風月庵だより

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光市母子殺害事件に思う

2006-06-20 23:10:24 | Weblog
6月20日(火)晴れ暑し【光市母子殺害事件に思う】

1999年4月14日に起きた光市の母子殺害事件に対して、今日最高裁の判決が下された。死刑を求めた検察側の上告を認め、広島高裁の無期懲役判決を破棄し、審理を高裁に差し戻す、というものであった。

本村洋さんの妻の弥生さん(当時23歳)と長女の夕夏ちゃん(当時11カ月)が元少年Aによって、非情な殺害に遭ってしまっってから、はや7年が経つ。元少年Aの野獣のように残忍な手段にかかって、死んでいった二人の無念と、残された夫であり父である洋さんの更なる無念を察すると、無期懲役という判決は納得のいかないものであったと思う。

この事件のように明らかに犯人が特定され、犯した事件の全容が明らかにされている場合は、冤罪の過ちは決してないのであるから、厳罰が下されてしかるべきでは無かろうか。
被害者の人権が全く無視されている状態は、本村氏など犯罪被害者の会の活動やマスコミによって喚起された世論の力などにもよって、多少は少しずつ改善されているようではある。

しかし加害者の更正という美名のもとに、犯した罪に相応しい判決が下されていない事件が多いのではなかろうか。特に18歳、少年法の規制があるが、18歳と言えば立派な大人である。十分に判断のできる年齢だ。もし18歳にもなって殺人は人間として犯してはならないことだ、と判断できない人間であるとしたら、なおのこと社会復帰させることは大問題である。

勿論元少年Aの更正を私も心から願っている。更正とは自らの犯した罪の深さを知ることであろう。良心に目覚めたとき彼は真に救われるからである。更正=社会復帰ではなかろう。


無期懲役という判決は文字通りに無期懲役ではなく、減刑され社会復帰の可能性が大きいのである。この元少年が、今や25歳になっているが、知人に送った手紙に「何年かすれば社会に復帰」できることや「死んだ二人はどうせ戻ってこない」というようなニュアンスのことを書いているようである。このような状態の被告に思い通りの判決を下すことは被告の更正を促すものとはならないだろう。

このような人間が再び事件を犯す可能性は、全くないとは言えないし、犯した罪相応の罰を受けることは当然のことであろう。もしこの加害者の罪を犯した年齢が18歳に近い年齢であったと言うことを理由に、無期懲役の判決を再び下されるようなことになったら、社会に対する悪影響は想像を絶するものがあるだろう。

この元少年の弁護人は死刑廃止論者として有名な方であるが、この被告の犯した殺人さえ誤魔化そうとしていることは、この被告に対してもっとも悪いことである。本当に彼の更正を願うのならば、罪を認めさせて人間の心を取り戻させる事が大事ではなかろうか。

神谷信行弁護士という方の講演を聞いたことがあるが、この方は殺人事件を起こしたある少年の弁護を担当なさったそうだが、この少年が良心に目覚めるように心をくだかれた話しであり、感銘を受けた。単に裁判において軽い判決を勝ち取ることが、被告の更正につながるとは思えない。

しっかりと事と次第を見極めなくては、社会は崩壊してしまう。この元少年Aのような人間がどうしてできてしまったのか、この元少年Aも生まれついての犯罪者ではない筈だ。少年をとりまく環境全てが反省し、社会にそして天に謝罪しなくてはならない。

しかし元少年Aの犯した罪は消えない。人の命を奪う殺人という行為は人間として絶対に犯してはならない行為である。この裁判を通しても社会に強くこのことを伝えなくてはならないことだ。

弥生さんと夕夏ちゃんになんと言ったらよいのだろう。ご冥福を祈る言葉だけでは空しい。

子どもや少年が安易に殺人を犯すような社会の状況をなくそう、この問題にみんなで真剣に取り組もう、殺人に駆りたてるような一切のゲームを禁止しよう、子どもには暖かい手作りの食事をたべさせよう、秩序ある社会をつくろう、拝金主義の愚かしいことを社会が認識しよう、子どもたちが優しい心を持てるような環境をつくろう,子どもたちに背筋を伸ばすことを教えしっかりと判断のできる人間に育てよう、等等、、、

お二人に捧げる言葉は社会の反省の言葉、私も社会の一人の構成員である。社会悪に対して無力であることを深くお詫び致します。
 
7年間苦しみ抜いてきた本村さんの言葉を紹介しておきたい。「被告は18歳以上。刑法でも死刑を認めている。何とか人間の心を取り戻して死刑を受けてほしい。悔い改めてもなお、命を落とさなければ償えない罪がある。その残酷さを知って、犯罪が起こらぬようにする方法を社会は考えなければならない」。

この元少年の母は彼が中学生の時に自殺してしまったという。母の無条件の愛の手が傍にない被告の寂しかったであろう心には同情し、気の毒であると思うが、そうであるからといって犯した罪は許されるものではない。

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4 コメント

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Unknown (雲出川荒大)
2006-06-22 05:28:03
風月さん こんにちは

このような事件は、文字にするのも辛い気がします。

人間の心を失ってしまって、自分勝手な性欲の捌け口としてしか他人を捉えることが出来ない殺人者に、一体何の更生を見るのでしょうか。

この世での存在には無理があるので、あの世で更生をしたら良いのでは・・・、と思っています。

そうでなければ、この世の仕組みが崩壊しそうです。

悲しい、そして救いのない事件です。

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 (風月)
2006-06-22 12:53:51
日本中がサッカーに沸いていますのに、この事件を取り上げますのは辛いことですが、ブログを書き始めた以上は逃れられないことだと思いました。



彼の成育暦に母親の自殺などがありますが、それが情状酌量の理由にもなりえないことです。



ただ恵まれて育った人間には判らないことが多くあるでしょうし、同情すべき事はあるでしょう。しかし私の小さい頃も結構悲惨なことがありますので。ただ私の場合は母が強く居てくれたと言うことがあり、子どもがなんとか道を間違えないで行くには、これに尽きるのではないかと思うのです。



犯した罪から目をそむけさせるような、誤魔化させるような、弁護士の死刑廃止論者の弁護は危険であると思います。



コメント有り難うございました。
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風月さんへ (km)
2006-06-24 23:43:38
ぜんさんのリンクにあったので、風月さんのブログはこちらだと思い、やって参りました。

いつもありがとうございます。



本村洋さんの姿がテレビに映ると、真っ当なことを訴えながら一人戦っている様子に涙が出そうになります。

加害者の更正の機会だとか人権だとか言う人がいますが、奪われた命の重みは? 被害者の気持ちや人権は? といつも思っていました。

人権とは人の権利。でもこのような被告は人でなし・・・

殺人の場合、あだ討ちを認めないのならば、被害者(遺族)が刑罰を決めることができたら、と思います。死刑を求める人も当然いて、もしかしたら死ぬまで刑務所と禁固100年などを求める人もいるでしょう。

今回、本村さんは死刑を求めている。それならば死刑にすべきだと私は思います。
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kmさんへ (風月)
2006-06-25 09:47:17
コメント有り難うございます。

実はブログ上の自分の記事ですが、死刑についての意見に重いものを感じまして、先週はとても他のことを書けませんでした。



世界の片隅で私が何を吼えようと何の力にもならないというのに、一人舞台で苦しんでいると自嘲しています。



しかしこうして他の方のコメントを頂きみんなで意見を交換し合い、社会のいろいろな事件を考え合っていくことは大事なことだと思います。



たまたま昨日kmさんのコメントを見ませんでしたが、私も100年の刑ということについて考えました。



しかし本当に良心に目覚め、自らの罪の重さを自覚したときに、その人にとって死刑は救いになるのではないかとさえ思いました。



フイリピンでは死刑廃止の法律が議会を通ったそうです。



本当はこのような刑を科さなくてもよいように、凶悪な事件を人間が起こさないようになれば最もよいのですが。
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