石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

16 佐渡相川の寺と石造物(3)

2011-10-15 19:05:51 | 石仏めぐり

「大乗寺」、「総源寺」から海岸線へ。

突きあたって右へ向かう。

相川の町の西はずれの吹上浦の海岸にポツンと墓が立っている。

「鎮目奉行の墓」。

鎮目市左衛門は、元和元年(1618)から寛永4年(1627)まで佐渡奉行だった。

彼が赴任して来た時、鉱山は既に下降線をたどりつつあった。

相次いで打ち出された鎮目奉行の金銀増産施策が功を奏し、やがて生産量は一時的に回復する。

「鎮目市左衛門殿支配10ヵ年間銀山大盛り、前後にこれなき事也。1ヵ年の御運上銀8,000貫目余宛納る」(『佐渡風土記』)

歴代佐渡奉行120人の中で、名奉行としての彼の名声は飛びぬけて高い。

吹上浦には、鉱石粉成の施設があり、そこを視察中、急死したと言われている。

墓は、昭和になって遺族により建てられた。

 

相川の町の最西端が「石切町」。

読んで字のごとく、石工と石材屋の町である。

すぐ近くの吹上浦が鉱山で使う石臼用の流紋岩の産地だった。

慶長年間、相川は金銀ブームで人口は急膨張した。

傾斜地ばかりの相川では、石垣が必需品。

鉱山での精錬用石磨(いしうす)も不可欠だった。

需要に供給が追い付かない状態だった。

そこに目を付けたのが、播磨五郎兵衛。

越中から石切り職人一統を引き連れて来島、彼らを追って、播州からも大挙石工職人が来た。

石切町はこうしてできた。

町の辻に六地蔵。

花が供えられたばかりのようで、花器から水が流れ出している。

花は毎朝取りかえられて、いつも新しい。

こうした篤い信心行為は、佐渡でも外海府と小木にしか見られなくなった。

 

石切町の石工たちの菩提寺は「本興寺」だった。

本興寺 日蓮宗 (下相川) 天亀3年(1572)

その「本興寺」にはいかにも相川らしい墓がある。

「情死の墓」。

  情死の墓(本興寺墓地)

鉱山都市相川は、同時に遊興歓楽都市でもあった。

 その中心は、水金(みずかね)遊郭。

水金川の両側に11軒の遊郭が軒を並べていた。

  水金川と遊郭跡地http://www7a.biglobe.ne.jp/~masayuki/aikawamizuganecyoyukaku_sado20080720.html

水金(みずかね)川は、音読みならば(すいきん=すいぎん)。

上流に水銀のアマルガム製錬所があったからだが、相川ならではの川の名前といえようか。

安政6年5月1日、水金遊郭「松木屋」の遊女柳川(20歳)と佐渡奉行所の地役人高野忠左衛門の下男寅吉(24歳)が、「本興寺」墓地で心中をした。

その詳細な検視記録が残されている。

「腹臍之上突疵壱ケ所 臓腑押出有之」

「女死骸上江横ニ俯シ、血流着用者ニも血染有之候」。

「五月朔日男女」と二人の命日を刻んだ「情死の墓」は、水金町を見下ろしながら、「本興寺」の墓地に立っている。

幼くして身売りさせられた遊女と下男の心中事件は、たちどころに「音頭」として唄われた。

「真情落つる松の葉」

♪ 「遊び女の名は柳川と
   好いた同志の色情欲に
   せまりせまりて相対死をも
   なせし二人のその濫觴を
   (略)
   売られ廓へ七つの齢に
   親を救いの憂き奉公も
   町は水金松木屋とて
   (略)
   齢は十八の葉月のなかば
   新造突き出し名は柳川と
   眉目も容(かたち)も妙なる出立ち
   (略)
   われもわれもと群れ来るなかに
   文武両道兼ねたる人と
   高きその名も千里にひびき
   宵の変名(かえな)を於菟吉(おときち)さんと
   一夜二夜の仮寝の床に
   かわす枕の数重なれば
   ついにわりなき契りをむすび」

http://www7a.biglobe.ne.jp/~masayuki/aikawamizuganecyoyukaku_sado20080720.html  

 「相対死」とは心中のこと。

心中は浄瑠璃や歌舞伎の題材としてすぐにとり上げられ、人気を博した。

心中ものが流行ると現実の心中も増えた。

だから幕府は心中という言葉の使用を禁じた。

「相対死」はその苦肉の産物である。

江戸や京、大坂で流行った心中物の芸能化が相川でも音頭としてすぐに成立したことは注目に値する。

安政6年のお盆、柳川と寅吉の情死を悼みながら、新作心中音頭を唄い、踊って相川の夜は更けていった。

 

「本興寺」は相川の西のはずれにある。

今度は、ここから東に歩を進めながら寺を巡って行くことになる。

相川の寺には、寺号が表示されていない寺がいくつかある。

大間町の「願龍寺」もそのひとつ。

願龍寺 真宗 (大間町) 寛永10年(1633)

通りがかりの女性に訊いた。

「何という寺でしょうか」。

「願龍寺です、ごもんとさんの」。

「ごもんと」が「ご門徒」であることに気付くのにちょっと時間がかかった。

僕は今73歳だが、これまで「ご門徒さん」という言葉に出会ったことがない。

家の宗派は、真宗であるというのに。

相川では「ご門徒さん」は日常会話の言葉なのだろう。

なにしろ相川では真宗寺院が圧倒的に多い。

鉱山町の生産力を支えるのにはいろいろな消費物資が不可欠だった。

金掘り以外の労働者が数多く参集して来ていた。

浄土宗は徳川家の法系と結びつき、日蓮宗は関西商人に浸透していたため、相川の上流階層である武士と商人の菩提寺は浄土宗と日蓮宗が多かった。

底辺労働者を集めたのは真宗寺院であった。

「願龍寺」の過去帳には「床屋」、「大工」、「コウジヤ」、「質屋」、「酒屋」、「湯や」、「ヒモノヤ」、「「蔵番」、「くさり番」などの多様な職種が残されている。

彼らは技術者集団として、真宗教団に率いられて、相川に流れ込んできたのである。

真宗寺院には石造物は少ない。

それにしても「願龍寺」の境内のそっけなさはすごい。

灯籠がひとつあるのみ。

ただっ広いのである。

 

町へ入る。

二階がせり出した家々が並んでいる。

道路は狭く、駐車場がないから歩くしかない。

家々に挟まれて参道が狭い。

その奥にひっそりと寺がある。

無住の寺もあるようだ。

どこを探しても寺の名前が見つからないのが二つ、三つ。

推測だから間違っているかもしれないが、ご勘弁を。

広永寺 真宗  永宮寺 真宗   玉泉寺 日蓮宗

(羽田町) 慶長8年 (一丁目)元和2年 (五郎左衛門長)慶長11年

金剛院 真言宗  円行寺 日蓮宗

(五郎左衛門町)元和7年 (五郎左衛門町)寛永元年

弾誓寺 天台宗 (四丁目) 寛永13年(1636)

「弾誓寺」の弾誓は、人の名前。

初代木食弾誓上人を指す。

開基者、長音は三代目の弟子すじに当たる。

木食弾誓は佐渡外海府の弾特山で修業、6年後、岩屋口の洞窟で開眼した。

佐渡を出た弾誓は信州、箱根、伊勢原から京都へ。

どこでも多くの信者が彼を慕って集まった。

死亡したのは、京都「阿弥陀寺」。

慶長18年(1613)のことだった。

佐渡で修業し、全国的な名声と影響力を持った宗教家として、弾誓は魅力的な存在である。

彼の弟子たちは作仏聖としても有能で、数多くの作品を残している。

ちなみに「弾誓寺」の本尊・阿弥陀如来座像(焼失)は寺の開基者三代目長音の作仏。

背丈6尺2寸の佐渡随一の大きさで「おおぼとけ」と称された。

弾誓とその弟子たちの足跡をできるだけ追ってみたい、というのが僕の願望である。

「弾誓寺」には、他では見られない変わった石碑がある。

「南無阿弥陀仏」と「南妙法蓮華経」が一石に刻まれた石碑が2基。

現世利益さえあれば、宗派などどうでもいい、という庶民の気持ちを現したものだろうか。

その真意を知りたいものだ。

立願寺 浄土宗 (下戸町) 慶長の中ごろ

「称念寺」を探して下戸町を何度も往復した。

通りかがりの人にも尋ねた。

だが、見当たらない。

見当たらないのも道理で、寺は廃寺となり、跡地は電気工事会社になっていたのである。

称念寺(真宗)跡 (下戸町)

聞くところによると「称念寺」は檀家が13軒で、本堂の修理もままならず、住職の後継ぎもいないため、平成20年に廃寺にしたらしい。

東京に帰ってからネットで調べたら、廃寺にあたり寺の関係者から古文書などの資料調査の依頼が、佐渡文化研究所にあり、その調査担当者の報告があった。

それによれば史料点数115点のほか過去帳などがあり、更に蓮如上人直筆の六字名号が発見されたとのこと。

いずれもきちんと保存されることになったわけで、これは廃寺が相次ぐ現代、貴重な文化財の散逸を防ぐための方策として注目される。

 

 

 


15 佐渡相川の寺と石造物(2)

2011-10-08 10:24:10 | 石仏めぐり

下寺町からもと来た道を戻る。

分岐点を右へ上る。

左に川が流れている。

間切川と地図にはある。

道は狭い。

対向車が来たらどうしようか。

運転に自信がないからドキドキする。

右に「妙円寺」の階段があるが、道が狭くて路上駐車はできない。

川の向こうの家に入る橋に停めて、駐車の許可を求める。

急坂の石段を上ると朱色の山門がある。

ひと気のない林の中の朱色は、ドキっとするほど鮮やかで印象的だ。

 妙円寺 日蓮宗 (治助町) 開基は不明なれど慶長期と推定

境内に5段の台石を重ねた石碑。

「南無日蓮大菩薩」とある。

へえ、日蓮さんは菩薩でもあるんだ。

 

川に沿って坂道を上がって行く。

やがて右手に見えてくるのが、「長明寺」。

 長明寺 浄土真宗 (南沢) 

慶長19年(1614) 開基 山師・下田清左衛門

真宗では宗旨として墓の造立を重視してこなかった。

だから宝筐印塔や五輪塔は、真宗寺院では見かけることが少ない。

しかし、「長明寺」は真宗だが、山門左手には、宝筐印塔と五輪塔がある。

寺の開基者、山師の下田清左衛門一族の墓。

「長明寺」には改宗された跡がない。

門徒であっても造塔の選択肢があったということは、鉱山町らしい恣意性が幅を利かせていた、と町史編纂者は見る。

この辺りはどこも斜面ばかり。

平地というものがない。

だからちょっと歩くとすぐに全景を俯瞰することになる。

墓地の向こうに「長明寺」を臨む

写真の右上方に伸びる石段を上って中寺町へ。

民家はなく、2か寺あるのみ。

まず右手に「相運寺」が現れる。

無住のようだ。

 相運寺 真言宗 (中寺町) 慶長7年(1602)

佐渡全体では、真言宗が数的に優位にあるが、ここ相川では少数派だ。

天正17年(1589)、佐渡を攻略した上杉景勝により、真言宗への転宗を強要された寺は多いが、なぜか、相川ではそうした話は聞かない。

境内に2種類の「ねまり遍路」がある。

「ねまり」は「座る」の佐渡ことば。

四国八十八カ所霊場の本尊摸刻を並べ、座ったままそれを拝むことで遍路をしたと同じ功徳があると信じられてきた。

「相運寺」のねまり遍路は、大師堂を取り巻いた形である。

 

 大師堂とそれを取り巻く四国八十八カ所の本尊摸刻石仏群

佐渡全体ではこうした八十八カ所「ねまり遍路」は、10個所くらいあろうか。

相川では「大乗寺」にも、ある。

「相運寺」にはもうひとつ別の「ねまり遍路」がある。

大師堂の前に「西国三十三観音霊場」の本尊が並んでいる。

 西国観音霊場の33体石仏群          如意輪観音

訪れる信者もなく、荒れるに任せた二つの「ねまり遍路」の情景は、とても物悲しい。

 

道を挟んで「相運寺」の反対側が「瑞仙寺」。

瑞仙寺 日蓮宗 (中寺町) 

開基者 山師・味方家政 寛永元年(1624)

実は「瑞仙寺」と「相運寺」の場所が分からず、あきらめて引き返した。

かなり下ったところで杖をついた老人と行き違ったので訊いた。

「瑞仙寺はどこですか」

「俺の寺だっちゃ」。

住職は80歳代後半とお見受けした。

ゆっくりと実にゆっくりと歩く住職の後姿に相川の寺の現状と未来を垣間見る思いがした。

墓地に生花が供えられた墓がある。

地蔵立像の下に「小川久蔵の墓」とある。

その背後の石碑には「米騒動の若き指導者この地に眠る」と刻されている。

明治23年、佐渡で米騒動が起きた。

1升7銭の米価が12銭に跳ね上がり、暴動となった。

事件の逮捕者200人。

久蔵はそのリーダーとして新潟刑務所に収監され、3年後、獄死した。

25歳だった。

暴動で米価は、8銭に戻った。

その恩恵の念が今なお健在であることが、墓前の生花に読みとれる。

 

中寺町を後にする。

「長明寺」の前を通り、坂をカーブしながら上がって着いた所が「大工町」。

佐渡ことばでは「でえく町」。

「大工」は金山の金掘りのこと。

家を建てる職人は「番匠」と呼び、区別していた。

相川のいいところは、町名が昔のままであること。

「材木町」、「米屋町」、「八百屋町」、「塩屋町」etc。

「希望が丘」や「平和台」などと寝ぼけた町名に変更されず、本当に良かった。

大工町には小川久蔵の生家跡がある。

立て看板が立っている。

「貧しいので妹をおんぶして教室の窓から先生の話を聞いた」。

伝説の偉人はこうでなくては。

 

大工町のはずれに「無宿の墓」の道標。

草むした、道とは名ばかりの道を歩くこと5分、弥勒菩薩と六地蔵が出迎えてくれる。

 無宿の墓は左へ

ここは「治助町」。

その昔、この辺りには鉱山労務者の家が建てこんでいた。

道の両側の崩れかけた石垣が、往時の町の賑わいを偲ばせる。

六地蔵の前に鐘楼がある。

「普明の鐘」というらしい。

       普明の鐘

「夢を抱いて島へ来て、鉱山の土と帰した人々に鎮魂の鐘を心静かに打ってください」と看板に書いてある。

看板には、平井晩村の詩「佐渡が島」も。

「いとし恋しのわが夫(つま)は
 佐渡は四十九里波越えて
 遠い小島へ金掘りに
 若い身空で去(い)なされた
 金の簪(かんざし) 玉の櫛
 桐の箪笥に五百両
 千石船に帆をあげて
 帰るは何時(いつ)の春じゃやら」

帰る春は巡ってこなかった。

まして無宿人においておや。

ところで、「島流し」と「島送り」の区別がつけば、ことばに敏感だと言えよう。

「島流し」は刑罰のひとつで、死罪に次ぐ重罪

「配流」、「遠流」ともいう。

主として政治犯の貴人、文化人が対象となった。

一方、「島送り」は金山の水替人足として送り込まれた無宿人のこと。

無宿人とは、人別帳から抹消された者。

島送りとなった無宿人たちは、みんな若くしてここ相川で死んでいった。

鐘楼から50メートルほどわき道を行くと、無宿の墓がある。

昼なお暗い空地の一角に数基の墓標と石碑。

 

石碑や塔婆にはいずれも「水替人足」や「無宿」の文字。

中央の塔身を欠いた石塔の台座の中央には「南無妙法蓮華経」。

日蓮宗「覚性寺」の跡地だから当然か。

 その両脇に14名ずつ二段に分けて計28人の戒名、名前、出身地、没年が刻まれている。

年齢幅は、22歳から47歳まで。

出身地は、小石川、神田、板橋の江戸の他、越後、上州、下総、伊勢、信州、伊賀と全国に散らばっている。

他所にはない、いかにも相川らしい石造物だ。

 

再び、大工町へ戻る。

鉱山の方へと上って行くとどん詰まりに「万照寺」。

相川最奥の寺院だ。

万照寺 浄土真宗 (諏訪町)元和5年(1619)

 来た道を戻る。

県道に出て、道遊トンネルを通り、左折。

佐渡奉行所跡方向へ。

途中の「大福寺」と「蓮光寺」は、道路工事で道が封鎖されているのでパス。

写真はネットからの無断借用。

すみません。

大福寺 真宗 (六右衛門町) 慶長17年(1612)

蓮光寺 真宗 (六右衛門) 慶長8年(1603)

相川博物館を過ぎて、相川高校への坂道を右折。

突きあたりに「大乗寺」、その手前を右折すると「総源寺」がある。

両寺とも佐渡八十八ケ所霊場の札所なので、4年前、回ったことがある。

大乗寺 真言宗 (下山之神) 

慶長17年(1612) 開基者 橘屋重兵衛(商人)

 

総源寺 禅宗 元和5年(1619)

(3)に続く

 

 

 

 

 

 

 


14 佐渡相川の寺と石造物(1)

2011-10-04 21:58:37 | 石仏めぐり

9月の末から10月頭にかけて、佐渡へ行った。

1年ぶりの帰郷である。

加齢とともに故郷の山河と海が無性に恋しくなる。

      佐渡・岩屋口

その恋心を充足させる6日間の滞在だった。

中の一日、相川で寺を巡り、石造物を観てきた。

       佐渡・相川

あいにくの雨天で、所々雨宿りをしながらの歩きとなった。

 

佐渡に寺は281ある。

人口は63000人だから、281人に1カ寺ということになる。

全国的にみれば、べらぼうな数値だろうが、相川の場合はもっと高い。

人口8600人、寺院数36。

1カ寺あたりの人口は238人。

僕が高校を卒業した昭和30年代前半の相川町の人口は19000人だったから、過疎化の進行が1カ寺あたりの人口数を減らしていることになる。

相川の36カ寺の共通点は、その開基時期。

慶長、寛永年間の江戸初期に集中している。

つまり鉱山町としての発展にシンクロして寺は相次いで生まれ、衰退とともに開基はピタッと止まったということになる。

相川の寺めぐりを「大安寺」からスタートするのは、順当だろう。

相川で最高の格式を誇る寺だからだ。

  大安寺(相川・江戸沢町)

相川の町は海岸から鉱山まで尾根を切り開いて道を作り、その両側に家々が広がった。

そのスロープの先端、馬の首に例えるならば、鼻の部分に「大安寺」はある。

    大安寺から海を見る

今回のガイド本は『佐渡相川の歴史 資料編二 墓と石造物』。

石造物をこれほど多角的に、深く掘り下げた市町村史は珍しい。

当然、以下の文章はこのガイド本の受け売りである(と思って間違いありません)。

「大安寺」の本堂前に大久保長安の戒名を刻した宝筐印塔がある。

   大久保長安逆修宝筐印塔

建立したのは慶長16年(1611)。

補足するまでもなく、大久保長安は発掘されたばかりの佐渡金山の本格的開発のため送り込まれた佐渡奉行であり、有能なテクノクラート官僚だった。

 大久保長安

長安が死んだのは慶長18年(1613)だったから、この宝筐印塔は逆修塔ということになる。

「逆襲」とは、生前に自分の死後のため供養することで、それは「七分全得」の教えにより広まった。

「七分全得」というのは、死者の追善供養をしても死者の受ける追福はわずかに七分の一、六分は供養した人が受ける。ましてや生前、死後の為に自ら供養すれば「七分全得」、全部の利益を自分が得られるという考え。

関東の中世板碑の過半は、逆修塔だと言われている。

話を長安と「大安寺」に戻そう。

正式名称「長栄山 法広院 大安寺」の「長栄山」の「長」は「長安」の「長」であり、「法広院」の院号は「法広院殿一的朝覚大居士」という長安の法号がそのまま院号になったもので、また「大安寺」も大久保長安から一字ずつ取ったものと思われる。

逆修塔の宝筐印塔を見ても分かるように、彼は生前、自分の戒名を持っていた。

その戒名が寺の院号に使用されているということは、「大安寺」は「逆修寺」ということになる。

「逆修塔」はなじみがあるが、「逆修寺」は耳に新しい。

しかし、意味合いは符合するので、「逆修寺」としても差し支えないだろう。

つまり「大安寺」は、大久保長安の個人の寺であり、当初、そこに他の人の墓が建つことはなかった(筈である)。

だが、必ずしもそうではないから、面白い。

「大安寺」境内、西側の林の中の小高い傾斜面に1基の五輪塔が立っている。

河村彦左衛門五輪塔

代官河村彦左衛門の供養塔で、慶長13年(1608)の刻銘を持つ。

河村彦左衛門は、上杉以来の佐渡代官で家康の佐渡支配後も代官として仕えてきた。

長安の逆修塔よりも3年も早く河村彦左衛門の五輪塔が、なぜ、建立されたのか、謎というほかはない。

長安逆修塔と河村五輪塔は、石材の産地も異にする。

逆修塔は凝灰岩、五輪塔は石英安山岩。

  大久保長安逆修宝筐印塔

しかも五輪塔には石工の名前が彫ってある。

「切工也小泊村大工惣佐衛門」。

慶長期には既に佐渡の小泊村に石工がいたことが、これによって分かる。

一方、逆修塔の手法は越前方式だと見られ、長安が越前から連れてきた石工ではないかと推測されている。

宝筐印塔の背後の両脇に立つ二尊仏が佐渡では見かけない像容であることもこの説を補強しているようだ。

      宝筐印塔背後の大日如来と釈迦如来?

長安は鉱山技術者ばかりでなく、沖漁に長けた漁師群を石見から佐渡に連れてきている。

姫津は、こうした漁師たちを先祖にもつ集落である。

当然、石工を連れてきてもおかしくない。

ただ、佐渡の石工とよそ者石工には、どうやら住み分けがあったらしい。

佐渡の石工は石仏や石碑、石塔を、一方、よそ者石工は石垣作りに専念したのではないかというのが、相川町史執筆者の結論のようだ。

 「大安寺」を後にする。

横の坂道を上がるとすぐ左に「広源寺」。

急な石段の背後に本堂はあるのだが、木々に隠れて見えない。

      広源寺 浄土宗 (南沢)

元和4年(1618) 開基者 竹村九郎右衛門(奉行)

相川の寺の特徴の一つは開基者に僧以外の役人や鉱山資本家が多いこと。

竹村奉行が開基した「広源寺」の檀徒には、配下の地役人が多い。

役所の上下関係や人間関係は、死後まで持ち込まれることになる。

参道石段の右側には石仏が並ぶ。

風化して顔がのっぺりしている。

 辛うじて願容が分かるのもある。

すべてを抱きしめ、包み込んでしまうような柔らかな包容力に満ちている。

さらに坂を上る。

人家が途切れて寂しい。

分岐する道を右へ。

道の下に寺の屋根と墓地。

無住のようだ。

ガラス戸から覗いてみる。

足音に急いで逃げ込んだ野良猫の目が6つ、光っていた。

  真如苑 浄土真宗 (六右衛門) 開基 慶長18年(1613)

古色蒼然として、21世紀であることを想起させるものは皆無である。

「真如苑」を過ぎて坂を左にカーブすると寺町。

相川には上、中、下、三つの寺町がある。

ここは下寺町。

民家は2,3軒だけ。

寺ばかりの純粋寺町だ。

町というには、ちょっとひと気がなさすぎるようだが。

坂を登りきって突きあたりが「法然寺」。

朱色の柱が美しい寺だ。

 法然寺 浄土宗 (下寺町)

 開基 文禄2年(1593) 寛永11年(1634)、佐渡・河原田より当地に移る 

墓地に奉行伊丹康勝を供養する五輪塔。

相川最大の五輪塔と言われている。

 奉行伊丹康勝の五輪塔

山門を入って右手にあるのが、千日念仏地蔵。

 

丸彫りというより体躯は板状彫りだが、顔がいい。

素朴な感じが、僕は好きだ。

 佐渡の石工の手になる室町末期の石仏と目されているらしい。

これと雰囲気がよく似ているのが、「大安寺」の「浄金妙福地蔵」と「長谷寺」の「大地蔵」。

 「大安寺」の「浄金妙福地蔵」  「長谷寺」の「大地蔵」

長谷の大地蔵は、一生に一度、願いを聞いて、叶えてくれることで人気がある。

いずれも彫技は拙いが、醸し出す雰囲気は味わい深いものがある。

あるいは同一作者なのかもしれない。

「法然寺」の前が「蓮長寺」。

 蓮長寺 日蓮宗 (下寺町) 開基者 日園上人 元和4年(1618) 

本堂背後の崖下に墓地。

無縁仏も寺の歴史を反映して古いものが多い。

その傍らに『佐渡国略記』の著者、相川商人の伊藤三右衛門の墓がある。

                  蓮長寺の無縁仏と伊藤三右衛門の墓

「蓮長寺」の前が「法輪寺」。

法輪寺 日蓮宗 (下寺町) 

 日蓮宗は上方から勢力を張り出してきたので、相川の商人の菩提寺は日蓮宗寺院が多かった。

「法輪寺」には、佐渡金山の山師・味方与次右衛門一族の五輪塔がある。 

新鉱脈発見までに18年もかけた。

まさに人生をかけた大ばくちだったに違いない。

     山師・味方与次衛門家墓所

墓地には、この他、佐渡・真野の「妙宣寺」に立つ五重塔(重文)を建立した棟梁、番匠の茂三右衛門の墓もある。

    番匠・茂三右衛門の墓   茂三右衛門が建てた「妙宣寺」五重塔

五重塔を前に、これが佐渡の大工の手になるものだと説明されて、驚く観光客は少ない。

それまでに名所を回ってきて、佐渡の文化度の高さを感じてきたからであろう。

職人の中でも石工の地位は低く、その技量が改めて取り沙汰されることはほぼ皆無だが、「大安寺」の河村代官の五輪塔やここ「法輪寺」の味方家の五輪塔は、当時の佐渡の石工の水準の高さを窺わせるに十分である。

島国とか離島とか僻地といったイメージは、こと相川に限り無縁だった。

江戸をも凌ぐ、爛熟消費都市相川は、他国を凌駕する文化の匂いに満ちていたからである。

石工の世界も例外ではなかったと思った方がいい。

 

「法輪寺」を出て左へ。

「法然寺」の前を通る。

そこが「観音寺」。

 観音寺 禅宗 (下寺町) 開基者 後藤寛応 慶長19年(1614)

境内には石造物はない。

隣の「本典寺」へ。

 

 本典寺 日蓮宗 (下寺町) 

 開基者 山田吉右衛門(豪商) 寛永2年

 「本典寺」の開基者は商人の山田吉右衛門だが、最初から一般の菩提所または葬所として建てたと思われると町史執筆者は言う。

墓地に首のない石仏が2体。

佐渡では首がない石仏は珍しくない。

願をかけて石造地蔵を奉納する。

願が叶ったらその首を切り落とす。

そうした風習があるからだが、それらはいずれも小型の地蔵で、これほど大きな石仏の首がないのは珍しい。

明治の初め、佐渡でも廃仏毀釈の嵐が荒れ狂った。

一時的には539カ寺が80カ寺に激減した。

しかし、富山県や鹿児島県のように徹底的ではなかったから石仏の首を切る行為が多発したとは聞いていない。

この2体の石仏には、どんな歴史が秘められているのだろうか。

 

「本典寺」前から急角度の石段が下りている。

下寺町石坂で、145m246段。

坂の町相川にふさわしい情緒を醸し出している。

ゆるゆると下りる。

右手に家。

家ではなく、寺だった。

 福泉寺 真言宗 (下寺町) 慶長17年(1612)

無住の寺のようだが、きちんと管理されている。

このまま階段を下りて行けば、「昌安寺」(廃寺)、「高安寺」、「安養寺」(廃寺)と両側に寺と墓地が続いていて、最終的には「大安寺」に突きあたるのだが、車を上に駐車してあるので、再び上がらなければならず、恐れをなしてここでストップ。

福泉寺から下の方角の下寺坂石坂。 

(以下、(2)に続く)