風月庵だより

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自己に学ぶ

2007-06-16 23:36:18 | Weblog
6月16日(土)晴れ【自己を学ぶ】

先週も龐蘊ほううん居士(龐居士)から禅を学んだが、今日も再び居士の悟りについて学んでみたい。『景徳伝燈録』には次のような記載がある。

〈原文〉
問馬祖云、不与万法為侶者是什摩人。祖云、待汝一口吸尽西江水即向汝道。居士言下頓領玄要。
〈訓読〉
馬祖ばそに問いて云く、「万法と侶ともたらざる者、是れ什摩人なんびとぞ」祖云く、「汝が一口に西江の水を吸い尽くすを待って、即ち汝に道わん」。居士、言下に玄要を頓領す
〈試訳〉
馬祖に(龐居士は)尋ねた。「一切の存在とともでない者は、どのような人でしょうか」と。馬祖は答えた。「おまえさんが一口に西江の川の水を飲み干したなら、おまえさんに云ってやろう」と。居士はその言葉を聞くやすぐに、玄妙なる理を悟った。

一切の存在とともならざる、とは一切の存在を超越するような者、と言い換えてみよう。そのような者がいるのか、おまえさんそんな馬鹿なことを聞いてどうするのだい、と馬祖は言いたいところを、西江の川の水を飲み尽くしたら云ってやるよ、と答えたと言えるだろう。

龐居士は馬祖に参じる前に石頭希遷のところに参じていることは先週書いたが、『龐居士語録』や『宗門統要集』には石頭にも「万法と侶たらざる者、是れ什摩人」と質問していることが書かれている。それに対して石頭は手で居士の口を掩おおったところ、龐居士は豁然として悟った、と書かれている。

おっと、そんな質問はしてはならない、というところを、石頭は龐居士の口を掩おおって、それを示したといえようか。

一切の存在以外に別の何かがあることを設定することの非を、二人の禅師はそれぞれの方法で示したことをみることができる。一切の存在以外に何か別ものを問題にして、それが一体何になるのだ、修行の本体はお前自身ではないのか、お前自身だろう、しっかりしろ、と二人の禅師は諭しているとも受け取ることができるだろう。

このように、解してみたが如何であろうか。禅のやりとりは私にはなかなか分かりづらいので、先人の書かれた解説書を読んだり、フクロウ博士に教えて頂いたり、やっとこのように自分なりの言葉にかみ砕いてみたのではあるが、果たして如何であろう。自己の研鑽のとしてのログなのでともに学んでみていただければ幸甚です。

ちょっと別のことであるが、龐居士は、石頭のところでも認められたが、馬祖のほうの弟子になるのは、石頭の無言の示唆よりも、馬祖の川の水を全部飲み尽くしたら教えてやろう、というような禅風のほうにうまがあったのではなかろうか。

それぞれ師と弟子となる縁は、機縁が叶うという、分かりやすく言えば、うまが合う、ということでしょう。

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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
機縁 (ぜん)
2007-06-21 21:32:38
本日、届きました。
いつもながら、お気遣いありがとうございます。
感慨が残っているうちに読んでみたいと思います。

弟子師匠の機縁というのは、ふしぎなものですね。
相性というものがあるのでしょうか。
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ぜんさんへ (風月)
2007-06-29 17:20:04
返事が遅くなりました。すみません。また風邪を引いて寝込んでいました。

聖徳太子については面白い話がいろいろあるようです。ご参考までに。いつもお節介にて失礼いたします。
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