことが読み取れます。
更に、この再興者、太田源四郎なる名前は、本殿に向かって左側、境内西側の石造物群の中にも見られます。
台石5段の「不動明王」文字碑。
石像の不動明王ばかりの中で、文字碑は珍しい。
左面に「文政三年辰三月建之」とあり、台石最下段には「安政六己未年五月/再興/芝片門前/太田源四郎」と本殿前灯籠と全く同じ銘が彫られている。
安政大地震で、「不動明王」文字碑のどこがどのように壊れたのかははっきりしないが、修復、再興したことは確かのようだ。
なお、蛇足ではあるが、女坂下前の宝篋印塔にも「安政六己未年五月/再興/芝片門前/太田源四郎」の銘があります。