「大乗寺」、「総源寺」から海岸線へ。
突きあたって右へ向かう。
相川の町の西はずれの吹上浦の海岸にポツンと墓が立っている。
「鎮目奉行の墓」。
鎮目市左衛門は、元和元年(1618)から寛永4年(1627)まで佐渡奉行だった。
彼が赴任して来た時、鉱山は既に下降線をたどりつつあった。
相次いで打ち出された鎮目奉行の金銀増産施策が功を奏し、やがて生産量は一時的に回復する。
「鎮目市左衛門殿支配10ヵ年間銀山大盛り、前後にこれなき事也。1ヵ年の御運上銀8,000貫目余宛納る」(『佐渡風土記』)
歴代佐渡奉行120人の中で、名奉行としての彼の名声は飛びぬけて高い。
吹上浦には、鉱石粉成の施設があり、そこを視察中、急死したと言われている。
墓は、昭和になって遺族により建てられた。
相川の町の最西端が「石切町」。
読んで字のごとく、石工と石材屋の町である。
すぐ近くの吹上浦が鉱山で使う石臼用の流紋岩の産地だった。
慶長年間、相川は金銀ブームで人口は急膨張した。
傾斜地ばかりの相川では、石垣が必需品。
鉱山での精錬用石磨(いしうす)も不可欠だった。
需要に供給が追い付かない状態だった。
そこに目を付けたのが、播磨五郎兵衛。
越中から石切り職人一統を引き連れて来島、彼らを追って、播州からも大挙石工職人が来た。
石切町はこうしてできた。
町の辻に六地蔵。
花が供えられたばかりのようで、花器から水が流れ出している。
花は毎朝取りかえられて、いつも新しい。
こうした篤い信心行為は、佐渡でも外海府と小木にしか見られなくなった。
石切町の石工たちの菩提寺は「本興寺」だった。
本興寺 日蓮宗 (下相川) 天亀3年(1572)
その「本興寺」にはいかにも相川らしい墓がある。
「情死の墓」。
情死の墓(本興寺墓地)
鉱山都市相川は、同時に遊興歓楽都市でもあった。
その中心は、水金(みずかね)遊郭。
水金川の両側に11軒の遊郭が軒を並べていた。
水金川と遊郭跡地http://www7a.biglobe.ne.jp/~masayuki/aikawamizuganecyoyukaku_sado20080720.html
水金(みずかね)川は、音読みならば(すいきん=すいぎん)。
上流に水銀のアマルガム製錬所があったからだが、相川ならではの川の名前といえようか。
安政6年5月1日、水金遊郭「松木屋」の遊女柳川(20歳)と佐渡奉行所の地役人高野忠左衛門の下男寅吉(24歳)が、「本興寺」墓地で心中をした。
その詳細な検視記録が残されている。
「腹臍之上突疵壱ケ所 臓腑押出有之」
「女死骸上江横ニ俯シ、血流着用者ニも血染有之候」。
「五月朔日男女」と二人の命日を刻んだ「情死の墓」は、水金町を見下ろしながら、「本興寺」の墓地に立っている。
幼くして身売りさせられた遊女と下男の心中事件は、たちどころに「音頭」として唄われた。
「真情落つる松の葉」
♪ 「遊び女の名は柳川と
好いた同志の色情欲に
せまりせまりて相対死をも
なせし二人のその濫觴を
(略)
売られ廓へ七つの齢に
親を救いの憂き奉公も
町は水金松木屋とて
(略)
齢は十八の葉月のなかば
新造突き出し名は柳川と
眉目も容(かたち)も妙なる出立ち
(略)
われもわれもと群れ来るなかに
文武両道兼ねたる人と
高きその名も千里にひびき
宵の変名(かえな)を於菟吉(おときち)さんと
一夜二夜の仮寝の床に
かわす枕の数重なれば
ついにわりなき契りをむすび」
http://www7a.biglobe.ne.jp/~masayuki/aikawamizuganecyoyukaku_sado20080720.html
「相対死」とは心中のこと。
心中は浄瑠璃や歌舞伎の題材としてすぐにとり上げられ、人気を博した。
心中ものが流行ると現実の心中も増えた。
だから幕府は心中という言葉の使用を禁じた。
「相対死」はその苦肉の産物である。
江戸や京、大坂で流行った心中物の芸能化が相川でも音頭としてすぐに成立したことは注目に値する。
安政6年のお盆、柳川と寅吉の情死を悼みながら、新作心中音頭を唄い、踊って相川の夜は更けていった。
「本興寺」は相川の西のはずれにある。
今度は、ここから東に歩を進めながら寺を巡って行くことになる。
相川の寺には、寺号が表示されていない寺がいくつかある。
大間町の「願龍寺」もそのひとつ。
願龍寺 真宗 (大間町) 寛永10年(1633)
通りがかりの女性に訊いた。
「何という寺でしょうか」。
「願龍寺です、ごもんとさんの」。
「ごもんと」が「ご門徒」であることに気付くのにちょっと時間がかかった。
僕は今73歳だが、これまで「ご門徒さん」という言葉に出会ったことがない。
家の宗派は、真宗であるというのに。
相川では「ご門徒さん」は日常会話の言葉なのだろう。
なにしろ相川では真宗寺院が圧倒的に多い。
鉱山町の生産力を支えるのにはいろいろな消費物資が不可欠だった。
金掘り以外の労働者が数多く参集して来ていた。
浄土宗は徳川家の法系と結びつき、日蓮宗は関西商人に浸透していたため、相川の上流階層である武士と商人の菩提寺は浄土宗と日蓮宗が多かった。
底辺労働者を集めたのは真宗寺院であった。
「願龍寺」の過去帳には「床屋」、「大工」、「コウジヤ」、「質屋」、「酒屋」、「湯や」、「ヒモノヤ」、「「蔵番」、「くさり番」などの多様な職種が残されている。
彼らは技術者集団として、真宗教団に率いられて、相川に流れ込んできたのである。
真宗寺院には石造物は少ない。
それにしても「願龍寺」の境内のそっけなさはすごい。
灯籠がひとつあるのみ。
ただっ広いのである。
町へ入る。
二階がせり出した家々が並んでいる。
道路は狭く、駐車場がないから歩くしかない。
家々に挟まれて参道が狭い。
その奥にひっそりと寺がある。
無住の寺もあるようだ。
どこを探しても寺の名前が見つからないのが二つ、三つ。
推測だから間違っているかもしれないが、ご勘弁を。
広永寺 真宗 永宮寺 真宗 玉泉寺 日蓮宗
(羽田町) 慶長8年 (一丁目)元和2年 (五郎左衛門長)慶長11年
金剛院 真言宗 円行寺 日蓮宗
(五郎左衛門町)元和7年 (五郎左衛門町)寛永元年
弾誓寺 天台宗 (四丁目) 寛永13年(1636)
「弾誓寺」の弾誓は、人の名前。
初代木食弾誓上人を指す。
開基者、長音は三代目の弟子すじに当たる。
木食弾誓は佐渡外海府の弾特山で修業、6年後、岩屋口の洞窟で開眼した。
佐渡を出た弾誓は信州、箱根、伊勢原から京都へ。
どこでも多くの信者が彼を慕って集まった。
死亡したのは、京都「阿弥陀寺」。
慶長18年(1613)のことだった。
佐渡で修業し、全国的な名声と影響力を持った宗教家として、弾誓は魅力的な存在である。
彼の弟子たちは作仏聖としても有能で、数多くの作品を残している。
ちなみに「弾誓寺」の本尊・阿弥陀如来座像(焼失)は寺の開基者三代目長音の作仏。
背丈6尺2寸の佐渡随一の大きさで「おおぼとけ」と称された。
弾誓とその弟子たちの足跡をできるだけ追ってみたい、というのが僕の願望である。
「弾誓寺」には、他では見られない変わった石碑がある。
「南無阿弥陀仏」と「南妙法蓮華経」が一石に刻まれた石碑が2基。
現世利益さえあれば、宗派などどうでもいい、という庶民の気持ちを現したものだろうか。
その真意を知りたいものだ。
立願寺 浄土宗 (下戸町) 慶長の中ごろ
「称念寺」を探して下戸町を何度も往復した。
通りかがりの人にも尋ねた。
だが、見当たらない。
見当たらないのも道理で、寺は廃寺となり、跡地は電気工事会社になっていたのである。
称念寺(真宗)跡 (下戸町)
聞くところによると「称念寺」は檀家が13軒で、本堂の修理もままならず、住職の後継ぎもいないため、平成20年に廃寺にしたらしい。
東京に帰ってからネットで調べたら、廃寺にあたり寺の関係者から古文書などの資料調査の依頼が、佐渡文化研究所にあり、その調査担当者の報告があった。
それによれば史料点数115点のほか過去帳などがあり、更に蓮如上人直筆の六字名号が発見されたとのこと。
いずれもきちんと保存されることになったわけで、これは廃寺が相次ぐ現代、貴重な文化財の散逸を防ぐための方策として注目される。