石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

126成田街道の石造物ー20-(成田市の2)

2017-02-11 06:41:27 | 街道

 (ご報告ーこれまで5日おきに、当ブログを更新してきましたが、住居移転の騒ぎで、落ち着いてパソコンに向かうこと能わず、しばらく更新をストップします。4月中、遅くとも5月には、再開する予定です。2017-02-16)

 

駅前広場から参道へと入る。

参道を歩き始めるとすぐ左にあるのが「大師堂」。

門柱に「安心立命」と大書してある。

新勝寺にも大師堂がある。

関係があるのかないのか、ネット検索してみたが、分からなかった。

玉垣(寺でも玉垣でいいのだろうか)がなんとなく味があって、いい。

大師堂の先、左に墓地があって、「南廟霊園」との表札がある。

入るとすぐ、弘法大師が2体座していて、その隣には六地蔵が、50cm前の塀に面して窮屈そうにお立ちになっていらっしゃる。

参道には、十二支の動物が一定間隔で置いてある。

新しい石造物で、ありきたりではあるが、「成田街道の石造物」と題してのブログだから、一応全部載せておきます。(重複するものは、カット)

今気づいたのだが、ウマがいない。

撮り忘れたのだろう。

十二支の傍らには、石のベンチ。

参拝観光客への配慮がうれしい。

やがて、道が二股に分かれて、参道は右の坂を下りてゆくのだが、その角左手にあるのが、薬師堂。

建物は、初代の新勝寺本堂。

お大師さまに交じって、如意輪観音が1基おわす。

江戸時代、ここ薬師堂前に高札場があって、いつも人だかりがしていた。

薬師堂の、参道を挟んで、向こうに立つのは、俳人三橋鷹女の銅像。

和服の小柄な女性が、きりりと立っている。

自筆の句碑はざらだが、出生地に立つ俳人の銅像は珍しいのではないか。

傍らの解説版に紹介されている代表作は、次の3句。

「夏痩せて 嫌ひなものは 嫌ひなり」
「白露や 死んでゆく日も 帯しめて」
「口中一顆の雹を啄み 火の鳥や」

急坂の「表参道開運通り」を下る。

昼食にウナギをと「近江屋」を覗くも満員なようなので、隣の「菊屋」へ。

うな重3800円なり。

成田山新勝寺に到着。

昔の江戸の人たちが、1泊二日で歩いて到着した行程を、なんと10回に分けて、その都度、板橋の自宅に帰り、出直すことを繰り返してやっとたどり着いた。

壮大な総門をくぐり、常夜灯が並ぶ参道を通り、仁王門へ。

さらに本堂を正面に見る境内までは、石段を上らなければならないが、その石段の両側にも無数の石造物が重なり合っている。

だが、取り上げない。

寺域内の石造物は、項を改めて、掲載するつもり。。

ただ、一点、石造物でもないのだが、注目しておきたい彫刻がある。

それは、釈迦堂裏の五百羅漢のうちの「らごら」像。

釈迦堂は、新勝寺の本堂だった建物。

建物後ろ側の回廊に、仏師松本良山が10年の歳月を要して刻した五百羅漢がござる。

目の高さより高い位置にあって、しかも目の細かい金網で全体が覆われているので、見にくいこと、この上ないのは、残念。

当然、撮影もしにくく、金網にレンズをくっつけて、フアインダーを覗かずに適当にシャッターをおす。

そうした撮影したのが、下の「らごら像」。

らごら尊師は、釈尊の長男。

十大弟子でも、十六羅漢でもあり、五百羅漢でもある珍しい羅漢だが、胸を開いてその中から仏が顔を出すスタイルは異彩を放っている。

フアインダーを覗けなかったので、顔の一部が欠けているが、ご愛敬というものだろう。

新勝寺に参拝に行ったときは、ぜひ、釈迦堂五百羅漢に「らごら像」を探してみてください。

 


126 成田街道の石造物(19)-成田市-

2017-02-06 07:09:47 | 街道

成田市に入って最初の目的地は、「不動塚」。

「公津の杜入口」の次の信号でR51と別れ、旧道は右へと分岐する。

次にR409と合流し、坂を下り、上ったところが並木坂上。

松並木が美しい坂だったのだろうが、その面影は、今は、皆無。

並木坂上を右折、300m程行くと、JR線にぶつかるのだが、不動塚はその曲がり角にある。

境内全体が工事中で、古い樹木は全部伐採されている。

丸裸のまま日差しに照らされて、宗教施設の厳かさはどこにもない。

不動塚の表札を付けた小屋がある。

ここが成田山新勝寺の不動明王が最初に鎮座した場所と言われている。

それを証するかのように「成田山旧蹟 不動塚之碑」がある。

十九夜塔の小堂の中には子安観音が、

そして工事のためだろうか、二十三夜塔の勢至菩薩が野ざらしのまま、まぶしそうに目を細めている。

 並木坂上まで戻って、北進。

R51と交差してさらにまっすぐ進む。

ここからは県道になる。

垣根が手入れされて美しい。

この辺り歩道が狭いうえに、下は下水が流れているのだが、その下水の蓋が滑らかなコンクリートで、実に歩きやすい。

通りの名前は「一本松通」。

まもなくその「一本松跡」の石碑がある三叉路に出る。

その名の通り、松並木のうちの1本だけが昭和51年まで残っていたのだそうだ。

今は、人の背くらいの小さな松が植えられている。

昔と同じ景色になるには、あと何年かかるのだろう。

聞くところによれば、往時、成田山参道の旅籠屋の客引きは、ここまで出張っていたという。

「一本松跡」の石碑の隣に立つのは、馬頭観音。

道標を兼ねていて「宗吾堂道」と刻されている(らしい)。

一本松通りを進む。

JRの踏切を過ぎ、

京成の高架橋を渡った左が不動が岡の不動尊旧蹟。

安政5年(1858)、新勝寺の本堂が完成、本尊不動明王が、先ほど寄った不動塚から移されることになったが、あまりにも距離が遠いということで、この地に仮の安置所を造り、入仏供養の行列はここから新勝寺へと向かったという。

右の覆屋には、4体の弘法大師。

境内には、「奉納永代護摩木山」の石塔が2基おわす。

「不動ヶ岡」という地名、弘法大師像や護摩木山碑、成田街道ならではの事物であり、成田山新勝寺が近づいていることを感じさせる。

成田街道は尾根筋を走り、右に京成、

左にJRを見下ろす形で進む。

急に行きかう人の数も多くなり、駅前に差し掛かったことが分かる。

駅前に着いたら、権現山に寄ってみよう。

権現山は、JR成田駅に向かって右、交番の後ろ、高い木が一本見える場所。

境内には、多数の石造物がひしめいて、石造物おたくには、たまらない場所でしょう。

成田の夏祭り「祇園祭」は、元々、この湯殿山権現社の祭でした。

湯殿山権現社の御祭神は、牛頭天王。

牛頭天王といえば、京都・八坂神社、八坂神社といえば、祇園祭、だから、成田の祭は祇園祭というのです。

権現山に入ると右にずらっと弘法大師座像。

「御膳料」や「護摩木山」の巨碑が何基も目に付く。

見上げるような宝篋印塔の台石には、びっしりと講中の名前が刻み込まれている。

巨大な石塔に交じって、小型の石仏もあって、ほっとする。

馬頭観音像は、なかなか素敵な像容。

文字青面金剛もある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


126 成田街道の石造物(18)ー酒々井町の2ー

2017-02-01 05:17:08 | 街道

これから後は、旧成田街道の道標の写真が続く。

ネタ元は「酒々井町の街道と道しるべ」。

https://www.town.shisui.chiba.jp/static/chunk0001/road_and_guidepost/index.html

市内39か所の道標を写真と地図、解説つきでまとめてある。

私は、この資料をなぞっただけなので、詳細はwebをご覧ください。

次の道標は、「ニ王ミち」から200mほど先の突き当りに。

ミラーの下に黒ずんであるのが、それ。

正面に2行「成田佐原道/宗吾安喰道」とある。

側面の「酒々井停車場」の「停車場」が懐かしい。

「停車場」ではなく「駅」を使うようになったのは、いつの頃からだろうか。

「さて、次はどこだろう」と右手を見たらすぐ先にそれらしい石柱が見える。

成田街道だったとは思えない幅の狭い、変哲のないつまらない道のカーブに道標はある。

10m背後は、R51。

行きかう車の音がうるさい。

道標は2行「佐倉千葉道/成田佐原道」。

背面には「七栄三里塚」とある。

「三里塚」とは、懐かしい。

なんでも「反対」ばかりの時代にあって、「三里塚」は反対闘争の先鋭的舞台の一つだった。

次の道標は不動尊が座して、「江戸時代の信仰、交通、彫刻、書体等の良き参考になる優品」として、町の指定文化財でもあるというので、探したが見つからない。

現地へ行って分かったことは、一山全体が住宅団地として開発されていること。

新しい入居者に道標を訊いてもわからないだろうと思い、地元の農家を訪ねて訊くのだが、反応は芳しくない。

「見たことがない」という返事ばかり。

諦めて帰って、ネットで調べたら、団地の公園のなかにあるのだそうだ。

この不動尊道標前の道を行きたかったが、分からないのでR51へ出て左折、最初の信号を右折する。

この信号の下にも道標がある。

電柱にもたれるように寄りかかり、電柱の陰で目立たない。

目立たない道標は困りものだが、碑文が読みづらいので、存在感があっても、無益だろう。

辛うじて「奉納仁王尊 さくら道」と読める。

今や、こうした道標を頼りに成田街道を歩く人はいなくなって、道標は石の廃棄物となった。

廃棄物と等しいものをこうして訪ね歩くことに何の意義があるのかと、自虐的に自問したりする。

この「大崎坂下道標」を右折して入る成田街道旧道が最も昔の雰囲気を保っている。

両側竹林のうす暗い坂道は「大坂」。

大阪に入る手前に、これも捨てられたような道標が横たわっている。

 正面に「成田山 信集構社内 岩田長兵衛」。

岩田長兵衛が成田街道に建てた5基の道標のうちの1基。

眼前には、初冬の下総がのんびりと広がって、背後の国道51号の騒音もここには、届いてこない。

急坂の途中に石段があり、見上げる高さに小堂がある。

小堂は観音堂のようで、馬頭観音が数基立っている。

みんな明治期に造立されたもので、中に2基「馬車連」の文字がある。

乗り合い馬車もさすがにこの坂はきつかったのだろう。

鼻息荒く踏ん張って上った馬を偲んで、わざわざこの地に供養塔を立てた男たちの優しい心が、ここには満ちている。

倒れたまま、半分土に埋もれた石碑があり、資料では、これが 「句碑道標」だとしている。

句碑と云っても「ああ楽ケりな」と読めるだけで、あとは土の下。

上部に「成田山へ一里二十三町」とあるから道標だったと分かるが、もちろん、今では無用の長物、土に還るのを待つばかりです。

坂を上ると国道51号と再び接する。

フエンスの向こうは、国道51号。信号で左折すると宗吾道に入る。右が旧街道。オレンジの看板から松並木が始まっていた。

その接点に石柱と木柱が立っている。

石柱は「宗吾道」と大書した道標。

木柱は「千葉県指定 成田道伊篠松並木」とある。

ここから国道51号線に寄り添うように走る旧街道は、かつては見事な松並木だった。

その松並木の入口を示す標柱なのだが、肝心の松は一本も見られない。

県の指定を受けた昭和43年には、江戸時代からの美観を誇っていた松並木だったが、昭和50年代に、松くい虫の被害で枯れ始め、県指定が町指定になり、ついには1本残らず全滅、町の指定も解除されるという悲惨な運びとなった。

全盛期の松並木街道の写真を、と探したが、酒々井町のHPで1枚見つけたのみ。

それでも街道をゆくと小柄な松が1,2本あるにはある。

道の両側にあれば、往時をしのぶによすがになるのに。

道の左の藪の中に石造物かある。

自然石に「成田山永代護摩木山 新榮講 板橋組」と刻されている。

護摩木山というのは、成田山で護摩を焚くのに使う木材を切り出す山林を指し、講集団が買い占め、奉納するのだという。

成田街道沿いに十数か所の護摩木山があるのだそうだ。

道標も2本。

1本は、3面に道案内がある。

正面は「東 成田山/宗吾社道」。

左面は「左 しすゐ/停車場道」。

右面は「西 酒々井/さくら道」。

裏面に「元禄元年起立丸万講/明治三十二年三月建立」とある。

もう1本の背の高い方は正面に「成田山」とあるのみ。

ただ下部に小さく「是より壱里余」とあるので、ここより先のどこかにあったものと思われる。

写真を撮るのに藪を漕いで近寄った。

初冬だから安心して入っていったが、夏だったら蛇が怖くて、とても近づけないだろう。

松のない松並木を進む。

やがてR51と合流するのだが、

その合流地点に「成田街道伊篠の松並木」の石碑がある。

R51と合流して50mも行かないで、今度は左へ分かれて入る。

電柱と舗装を除けば、江戸時代にそのままタイムワープできるそんな雰囲気。

街道脇のお地蔵さんにも同じことが言えそうだが、こちらは、排除しなければならない「現代的」なものが多すぎる。

私が気になるのは、田んぼの一枚の広さ。

昔はこんなに広い田んぼはなかった。

そして、また、R51と合流するのだが、旧道のカーブの仕方がなんともいえず、味があって、こたえられない。

51号の歩道を進むとまもなく、「成田市」の標識が見えてくる。

通り過ぎて振り返り、「酒々井町」の標識を探すが、なぜか、ない。

やっと成田市に入った。

ゴールは、近い。

次回、更新日は、2月6日です。

 

 

 


126 成田街道の石造物(17)ー酒々井町ー

2017-01-26 06:55:30 | 街道

「セーブオン佐倉本町店」は、コンビニ。

コンビニの角で分岐する道を右へ進み、コンビニの背後を回って再び成田街道(296号)と合流する。

合流地点は、もう酒々井町内で、合流すると今度は分かれ道の左が旧成田街道になる。(296号線は右へ進み、まもなく51号線と交差する)

        左、旧成田街道    右、国道296号線、

分岐して約1キロ、再び296号線と合流するのだが、その1つ手前の信号を左折、本佐倉城址へと進む。

右手に、地蔵と庚申塔の石仏群がある。

隣には、双体道祖神が肩を寄せ合っている。

下は、この根古谷石仏群から見た本佐倉城址。

中世戦国期、下総を統べた千葉氏の城がここにあった。

やみくもに城山へ入ってゆく。(2014年5月の写真)

手入れされないままの樹木や竹林で城址は惨たる有様。

注連縄を張った一画に、双体道祖神の写真が掲げられ、「現在、この双体道祖神は行方不明です」の注意書き。

ここなら、人目につくことは、まず、100%ないだろう。

石仏泥棒もしたたかです。

再び旧街道に戻り、R296と合流、すぐさま、分かれて左へ進む。

左からの旧街道は、R296に合流して左折、次の信号(ブルーの道路標識の右下に信号が小さく見える)を左折する。

旧成田街道と国道296号との、離れてはくっついて、の繰り返しはここで終わり。

296号の代わりに国道51号が、ここから並行して走り、合流しを繰り返します。

程なく右手に八坂神社が見えてくる。

狛犬が見えない。

狛犬がいない神社は珍しいのではないだろうか。

八坂神社のあたりは、かつての酒々井宿の中心地。

『成田参詣記』の「酒々井駅の図」の中央は八坂神社、その隣は中屋という旅籠屋で、なかなかの賑わいを見せているが、今はその面影は、どこにもない。

     八坂神社前から見た東方向の風景

八坂神社の脇道を入ってゆくと東光寺に出る。

いかにも寛文期の石仏らしい、大らかな大日如来と彫のいい青面金剛庚申塔がおわす。

   大日如来(寛文13年・1673)

   庚申塔(正徳元年・1711)

いずれも酒々井町の指定文化財です。

八坂神社に戻り、旧街道を東進する。

酒々井宿の痕跡はないと書いたが、1か所、生き残っている。

町の登録有形文化財である島田家住宅。

島田家は、江戸時代、幕府の野馬御用を務めた家で、広い敷地には、野馬を管理する施設がいくつもあったことが、明治27年の絵図に描かれています。

日本の地名の中でも「酒々井(しすい)」は、格別に素敵で、私は好きだ。

何か酒にゆかりがあるのでは、と誰もが思うに違いない。

まさにその通りで、地名の由来となった「酒の井」がある。

旧街道から50メートルの空き地に「伝説酒の井」の看板がある。

井戸があり、水が湧き出している。

井戸の傍らには、青いボタンがあって、「酒の井の音声案内をします」の表示。

「しゃれたことをするんだな」と思いながら、ボタンを押す。

女性の声で、ナレーションが流れる。

今は昔、この地に孝行息子が住んでいた。家は貧しく父母は年老いていたが息子は良く両親に尽くしていた。その父親は酒好きであったので、息子は毎日働いて銭を稼いでは父親に酒を買って帰っていた。息子は父親の満足そうでうれしそうな顔を見るのが一番の楽しみだった。だが酒を買う銭を稼ぐのは苦労なことだった。

この地には古い井戸があった。その日、息子は酒を買う銭がつくれず、このまま帰れば父親の楽しみを無くしてしまう、こんな親不孝はない、どうしようかと思案しながら家路を歩いていた。そのとき、あの井戸から酒の香りが「ぷうん」としてきた。息子は不思議に思いながら井戸の水を汲んでなめてみると、それは上質の酒だった。息子は喜び、急ぎ家に帰って父親に飲ませた。これより先、息子は無理に銭をつくらなくても、井戸から酒を汲んで飲ませるようになったという。この話しが近隣に広まると「孝行息子の真心が天に通じたに違いない」ということになった。後にこの井戸を「酒の井」と呼び、村も「酒々井」と呼ぶようになったという。

酒の井隣に墓域がある。

近寄ってみたら、墓標のほかに十七夜塔が1基、十九夜塔が4基あった。 

   十七夜塔(文政8年・1825)

         十九夜塔群

 

 

「酒の井」を後に、麻賀多神社を過ぎ、坂を下って、信号の下で迷っている。

どうやら、左に京成酒々井駅、右にJR酒々井駅、その中間地点にいるようだ。

手には、酒々井町HP「酒々井町の街道と道しるべ」のプリントアウトを持って、そこに記載された地図を見せながら、道行く人に「成田・岩名道蜀山人道標」のありかを訊くのだが、「わからない」、「知らない」という人ばかり。

不動産屋に飛び込んで、やっとわかったのだが、女子店員は、そこが旧成田街道であることは知らないようだった。

ちなみに、道を尋ねるときに見せた地図は、これ。

通りがかりの人たちに訊いたのは、地図の下部、三差路の地点。

今、改めて見ると地元の人間ならすぐ判りそうなのに。

不動産屋で教えられた道を行く。

行き止まりの三叉路に二本の石柱が立っている。

左の背の低い石柱には「ニ王ミち」とある。

これが、持参資料の「成田・岩名道蜀山人道標」。

銘は、蜀山人こと太田南畝の筆になるもの。

なぜ「ニ王ミち」かは、右隣の道標で判る。

背面に「此方内郷道」と刻されているが、内郷道は岩名道とも呼ばれ、佐倉市の岩名仁王尊への参詣路だったと 酒々井教委は解説しています。

       岩名仁王尊(佐倉市岩名)

道標の前には小堂があって、地蔵石仏が並んでいる。

人通りの多い街道にわざわざ建てられたものに違いない。

 

次回更新日は、1月31日です。

 

 


126 成田街道の石造物ー16ー(佐倉市佐倉)

2017-01-21 07:17:17 | 街道

「博物館入口」の信号を過ぎると、左に「巴屋菓子舗」。

その角を右折し、すぐ左折する。

ここが成田街道の再スタート地点となる。

いまどき珍しい茅葺の家がある。

江戸、明治の頃の、この界隈をイメージするよすがとして役立ちそう。

ここ田町は、旅人相手の店と城内の生活物資を担う商家が多かった。

どことなく往時の面影を残すこの道の印象を決定づけているのは、北方向の急坂。

「海隣寺坂」をやっとこさ上がる。

昔は、荷車の後押しを業とする者たちがいたのだそうな。

「さもありなむ」と一人頷く。

坂を上がると右に、町名と坂名の元となった「海隣寺」山門が見える。

境内に、寒念仏搭がぽつんとある。

市役所の一画にある墓地には、いかにも古そうな中世の宝篋印塔などの石造物が並んでいる。

本佐倉城の城主・千葉一族の墓。

台石に掘られた「阿弥」とか「阿」は、時宗の法名で、、例えば千葉昌胤の法名は、「法阿弥」です。(『成田街道いま昔』より)

市の文化財に指定されているこれらの石造物はきちんと補修されているが、その他の墓石は3.11地震で倒れたまま放置されている。

痛ましい。

もはや半分土中に埋もれかけた墓石もあって、「土に還る」とはこのことか、と、しばし,凝視する。

 新町方向に歩いていると左に朱色の旧式郵便ポストがある。

どうやら無人の廃屋らしい建物も、往時の面影を色濃く残して、絵になる光景を成している。

新町の三叉路を、成田街道は左折するのだが、直進して次の信号を右折、佐倉城址へ進む。

城への道が直線的ではなく、右左折を重ねるのは、城下町のパターン。

麻賀多(まかた)神社は、佐倉の総鎮守。

歴代藩主の篤い信仰に支えられてきた。

珍しい名前で、この地域にだけ18社しかないので、「十八麻賀多」というらしい。

境内には、恵比寿と福禄寿がいるが、これは、佐倉七福神の内の二神。

恵比寿さんの標柱には「なで恵比寿」とあり、「末社 疱瘡神社」とも表示してある。

恵比寿さんが疱瘡神と関わりがあるのだろうか。

その麻賀多神社から城へと進むとまず目に入るのが、大手門跡の石柱。

大手門の内側に武家屋敷が広がっていた。

佐倉城址が一見、城跡とは見えないのは、石垣がないから。

石垣の他の石造物もほとんど見られない。

わずかに、二の丸跡の正岡子規の句碑が、石造物といえようか。

「常盤木や 冬されまさる 城のあと」

明治27年(1894)、千葉県内初の鉄道として、総武鉄道市川・佐倉間が開通、新聞『日本』の記者として取材に来た子規が詠んだ一句。

もう一か所の石造物は、城の基礎石群。

歴博を建てる事前調査の段階で、発掘されたもの。

石造物ではないが、堀田正睦公の銅像は外せないだろう。

数多くの佐倉藩主のなかでも英明さは群を抜いていた。

幕末の幕府老中首座として、ハリスと交渉に当たったことは、よく知られている。

大手門跡まで戻り、坂を下りて、武家屋敷を観光。

華美さを排除した、いかにも武家屋敷といわんばかりの、質素な家屋に感心。

新町まで戻ろうと思い、観光協会作成の地図を広げたら、「下総まわたし宿百観音」が目に入ってきた。

「馬渡の旧街道沿いの小道を入り、石造りの階段を登ると、その両側に観音様が一列に並び立っています。全部で百体あるので、百観音と呼ばれています」と紹介されている。

JR佐倉駅の東で、ちょっと遠いが、石造物巡りが主旨のブログとしては、無視できない情報で、行って見ることに。

馬渡(まわたし)は、千葉と佐倉を結ぶ久千葉街道で、最も賑わった宿場。

閑散として、人通りのない道の傍らにこんもりとした林に覆われた山地があり、細い石段の小道が上へと延びている。

頭上に「下総まわたし宿百観音」の横書き看板。

入口右側に2基の庚申塔がある。

この辺りの庚申塔は、もはや作神であり、繁栄神だったから、宿場の弥栄を祈願して置かれたのだろう。

石段の両側に石仏が並んでいる。

右側には坂東三十三観音が、

そして、左側には、秩父三十四観音が並んでいる。

石段を上り切って右へ曲がると、両側に並ぶのが、西国三十三観音本尊群。

併せて百観音巡りは、当時、庶民が生涯成し遂げたい夢だった。

現実的には不可能な願望を、形だけでも達成したいとして設けられたのが、このミニ霊場巡り。

四国八十八か所や西国三十三観音霊場、秩父三十四か所札所巡りのミニチュアは、全国どこにでもあるが、百観音霊場となるとかなり珍しい。

しかし、信仰心からミニ霊場を訪れる人は、もはや、絶無。

私のような石仏愛好家が時おり来るだけのようで、石段には、杉の落ち葉が積み重なって、人が通った跡がない。

市内へ戻ろうと歩き始めたら、すぐそばに神社があるのに気付いて、立ち寄ってみる。

鳥居と石段の間の両側に石塔が並んでいる。

左側には、「秩父三十四番と善光寺参拝記念塔」が、

右側には「出羽三山参拝記念塔」が列を成している。

その左右の違いは、百観音の並び方そっくりで、どっちかが真似たのではないか。

付け加えれば、左側の記念塔には、女性の名が、右側には、男性の名が刻まれている。

二十三夜で男たちが集まれば、十九夜には、女が集う。

男が出羽三山へ行くのなら、女は、秩父から善光寺へと足を延ばす。

男女格差は、想像以上に少なかったのです。

 

再び、市内に戻って、新町通りへ。

 地図上、お城は左方向にあるのだが、新町通りを右(成田方向)から来て、左折して右折する、ジグザクになっているのは、城下町の特色。

通りに面して、220年前の呉服屋の建物があったりして、時代の古さが漂っている。

おはやし館の前庭には、高札場が復元されていて、高札がかかっている。

「人たるもの 五倫の道を正しくすべき事」。

おはやし館からすぐ先を左に入ると佐倉城主堀田家の菩提寺・甚大寺がある。

ちょっと奥まった墓所に堀田家累代の墓がゆったりと並んでいる。

全景が撮れないほど、一人ずつの墓が大きい。

城址があって、歴代藩主の墓がある。

歴史のある町はいいな、とつくづく思う。

ただ佐倉は、坂が多いのが、私にとってはマイナスだが・・・

成田街道へ戻り、東進。

本町交差点手前に、佐倉順天堂記念館がある。

佐倉の観光名所ではあるが、石造物は皆無なので、パス。

本町を左折して、神明社に寄り道する。

神社のある町名は「大蛇(おおじゃ)町」。

「だいじゃ」ではないから救われるが、それにしてもおどろおどろしい。

鳥居の前に石造物群。

大日如来の立像がひときわ目を引く。

祠がある。

のぞいてみたら「蛭子大明神」だった。

「えびす」ではなく「ひるこ」と読むのだそうだ。

街道に戻る。

「昌栢寺」を過ぎるとすぐ右にコンビニが現れる。

コンビニを挟んで道は二股に分かれ、その分岐点に地蔵が2体忘れられたように身を寄せ合っている。

背の高い方は、延享5年(1748)の造立。

墓標ではないから、道中安全祈願か。

旧道は、右の坂を下りて行ったようだ。

下ったと思ったらすぐ上りはじめ、合流する。

もうそこが酒々井町。

酒々井町に入るとすぐ道は分岐して、成田街道は左へ。

次回更新日は、1月26日です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


126 成田街道の石造物ー15ー(佐倉市・臼井地区-2)

2017-01-16 08:00:34 | 街道

臼井城址公園から坂を下れば、中宿へ出るが、他に寄りたいところもあるので、手繰坂下まで、一挙に戻ることに。

 

地図中央の山本店装の上方に三叉路がある。

下から突き当たっているのが、旧街道。

右へ曲がれば中宿へ行くのを左折して、実蔵院ー星神社ー臼井城址へと進んだ。

今度は、まず三叉路まで戻り、さらに下へ。

地図を上にずらすと金子塗装が見えてくるが、その右が旧街道でホワイトハイムまでが,手繰坂。

今回は、手繰坂から分岐して右へ入り、妙覚寺を目指す。

現地へ行かない人に地図と言葉で行き先を提示してもさっぱり伝わらないことは、みずからの経験でよく理解している。

無意味だとは思いながらも、つい。

子供たちの嬌声が聞こえてくると思ったら、幼稚園の運動会だった。

その幼稚園を経営しているのが、目的の妙覚寺。

◇日蓮宗長谷山妙覚寺(白井台1201)

妙覚寺の創建は、長享2年(1488)、開山・日泰上人は士気東金の領主を教化してすべての寺院を日蓮宗に改宗せしめた、いわゆる「上総七里法華」の仕掛け人として有名。

妙覚寺には、名力士雷電為右衛門の墓がある。

雷電の勝率は、なんと96.2%。

現役34場所中25回優勝という怪物だった。

墓があるのは、夫人の出身地が臼井だったから。

高さ2.77mの仙台石に、春川春英が描く等身大の化粧まわし姿が刻され、佐久間象山の筆になる「天下第一流 力士雷電之碑」が配されている。

裏面には、「雷電為右衛門はここ臼井のひとを娶りたるえにしにより、この地を愛し、此処に眠る。没後153年の命日に因みて、その偉容を等身大に刻み、もって顕彰の碑となす」とある。

坂道をだらだら上ってゆくと大名宿の道にぶつかる。

右折して、台地の先端に寺がある。

◇日蓮宗暁慶山妙伝寺(臼井台31)

朱色の鐘楼門が目を惹く。

石碑が2基並んでいる。

左は「妙正大明神」。

市川市の妙正寺に発する日蓮宗系の疱瘡神とされている。

右は、享和2年(1802)造立の「天神社」だが、側面と裏面に10人の名前が刻されているのが、変わっている。

境内から、印旛沼が一望できる。

左前方の出っ張りが、臼井城址のある舌状台地。

傾斜のきつい坂道を降りて、左折、住宅地の中に寺がある。

◇真言宗豊山派・稲荷山常楽寺(臼井田877)

山門を入ると、剣を浮き彫りにした石塔がある。

見なれない石造物なので、佐倉市の文化財担当者に問い合わせたら、「謂れは不明だが、本尊の不動明王と関係あるのではないか」との返答だった。

境内の一画に石塔群があり、十九夜塔や秩父供養塔などに混じって「武州野島地蔵尊」なる線彫地蔵がある。

ネット検索して調べたら、浄山寺(越谷市)の子育て地蔵として有名な「野島の地蔵」さんであると分かった。

平安時代前期作とみられる木像地蔵尊は、今年(2016年)、国の重要文化財に指定されたばかり。

246号に出て、左へ行けば、中宿だが、反対の右方向へ向かい宗徳寺へ。

◇曹洞宗長谷山宗徳寺(臼井台1177)

成田街道に面している。

本尊は、般若船観世音菩薩。

聞きなれない観音さまで、『日本石仏図典』にも載っていない。

「八臼烏供養塔」があり、黒御影の石碑には、次のような説明がある。

當山は、天明三年(1783)三月十五日祝融(火災)にあい諸堂すべて焼失しました。その時、鳴いて急を告げたのが、八臼烏であります。この供養塔を建立し、山門の火盗消除、安寧を祈念いたします。
                        平成十七年三月吉日
                              三十二世 雲外岩雄 合掌

「八臼烏」とは、あの「烏八臼」のことだろうか。

それにしても、「急を告げる烏」とは初耳。

住職に電話で訊いてみた。

住職が理解する「八臼烏」は、日本神話に登場する「八咫の烏」のようで、墓標の上のマークである「ウハッキュウ(烏八臼)ではなさそう。(*「烏八臼」については、このブログNO12「謎の烏八臼(ウハッキュウ)」をご覧ください。)

曹洞宗寺院なので、もしかしたらと墓地を探すも「烏八臼」はない。

同じ字の組み合わせでも概念が違うようで、ちょっとキツネにつままれたような気分。

宗徳寺を出て、街道を左へ。

突き当たった三叉路が、臼井宿の中心地中宿。

往時の賑わいの片鱗も今はない。

 『成田名所図会』(安政5年・1858)の臼井宿

高札場のあった場所に、わずかに、道路元標と「明治天皇臼井行在所」と刻する石柱があるのみ。

中宿を右折して行くと、あのMrジャイアンツの生家があるが、個人情報だとかなんだとか、うるさいご時世なので、見て見ぬふり。

京成線の踏切を超えると、また、三叉路が。

そこに2基の道標と六十六部廻国塔がある。

背の高い道標は「西 江戸道」とあり、文化3年(1806)、品川の商家によって建てられた、と説明板には書いてある。

背の低い方は、「さくら道」。

成田道になる前は佐倉道と呼ばれていたので、背の高い道標よりは、古いと見られている。

「大乗妙典六十六部日本廻国搭」は、志し半ばで、この地で亡くなった六十六部の供養塔だろうか。

 やがて左に京成線が並行して走り、「成田街道」の標識がある。

道路前方に茂みに覆われた台地が現れる。

薄暗い坂道が、八丁坂。

左に題目塔があって、背後に空地が広がっている。

ここは、佐倉藩の刑場跡地で、題目塔は、処刑者の供養塔。

佐倉藩は蘭医の活躍が目覚ましかったが、彼らの解剖は、刑死者の遺体で行われた。

296号線をひたすら歩く。

歩道が狭くて、歩きにくい。

台地を下ると前方に見えてくるのが、佐倉城址。

鹿島川にかかる鹿島橋の袂に小屋があって、中にお地蔵さんがおわす。

鹿島地蔵は、宝暦5年(1755)に建立された。

鹿島川は、しばしば氾濫して、橋が流失することも珍しくなかった。

寛延2年(1749)の洪水では、2週間も水が引かず、通行禁止が続いた。

お地蔵さんは、洪水時の不慮の溺死者を悼む供養塔だと言われている。

 

橋を渡れば、もう佐倉。

ここまでは、佐倉街道でもあり、成田街道でもあった道は、ここから、純粋の成田街道ということになります。

 

 

次回更新日は、1月21日です。

≪参考図書とwebサイト≫

 〇湯浅吉美『成田街道いま昔』成田山仏教研究所 平成20年

 〇山本光正『房総の道 成田街道』聚海書林 昭和62年

  〇川田壽『成田参詣記を歩く』崙書房出版 平成13年

 ▽「成田街道道中記」

 http://home.e02.itscom.net/tabi/naritakaidou/naritakaidou.html

 ▽「百街道―歩の成田街道http://hyakkaido.travel.coocan.jp/hyakkaidoippononaritakaidou.html

 ▽「街道歩き旅 佐倉・成田街道」

 http://kaidouarukitabi.com/rekisi/rekisi/narita/narita.html

 

 

 

 

 

 

 


126 成田街道の石造物ー14ー(佐倉市・臼井地区-1)

2017-01-11 08:40:02 | 街道

臼井台という町名で判るように、臼井宿は台地の上にある。

私は電動自転車で台地へ上ろうとしたが、途中で断念、押して上がった。

なぜ、そんな台地に宿場はあるかというと、台地の突端は天然の要塞で、城を構えるには最適地だったから。

        臼井城から印旛沼を望む

城が台地にあれば、城下町も必然的に台地に展開する、というわけ。

坂を上がり切った地点の右側に、植木に隠れて、庚申塔がある。

◇手繰坂上の庚申塔(佐倉市臼井台長谷津1141)

道路にではなく、人目を避けるようにあるのはなぜか、不思議に思ったが、元はここには地蔵堂があったんだそうだ。

手繰坂を上りそのまま進む。

両側は民家だが、農家ではなさそうだ。

大体、広い農地が台地にはない。

農家ではないとすると、何を生業としているのだろうか。

かつては、武家だったことは、間違いなさそうだが。

道が突き当たる丁字路に道標がある。

◇大名宿丁字路の道標(臼井台150付近)

正面に「右成田ミチ」、右側面は「左江戸みち」、左側面「西さくば道」、裏面に「文化三丙寅(1806)正月二十八日 新吉原仲之町 伊勢屋半重涼宿大田屋」と刻されている。

元は「さくら道」だったものが、成田詣が盛んになるとともに「成田道」へと呼ばれるようになる。

その変化は、丁度、この道標が建てられた文化、文政の頃だったと言われています。

成田道は、ここを右へ曲がるのだが、私は、反対の左方向へ歩を進める。

坂を下らず、右方向へ。

寺の山門への分岐点に道祖神が、しっかとおわす。

◇真言宗豊山派・大澤山実蔵院建徳寺(臼井台217)

山門前の参道の右側に石仏が10基ならんでいる。

ほとんどが如意輪観音。

十九夜塔ではなくて、墓標のようだが、はっきりしない。

船橋市と八千代市には、市内の石造物の悉皆調査報告書があるので、随分お世話になった。

しかし、佐倉市には、そうした刊行物は、いまのところ、ない。

分からないものは、分からないまま進まざるをえない。

明らかに十九夜塔と思われるものが、1基、参道左にいらっしゃる。

明治36年(1903)、当寺の山口住職は、農家の指定に中等教育を授けるべく、私立明倫中学校を、寺内に創立した。

         「明倫中学跡」碑

「明倫中学校歌」碑がある。

一番の歌詞だけ、転写しておく。

平田萬里北総の 印旛湖畔の健男児
胸に久遠の理想を秘して 俯仰天地に側ちつ
春はうそぶく花の下 夏はオールの音楽し
秋の教義は熱血躍り 冬は琢磨の窓に生く
時は流れて人去れど 純美崇高極みなき
不滅の抱負は永劫無窮 行く手は遠く廣くとも
かくてぞ我等は奮闘努力 かくてぞ織りなす心の錦

実蔵寺を左に樹々に覆われてうす暗い坂を下りると集落がある。

道の三叉路に子安観音がおわす。

◇路傍の子安観音道標(臼井台342)

子安観音像の台石正面右に「安政四丁巳(1857)八月吉日」、正面中央にに「右ハさくら、左くすのき」とあり、左右の側面には施主名9人の名前が彫ってある。

子安観音が道標を兼ねる例は、極めて珍しいように思う。

畑にほうき草が、陽の光を浴びて、朱色に輝いている。

この低地からまた緩い坂を上ると鳥居がある。

◇星神社(臼井田1080)

星神社の前身は、妙見社。

千葉家の臼井六郎常康が永久年間(1113ー1118)に臼井城に居を構えた時、守護神として建てたのが、臼井妙見社。

妙見は、北極星を神格化したもので、千葉氏一族の神。

千葉市中央区の千葉神社の祭神も、当然、妙見です。

ここの臼井妙見社は、明治の神仏分離令で、星神社と改名された。

小堂があって、子安さまが祀られている。

野ざらしではないのは、珍しくはないが、数はごく少ない。

出羽三山供養塔と秩父善光寺巡礼搭が混在している。

女人禁制の出羽三山には男性だけの集団が、一方、秩父札所巡りは女性の集団が組まれるのが通例でした。

それなのに、ここの出羽三山供養塔には、女性の名前も書かれている。

昭和49年(1974)と昭和51年(1976)の2搭がそうであることから、この頃から、壮年から老年になる男性の通過儀礼としての三山参りが変質してきたことになる。

それでも現地、出羽三山の女人禁制は厳格に守られているようで、宿坊に泊まっても山への参拝は女性はしないのだそうです。

星神社から臼井城址へ向かう。

途中、星神社からの道が突き当たる丁字路の左に石段があり、墓がある。

◇太田図書の墓(臼井田城内)

太田図書の墓と刻書されている。

太田図書が何者であるか、即答できれば日本史通だろう。

もちろん、私は知らなかった。

太田道灌の弟で、文明11年(1479)、兄とともに臼井城攻略に参戦、討ち死にした。

こんな供養塔を建てるだけの人物なのか、私にはわからない。

恥をさらせば、私は「としょ」で変換していたが、「ずしょ」と読むのだそうです。

 丁字路を右折、臼井城址へ。

◇臼井城址(城址公園)

城址は、今、公園になって、何もない原っぱが広がっている。

石造物は、皆無。

記念碑も顕彰碑も句碑も石段も、石造物は何もない。

気持ちいいくらい、ない。

奥に行くと切り立った丘の上に出る。

白井台地の東のはずれで、西から東へ突き出たこうした舌状台地は、城建造の最適地だった。

眼下の眺望がいいことは、敵勢把握に利した。

と、いうことは、印旛沼の眺望にも適しているということ。

「臼井八景」の一つに「城峯夕照」がある。

 「名勝臼井八景」http://www.catv296.ne.jp/~hachiman/usuihakkei.htmより借用

「いく夕べ 入日を峯に送るらん 昔の遠くなれる古跡」と詠んだのは、臼井城主の子孫、臼井秀胤。

城址公園を後に中宿に向かうと間もなく、左に「古峰神社」と「道祖神社」がある。

  左,古峰神社          右、道祖神社

道祖神は数多いが、こうして社を構えた道祖神社は多くない気がする。

道路を挟んで反対側、竹林の中に石段が伸びて、その両側に石造物が立っている。

◇臼井城櫓台跡の石造物群(臼井市869付近)

出羽三山供養塔が一番多い。

富士講中が造立した碑が、2基。

1基は、「富士仙元宮 三国第一 文久壬戌(1862)九月吉日」とあり、

もう1基には「富士浅間大神」とある。

十三夜塔がある。

珍しい。

3.11東北大地震で倒壊し、そのまま手つかずに放置されて、土に埋もれ、土に還りつつある石塔が多い。

こういう光景ばかり見てきて、寂しさはぬぐえない。

文化財は保存すべきであることは論を待たない。

保存には経費がかかる。

それが公金ならば、優先順位は不可欠で、地震で倒れた石造物の保存、復元が重要視されなくても仕方ない。

頭ではわかっていても、倒れた石塔が寂しい光景であることに変わりはない。

 

 

次回更新日は、1月16日です。

≪参考図書とwebサイト≫

 

 〇湯浅吉美『成田街道いま昔』成田山仏教研究所 平成20年

 

 〇山本光正『房総の道 成田街道』聚海書林 昭和62年

 

 〇川田壽『成田参詣記を歩く』崙書房出版 平成13年

 

 ▽「成田街道道中記」

 

 http://home.e02.itscom.net/tabi/naritakaidou/naritakaidou.html

 

 ▽「百街道―歩の成田街道http://hyakkaido.travel.coocan.jp/hyakkaidoippononaritakaidou.html

 

 ▽「街道歩き旅 佐倉・成田街道」

 

 http://kaidouarukitabi.com/rekisi/rekisi/narita/narita.html

 


126 成田街道の石造物ー13ー(佐倉市・井野ー手繰橋)

2017-01-06 05:31:45 | 街道

勝田台入口から佐倉市に入る。

八千代市内の勝田台駅まで、鋭くえぐりとったように佐倉市が入り込んでいる。

とても不自然で、なにか曰くがありそうだ。

◇道標3基と常夜燈(佐倉市井野1636)

店の真ん前に、石造物が囲いに囲われて立っている。

道標が3基、その後ろの常夜灯以外は、みんな他所から移したもの。

佐倉市教委の説明板があるので、転写しておく。

これらの石塔群は、成田山新勝寺に参拝する旅人のために建てられたもので、向かって右側の道標は

、歌舞伎の名優である七代目市川団十郎が、天保2年(1831)に建立し、ここから北150mに所在する加賀清水を「天はちち 地はかかさまの 清水かな」と詠んだ句と成田山への信心が記されています。
中央の道標は、明治27年に信集講社の岩田長兵衛が建てたもので、成田街道沿いに5基確認されています。


左側の道標は、江戸の豪商・古帳庵夫妻が天保11年(1840)に大和田原(現八千代市)の情景を詠んだ自作の句を刻んで建てられました。

三基の道標は、当初は現在の場所から西側の道路角にあったものを移転しました。
中央奥の常夜燈は、文政10年(1827)に加賀清水の水を汲み、茶をふるまって繁盛した林屋の前に建てられ、今も同じ場所にあります。

林屋は『三峰山道中記図会』(明治4年)に描かれ、「御贔屓の恵みも厚きはやしやと人にたてられ石の燈籠」と詠まれており、当時の賑わいがうかがわれます。
                   平成25年11月  佐倉市教育委員会

その『三峰山道中記絵図』が、これ。

かなりの賑わいを見せている。

店の左軒下に、今に残る燈籠が見える。

「ここから150mの」加賀清水へ行く。

現在でも清水は湧き出ているという。

この清水を「加賀の清水」と称するのは、佐倉城主大久保忠朝が、江戸参勤の往復に必ず愛飲したから。

忠朝は、加賀の守なので、加賀殿の清水⇒加賀の清水となったというわけ。

加賀の清水の隣は、稲荷神社。

鳥居をくぐった左に、コンクリートを台座にして6基の子安観音と秩父善光寺坂東巡礼供養塔が3基、柵に囲われて立っている。

ここでは、秩父善光寺坂東巡礼供養塔を取り上げる。

出羽三山参拝が男たちのオーシューメーリ(奥州参り)ならば、秩父善光寺坂東巡礼は、女たちのチチブメーリ(秩父参り)。

ほぼ10年おきに行われるが、最近は、秩父札所全部をバスで回るので、日程に余裕が生まれ、善光寺から佐渡へ足を延ばすようになった。

善光寺では、経帷子などを購入し、本人の葬儀の際、副葬品として納棺するのが、習いとなっている。

チチブメーリから帰ると費用を出し合って、供養塔を建てる。

餅をまいて建立を祝い、供養塔の前で念仏を唱えるのが、儀式の流れ。

この3基は、中央が、昭和17年、右が昭和30年、左が昭和39年造立。

ほぼ10年おきに行われていることが判る。

 

ここから次の宿場、臼井までは約1里。

これと云って見るものは、何もない。

ユーカリが丘駅があり、電車の軌道が街道を跨いでいるが、この駅は、始発駅でもあり、終着駅でもあるという珍しい駅。

ここから街道は、緩やかな上りになって、上り切った所が「上座」。

畑地のような、住宅地のような、そんな場所。

鳥居だけがあって、「皇産霊神社」の扁額がある。

社はなくて、出羽三山供養塔が2列に10基ほど整列している。

「皇産霊神社」は「みむすび神社」と呼ぶのだそうで、この地方ではよく見かける神社らしい。

坂を下りる。

カーブをして前方が開けた地点の左側に、石仏群が点在している。

寺社かお堂の跡地らしい。

一角に15基固まってあるのは、馬頭観音ばかり。

日本に名だたる馬の産地を通り抜けてきたにしては、馬頭観音が少なかった。

15基もあるのは、初めて。

像塔が1基もなく、文字塔ばかりなのが、ちょっと寂しい。

大半は、大正年間造立のもののようだ。

川があり、橋を渡る。

橋を渡った先を左に入る。

そこが臼井宿への旧街道入口。

何も標識がないからそのまま国道を行って、大失敗をした。要注意!

すぐに急坂にぶつかる。

さっきの国道を進めば、坂はない。

旧道は、坂を上って、下る。

坂道の苦手な私は、好きになれない場所だ。

次回更新日は、1月11日です。

≪参考図書とwebサイト≫

 

 〇湯浅吉美『成田街道いま昔』成田山仏教研究所 平成20年

 

 〇山本光正『房総の道 成田街道』聚海書林 昭和62年

 

 〇川田壽『成田参詣記を歩く』崙書房出版 平成13年

 

 ▽「成田街道道中記」

 

 http://home.e02.itscom.net/tabi/naritakaidou/naritakaidou.html

 

 ▽「百街道―歩の成田街道http://hyakkaido.travel.coocan.jp/hyakkaidoippononaritakaidou.html

 

 ▽「街道歩き旅 佐倉・成田街道」

 

 http://kaidouarukitabi.com/rekisi/rekisi/narita/narita.html

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


126 成田街道の石造物ー12ー(八千代市)

2017-01-01 07:40:31 | 街道

  新年おめでとうございます。

 

八千代市に入って二つ目の信号が「新木戸交差点」。

ここに「血流地蔵」という何か物騒な名前の道標があると持参資料にはあるので、探すも見つからず。

後日、日を改めて訪れたが、またしても、見つけられなかった。

帰宅してパソコンを開くと、成田街道道中記のサイトのいくつかには、ちゃんと写真が載っている。

自分の不甲斐なさにがっくりと肩を下ろす。

◇道標(八千代市大和田新田・新木戸交差点)

実は、ここでは別な道標は、偶然見つけることが出来た。

下の写真、どこに道標があるか、分かりますか。

「学童横断」の看板後方の黒っぽいものが、それ。

ボーとしてると見逃してしまう、中々見つけにくいものなのです。

道標は、正面に「成田山 是ヨリ七(里)」とあり、真ん中に折れたのを修理した跡がある。

 ここから約1キロ、「餃子の王将」が見えてくる。

◇八幡神社(大和田新田1032)

その前の八幡神社に、7基の子安観音が整列している。

左から右へ、年代順に並び、左端は、天保3年(1832)の造立。

おいぬ、おきぬ、おりん、おかる、おしの、おしほと女人の名前が彫られている。

右端は、平成19年(2007)だから、子安講が現在も活動していることが判る。

子安講は、念仏講の一つで、安産・子授け・子育ての神である子安観音や子安神に祈願する女性の結社。

出産・子育てに関する情報交換と懇親娯楽の場として、特に下総地方に多い。

旧暦の19日や23日の夜、集まって念仏を唱え、雑談して、夜中に上る下弦の月(寝待ちの月)を拝んで解散するので、十九夜講、二十三夜講といい、総称して「月待講」と云った。

十九夜塔の主尊は、如意輪観音で、1680年(元禄期)以前は、銘文に「十九夜念仏、二世安楽」と刻されていたが、それ以後は「念仏二世安楽」の文字は消え、赤子を抱く子安観音に変わってゆく。

 路傍の十九夜搭(八千代市)。享保11年(1726)だが、まだ二世安楽と刻されている。

儀軌にない、赤子を抱く如意輪観音の出現は、切実な女性たちの願望を造形したものだったのです。

八幡神社から歩いて7,8分、成田街道に面して、出羽三山供養塔が林立している。

千葉県は、出羽三山講(奥州講)が多い所だが、中でも八千代市は群を抜いて多い。

市内の出羽三山供養塔は、168基。

船橋市が112基だから、市の規模を考えれば、その多さは際立っている。

奥州参り(オーシューメーリ)について、以下は、市史『八千代市の歴史ー資料編 民俗ー』から抜粋しての転載です。

オーシューメーリの参加者は男性で、家督を息子に譲ったばかりくらいの年代がメイン。最近は、どんどん若くなって30代も珍しくなくなった。オーシューメーリは10年から15年に一度、希望者が10人以上集まると行われる。男たちが出発すると、念仏講の婆さんたちが神社にお篭りをして、旅の安全を祈願する。


出羽三山の他、各地の観光地にも立ち寄るのが普通。一例をあげれば、「新潟―佐渡―鶴岡―羽黒山―月山―湯殿山ー湯野浜―最上川下りー鳴子―松島ー仙台」で7泊8日の旅。全部徒歩での江戸時代は、往復40日を要したと言われる

現地で泊まる宿坊は、集落によって異なり、江戸時代から同じ宿に決まっている。
オーシューメーリから帰ると、参加者は全員、講に加入する。奥州講の特徴は、葬式で発揮される。納棺には、三山参拝時に着用していた白装束を着せ、墓地では同行一同が出羽三山祝詞をあげる。

 鳥居が道路から見えないので、気付きにくいが、ここは神明社の境内。

三山碑の他にも、文字碑の二十六夜塔群と馬頭観音群がある。

中で目立つのは、「日露戦役」の文字の下に馬の首が彫られ、左右に2行「明治丗七年二月十日出征」、「明治丗七年五月従五日出征」とある墓銘碑。

「出征」の二文字が、重い。

農耕では、牛も馬に劣らず役立ってきた。

立派な「牛魂碑」があるのが、嬉しい。

 

東進して、分岐する道を右へ。

◇路傍の石仏(大和田新田368)

路傍左の高台に石仏群がある。

十九夜塔群に子安搭が2基混じっているが、石が崩れて造容が不明のものが多い。

高く石を積み上げて、地面にあった石仏をきちんと保存しようとしたのに、石仏そのものが崩壊するのでは、手の打ちようがない。

市役所入口を過ぎると、右に円光院、左に長明寺が見えてくる。

このあたり、大和田宿の中心だったらしいのだが、それらしい雰囲気はどこにもない。

これは幕末のデータだが、大和田宿の1か月間の泊り客は1400人。

うち900人は成田山参詣客だそうで、今の姿からは信じられない賑わいだったことになる。

大和田宿といえば、長妙寺の「八百屋お七の墓」を見過ごすわけにはいかないだろう。

◇日蓮宗・天受山長妙寺(萱田町640)

大罪人の墓とは思えない立派な宝篋印塔で、「えっ、どうして?」と思ってしまう。

境内には、もう一つの「えっ、どうして?」があって、それは一面に広がる落ちた銀杏。

誰も拾わないようだが、もったいない。

 

長妙寺の道の向こうは円光院だが、パスしてその奥の時平神社へ。

◇時平神社(大和田743)

八千代市には、時平神社が、なんと4社も固まってあるのです。

        萱田町の時平神社

御祭神は、左大臣藤原時平。

あの右大臣菅原道真を諫言をもって陥れ、大宰府へ左遷させた張本人。

道長は左遷先で死ぬが、時平もその直後、死亡する。

当然、道真の祟りと噂された。

道真の祟りを怖れ、神として祀り、鎮めようとしたのが天満宮でした。

では、敵役の嫌われ者時平は、なぜ、祭神として崇められるのか。

それは、「天神様の好敵手だから」と言うのが、『成田街道いま昔』の著者、湯浅吉美さん。

昔の日本人は、神仏も人間と同じように、嫉妬心や競争心を持つと考えました。他の神様がやきもちを焼いて暴れるとか、または負けじ劣らじと験力を発揮して、御利益を下さると考えたのです。あっちが天神さまなら、こっちは時平だ、という発想ですよね」。

八千代市もこの界隈には、天満宮はないのだとか、人間くさい話で面白いので、紹介する。

街道に戻って東進、道標らしきものがある。

正面は、私には読解不能。

右側面は「〇〇十二町 〇當 長福寺」と読めるが、資料によれば、正面は「可やた道 いつな大権現道」、右側面は「是より 十二町 別當 長福寺」なのだそうだ。

仮に読めても、長福寺もいつな大権現も知らないのだから、無意味ではあるが。

道標の上部は、盃状穴だらけ。

成田街道で、これで4つ目。

萱田町の時平神社の石段を過ぎると下り坂になり、景色が広がる。

川が流れていて、橋がある。

川は新川という印旛沼の放水路。

川を跨ぐ白い建造物は、排水機。

今は流水量をコントロールできるが、江戸時代は利根川の増水で、印旛沼の推移も上がり、新川沿岸は、度々、水害に見舞われた。

沼の水を江戸湾に落とし、洪水を防ぐとともに干拓による開田を期待して、江戸期、3回にわたり、幕府主導の掘削工事が行われたが、いずれも不測の事態で頓挫した。

念願がかなったのは、なんと昭和46年。

植物の腐植土が大量にあって、「いか程掘候ても一夜の内に泥土湧出埋(わきだしてうま)り」の状態で、現代技術を以てして、初めて可能たらしめたという難工事だったという。

国道16号の陸橋をくぐり、

風情ある、長屋門を過ぎるとまもなく市境。

八千代市から佐倉市に入る。

 次回更新日は、1月6日です。

≪参考図書とwebサイト≫

 〇湯浅吉美『成田街道いま昔』成田山仏教研究所 平成20年

 〇山本光正『房総の道 成田街道』聚海書林 昭和62年

 〇川田壽『成田参詣記を歩く』崙書房出版 平成13年

 ▽「成田街道道中記」

 http://home.e02.itscom.net/tabi/naritakaidou/naritakaidou.html

 ▽「百街道―歩の成田街道http://hyakkaido.travel.coocan.jp/hyakkaidoippononaritakaidou.html

 ▽「街道歩き旅 佐倉・成田街道」

 http://kaidouarukitabi.com/rekisi/rekisi/narita/narita.html

 

 

 

 

 

 


126 成田街道の石造物ー11ー(薬円台、滝台)

2016-12-26 11:07:23 | 街道

(*前回がNO9だったから、今回はNO10であるべきなのに、NO11なのは、NO10を不覚にも消去してしまったから。10月の中旬、仕上げて保存しておいたものを、今、upしているのだが、NO10が「記事一覧」にない。前原東5の百庚申や御嶽神社の出羽三山碑群などを経て薬円台に至る間の記録を再作成するには時間がない。とりあえず、NO11をUPしておきます。)

前原東から滝台に入ってすぐ、東福寺の脇に、成田街道に面して4基の石造物がある。

馬頭観音と道標のようだが、よく分からない。

もう十分役目を果たして、粗大ごみになる日も遠くないと思われる。

京成薬園台駅入口のちょっと先を右折。

◇高幢庵(薬円台-4-1)

地名は「薬円台」で、駅名は「薬園台」。

幕府の薬草園があったから、薬園台なのに、戦後の地名改悪で「薬円台」になった。

あまりにばかげていて、腹立たしい。

由緒ある薬園台は、高校と駅の名前に残るだけという。

高幢庵には、その幕府の薬草園の初代管理人で本草楽の大家、丹羽正伯追悼供養塔がある。(写真を撮り損ねた!)

墓地の隅に半ば埋もれたような舟形光背地蔵がおわす。

右に寛保三年(1743)、左に「薬園台村」と刻されている。

これが薬園台村の初出らしいが、薬園の衰退とともに新田開発が進み、薬園台新田と称されるようになる。

成田街道から薬園台駅方向へ。

駅前の住宅地の小路を右左折しながら進むと

◇八幡神社(滝台町98)

いくつかの小祠に囲まれて青面金剛像がある。

中々立派な彫りだが、よく見ると邪鬼の右足が踏んづけているのは、女ではないか。

腰の線は、腰巻の紐か。

芸が細かい。

成田街道に戻って、東へ。

まもなく右に「神明社」の標識が。

入ってゆくと、公園を兼ねた神社の境内が、薄暗く広がっている。

◇神明社(薬円台1-12)

真中に本殿。

伊勢神宮系列の神社らしく「伊勢神宮参拝記念碑」が何基かある。

「三仙元宮」碑や「小御嶽山大権現/大天狗/小天狗」は富士三信仰に関わる石碑と資料にはある。

     三仙元宮碑

 小御嶽山大権現/大天狗/小天狗

小祠が見当たらないと思っていたら、覆屋の中におわした。

疱瘡神の文字も見える。

取手市には、疱瘡神の像塔があるが、他の土地では、文字搭ばかりで、像塔はない(ようだ)。

 

この辺り、歴史ある寺社が少ない。

それもそのはず、ここ薬円台の隣は習志野で、ここら一帯は野生馬が駆け回る牧だった。

開墾して新田と名の付く集落ができたのは、近世になってからのこと。

だから、延喜式神社があると知って、行って見る気になった。

◇二宮神社(三山5-20-1)

下総国の一宮は、香取神宮。

ここは、その二宮で二宮神社。

格式高い神社にふさわしい佇まいで、なんと近隣23か村の総鎮守だとか。

7年ごとの祭りには、神輿が一里以上もある幕張海岸まで浜降りする、古式ゆかしい神事が行われるという。

  千葉日報 2015-10-01より

ポトン、ポトンと音がする。

何だろうと注視していたら、イチョウの大木から銀杏が落ちる音だった。

運悪く頭に落ちたら大変、25mもの上からの落下で痛いのは無論だが、あの臭いが髪について離れない。

東隣には、神宮寺があって、まさに神仏混合時代そのまま。

神社と寺の間を通る道に道標が立っている。

「二宮大明神 是より七町」とあるから、どこか別の場所から移転してきたものらしい。

句碑を兼ねていて「耳なくて きかるるものよ 閑古鳥 遠近庵 三市」とある。

遠近庵(おちこちあん)三市は、ネットで調べてみたら、地元の俳人。

「耳なくて・・・」は、成人になってから聴力を失った自らのこと指すようだ。

「耳が不自由でも、閑古鳥が鳴いているのは、聞こえるよ」。

これだけだと大した句に思えないが、何か深い意味があるのだろうか。

 

二宮神社から来た道を戻って、成田街道の「二宮神社入口」へ。

突当りに奥の不動堂に、たった1基ある石造物は、「聖徳太子」供養塔。

施主は「太子講」。

太子講は、聖徳太子を職能の髪として崇める大工、左官、建具などの職人集団。

定期的に集まっては、太子の掛け軸をかけ、呑みながら労賃の協定を結んだりする。

この碑の背面には51名の名前がある。

彼らは、日露戦争の旅順港攻撃戦となった二〇三高地を六分の一に模した永久堡塁を、訓練のために習志野に建築した際、その工事にたずさわった職人だという。

不動堂から200m東に、船橋市郷土資料館がある。

工事中で閉館していたが、敷地内の明治天皇駐蹕(ひつ)碑は見られた。

明治天皇が、明治6年(1873)、近衛兵の演習を統監された記念碑。

習志野という地名は、この時、勅命によって決められたが、その間の事情は碑文に書いてある。

碑文

(表) 明治天皇駐蹕之処 大正六年十月 元陸軍大将公爵山縣有朋禁書

(背) 習志野原は千葉県に在り。下総国千葉郡の曠野渺漠として小金原に連なり、本より特称なし。明治六年四月二十九日、天王近衛兵を率いて親臨し、この地に露営す。櫛󠄁風沐雨、統監演武、地形尤も練習に適すと認む。五月十三日、名を習志野之原と賜う。永く陸軍操練場習志野之原の名称を定む。茲に於いて今謹んで其の縁由を記す。

 郷土資料館の前は、陸上自衛隊習志野駐屯地。

ここから道路の右側はフエンスが延々と2キロ、船橋市と八千代市の市境まで続く。

左側にも寺社は勿論、馬頭観音、庚申塔、道標などの石造物は皆無。

これほど長い石造物の不毛地帯も珍しい。

市境は、新木戸交差点前。

いよいよ、というべきか、やっと、というべきか、ここから八千代市に入る。

 

 次回更新日は、1月1日です。

≪参考図書とwebサイト≫

 〇湯浅吉美『成田街道いま昔』成田山仏教研究所 平成20年

 〇山本光正『房総の道 成田街道』聚海書林 昭和62年

 〇川田壽『成田参詣記を歩く』崙書房出版 平成13年

 ▽「成田街道道中記」

 http://home.e02.itscom.net/tabi/naritakaidou/naritakaidou.html

 ▽「百街道―歩の成田街道http://hyakkaido.travel.coocan.jp/hyakkaidoippononaritakaidou.html

 ▽「街道歩き旅 佐倉・成田街道」

 http://kaidouarukitabi.com/rekisi/rekisi/narita/narita.html

 

 

 

 


126 成田街道の石造物ー9-

2016-12-21 07:00:57 | 街道

山門にも、どこにも寺の名前がない。

墓地があるので寺だとは分かるのだが、果たして、ここは「東光寺」なのだろうか。

◇真言宗豊山派・慈明山東光寺(宮本5-13-17)

山門から見えるのは、普通の民家で寺らしくない。

この建物は庫裏で、本堂はこの裏にあったらしいのだが、確認することなく、山門を入った左側の石仏群を見て、帰ってきてしまった。

中央の覆屋の地蔵を挟んで、左に6基、右に4基の石仏が並んでいる。

左は馬頭観音と阿弥陀如来の間に庚申塔が4基、右には、十九夜塔2基と大日如来、阿弥陀如来が1基ずつおわす。

船橋市は、千葉県の中でも馬頭観音がダントツに多い地域と聞いていた。

馬を生産する幕府直轄の牧が市内の中央部を横断していて、馬の保有数は多地域に比べ、抜きんでて多かった。

宿場町として交通の要衝であった船橋は、荷馬車用の馬が不可欠だったから、馬が多くなるのは、必然だったといえる。

しかし、江戸川橋を渡って市川、船橋と石仏を見てきて、実は、馬頭観音に遇うのは、これが初めてのことなのです。

とても意外なことで、不思議でなりません。

◇浄土真宗本願寺派・光雲山了源寺(宮本7-7-1)

石段を上がった山門前の左に、船橋市教委による文化財の説明板がある。

市指定文化財 鐘楼堂跡

江戸時代享保年間(1716-1736)、徳川幕府は、船橋に大砲試射場を設けました。了源寺本堂の南西の丘に砲台の台座があったといわれ、そこから谷津、藤崎方面の松林、原野に向けて試射を行いました。
これを廃止した後、その場所に鐘楼堂が建てられ、幕府から時の鐘として公許されました。その後、明治4年(1871)に廃止されるまで、船橋一帯に時を告げていました。
船橋に宿泊した時に、この鐘の音を聞いて、蜀山人大田南浦が詠んだ自筆の狂歌が了源寺に掛け軸として残されています」(船橋市教育委員会)

蜀山人筆狂歌

下総のくに 船橋の宿 光雲山
了源寺ハ こだかき所にて 富士の
高ねはいふに及ばず 伊豆 さがみ 安房
上総の山々 海上につらなり 眺望いはん
かたなし ここに二六の時をつぐる


鐘楼ありきとききて

煩悩の眠をさます時の鐘
きくやわたりに船橋の寺
            蜀山人

富士山から伊豆、相模、安房、上総の山々まで、境内から眺望できたという。

上は、現在の眺望。

すぐそばの大神宮すらおぼつかない。

蜀山人は、本当に伊豆、相模を見たのだろうか。

296号に出ると、大神宮の北の西福寺が見えてくる。

◇真言宗豊山派・船橋山清浄心院西福寺(宮本6-16-1)

門前に「南無大師遍照金剛」の石塔。

側面に「吉橋組聯合准四国八十八ケ所/第三十八番 上州蹉陀山写/当所 五日市信者中」とある。

この准四国霊場は船橋とその周辺を巡るものだが、さらに「汎く弘法大師信仰に利便あらしめんとし」て、平成元年(1989)、「境内に新たに四国八十八ケ所霊場を勧請創設した」。

よって「この霊石に触れ、南無大師遍照金剛の宝号を唱えて巡錫せば、忽ちに多大なる利祥霊験を蒙らんこと疑いなし」。

現代的デザインの六地蔵は、子供が健やかに育ち、富と福を未来永劫に招くようにと、「ふくふく地蔵」というのだそうです。

 船橋宿と船橋大神宮とその周辺の石造物紹介は、これで終わり。

296号線を真っ直ぐ東へ進みます。

「まっすぐ」と云ったのは、この道路はかつての「東金御成道路」で、船橋―東金間37キロはほぼ直線で結ばれているので有名です。

道路造営を命じたのは、家康。

目的は、九十九里方面での鷹狩りというから、剛毅なことです。

更に剛毅なのは、周辺の農民が駆り出され、一晩で完成したから、「提灯街道」、「一夜街道」と呼ばれるのだそうです。

習志野市との市境を超えて再び、船橋市に入るとすぐの三叉路がそのものズバリ「成田街道入口」。

◇成田山道標(前原西1-23)

 

ここで東金街道と分かれ、成田街道になる。

標識の下に、昔の道標。

なぜか火消しの纏風デザインで「左 成田山道」、「右 従是房総街道」(*房総街道=成田街道)と刻まれています。

この分岐点から100mくらいか、路傍に石仏群。

◇路傍の石仏群(前原1-17)

覆屋に5基の庚申塔と道標が1基おわす。

路傍でこれだけ石仏が揃っているのも珍しい。

笠付き青面金剛像の上部は、日月ではなく、火焔。

不動明王を思わせて、さすが成田街道入口にふさわしい。

また、右端の道標は、上に陽刻の不動明王が座して、これこそ成田街道ならではの道標か。

安永六年(1777)に造立されています。

 回更新日は、12月26日です。

≪参考図書とwebサイト≫

 〇湯浅吉美『成田街道いま昔』成田山仏教研究所 平成20年

 〇山本光正『房総の道 成田街道』聚海書林 昭和62年

 〇川田壽『成田参詣記を歩く』崙書房出版 平成13年

 ▽「成田街道道中記」

 http://home.e02.itscom.net/tabi/naritakaidou/naritakaidou.html

 ▽「百街道―歩の成田街道http://hyakkaido.travel.coocan.jp/hyakkaidoippononaritakaidou.html

 ▽「街道歩き旅 佐倉・成田街道」

 http://kaidouarukitabi.com/rekisi/rekisi/narita/narita.html

 


126 成田街道の石造物ー8-

2016-12-16 08:00:08 | 街道

本町通りの南側本町3丁目は寺町だが、北側の本町4丁目には、神社が多い。

森田呉服店からほんの20-30m東にあるのが、

◇厳島神社(本町4-35)

祭神の三女神は、海女を支配した宗像氏の祖先神で、海上交通の守護神として海老川沿いの回船業者や漁民の信仰を集めて来た。(宮原武夫『船橋市の歴史散歩』より)

狭い境内には、石造物は、燈籠、手水鉢、社殿再建記念碑、狛犬の定番があるのみ。

(644)

次の信号を左折すると正面に朱色の鳥居が見えます。

◇御蔵稲荷神社(本町4-31)

「御蔵」は、飢饉に備えて幕府が建てた穀物倉庫。

3度の大飢饉もこの御蔵のおかげで切り抜けられたと謝恩の意で建てられた神社。

神社の由来の説明板になぜか、河童の銅板画が嵌め込まれています。

帰宅して調べたら、海老川には、昔から河童伝説があるのだとか。

尻に青黒い印をつけておけば、河童に襲われないのだそうです。

◇東照宮(本町4-29)

家康、秀忠親子が鷹狩りのための休憩・宿泊施設として慶長年間に建てたのが、船橋御殿。

その跡地に、家康を祭神とした東照宮が建てられた。

全国に500社ある東照宮の中で、最小と言われている。

◇道祖神社(本町4-31)

道祖神だから村境にあったのだろうが、繁華街のど真ん中で、そうした意味合いを探すのは難しい。

石仏としての道祖神は見当たらなくて、覆屋には、馬頭観音と愛染明王がおわします。

特に愛染明王は、逸品。

犬か狼か、珍しい狛犬と思ったら、三峯神社が境内社でした。

2795

旧道に戻り東へ行くとすぐ海老川にぶつかります。

◇海老川

   川の左が五日市村、右が九日市村

宿場があった川の西側は、九日市村。

東は、五日市村でした。

橋の欄干から船の舳先が突き出ている。

港として賑わっていたシンボルでしょうか。

海老川の両岸には倉庫蔵が立ち並び、川は物資を積んだ廻船で混みあっていました。

もちろん人の往来も激しく、船橋―日本橋間は、順風で2時間、昭和初期でも毎日2回の定期船が走っていた。(『船橋の歴史散歩』)

海老川を渡ると先方に木々の茂みと鳥居、鳥居の奥に急な石段が見えてきます。

◇意富比(おおひ)神社=船橋大神宮(宮本5-2-1)

石段を上がる。

実は、ここは裏門で正門は、京成大神宮下駅側にある。

裏門を上がるとさっき海老川橋で見たのと同じ船の舳先が突き出た境内社がある。

舟玉神社。

船橋の漁師たちから、篤い信仰を寄せられる神社なんだそうだ。

漁師の信頼を集めていたといえば、灯台として機能していた灯明台をあげなければならない。

船橋の歴史から戊辰戦争は外せないが、その市川・船橋戦争で、幕府軍がこもった大神宮は、官軍の大砲攻撃で炎上、灯明台も焼失した。

明治13年(1880)に再建され、明治28年まで、24mの高さから船橋海岸6海里(11キロ)先まで照らし続けていた。

社務所横の境内社の列に石塔が1基。

これも漁師がらみの石塔です。

「東西二十間
 永代敷石講 六人網元中」

敷石寄進はめずらしくないが、それが「六人網元」となると、がぜん漁師村の船橋らしくなる。

六人網とは、六人の漁師が三艘の舟に分乗し、二艘が広げた巻き網に、一艘が船べりや水面を叩いてイワシの魚群を追い込む漁法のこと。(『船橋の歴史散歩』)

石塔の寄進者銘から、万延元年(1860)、船橋には23人の、六人網元がいたことがわかります。

広い境内には、台石を重ねた高い燈籠が何対かと、記念碑が何枚かあるだけで、これと云って特に注視すべき石造物はない。

百度石が、忘れ去られたように参道の脇にあるので、パチリ。

船橋市全体でも、百度石は、これを含めて2基しかないのだそうです。

いつ行っても清掃が行き届いていて、清々しい気分になれる神社です。

 

 

 次回更新日は、12月21日です。

≪参考図書とwebサイト≫

 〇湯浅吉美『成田街道いま昔』成田山仏教研究所 平成20年

 〇山本光正『房総の道 成田街道』聚海書林 昭和62年

 〇川田壽『成田参詣記を歩く』崙書房出版 平成13年

 ▽「成田街道道中記」

 http://home.e02.itscom.net/tabi/naritakaidou/naritakaidou.html

 ▽「百街道―歩の成田街道http://hyakkaido.travel.coocan.jp/hyakkaidoippononaritakaidou.html

 ▽「街道歩き旅 佐倉・成田街道」

 http://kaidouarukitabi.com/rekisi/rekisi/narita/narita.html

 

 


126 成田街道の石造物ー7-

2016-12-11 06:09:25 | 街道

旧道をひたすら東へ。

覆屋があり、中の石仏がこっちを向いている。

「こっち」は東へ歩いているのだから、「西向き地蔵」となる。

◇西向き地蔵(本町2)

この西向き地蔵の場所が、船橋宿の西の入口でした。

宿場の入口には、どこにもお地蔵さんがおわしたが、この西向き地蔵もその一つ。

造立は、万治元年(1658)、施主は念仏講中12人と女人16人。

360年にわたり、往き交う人たちを見守ってきたことになります。

船橋は、江戸から下総・上総・常陸・安房四か国への通路にあたり、人足15人、馬15疋が常時準備されていました。

しかし、道中奉行管轄外で、正式な宿場ではなかったのです。

旧道から再び、千葉街道へ。

 ◇旅籠佐渡屋跡(湊町2-6-33)

船橋宿の旅籠といえば、佐渡屋。

旧道に面したNTTが、佐渡屋の跡地。

 「当村宿駅也。旅の往来、日夜引きも切らず。当領一の繁盛也。旅籠屋凡そ十八九軒。此内、佐渡屋は商人宿也」。(『葛飾誌略』より)

「船橋。佐渡屋早し。海老屋宜し。八兵衛は江戸や、佐倉や」。(『房総三州漫録』より)

佐渡屋では何が早かったのだろうか。

「八兵衛」とは、遊女のこと。

船橋宿の旅籠の飯盛り女は「しべー、しべー」と客を誘った。

往きに、しぺー、帰りに、しべーで「八兵衛」となった。

「成田山には男女二人連れでお参りしないほうがいい」というのは、船橋の八兵衛さんと遊べないから、だそうです。

NTT(佐渡屋跡地)の後方にあるのが、旅館玉川。

◇玉川旅館の船着き場(湊町2-6-25)

上の写真で、玉川旅館の向こうに見える高層ビル群は、みな、昔は海だった所です。

その証拠が、玉川旅館の庭にある。

この石段は、庭から舟に乗る船着き場の跡。

石段を下りて舟に乗る。

宿泊客が釣りなどの舟遊びを愉しんだのでした。

下は反対側からの写真。

つまり、かつては海だった所から撮ったものです。

 

東に向かうと、旧道と千葉街道に挟まれた本町3に寺町があります。

ろくな石造物がないので、個々の寺の紹介はカット。

スポットを当てるのは、不動院だけ。

◇真言宗豊山派・海應山不動院(本町3-4-6)

門前にある大仏は、釈迦如来坐像。

船橋市の文化財に指定されているが、市教委が書いたその指定理由は、以下の通り。

船橋の海は、江戸時代初めころから半ば近くにかけて幕府に魚介を献上する「御菜浦」とされた好漁場でした。
元禄16(1703)年の大地震による海底地形の変化などで、翌年から魚介の献上は中止され、代金納になりました。その後この漁場を巡って、近隣(堀江・猫実・谷津・鷺沼など)の漁師たちと多くの争いが起こりました。
文政7(1824)年、船橋村と猫実村(現在の浦安市)との漁場の境界を巡る争いが続いていた時、船橋漁師の占有漁場の船が侵入してきました。その中に、一橋家の幟を立てた船があり、乗っていた侍を船橋の漁師が殴打し、幟を奪ってしまいました。大きな事件であったことから、船橋の猟師総代3名が入牢させられました。1名は牢死し、1名は牢を出て間もなく死亡しました。そのため、延享3(1746)の津波による溺死者と、漁場を守り死んでいった漁師総代の供養をあわせて行うようになったのです。
大仏追善供養は事件の翌年の文政8(1825)年以来、毎年1月28日(明治以降は2月28日)に行われるようになりました。本来この大仏は、津波によって溺死した漁師や住民の供養のため、延享3年に建立された石造釈迦如来坐像です。供養の日には、炊き上げた白米の飯を大仏に盛り上げるようにつけます。これは牢内で食が乏しかった苦労をなぐさめるためといわれています。大仏の西側には漁師総代2名の供養碑が建てられています。(船橋市教育委員会掲示より)

大仏の台石には、盃状穴がある。

成田街道では、これで3例目。

どこにでもあるものだと再確認する。

 大仏の背後には、犠牲になった二人の漁師の供養塔がある。

台石の「漁〇講中」が、いかにも漁師村の九日市村らしい。

大ぶりな庚申塔に挟まれて立つ六観音石幢の念仏搭が珍しい。

たまたまこちらを向いているのは、千手観音。

女念仏講中によって、元禄14年(1701)に建てられています。

 

旧道に戻る。

千葉銀行の前身は、旅館「桜屋」。

明治天皇は、陸軍の演習視察などで10回ほど桜屋に宿泊している。

だから、「明治天皇船橋行在所」のステンレス製標柱が、銀行の前の一角に道路に面してある。

この界隈は高いビルばかりで、宿場の往時の面影は見られない。

唯一、和菓子の広瀬直船堂と森田呉服店にその片鱗を見るばかり。

店の前を掃除しているのは、森田呉服店の御主人。

昭和34年の船橋本町通りのスケッチを染めた手ぬぐいを販売していたので、一枚購入してきた。

これが半世紀前の町の姿だから、江戸、明治の面影は探してもないわけです。

 

 次回更新日は、12月16日です。

≪参考図書とwebサイト≫

 〇湯浅吉美『成田街道いま昔』成田山仏教研究所 平成20年

 〇山本光正『房総の道 成田街道』聚海書林 昭和62年

 〇川田壽『成田参詣記を歩く』崙書房出版 平成13年

 ▽「成田街道道中記」

 http://home.e02.itscom.net/tabi/naritakaidou/naritakaidou.html

 ▽「百街道―歩の成田街道http://hyakkaido.travel.coocan.jp/hyakkaidoippononaritakaidou.html

 ▽「街道歩き旅 佐倉・成田街道」

 http://kaidouarukitabi.com/rekisi/rekisi/narita/narita.html

 

 

 


126 成田街道の石造物ー6-(西船4―海神1)

2016-12-06 09:02:19 | 街道

葛羅の井から国道14号に戻る。

宝成寺を通り、京成線にぶつかったら、線路沿いに左折、正延寺による。(地図では+をワンクリックすると寺名が出る)

◇真言宗豊山派・山野山正延寺(西船3-3-4)

寺のすぐ前を京成電車が走っています。

境内には、石造物が溢れている。

まず目につくのは、四国八十八か所のミニチュア。

弘法大師がすっくと立つ巨岩石を88本の札所の石柱が取り囲んでいます。

1周するのに10秒もかからない。

それで八十八霊場のお砂踏みをし、参拝したことになるのだから、有難い限り。

現地を回った巡拝記念碑も、当然、ある。

傍らに、十九夜塔の如意輪観音が5基、ずらりとならんでいる。

「全国的には二十三夜塔が多いが、千葉県では、十九夜塔が圧倒的に多く、船橋市も例外ではない。88基の十九夜塔を数える。うち83基は如意輪観音半跏思惟像で、その大半は女人講による造立。十九夜講の普及は、女性の娯楽の場の増大を意味し、如意輪観音像造立は女性の経済力を示している。
そして、十九夜塔が女人講として定着した時、女性に最も大切な出産・育児という現世利益を求め、如意輪観音に乳児を抱かせて子安観音なる仏を創作し、子安講へと移行したわけである」(『』船橋市の石造文化財 船橋市史資料(1)」より)

四角錐の無縁塔の上部には、地蔵が取り囲むように三界萬霊塔が立ち、さらにその上に地蔵菩薩が立つという念の入れよう。

墓域に、寛文期の墓標に挟まれて、元和四年と寛永十一年を刻する舟形地蔵菩薩がおわします。

元和期の石仏は極上のレアもの。

宝くじに当選したような気分です。

正延寺を出て、線路沿いに左へ。

◇踏切横の慰霊碑

遮断機のある踏切を渡ったところに、お地蔵さんがおわして、その隣には「無縁横死者霊」なる石碑。

昭和18年(1943)、踏切事故で13歳の少年が亡くなった。

その死を悼んで、平成18年、兄弟が建てた慰霊碑のようだ。

千葉街道の国道14号に着いたら左へ。

約1キロほど何もない。

のたのたと東へ歩を進める。

前かがみで小股に靴を道に引きずるように歩くから、「のたのた」という表現がぴったり。

次の目的地、「龍神社」に近づくと、下手な歌が聞こえてくる。

神社の前の町会の集会場で、老人会のカラオケ大会が行われていた。

真昼の、しらふの耳には、どの歌もまぬけな雑音でしかない。

◇龍神社(海人6-2-28)

集会場の入口の横に角柱道標がひっそりとたっています。

左が集会場、道標は、「龍神社」石柱と松の木の間にある。

正面「難陀龍神宮 弘法大師/加持石芋/かたはよし道」
右「歳▢▢天保九(1839)年十一月吉日」

龍神社は、海上守護の神社で、社殿は海に向かって建てられていた、と資料にはあるが、海に面していたことが今は信じられない。

かつて行徳街道からの参道が、ここまで伸びていたという。

境内には、柵で囲われ、ネットに覆われた池がある。

石芋の伝説の池は、この池と思われる。

「昔、弘法大師が、この池で芋を洗っている老婆に一ついただきたいと願ったが、これは固くて食えないからと老婆は断った。翌日、芋は石になって本当に食えなくなった」。

「神塚」なる珍しい石塔がある。

太平洋戦争中、大日本国防婦人会が、出征兵士の無事帰還を祈って奉納した髪を祈念する石塔。

日本民俗では、女性の髪には、男性に豊穣と幸運を与える霊力があると信じられてきたのです。

再び、国道に戻って、東へ。

国道14号と旧街道の分岐点に、赤門の寺がある。

◇真言宗豊山派・龍王山海蔵寺大覚院(海人6-1-9)

院号より寺号が先にくるの例を初めて知った。

神仏混合の時代、龍神社の別当だったから、山号に「龍」がある。

「赤門」の前には出羽三山塔。

出羽三山のうち、羽黒山は聖観音、月山は阿弥陀如来、湯殿山は大日如来を主尊とするが、江戸時代は湯殿山中心で「湯殿山 月山 羽黒山」の文字碑が標準でした。

出羽三山塔は、船橋では、江戸時代に33基、明治以降に78基建てられていますが、昭和に入ってからも42基建てられていて、歴史的には、新しい石塔になります。

門前には、廻国供養塔も2基あります。

廻国塔は、法華経を全国六十六か所の霊場に納めるために廻国し、その目的達成を記念する石塔。

2基の内、左がこの目的達成記念廻国塔。

右は、旅をして回る六十六部行者に宿を提供するなどした援助者の記録。

「五千人供養」は、五千人宿泊させたという意味。

「百番巡礼」の文字があるが、これは西国、坂東、秩父百観音霊場のこと。

船橋宿の通過は、坂東二十九番千葉寺、二十八番滑川観音と十三番浅草寺との往還か。

 境内には、ミニ四国八十八か所が設けられています。

中央の弘法大師をぐるっと回るように石畳の道が敷かれ、その石の一つ一つに書かれている数字が札所の番号で、これを踏んで回ればお砂踏みをしたことになる、というシステム。

 

大覚院の先、塘路の右の小路を入ると「入日神社入口」の看板が。

◇入日神社(海神3-7-8)

「入日神社」とは、また、優雅な名前だが、実はこの神社は、船橋大神宮(意富比(おほひ)神社)の元宮で東の意富比(おほひ=大日)に対して、西の入日神社と云われています。

なんとヤマトタケル東征伝説とも関わりがあって、船橋の沖合で苦戦していた尊が、舟に八咫鏡そっくりの鏡を見つけ、勇気百倍忽ち賊を討つことができたので、この鏡をこの入日神社に奉納した。鏡は、後に意富比(船橋大神宮)に移したから、意富比神宮の元宮は、入日神社だということになるというお話。

だからか、句碑が1基あって、句頭に「意富比神社」を、句末に作者の俳名「秋身庵光年」を読み込んだ、ちょっと風変わりで、凝った句碑です。

意富比神社を    に叶ふ月を迎ふや里の
冠り吾が俳号を   貴さは花の余徳か桜の
踏み四季の五章   隣みな羽子の睦みや松の
に赤心を表わして  前の冴や御留守も灯の
          篭りのかかりのあとや去年今

最近、ボケを自覚するのは、地図を見て目的地を探せない時。

若い時にはなかったことが、しばしば起きるのです。

次の念仏堂も地図だけでは到達できず、3人もの人に聞いてやっとたどり着いた始末。(6000字)

◇浄土宗・念仏堂(海神1-17-16)

念仏堂への道の左側に石仏群。

なぜか阿弥陀さんよりお地蔵さんが、圧倒的に多い。

一番手前は、宝永六年(1709)の地蔵座像。

その隣の延命地蔵2体は、両方とも享保4年(1719)の造立。

持参資料によれば、六地蔵のうちの2体だそうで、仲間の3体は、次に寄る地蔵院にあるのだとか。

お堂は、二つあって、念仏堂は奥。

手前のお堂は、観音堂。

その観音堂の前にあるのが、市内最古の道標。

元禄7年(1694)の駒形道標で、行徳街道が成田街道に合流する三叉路に立っていたが、道路拡張でここに移転されたもの。

刻字は読めないので、説明板の写真を載せておきます。

 ◇真言宗豊山派・勝軍山地蔵院(海神1-21-22)

墓地への入口の右、本堂前の一画に石仏が集められている。

十九夜塔が2基。

いずれも「女人講」の文字が読み取れる。

後列で窮屈そうに身を縮めている宝篋印塔は、元文3年(1739)のもの。

念仏堂にあった六地蔵の残りの3体を探すが見つけられなかった。

どうでもいいことですが、ちょっと気がかりです。

 

次回更新日は、12月11日です。

≪参考図書とwebサイト≫

 〇湯浅吉美『成田街道いま昔』成田山仏教研究所 平成20年

 〇山本光正『房総の道 成田街道』聚海書林 昭和62年

 〇川田壽『成田参詣記を歩く』崙書房出版 平成13年

 ▽「成田街道道中記」

 http://home.e02.itscom.net/tabi/naritakaidou/naritakaidou.html

 ▽「百街道―歩の成田街道http://hyakkaido.travel.coocan.jp/hyakkaidoippononaritakaidou.html

 ▽「街道歩き旅 佐倉・成田街道」

 http://kaidouarukitabi.com/rekisi/rekisi/narita/narita.html

 

 

 

 

 

 

 


126 成田街道の石造物ー5-(船橋市「京成中山駅」-「京成西船橋駅」)

2016-12-01 06:29:22 | 街道

法華経寺の参道から国道14号(千葉街道=成田街道)に出て、左折。

100mも行かないで稲荷神社入口の看板がある。

◇稲荷神社(船橋市本中山1-2-16)

週末の祭礼の準備で氏子が10人ほど忙しそうに動いている。

境内裏の「狐塚」は、大正5年、京成線が船橋まで延長したことで、電車に轢かれて死んだ狐の霊を慰めるものだそうです。

死を悼んでというより、祟りを怖れてのことでしょうか。

柵の向こうに線路が見えます。

◇日蓮宗宝珠山多聞寺(船橋市東中山15-13)

新しい慈母観音以外、これといった石造物はない。

説明板があり、「昔、日蓮聖人が船出をしていった二子ケ浦という由緒ある地に建立された寺」と書いてある。

山門から見下ろすと国道の向こうに池が見える。

しかし、この池は「双子藤の池」で、「双子浦の池」は100mほど東にある。

◇二子浦の池(東中山1-330-2)

柵の向こうは雑草がはびこって、全景は見えないが、大した広さでないことは判る。

日蓮が鎌倉へここから船出をした、というが、現状からは想像もできない。

ここから先は海だったのだろうか。

文化7年(1810)の『葛飾志略』には「昔はここから行徳の堀江村まで渡し舟があり、また鎌倉まで出勤する武士の船路であった」と書かれている。

その鎌倉への船上で、富木常忍は日蓮と会った、ということになります。

◇路傍の庚申塔(東中山1-5)

羽黒神社への道の角に庚申塔が立っている。

庚申塔の右側に「日月は水明の如し」、左に「能く諸の幽明を除く」と刻まれています。

造立は、文政六年(1823)。

台石にいくつもの盃状穴を見つけて、嬉しくなる。

成田街道沿いでは、これが2か所目。(*1か所目は、「126成田街道の石造物ー3-」の胡録神社の項をご覧ください)

◇浄土宗・薬王山東明寺(東中山1-1-8)

門前の石塔に掘られた「行基菩薩作 部田(へた)薬師如来」は、本尊。

墓地に寛文4年(1664)の地蔵墓標がある。

やがて道は、中山競馬場への道と交差する。

交差点を過ぎると葛飾神社が左に。

◇葛飾神社(西船5-3-8)

この神社は、大正5年(1916)、西船6丁目の葛羅の井付近から移転してきた。

移転後の御神体は、熊野大神など3神ですが、移転前は葛羅の井そのものがご神体でした。

道標が2基ある。

1基は「是よりかつしか大明神」と刻んだ角柱。

もう1基は高い円柱で「一郡惣社葛飾大明神道/従是一町余」と刻されています。

この道標は、千葉街道にあったものをここに移転してきたもの。

神社の東隣は、勝間多公園。

◇勝間田公園(西船5-2)

勝間田公園は、その昔、勝間田の池という溜池でした。

昭和44年(1969)、池は埋め立てられますが、公園の隅に池の痕跡を残しています。

句碑と歌碑が1基ずつ。

まず句碑から。

「秋刀魚焼く 羅漢のごとき 吾が貌みよ」。

俳人・田中牛次郎は『千葉日報』の選者。

自然石の歌碑には

「しげやまの尾根をはひゆく
 雲見れば晴れたるかたに
 移りつつあり 松平」

家人・松平公平は、県立船橋高校の教諭。

勝間田公園のすぐ東、京成西船駅に向かう道の三叉路に石造物が囲われてある。

◇路傍の庚申塔と道標(西船4-16-8)

中央の庚申塔は寛政12年(1800)に造立。

台石に「是よりかまかや道」と彫られています。

これは燈籠だろうか。

下に三猿がいるので、庚申塔でもあるようだ。

細長い角柱には「無線電信所道」とあり、大正6年、行田に建てられた無線電信所への道標。

この無線電信所から、真珠湾攻撃の暗号「ニイタカヤマノボレ」が打電されました。

ここから国道14号を離れて、北上、葛羅の井へ。

途中、京成線を渡った先にある宝成寺に立ち寄る。

◇曹洞宗・茂春山宝成(ほうじょう)寺(西船6-2-30)

本堂に向かって左に石造物群。

地蔵立像の手、指が大きい。

地元の石工の作品か。

一方、無縁塔の中央奥に坐す如意輪観音や地蔵は江戸石工の手になるものと思われる。

墓地にある巨大な墓石は、当地栗原地方の藩主成瀬家の墓で、千葉県最大。

宝成寺の「成」は、成瀬からとったものという。

 

宝成寺からさらに北上すると右手の大木の下にあるのが、葛羅の井。

◇葛羅の井(西船6-174-1)

先に取り上げた葛飾神宮は、かつてここにあった。

葛飾大明神の御神体は、遊水池そのもの。

今はまるで個人の庭先にあるかのように見える。

どんな日照りでも枯れず、井戸さらいをすれば必ず雨が降るので「雨乞いの井戸」とも呼ばれました。

寛延2年(1749)の『葛飾記』には、次のように書かれています。

「神社は大社ではない。社地は唐竹の藪である。藪の中に葛の井という井戸があり、この水を飲めば瘧(マラリアの類)はたちどころに癒えるという。また、俗にこの井は、竜宮まで抜け透っているという」。

池の辺にひざ丈くらいの石塔があって、「葛羅之井」と彫られています。

側面の碑文は蜀山人が書いたもの。

原文は漢文だが、書き下し文は次の通り。

「下総の勝鹿(葛飾)、郷は栗原に隷(つ)く、神は瓊杵(にぎ)を祀り、地は醴泉(れいせん)、を出す。豊姫が鑑とする所は、神龍の淵なり。大旱にも涸れず、湛えてこれ円(まどか)なり。名づけて葛羅という。たえざること連綿たり」。

永井荷風が、昭和21年(1946)から市川や八幡に住んでいたことは、先述しましたが、この辺りも荷風の散歩道で、彼が『葛飾土産』でここ葛羅の井を紹介したため、顧みられることなく、放置されていた名所が甦った、と船橋市教委の説明板にはあります。

作家の文章の一行が名所を蘇らす、なんて、昔の作家の影響力の大きさに驚いてしまいます。

次回更新日は、12月06日です。

≪参考図書とwebサイト≫

 〇湯浅吉美『成田街道いま昔』成田山仏教研究所 平成20年

 〇山本光正『房総の道 成田街道』聚海書林 昭和62年

 〇川田壽『成田参詣記を歩く』崙書房出版 平成13年

 ▽「成田街道道中記」

 http://home.e02.itscom.net/tabi/naritakaidou/naritakaidou.html

 ▽「百街道―歩の成田街道http://hyakkaido.travel.coocan.jp/hyakkaidoippononaritakaidou.html

 ▽「街道歩き旅 佐倉・成田街道」

 http://kaidouarukitabi.com/rekisi/rekisi/narita/narita.html