大田区指定文化財庚申塔の続き。
◇庚申供養塔群(東雪谷2-25-1 雪ヶ谷八幡神社)
大田区指定 有形民俗文化財〉 昭和49年2月2日指定
雪ヶ谷村の人々によって建てられた庚申供養塔で、もともとは村内各所に建っていたが、後に現地に移された。
古い順から、天和元年(11681)、元禄四年(1691)、
同十年(1697)、同十一年(1698)、享保四年(1719)、
明和七年(1770)、安政四年(1857)の七基でいずれも駒型といわれる型式の石塔である。
雪ヶ谷村の村民は、ほとんどが日蓮宗の檀徒であるため、同宗の色彩を帯びた塔もある。また明和七年銘の塔は、新田神社への道しるべを兼ねたものである。
この地域における民間信仰を研究する上で、貴重なものである。〔大田区教育委員会設置の標識板より〕
本殿裏の薄暗い場所に簡素な覆屋が並んでいる。
庚申塔は、年代順に古い方から3基ずつ二つの覆屋に納められている。
天和元年(1681) 元禄4年(1691) 元禄10年(1697)
元禄11年(1698) 享保4年(1719) 明和7年(1770)
少し離れて祠に1基、これが道標を兼ねた安政4年(1857)のものか。
庚申塔ばかりではない石仏群が遍照院にある。
日蓮宗が多い大田区では、これだけの石仏群でも珍しい。
◇供養塔群(多摩川1-5-14 遍照院)
〈大田区指定 有形民俗文化財〉昭和49年2月2日指定
これらの供養塔は、いずれも地元の小林村、安方村の村民が寄進造立したもので、江戸時代この地域における民間信仰の様相を示すものとして貴重である。
特に念仏供養塔は、阿弥陀如来像を陰刻した念仏供養塔としては区内最古のもので、中世板碑の遺風を伝えるものである。
古くから当寺境内に建てられていたが、寺域が「環八通り」の道路敷地となったため、整備後に現在地に移された。〔大田区教育委員会設置の標識板より〕
1・庚申供養塔 延宝八年(1680)
2・念仏供養塔 承応三年(1654)
3・庚申供養塔 延宝八年(1680)
4・廻国供養塔 正徳四年(1714)
5・庚申供養塔 文化五年(1808)
最後に、指定文化財の馬頭観音を紹介する。
◇馬頭観世音供養塔(南千束2-2-7 妙福寺)
〈大田区指定 有形民俗文化財〉 昭和49年2月2日
天保十一年(1840)に、馬込村千束の馬医師や馬を飼っている人々によって、馬の健康と死馬の冥福を祈って建てられたものである。
光背をつけた馬頭観世音像の下は、角柱型の道しるべを兼ねており、各面には「北 堀之内・碑文谷道」「東 江戸中延」「南 池上・大師道」「西 丸子稲毛」というように、東西南北のそれぞれの方向を示す地名が示されている。
この銘文から、もとは中原街道と碑文谷-池上を結ぶ道との交差する地点に建てられたと推定されるが、民有地に移された後、平成十三年に現在地に移設された。
江戸時代後期の民間信仰、交通史を考える上で貴重なものである。〔大田区教育委員会設置の標識板より〕
本堂に向かって左奥、洗足池が見える地点に馬頭観音はある。
中央、白く光っているのが洗足池
蛇足だが、日蓮が足を洗った池なので洗足池といい、洗足池に面してある妙福寺は日蓮宗です。
台石を見ると明らかに道標だということが分かる。
大林寺の道標もそうだが、本来あるべき場所から無関係な場所に移転した道標は侘しい。
馬頭観音としては彫りも深く秀作なのに、通行人がいないのは惜しい。≪完≫