石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

31 シリーズ東京の寺町(2)ー江東区深川(前編)ー

2012-05-14 17:35:02 | 寺町

深川の寺町は、北は清洲橋通りから南は葛西橋通りまで、東は三つ目通りから西の清澄通りまでの区域。

約1キロ弱四方の中に40を超える寺がひしめいている。

町名にすると白河、三好、平野、深川と言ったところだが、清澄の一部も含まれる。

地下鉄「清澄白河駅」を出て、清澄庭園入口に向かう。

その道の右にあるのが「本誓寺」。

  本誓寺(浄土宗)清澄3-2

境内に入ると覆屋の中に見慣れない石像が立っている。

説明板には「迦楼羅(かるら)立像」とある。

以下は説明文の要約。

「カルラはgarudaの音写でインド神話の大鳥。両翼の長さは1344万キロ、龍を常食とするとされている。カルラ信仰は広く東南アジアに広がって、タイ、インドネシアでは国章に取り入れられている。『ガルーダインドネシア航空』の名称も同じ。この石像は、朝鮮・高麗時代の作と推定されるが、来日の時期などは不明」。

 本堂の、道を挟んで反対側にある墓地には、村田春海の墓がある。

   村田家の墓                            村田春海の墓

都の史跡に指定されているが、私には初めての名前だ。

検索してみた。

どうやら賀茂真淵の門下四天王の一人で国学者であり歌人でもあるらしい。

「あくまでも花みるたびにうれしきは世にいとなみのなき身なりけり」。

あきるまで花を見るたびに嬉しく思うのは、この世に勤めを持たない身であることだ、と村田春海は詠んだというが、歌に没頭するあまり家業の、京橋にあった干鰯問屋を破産させてしまったという逸話を知ると「浮世離れしてるなあ」と思わざるを得ない。

この村田家の墓域の対面にあるのが、呂一官の墓。

  呂一官の墓

家康の侍医を務めた中国人で、薬草、香木に詳しく、創業した柳屋の紅、白粉は人気商品だった。

墓の宝筐印塔には、没年の元和9年10月10日が刻まれている。

深川寺町は、関東大震災と東京大空襲で壊滅的打撃を受けた。

40もの寺がありながら、庚申塔が1基もない。

墓地につきものの六地蔵もほとんど見られない。

江戸時代からの石造物は消滅してしまったと言っていい。

雑誌『日本の石仏』は「石仏の旅」を連載しているが、コースに深川寺町が選ばれないのは、見るに値する石造物が少ないからである。

そうした深川寺町にあって、元和年間の宝筐印塔は珍しい。

その前の板碑型墓碑には寛永の文字もある。

貴重な、焼け残り文化遺産である。

1975年千代田区東神田の都立一橋高校の校舎改築工事現場から、大量の人骨と墓石など寺の墓地遺跡が発掘された。

もともとこの地にあった2寺を除いて、9寺は慶長10-16年(1605-11)に他所からこの地に移転してきたものだった。

これら11寺は、明暦の大火後、再び立ち退きを迫られる。

深川に引っ越してきたのが「本誓寺」と「雲光寺」だった。

年号の確認できる墓石は31点。

古いものは、元和2点、寛永17点など。

と、いうことは「本誓寺」のこの2基の墓石は引っ越しにあたり、最も年代物だけを選んで深川まで運んできたものと思われる。

都立一橋高校墓地遺跡から分かることは、土葬した遺体を含め墓地の一切をそのまま放置して、寺が引っ越していったことであった。

2基とはいえ墓石を運びだしたことは、極めて珍しいケースだと言える。

なお、「本誓寺」は寛永元年(1624)から朝鮮国使の宿館になっていたという記録があるらしい。

「かるら像」もこうした寺の役割と関係がありそうだ。

(『江戸ー都立一橋高校地点発掘調査報告1985.8.31』)

 

常照院(浄土宗)清澄3-4

「本誓寺」の墓地の隣が「常照院」の 墓地。

   常照院墓地

墓地入口に、なぜかこれも賀茂真淵の門下、女流歌人油谷倭文子(しずこ)の墓銘碑がある。

 全文漢字の碑文は真淵により撰文された。

関東大震災の数日後、深川の焦土の中に烏帽子型の倭文子の墓が尺ばかり土に埋もれているも無事なるを見て喜び、拓本を採った国文学者の岩本堅一は東京大空襲の後、再び「常照寺」を訪ねた。

「昭和廿年、東京は下町といわず尽く戦火に見舞われ、乏しい私の書物もまた悉く灰になって、倭文子の墓の拓本も他の拓本類と共に鳥有に帰してしまった。碑そのものはどうなったかとその後訪ねてみると無残や碑面は大方剥落して、読みうるものはわずか二百字に満たず、倭文子の墓と題した文字も『之墓』の二字だけ残っているに過ぎない」。(『岩本素白全集第三巻』

残った二百字の最後の部分は、

「嗚呼(あはれ)悲哉(かなしきかもや)。秋の風初めて起こる時に、齢廿(はたちといふよはひ)にて死(みまかり)ぬ。臨死(まかるとき)詠詞(うたよみ)せり。此れも亦唯に父母を慰(なご)為(さ)将(ず)る心而(のみ)なり。其詠詞(そのよめるうた)

比登乃與爾(ひとのよに)左幾太都古都乃(さきだつことの)奈加利世婆(なかりせば)岐里之比登藩毛(きりのひとはも)千羅受也安羅麻思(ちらずやあらまし)

いかなる力が働いたものか、碑文は前半を欠いたまま「無残に」その姿を晒している。

 臨川寺(臨済宗)清澄3-4                 江月院(浄土宗)清澄3-4

清澄通りを渡って、深川江戸資料館の通りに入る。

   深川江戸資料館通り

最初の角を左折するとそこが「雄松院」。

 雄松院(浄土宗)白河1

門をはいると左手に石塔。

焼け焦げている。

「南無阿弥陀仏下品上生即無生」とどうにか読める面もある。

九品来迎引接(くぼんらいごういんじょう)石塔というのだそうだ。

「引接」とは、「臨終に際し、仏が現れ、死者を極楽へ導くこと」と辞書にはある。

焼け焦げても残っているだけいい。

境内には、芭蕉門下の女流俳人、度会園女(わたらいそのじょ)の墓があるが、作り直したもの。

 度会園女の墓(中央)

関東大震災で元の墓は焼失してしまった。

芭蕉が園女の家に泊まったのは、元禄7年9月27日。

28日、「秋深きとなりは何をする人ぞ」を詠んで、病に伏せた。

10月8日、「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」。

その4日後の12日、死去。

死んだのは園女の家ではなかったが、容態悪化の原因は園女宅で食したキノコのせいだという噂が流れたという。

夫の死後、其角を頼って伊勢山田から江戸へ。

深川に居を構え、63歳で死去。

辞世の歌は「秋の月春の曙見し空は夢か現か南無阿弥陀仏」。

 

来た道に戻る。

歩道わきに双体道祖神がある。

東京ではめったにお目にかからないから、はっとして立ち止る。

石屋の店先だった。

商品だろうか。

看板には「創業万治元年」とある。

店の隣の「霊岸寺」が霊岸島からこの地に移って来たのが、万治元年だから寺とともに引っ越してきたのだろうか。

訊いてみたかったが、店に人影はなく、そのまま通り過ぎてしまった。

 

このあたりの町名は「白河」だが、これは「霊岸寺」に関係がある。

 

「霊岸寺」には、松平定信の墓があり、定信が白河藩主だったことことから「白河」という町名になったのです。

 

 深川寺町の中心を成している二つの寺がある。

「霊岸寺」と「浄心寺」。

万治元年に「霊岸寺」は霊岸島から移転し、「浄心寺」は新しくこの地に開基した。

その前年の明暦の大火は、江戸の町を灰塵に帰した。

「霊岸寺」も炎上した。

        明暦の大火

この大火をきっかけに大規模な都市改造が実施される。

江戸城周辺にあった寺社はことごとく郊外移転を余儀なくされた。

「霊岸寺」の深川移転は、都市改造のほんの一部でしかない。

両国橋、永代橋と架橋が相次ぎ、隅田川東岸の市街化が進む、その先兵としての移転であり、寺町創出だったことになる。

 

「霊岸寺」の境内は広い。

    霊厳寺(浄土宗)白河1

東京大空襲の戦火も寺域の深奥部までは届かなかったと見えて、松平定信と一族の墓は煤けてはいるものの損傷をうけずにある。

  松平定信の墓

「田や沼や汚れた御代を改めて清らに住める白河の水」。

田沼意次の賄賂政治の批判者としての松平定信のイメージは清廉潔白だった。

墓も老中の墓としては質素といえよう。

隣の奥方の宝筐印塔の方が立派にみえるほどだ。

だが、過ぎたるは及ばざるがごとし。

「白河の清きに魚の住みかねて元の濁りの田沼恋しき」。

洒落本作家の山京伝が詠んだのならば面白いが。

寛政の改革の風俗の取り締まりは、人気絶頂江戸のマルチタレント山京伝にも及んで、手鎖五十日の刑に処せられた。

何故、ここに山京伝を登場させたのか、彼は深川生まれの深川育ちだからです。

 松平定信の墓は扉が施錠されていて入れないが、参道左の墓域最奥にある、当寺を菩提所とする諸侯の墓は近寄ることができる。

  藩主諸侯の墓塔

越後高田、近江膳所、摂津尼崎、伊予今治、丹後峰山の各藩主の宝筐印塔、五輪塔、笠塔婆が黒こげのまま並んでいる。

松平定信の墓は、江東区唯一の国の指定史跡だが、東京都指定の文化財もある。

江戸六地蔵。

    江戸六地蔵(都有形文化財)

享保2年(1717)、江戸六街道の入口に造立された。

六街道とは、東海道、甲州街道、中山道、奥州街道、水戸街道、千葉街道。

「霊岸寺」は水戸街道の入口にあたることになる。

深川にはもう一つ、千葉街道の地蔵が富岡八幡宮の別当寺・永代寺にあったが、廃仏毀釈で寺が廃寺となり、地蔵も行方不明となってしまった。

無縁塔がある。

       無縁塔

どこの寺にも無縁塔はあるから珍しくはない気がするが、実は深川寺町の寺には全く無縁塔はない。

石仏が少ないのは、日蓮宗寺院が多いからでもあるが、やはり東京大空襲の影響が大きいのだろう。

江戸時代の石造物はほとんど残っていないのだから、「塔」などとてもできるわけがない。

 

山門の柱に「一蝶寺」とあり、傍らの石碑に「雲寺(ぎうんじ)」とある。

流罪となった三宅島から釈放され江戸にもどった画家・英一蝶が寄寓していたため、「一蝶寺」と呼ばれるが、正しくは「雲寺」。

  雲寺(臨済宗)白河2

境内に入ると2基の高い石碑が立っている。

右は「大震災殃死者紀念碑」、左は「戦災供養塔」。

いずれの時も深川は大打撃を受けたが、特に昭和20年3月10日の大空襲では、投下された430トンもの焼夷弾で焦熱地獄と化し、23000人が一晩で亡くなった。

「私たちは、立ちはだかる火のためにまだ燃えていない方へ歩き出し、ようやく、一軒の寺にたどり着いた。寺といっても下町の寺だから墓地のほかは建物で境内は広くなかった。寺の本堂に何人かが休んでいた。私は本堂を出て、階段の上から道路を見下ろした。(略)30mほど先の電柱に火の粉がつくとみるやぱっと燃え上がった。群衆は一斉に反対方向へ逃げ出した。しかし、次の瞬間、逃げる方向の寺の大きな屋根から火が音を立てて地面に吹き下ろしてきた。(略)そのような東へ揺れ西に走る群衆は結局、数十mの道路を行きつ戻りつするばかりで逃げ場はないのだった。逃げ場を失った人たちは、ついに墓地の鉄とびらをあけて、みんな墓地へ入ってしまった。このあたりの墓地は、土の部分がなく、石とコンクリートでできている。私は、墓地に入るのをためらった。これだけの大火、もし石が熱せられたら、と思ったからだ」。『東京大空襲・戦災誌』-深川区三好町ー

 深川寺町の寺の大半は、「霊岸寺」、「浄心寺」それに「雲光院」、どれかの塔頭に分類される。

まずは、三好1、三好2の「霊岸寺」塔頭から。

 蔡華院(浄土宗)霊岸寺塔頭(三好1)     正覚院(浄土宗)霊岸寺塔頭(三好1)

 長専院不動寺(浄土宗)霊岸寺塔頭(三好1)     天和3年(1683)の五輪塔

 成等(じょうとう)院(浄土宗)霊岸寺塔頭(三好1)   紀伊国屋文左衛門の碑

「紀伊国屋文左衛門は紀州出身の豪商。江戸でミカンが高騰したのを見て、決死の覚悟で舟で輸送し、巨利を得た。のち幕府の御用達商人となり、資材調達等で巨富をつんだ」。

 これが世間一般に知られた紀文像である。

だが、このほとんどは確証がないデマだとする論考がある。『深川文化史の研究(下)-近世深川の地域的特色と美意識ー』

それによれば、紀文が紀州生まれであることもミカンで大儲けしたことも、信頼するに足る書物には記載されていないからマユツバだというのだ。

年齢も確かではないらしい。

生年は不詳で、没年も「成等院」の墓には「享保3年」とあり、過去帳には「享保19年」と書いてあるという。

   紀伊国屋文左衛門の墓

 幕府の材木御用達商人として巨富を得たのは事実だが、官営の土木事業を盛んに行った元禄政治が終わりを告げ、緊縮財政の正徳の治が始まると一挙に廃業に追い込まれてしまう。

ボロ儲けが出来なくなったにもかかわらず、吉原での豪遊は続いたから、蓄財を食いつぶして急速に没落していった。

栄枯盛衰を地で行く波乱万丈の人生だったらしい。

法性寺(浄土宗)霊岸寺塔頭(三好1)   園通寺(浄土宗)霊岸寺塔頭(三好1)

㩳樹寺(浄土宗)霊厳寺塔頭(三好1)         松林寺(浄土宗)霊岸寺塔頭(三好1)

 

 勢至院(浄土宗)霊岸寺塔頭(三好1)          霊岸寺の創立者雄誉霊厳の名号碑

 潮江院(浄土宗)霊厳寺塔頭(三好2)        

摂心院(浄土宗)霊厳寺塔頭(三好2)

 

古地図を見ると分かるが、「霊厳寺」、「浄心寺」に次いで広いのが「雲光院」。

 雲光院(浄土宗)三好2

徳川家康の側室、阿茶の局が家康の許可を得て、慶長6年(1601)、神田伯楽町に開基した菩提寺。

阿茶の局は秀忠の死後、剃髪して雲光院と号した。

寺号に因んだのだろう。

寺の開基から36年後の寛永14年(1637)、83歳で没し、雲光院に葬られた。

寺は明暦の大火後、しばらくして現在地に移転して来た。

阿茶局の宝筐印塔は、墓地入口の正面奥にある。

                                     阿茶局(雲光院)の墓

墓に近づきながら、阿茶局の墓が小石川の寺にもあったことを思い出した。

帰宅して写真ファイルをチェック、あった。

「宗慶寺」に菊の紋章のついた宝筐印塔がある。

 宗慶寺(浄土宗)文京区小石川4      茶阿局の墓の宝筐印塔

ただし、解説板には「茶阿局」の墓とある。

一瞬、頭が混乱した。

表記の間違いではないかと思った。

「阿茶」と「茶阿」。

まるで冗談みたいで、二人とも同時に家康の側室だということが、とても信じられない。

だが、事実は小説より奇なり。

ふたりとも、家康の側室だったのです。

家康には16人以上の側室がいて、中でも側室三人衆と呼ばれるとりわけ強い政治力を持つ側室がいた。

阿茶局、お牟須局、茶阿局。

三人は、浜松城、駿府城時代から家康の信頼を得た側室だったらしい。

彼女たちの、側室となる経緯や人柄については、ここでは述べない。

「阿茶」と「茶阿」という紛らわしい名前の女性が同時に大奥にいたことが大事なのです。

それにしても家康は名前をいい間違えることはなかったのだろうか。

想像するだに、恐ろしい。

 

 

 

 

「雲光寺」の塔頭が3カ寺ある。

  竜光院(浄土宗)雲光院塔頭(三好2)

深川七福神の一。毘沙門天を祀る。

 照光院(浄土宗)雲光院塔頭(三好2)

一言院(浄土宗)雲光院塔頭(三好2)

三好1、三好2の寺のほとんどは「霊験寺」か「雲光院」の塔頭だから浄土宗寺院ばかり。

善徳寺だけが唯一浄土宗ではない。

 善徳寺(曹洞宗)三好2

四ツ谷に創立されたが、明暦の大火の前、寛永17年(1640)に深川に移って来た。

三好3にも1カ寺ある。浄土宗寺院だが、「雲光院」とは関係ない。

 良信院(浄土宗)三好3

これで深川寺町の前編を終える。

夫々の世界で名を成した故人の墓はどの寺にもあるのだが、一般的には知られてない名前ばかりで、意識的に割愛した。

 

建て直すとビル寺院になる寺が多い。

警備の点では万全なんだろうが、部外者がふらりと立ち寄りがたい雰囲気がある。

寺はいつも開放的であってほしいと思うのだが、勝手な願いなんだろうか。

後編は「浄心寺」とその塔頭が中心に。

 

 

 

 

 

 

 

 


30 東京都板橋区の力石

2012-05-01 16:07:55 | 文化遺産

タイトルは「東京都板橋区の力石」だが、板橋の力石に何か特徴があるということではない。

私の住まいが板橋にあるというそれだけのことです。

力石とは「労働を人力に頼らざるを得なかった時代に労働者の間に発生した力比べに使用した石」のこと。(『東京の力石』より)

石仏めぐりをしていると寺社に立ち寄ることが多い。

境内の片隅に放置されたままの力石を見かけることがある。

 氷川神社(富士見市)(放置されているわけではありません

重くて捨て去るのも容易ではない、だからそのままにしてあるというのが実情だろうか。

放置はしてあっても、価値のある文化遺産であることに間違いはない。

だから保存が急がれるのだが、その前に悉皆調査が不可欠だと立ちあがった奇特な御仁がいる。

高島慎助・四日市大学教授。

全国各地の力石を隈なく実測調査して『○○の力石』なる本を20冊近く出している信じられないほどのパワーと実行力のある学者・先生なのです。

その著書の一冊が『東京の力石』。

その板橋編がこのブログのネタ元。

もっともらしい能書きをたれていたら、それは『東京の力石』からの受け売りだと思ってください。

 

諏訪神社(大門)

諏訪神社は、荒川低湿地帯を望む武蔵野台地の突端にある。

   諏訪神社(板橋区大門)

その年の五穀豊穣を予祝する「田遊び」の神事が旧暦正月13日に行われる神社として知られている。

「田遊び」は国の重要無形文化財に指定されているが、一方の継承文化たるべき「力石」は休憩ベンチの傍らにゴロンと3個転がっている。

そのいずれにも「奉納十羅刹女神」と刻されている。

ネットで検索してみた。

「十羅刹(じゅうらせつ)女神」とは、鬼子母神の娘で「人の精気を奪う鬼女・人を食べるバラモンの悪鬼」であるらしい。

なんで諏訪神社にバラモンの悪鬼なのか、いぶかったが、神社の解説板を読んで納得。

「寛永7年(1630)、十羅刹女を配祀したが、明治になっての神仏分離の際これを排した」とある。

メインの諏訪大明神ではなく、サブの十羅刹女神に力石を奉納する理由は何か、ご存じの方、教えてください。

 

天祖神社(西台)

鳥居をくぐると見下ろすように境内が広がっている。

力石は3か所に分散して置いてある。

『東京の力石』には11個の力石があると書いてあるが、7個しか見つけられなかった。

まず鳥居をくぐってすぐの階段わきに2個。

「天王四十五メ余」、「奉納五十五メ」と読める。

四十五メは四十五貫目。

米1表の16貫が担ぐ最低重量で、20-30貫あたりが標準的な力石だったらしい。

「切付け八掛け」という言葉がある。

これは力石の重量の刻字は、その八掛けが正味重量だということを意味する。

なお、「天王」は本殿左脇の「八雲神社」の「天王さま」のこと。

 「天王さん」こと「八雲神社}

 掲示板の下に目立たぬように3個。

「天王さま」左の小さな石祠の前にも、力石が2個立っている。

7個のうち、一番重いのは、70貫だった。

力石とは無関係だが、この天祖神社には、石棒がある。

板橋区では唯一の石棒ではなかろうか。

珍しいので写真を載せておく。

明治7年に京徳観音付近で発掘されたものと解説板にはある。

 

氷川神社(蓮根)

板橋区には、氷川神社が8社もある。

いずれも大宮の氷川神社を本社としている。

 氷川神社(蓮根)

秋祭りは、大宮から一番遠い神社から始まって、大宮に最も近い神社で終わるのだと、これは氷川町の氷川神社の氏子総代の話。

蓮根氷川神社の力石は、「御嶽山」社が頂上に祀られている塚の下段部分にはめ込まれている。

石の下半分は埋まって、注意して見ないと見逃してしまいそうだ。

 板橋区には指定文化財の力石はないが、文化財指定の力石がある区は多い。

「神田神社」(外神田2)の力石は千代田区指定有形民俗文化財だが、千代田区教育委員会は力石を次のように説明している。

「力石とは、一定重量の大小の円形または楕円形の石で、村の鎮守、神社境内、会所や村境(今日の行政単位の村ではない)にあって、若者達が力試しに用いたと記録されています。古来、わが国民間信仰では石に係わる信仰は多く、石に神霊がこもる、あるいは石を依代としいる神々も多いとされています。(中略):境内にある力石の由来は詳らかではないが、江戸・東京の若者達の生活と娯楽の一端を知るうえで貴重な資料である」。

 

 稲荷神社(若木)

参道左に古木が立っている。

その木を囲んで石が円計状に並べられている。

その内の3個が力石だというが、刻字のある石は1個だけ、残りは自然石のままだから、分かりにくい。

「奉納 四拾五貫目 中台邑 若中」と刻字されている。

しかし、力石に使用される石は滑らかな楕円形と決っているから、意外に断定しやすい。

表面に凹凸がなく滑らかなのは、わざと持ちにくくしたためであり、体に傷をつけない配慮でもあるらしい。

この稲荷神社のケースは、文化財保存というよりも廃物利用の感が強いような気がする。

 

西熊野神社(前野町)

氷川神社だらけの板橋区にあって、前野町には熊野神社が2社もある。

東西に分けて、こちらは通称「西熊野神社」。

鳥居をくぐると 力石が二つある。

『東京の力石』には、4個あると書いてある。

探したら、あった。

捨てられたようにゴロンと転がっているので、力石だとは認めがたいが、よく見ると刻字されている。

「奉納 四拾メ目 嘉永五子年七月吉日 繁田久右エ門」。

鳥居脇の力石の一つにも同じ名前がある。

そして、3個目には「繁田太郎吉」と刻まれている。

どうやら奉納者の名前のようだが、怪力の父子か兄弟の名前だと面白いのだが。

なぜなら、スーパー力持ちはその名を石に刻むのが通例だったからです。

幕末から明治にかけての力持ちのスーパースター三ノ宮卯之助の場合、35個もの力石にその名が残されている。

彼は22歳の時、70貫の石を持ち上げたという。

 稲荷神社(桶川市)の大盤石(三ノ宮卯之助が持ち上げたとされる力石。推定610キロ)

そして、力持ちの興業を始めるのだが、最も得意とする芸は馬に乗った人を乗せた舟を持ち上げる「人馬舟持ち上げ」だった。

同じ頃、もう一人、怪力でその名を馳せた男がいる。

鬼熊。

熊遊の碑(「浅草寺」にある力石。鬼熊が明治7年に持ち上げた。石の重量は百貫=375キロ)

『絵本風俗往来』ではその怪力ぶりを以下のように描写している。

「鬼熊はもと鎌倉河岸酒店豊島屋抱えの樽転(たるころ)なりしよし。安政頃のことなりけるが鬼熊醤油樽壱個づつを両手に提げ二個の四斗樽の太縄に足首をかけて下駄となし柳原堤をあゆみしを見るもの空樽なるべしと思ふに左にあらず。皆実あるものにて人々いよいよ膽を冷し鬼熊と呼びしは道理なり」。

 

長徳寺(大原町)

力石のある、板橋区では唯一の寺院。

山門から本堂への参道左側に石仏が並び、そのはずれに力石が5個置かれている。

長徳寺の正面が山門。本堂寄りに力石。

中の一つに「寿命石」と刻された力石がある。

「寿命石」としては、滋賀県多賀町の「多賀神社」の石が有名だが、何か関係があるのだろうか。

多賀神社の寿命石(滋賀県多賀町)

 

御嶽神社(桜川)

御嶽神社の力石はすぐには見つけられなかった。

力石として保存されているのではなく、本殿への石段と並行する坂道の縁石として使用されていたからです。

力石は必ず刻字されているとは限らない。

自然石の力石も多い。

『東京の力石』では、御嶽神社の力石は2個と記載されているが、これは刻字力石のことで、自然石を入れれば、3、4倍にはなりそうに思える。

縁石をひっくり返して見なければ、正確な数字ははじき出せないから、あくまでも想定の数ではあるが。

刻字のある石には「二十三貫目 栗原村」と刻まれている。

 今の桜川がその昔栗原村だったのかどうか、寡聞にして知らないが、他村であったら面白い。

と、いうのは、自力で担いで運ぶのなら、盗まれても文句は言えない不文律があったからです。

(調べてみたら、桜川は栗原村だった。)

 

 

氷川神社(東新町

広い境内の一角に郷土博物館があり、その建物の前に力石が6個整然と置いてある。

 氷川神社の郷土博物館                   郷土博物館前の保存力石

『東京の力石』では、「簡易保存」されていると書いてあるが、「簡易」ではない「本格保存」はどのような状態を指すのだろうか。

本格にせよ、簡易にせよ、今や力石は保存対象となってしまっている。

しかし、昭和初期までは全国のどの町村でも力比べが盛んに行われていた。

フオークリフトやベルトコンベアに委ねられている物資の運搬は、過去にはそのすべてが人力で行われてきた。

そのために男たちは、体を鍛え、体力を培って、時には力自慢を競い合った。

海鮮問屋では重さの異なる力石を担がせて、賃金を決めていたという。

16貫(60キロ)の米一俵を担ぐのが、大人への通過儀礼であり、米俵を用いての力比べはどこでも行われていたが、俵は変形しやすく、代わりに石が用いられるようになった。

石担ぎは、以下のような順序で行われる。

姫路市魚吹神社の石担ぎ(姫路市のHPから)

まず地面に立てた力石をしゃがんだ状態で抱える。

次に力石を膝の上に乗せ、身を反らせるようにして立ち上がる。

腹の上で力石の下部に手を移し、肩の上に担ぎあげる。

重量としては、20貫から30貫前後、90キロから100キロくらいが最も多く、中には50貫、100貫というのもある。

担ぐのに失敗して大けがをするケースも絶えなかったと言われている。

 

氷川神社(大谷口上町)

参道右の手水鉢奥に5個の力石が展示されている。

中の1個は刻字が朱色。

「奉納 三十八貫目余 上板橋藤八」と読める。

他の石も朱文字だったのに、朱色がはげ落ちてしまったのだろうか。

5個のうち3個に「勇太郎」の名前がある。

どんな男だったのだろうか。

 

これで「板橋区の力石」は終わり。

全部で44個。

東京には約1200個の力石があるそうで、一つの区としては平均値だろうか。

 

読み返してみたが、つまらない。

つまらない原因は、『東京の力石』をなぞっただけで、新しい発見が何もないことにありそうだ。

44個の他にも力石はあるのか、改めて探してみるつもりだ。

また、個々の力石に纏わる逸話もほしい。

例えば、「勇太郎」の人物像など。

新しい写真と聞き書きをいつか追加したいと思っている。