石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

81 無縁塔がある風景

2014-06-16 11:08:41 | 墓標

無縁塔とは、供養する親戚縁者がいなくなった無縁仏(むえんぼとけ)の墓標を一か所に集め、ピラミッド状にしたもの。

     遍照院(上尾市)

〇〇家の墓が基本の日本では、家制度の崩壊とともに無縁墓標が増える一方で、今や、墓の10%超が無縁墓標だとも言われています。

供養する縁者がいないということは、墓の維持管理費を支払う者がいないことになり、墓地の管理者にとっても大問題。

そもそも無縁仏とみなすことが容易ではない。

供養に来られないさまざまな事由があるわけで、勝手に無縁墓標と断定できません。

煩雑な手続きの上、無縁墓標と認定しても、廃棄物として処分することは難しい。

だから、墓地の一角に無縁墓コーナーを設置することになります。

      栄松院(文京区)

     三宝院(練馬区)

 

墓地が狭い都会では、その場所を確保するだけでも大変で、必然的に墓を積み重ねてピラミッド状にするところが少なくありません。

無縁塔は墓地の入口に設置されるケースが多いようです。

   長伝寺(さいたま市)

        天真寺(港区)

無縁仏の供養は重要な宗教儀式でもあるからですが、墓地の景観を左右するモニュメントでもあるわけで、その設置場所や形状には、管理者の工夫が垣間見えます。

今回のタイトルは「無縁塔がある風景」。

写真フアイルから無縁塔を抜出し、羅列したもので、その歴史や社会的背景を考えるものではありません。

実は、無縁塔の歴史や社会的背景も考察したかったのですが、国会図書館で探しても参考資料はほぼ皆無、断念せざるを得ませんでした。

では、無縁塔のいろいろ、をご覧ください。

      金剛院(大田区)

どこの墓地でも、最初はこうして一隅に無縁仏を並べて置いたはずです。

     大泉寺(台東区)

    T寺(鴻巣市)

 どうせ無縁仏コーナーを設置するならきちんと整理しようか、ということになる。

  慶昌院(印西市)

   経学院(練馬区)

    西光院(川口市)

江戸時代の墓には、石仏墓標と文字墓標があります。

整理すれば、大勢の墓参者に見てほしい。

石仏墓標が多くなるのは、自然の成り行きでしょう。

     願海寺(港区)

、    光明寺(台東区)

      瑞光院(新宿区)

    多聞寺(墨田区)

  観泉寺(杉並区)

文字墓標はどうなったのか、行方が気になります。

石仏墓標の三大スターは、地蔵、聖観音と如意輪観音。

腕のいい石工の彫った石仏は、墓標といえども美術品。

オブジェとして参道や境内に無縁仏を配置する寺も少なくありません。

  安養院(目黒区)

        善福寺(江戸川区)

    増林寺(江東区)

     宗周院(練馬区)

こうしたすっきりした景観の背景には、処理された無縁仏が多数あるはずです。

   K寺(品川区)

処理の仕方で立つのは、補強材としての利用。

上の写真では、土砂崩れ防止の補強材として使用されています。

しかし、処理できずに無縁仏は増えるばかり。

その余りの多さに圧倒されて、ことばを失うほどです。

 

   永安寺(世田谷区)

   聖福寺(幸手市)

  大雄寺(大田原市)

  長福寺(深谷市)

  本成寺(古河市)

増大する無縁仏を前にため息をつく住職の顔が目に浮かぶようです。

 

林立する無縁仏といえば、京都・化野の無縁仏群が有名です。

平安京創都とともに人口は急増し、同時に葬場の設置が急務とされました。

小野篁が風水で選定した葬場の一つが化野。

化野念仏寺の石碑「あだし野」には、その下に「西院の河原」とあります。

これは、「あだし野」以前、このあたりの川に亡骸を流す習慣があったことを物語っています。

その亡骸は平穏に人生を全うした人よりも、戦乱、災害など非業の死を遂げた者たちの方が多く、これら無縁の霊は一瞬にして肉体が消滅してしまったため、宿る場を失い浮遊霊となってしまいます。

怨念を抱いて憤死した場合も同様、つまり浮遊霊=怨霊となり、天変地異をもたらすものとして畏れられました。

冒頭、供養する親類縁者がいなくなった仏を無縁仏と定義しました。

しかし、これは、檀家制度が始まった江戸時代に広まった考えです。

それ以前は、無縁仏といえば、戦死、災害死などの非業の死や水子、未婚者など親よりも先に死んで供養してくれる者がいない浮遊霊を指すものでした。

非業の死を遂げた無縁仏を祀る霊場として有名なのが、東京・両国の「回向院」。

正式寺号は「諸宗山無縁寺」。

明暦の大火の死者10万8000人の冥福を祈るため、家綱の命で建立され、以降、大火、地震などの災害死、牢死、刑死、行き倒れ、人間だけでなく捨てられた犬猫も供養する無縁の寺として機能してきました。

 

話しを化野無縁仏に戻します。

周辺から掘り出された無縁仏を列にして並べたのが化野ですが、同じ掘り出された無縁仏でも、積み上げたのが、高野山奥の院の無縁塚です。

    高野山奥の院の無縁塚

奥の院は全域が墓域ですからどこを掘っても墓が出てくるといわれます。

そうして掘り出された無縁仏のうち、お地蔵さんだけを集めて積み上げたのが、高野山奥の院の無縁塚。

 多数の無縁仏を一か所に集め、展示しながら保存する手法として、ピラミッド形式を採用するのは当然のような気がしますが、最初に創出した人はエラい。

高野山の無縁塚が日本最初かどうかは不明ですが、東京周辺の無縁塔は高野山の模倣ではないかと思えてなりません。

無縁塔ピラミッドでも、文字碑だけの塔は凹凸がなくすっきりしていますが、単調であっさりした感じ。

 

  東源寺(深谷市)           安龍寺(鴻巣市)  

右の安龍寺の塔は、二段目に石仏を並べて変化をつけています。

       光園寺(文京区)

光園寺の場合は、石仏無縁塔ですが、高く積み上げないで、2塔にしています。

しかし、大抵は高く積み上げてあるのが普通。

積み上げるのなら高く、高くというのは、人の性というものでしょうか。

     祥善寺(みどり市)

積み重ねられた墓標は、約2000基。

仰ぎ見る高さです。

上尾市の遍照院の無縁塔も高い。

   遍照院(上尾市)

 

珍しく階段がある。

登ってみた。

頂上の2本の影は、地蔵菩薩立像とカメラを構える私。

無縁塔からの俯瞰写真は珍しいと云えるでしょう。

ピラミッド型無縁塔には、別なタイプがあって、それは「嵌め込み型」。

石仏墓標の光背を埋め込んで、前面だけ並べるもの。

     安養寺(武蔵野市)

 

    宝泉寺(中野区)

 

 

      自性院(江戸川区)

 

  宗清寺(中野区)

宗清寺の無縁塔のてっぺんに立つのは、地蔵菩薩ですが、ほとんどの無縁塔の塔頂には、石仏か石碑、石塔が立っています。

石仏でも何種類かある。

一番多いのは、地蔵菩薩。

≪地蔵菩薩≫

  大梅寺(小川町)

      秀明寺(大田区)

       昌福寺(野田市)

    福昌寺(印西市)

  祥禅寺(みどり市)

≪六地蔵≫

   自性院(江戸川区)

≪観音菩薩≫

  蓮華寺(匝瑳市)

  宝幢院(大田区)

  如意輪観音、真盛寺(杉並区)

  円融寺(足立区)

≪阿弥陀如来≫

 

   誓願寺(荒川区)

      福寿院(久喜市)

≪宝篋印塔≫

 

    西蔵院(台東区)

  徳願寺(市川市)

     南蔵院(足立区)

≪層塔≫

 

      西門寺(足立区)

≪五輪塔≫

       霊厳寺(江東区)

≪三界萬霊塔≫

   吸江寺(渋谷区)

   薬王寺(横浜市)

   西照寺(杉並区)

「三界萬霊」の「三界」とは、仏教でいうところの欲界、色界(物質界)、無色界(精神世界)のこと。

無縁の一切精霊を意味し「有縁無縁法界衆生」と同義です。

「法界」とは、無関係の赤の他人のことで、縁もゆかりもなく見捨てられる霊を「無縁法界」と云います。

佐渡島では、無縁仏の膳を「無縁法界さんに進ぜる」といい、無縁法界供養がお盆の重要行事になっています。

 

最後に、無縁仏墓標が多い箇所を二つ。

一つは、茨城県利根町の来見寺。

本堂に向かって左側、台地の斜面一面に無縁墓標がひな壇形式で並んでいます。

その数約1300基。

「無縁塔建立記」によれば、開山以来400年余にできた無縁仏を祀る無縁塔を建立することになり、墓相研究専門家に相談して、ひな壇形式にしたという。

並べる土地があったからひな壇にしたので、土地が狭ければ、ピラミッドになったのではないでしょうか。

 

もう一か所は、稲城市の「ありがた山」。

京王線「けいおうよみうりランド」駅から西へ3分。

「妙覚寺」の脇の坂道を登ってゆくと墓地に出ます。

その墓地をさらに上ると、頂上まで視界いっぱいに無縁仏が飛び込んできます。

 

その数、3000基とも4000基とも言われていますが、正確には分かっていません。

昭和15年から17年頃、太平洋戦争の初期に、東京駒込界隈の寺の墓地の無縁石仏をリヤカーで運んだという伝説だけが残っていて、その経緯を記録した文書はどうやら保存されていないらしいのです。

これだけの膨大な石造物を短期間に運搬するには、相当数の人数が関わったと思われるのですが、記録がないというのは、不思議でなりません。

「ありがた山」という地名も、当時、リヤカーを引きながら「ありがたや、ありがたや」と唱和していたからだともいわれていますが、これも言い伝えで、確認のしようがありません。

とにかく、「壮観」とは、まさにこの光景なり、と断じたくなる無縁仏群なのです。(未完)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


80 若狭小浜の化粧地蔵ワールド

2014-06-01 05:13:48 | 地蔵菩薩

高校の友人が、大津市に住んでいる。

彼の招きで、5月半ば、友人3人と連れ立って、湖南を訪れた。

酒を飲み、歌を歌い、牌を自模り、昔話に花を咲かせて、旧交を温めた。

ハイライトは、琵琶湖伝統漁法えり漁の見物。

たも網を上げることもままならない巨大な鯉や鮒に歓声を上げた。

琵琶湖周辺観光は初めての3人と別れて、1日、小浜市へ足を延ばした。

小浜市は国宝仏像の濃密地域だが、私の目的は、別にある。

一つは、天徳寺(若狭町)の四国八十八ケ所本尊石仏群。

佐渡の石工が彫り、佐渡から運ばれたとの伝説がある石仏群です。

もう一つは、小浜市の化粧地蔵を見て回ること。

八月の地蔵盆に、子供たちがお地蔵さんに色を塗る風習があることを『日本の石仏』で知ったばかりでした。

佐渡の石工制作の石仏群はいつか取り上げることにして、今回は化粧地蔵に焦点を当てます。

場所は、小浜市西津地区。

小浜市街北東部の海に面した、昔からの漁村です。

西津漁港をスタートして、直ぐに最初の小堂を発見。

お堂は海に背を向けて立っていました。

 お堂の後方の木と木の間の白い部分は、海。

地蔵盆は、毎年8月23日に行われます。

と、いうことは、ほぼ9か月経っていることになり、彩色の色落ちが心配です。

でもその心配は、最初の化粧地蔵を見て、払拭されました。

 

 少しよごれてくすぶった感じではありますが、色彩は明瞭でした。

小浜の化粧地蔵の主な色材は、昔は、ベンガラの赤、石灰の白、墨の黒でした。

今はエナメルですから、色はなんでもあり。

伝統の3色にゴールドを大胆に組み合わせて、いかにも現代風化粧地蔵です。

小堂は、場所によって異なりますが、これは総コンクリート造り。

共通しているのは、供花が新しい事。

毎日、お参りする人がいることが判ります。

 

布団かと見間違えるような涎かけ。

関東よりは関西の方が涎かけは大きめですが、これは格別。

涎かけの色も大胆で、お地蔵さんの化粧に負けていません。

地蔵にはどう見ても、見えない。

私には「加トちゃんケンちゃん」に見えます。

常識にとらわれない子供の発想のすごさに驚嘆してしまう。

涎かけは女もののブラウスだったものか。

この母にしてこの子あり。

 

お盆が終わると、小浜では、地蔵盆の準備が始まります。

子どもたちは、お堂とお地蔵さまをリヤカーで海へ運んで、洗います。

前の年の色を洗い落として、新しく描くのですが、その姿かたちと配色はノートに記録されて代々受け継がれているのだそうです。

 

これは女の子の制作でしょうか。

お雛さまのようです。

前の、箱の中の、色付けした小さな石も、全部、お地蔵さま。

地蔵盆の期間、「出張」と称して、子供たちが外へ持ち出し、道行く人にお賽銭をねだるのに使われる地蔵です。

大胆というか、それとも、手抜きというべきか。

ベンガラの伝統の反映か、西津地区では、朱色の使用頻度が高いようだが、これは度を越しています。

しかし、頭上の卍は書いてあるから、目鼻を描かなかったのは、意図的だったのでしょうか。

ベースの石仏は浮彫されています。

地蔵の輪郭を彫ったものと自然石と両方があるようです。

これは涎かけではなく、布団でしょう。

布をかけてあるのではなく、描いてある。

手の組み方が棺桶の中の作法のようですが、寝ているとすれば、新宿2丁目風に私には見えます。

化粧地蔵を探し回っている時、床屋の前を通りかかった。

 見ると店の前のコンクリートブロックが彩色されています。

子どものころから、石に色を塗って育ってきた。

大人になってもついその癖が出てしまう。

小浜らしい光景だと思い、パチリ。

 

神社の脇にもお堂がある。

中の2体には目を奪われた。

 こうした作品を表現するボキャブラリーと能力がないことが、哀しい。

見事な、と書いて、その言葉の陳腐さに身がすくむ思いがします。

 

 

下の小堂の内部も、幻想世界です。

中央の地蔵は清楚で端麗にして判りいい。

問題は、両端の3点。

この2点は、まだわかる。

 

頭らしきものがあるから。

それにしても破天荒な地蔵。

ニューヨーク近代美術館に出品したいものだ。

下の作品は、何だろう。

よーく見たら、上下逆さまなのです。

描きあげて置こうとしたら、逆さまでないと安定しないことが分かった。

後先考えず、闇雲に描き始めるのは、子供だからでしょう。

後先考えるようになったら、大人になったということです。

 

後ろが直ぐ海の、このお堂の中もめくるめく化粧地蔵ワールド。

 

そうか、これがお地蔵さんの顔なんだ。

もう、言葉もない。

ただ、ポカンと口をあけて、見とれるだけ。

あか抜けた、ちょっと大人っぽいデザインと配色。

もしかしたら大人の手が加わっているのだろうか。

 

 地味でくすぶった仏像のイメージを、化粧地蔵は蹴飛ばしてしまいます。

 

地蔵盆の参加メンバーは、かつては、小学1年生から中学2年生までの男の子でした。

年の順に、大将、中将、少将と別れて、年上の大将から色を塗り始め、少将は、小さな「出張」地蔵を担当したものですが、今は子供の数がめっきり少なくなり、幼稚園児や女の子も参加するようになりました。

子どもがいなくなって、地蔵盆そのものを行わなくなった地域も増えています。

子どもがいなくなって、描き直すことがないので、油性ペイントで描いた化粧地蔵もあるのだとか。

お堂がなく、雨ざらしのお地蔵さんもあります。

掃除が行き届き、お供え物が新しい。

信仰心厚い人がいるからでしょう。

名ある寺の本堂奥におわす仏さんも、この漫画チックな、野ざらしのお地蔵さんも、わけ隔てることなく、同じように敬虔に拝む人がいる、小浜という町はすばらしいと感嘆してしまいます。

 細かく着物の柄が描いてある。

お地蔵さんは女だ、とこの子は思い込んでいるようです。

しかも少女ではなく、妙齢の御婦人。

そこはかとない色気と品性があります。

 

西津地区は、狭いながら碁盤の目のように道が交差し、化粧地蔵のお堂は、道の交差する角々にたっています。

置かれた場所や形は他のお堂(祠と呼びたいのだが、地元ではお堂と云っているので堂を使用)と変わらない。

どんな化粧地蔵かと期待して覗いたのですが、無垢な石仏があるばかり。

お大師さんでした。

石仏ならなんでも色を塗るわけではないらしい。

少なくても西津の子供たちは、お地蔵さんとお大師さんの区別はできるようです。

すばらしい。

髑髏のように、私には見えます。

まさかサングラスではないでしょう。

卍のあるお地蔵さんが多い。

意味を知りたくて、町内の寺の住職に訊いてみたが、知らないという返事でした。

 

以下、作品のみ展示。

ゆっくり鑑賞してください。

 

 

一見、関取風の人の好さそうなお兄さん。

 お地蔵さんとの接点を探そうにも、どこにも見当たらない。

お地蔵さんの、あまりの変貌ぶりに唖然、呆然。

この姿で、賽の河原に現れたら、鬼もびっくり、逃げ出すに違いない。

そういう意味で、効果的ではあります。

 

楽しい1時間半だった。

時間があれば、他の地区も回りたかった。

ネット検索すると宮津市、大津市、大江町などにも化粧地蔵はあるらしい。

子どもが主役の仏教行事は、ほかにもあるだろうが、クリエイティブな活動を伴う伝統行事は少ないでしょう。

少子化で小浜の地蔵盆も先細りになる一方だといわれています。

豊かな暮らしとは、快適と便利さを追求するだけでなく、こうした伝統文化に囲まれた暮らしでもあるはずです。

化粧地蔵を、なんとか維持、継続してほしいと心から願い、今度は、地蔵盆の当日に小浜を訪れたいものだと思うのです。

 

≪参考図書≫

○一矢典子「若狭小浜の化粧地蔵」『日本の石仏』NO143、2012年秋号所載