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老いてなお求道にこころざす趙州に学ぶ

2007-03-03 23:04:03 | Weblog
3月3日(土)晴れ【老いてなお求道にこころざす趙州に学ぶ】

唐代の禅僧、趙州從諗じょうしゅうじゅうしん(778~897)は『正法眼蔵』「行持巻」では「とし六十一歳なりしに、はじめて発心求道をこころざす」と書かれている。それで世寿は百二十歳とされている。

大変に長寿である。発心されたのも六十一歳の晩年、と思っていたが、どうもそうではないようで、『景徳伝燈録』などの史伝にはこのことは記されていない。これは道元禅師が入宋にっそうされた宋代の伝承であろう、と駒澤大学の石井修道先生はその著『中国禅宗史話』(禅文化研究所、1988年発行)及び『正法眼蔵行持に学ぶ』(禅文化研究所、2007年発行)に書かれている。

今日、趙州禅師(以下恐縮なれど禅師は略)について書いてみようかと思ったのは、還暦を迎えた自分自身にも元気を与えたい意図による。もう少ししっかりと修行しなくては、とも反省するからなのである。

六十一歳にして剃髪したのではないにしても、老いても修行し続けた趙州であったことは紛れもない事実であろう。諸方を遍歴し、八十歳にしてはじめて趙州城の観音院の住職になったことは『趙州録』に記載されている。それまでは一修行僧(叢林においてそれなりのお役についてはいたであろうが)であったわけである。

老いてなお修行し続ける姿には勇気づけられるのではなかろうか。年老いていくことに、人はふと寂しくはないだろうか。私はふと寂しくなる。そんなとき趙州の足跡を辿ろうと思ったわけである。

趙州の師は南泉普願なんせんふがん(748~835)である。南泉禅師に参じたのは二十八歳頃であり、それから南泉の示寂まで三十年ほど南泉に師事していたのではないか、と石井先生は同じく書かれている。


今日は南泉との平常心是道について紹介します。
〈原文〉
異日問南泉。如何是道。南泉曰。平常心是道。師曰。還可趣向否。南泉曰。擬向即乖。師曰。不擬時如何知是道。南泉曰。道不属知不知。知是妄覚不知是無記。若真達不疑之道。猶如太虚廓然虚豁。豈可強是非邪。師言下悟理。(『景徳伝燈録』巻十T51_p276c)
〈訓読〉
異日南泉に問う。如何なるか是道。南泉曰く、平常心是道。師曰く、還た趣向すべきや否や。南泉曰く。向かわんと擬すれば即ち乖そむく。師曰く。擬せざる時、如何いかんが是れ道なるを知るや。南泉曰く。道は知と不知とに属さず。知は是れ妄覚、不知は是れ無記。若し真に不疑の道に達せば、猶お太虚は廓然として虚豁なるがごとし。豈に是非を強いるべきや。師、言下に理を悟る。
〈試訳〉
(趙州は)後日南泉に尋ねた。「道とはなんでしょうか」。南泉は答えた。「平常心が道である」。師(趙州)は尋ねた。「目的を定めたほうがよいでしょうか」。南泉は答えた。「目的を定めるならば途端にはずれてしまう」。師は尋ねた。「目的を定めないで、どうして道であることを知ることができるでしょうか」。南泉は答えた。「道は知とか不知とかの領域ではない。知とは誤った分別であり、不知は無記(この訳はいずれまた)もし、本当に目的を定めない道に到達したならば、ちょうど大空のように、からりとし、ひろびろとしているようだ。どうして是とか非とか強いることがあろうか。師はその言葉でただちに悟った。

南泉の家風を充分に学びきった趙州古仏(道元禅師は趙州を古仏と称されている)は、南泉の説く「平常心是道」を、「洗鉢」話や「喫茶去」話にあらわされているようにさらに親切に言葉を尽くして、学人(修行者)を教え導いている。喫茶去については以前紹介したので、洗鉢についてはまた後日書かせていただきたい。

南泉の師、馬祖道一(709~788)も「平常心是道」を説いたが、二人の違いについてはさらに参究してから、書かせていただきたい。南泉と趙州の問答における「平常心是道」は、趙州の勝れた問いによって、さらに深い問答が交わされたといえよう。

平常心とは単に日常の心ではない。あくまでも修行する日々における行住坐臥である。而今(いま)此処(ここ)に於いて切なる日常であり、ただ漫然と送る日常のことではない。また何かを得ようとしての修行ではなく、ひたすらな黙々とした専一な修行である。仏道修行をしている出世間の問答を、世俗的に都合良く解釈してしまうと、本意を間違えてしまうだろう。

さて今日は桃の節句、女の子の成長を願ってお雛様を飾った幸せなご家庭も日本のあちこちに見られたことだろう。ご無事な成長を願いつつ。

*『景徳伝燈録』景徳元年(1004)成立。永安道原撰。過去七仏より法眼文益の法嗣にいたる1701人の悟りの機縁の機語などを収録している史伝。俗に「一七〇〇則の公案」ともいわれる。

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4 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
うさじいさんへ (風月)
2007-03-06 07:30:31
馬祖のいう平常心是道を参究してみて南泉の言うこともさらに読み足らなかったことが分かりました。

やはり価値判断をやめ、空を説いている、と解釈すべきと思いました。釈尊の説くところと同じです。ブログに書き足したいのですが、コンピゥーターが編集画面に繋がらなくなりましたので、復旧したら書き足します。

しかしこの画面には繋がるのに、編集画面だけ駄目とは器械は難しいです、私には。
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有難うございました (うさじい)
2007-03-05 03:16:42
「それはそれ」懐かしい響きです。
風月庵さんから聞くと、なお一層身近に感じます。
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うさじいさんへ (風月)
2007-03-04 17:25:04
お雛様たちが飾ってもらって、なんとなく喜んでいるような感じがします。

奥様もお喜びの様子が楽しいです。私も姉はお雛様の前の写真があるのですが、私の子供時代ネズミにかじられてしまったとかで、もう飾ってはもらえませんでした。

さて禅的とらえ方と、釈尊の教えの整合性についてですが、私自身この疑問で仏教は一体どんな教えなのか分からないで悩んだ時期があります。

中国を通過しないで、法句経のような経典が日本にストレートに入っていたら、日本の仏教も随分異なっていたように思います。

漢字文化に焼き直されて、教えがさらに分かりづらくなっていますが、御前さんがよくおっしゃっていた「それはそれ」として別々に理解し、これも仏教、それも仏教ということになるのでしょうか。勿論、それを導き出すこれあってのそれですが。

平常心是道というとらえ方は、かなり釈尊の教えと重なると思います。

「不知是無記」の解釈も私にはよくわかりません。「趣向」の訳も果たして、これでよいかまだもう少し考えねばなりません。難しいです。だからといってインド仏教のほうが和訳されている文章を読んで分かりやすいかというと、これまた難解です。

道元禅師の『正法眼蔵』においてはさらに難解ですし、様々な解釈があり、本当は何をおっしゃりたいのですか、と直接尋ねたくなります。少しずつ学び、僧侶として修行していくしかありませんですね。お互いに精進あるのみですが、頑張りましょう。
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飾りました (うさじい)
2007-03-04 15:31:54
私のところもお雛様を飾りました。
姉の姪っ子のお雛様が、兄の姪っ子に引き継がれ、使われていないお雛様が可愛そうだと、内の嫁が引き取りました。

その嫁は、7人姉妹の下から3番目。自分のお雛様を持った事が無かったので、子供のようにはしゃいでおります。

>「若真達不疑之道。猶如太虚廓然虚豁。豈可強是非邪」


祖師方のさっぱりしたものの言い方が潔くて、格好良すぎる感じがします。
人間の小さな物差しを外した考え方と、倫理の教えである仏陀の言葉との整合性に疑問を持つこともありまが、どうなんでしょう?
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