世間話をしないという私の気質が影響しているかもしれないが、じつは,出逢っていたとき以外のNさんのことをほとんど知らない。熊谷に生まれ育ったことは知っているが、どこの高校を卒業したのか、何人兄弟姉妹か、親御さんはどういう人であったかなど、まったく知らずにきていた。Nさんの奥様の話を聞いていて印象的だったのは、結婚したとき彼が奥様に言ったという言葉だ。
「オレはバカだから、あなたは仕事を続けてしっかり世の中のことを勉強して下さい」
十人兄弟姉妹の末っ子だったNさんは高校を出てすぐに就職した。そのことを指していたと奥様は「解釈」していた。それを聞いて思いだしたことがある。中学のときによく言葉を交わしていた近所のイワサ君が,高校受験に受からなかった。それはなぜかワタシの所為でもあるように感じられて暫く心に引っかかっていた。当時岡山県は小学区制で、私の住む町には全日制高校はひとつ、定時制高校がひとつしかなかった。大学へ行ってから当時の進学率を調べたら全国平均で、全日制高校へ35%、定時制高校へ15%、合計50%であった。田舎とは言え大企業の有する造船や金属鉱業の町であったから、たぶん全国平均くらいはあったと思うが、残り半分は中学を出てすぐに就職したのであった。そこからさらに大学に進んだのは,4年制大学が7%、短大を含めて10%を少し超えたくらいじゃなかったろうか。昭和36(1961)年、のことである。5年遅れで団塊の世代が高校・大学へ進学する頃、学校設立が追いつかず受験競争が厳しくなった。「15の春を泣かせるな」というキャッチコピーが飛び交ったのもその頃、1960年代の後半であった。埼玉でも高校増設が進み始めたのは1972年以降。1973年までは「金の卵」である「集団就職」の子どもたちが大勢、私の勤める定時制高校に入学してきていた。新潟、山形、秋田などから中卒と同時に家を離れ、定時制へ通わせるのを条件に就職してきた人たちであった。それを考えると、その頃までは中学卒が普通、高校卒は半数ほど、大学へ行くのは1、2割だったろう。Nさんが何を素に「オレはバカだから」といったのかわからないが、彼の仕事回りに「大学卒」の肩書きを持った人たちが多かったせいかもしれない。奥様も大学を出ている。だがNさんのその恒なる自意識が、他者に対する寛容につながったと思う。
会計処理が人類史的な記録の出発点と前回記した。往々にして、記録に達者な人は粘着質の厳格性を持っているから、他者を見る目が厳しい。同時に他者に対しても厳格厳密を要求することが多い。ところがNさんはしばしば出くわすアクシデントに対して「人のすることですから・・・」と鷹揚な態度を崩さない。ポイントさえ押さえておけば、後は自在に振る舞って,しかし始末はきっちりとついているという成り行きを見て取るような視線を欠かさなかったからであろう。要点は外さない。しかし、形式にこだわるのではなく、最終的な着地点をきちっと決める。前回お話しした、A3の紙をA4に折り畳むやり方のように、始発点と終着点はピシッと決めるが途中経過は自在になっているという振る舞い。文字通り「始末をつける」ことは外さないが、あとは「人のやることですから・・・」という視点を恒に保っている姿が、Nさんの立ち居振る舞いの神髄であったように感じている。言葉を換えて言うと、私にとって彼の振る舞いは人類史が連綿と受け継いできた作法の哲学的な示唆となった。
そうそう、それでさらに想い出した。寡黙振る舞いの人・Nさんは、グルーピングの発行する機関誌に文章を書くのが苦手であった。それがなぜかはわからないが、言葉にするまでに彼の身の裡に右往左往するイメージに言葉を与えるのに手間取っていた。他の原稿はすでに出そろって印刷過程に入り、折りたたみ作業をする脇で、ページを埋めるのに呻吟する彼の姿をよく目にした。いろんなことにちゃらんぽらんでいい加減であった私は、テキトーなところで折り合いをつけて、ま、こんなことで良いだろうとか、時間が来たから仕方がないと思って切り上げる。ところがNさんは、これが出来ない。どうしてだろう。ひとつは、前記した紙折り作業のポイントのように、どこを押さえたら後は自在に(考えても)成り行きが結論に導いてくれる道筋を探していたのではないだろうか。
もう一つ思い出すのは、1972年頃だったと思うが、九州への遠征をしたときの文章で彼が「見るということは見られるということである」という文章を書いたことがあった。九州の柳川や福岡の旧炭鉱町の人たちの暮らし方を見てくる旅で彼が、つねに見られていることを意識していたことが記されていた(と思う)。自分たちのアクションがどう外部世界をつかみ取ってくるかが交わされるなかでNさんは、自分たちのアクションが、現地の人たちにどう見えているかをイメージしていたことを端的に表現した言葉であった。
これも哲学的な示唆を私にもたらした。「(外部を)見る」ということは「見られていることを意識する」ことを通して、じつは「(わが身の裡を)見ること」であると、関係的にわが身を世界に位置づけて見て取ろうとする視線である。生物学者なら「動態的に存在するワタシ」といったであろう。つまり世界を見て取るというのは、わが身を見て取ることと同義である。わが身は人類史だという身体感覚をNさんがもっていたのではないかというのが、私の見立てである。私はいま、ワタシが人類史だとほぼ確信に近い感触をもっている。
半世紀経って、ささらほうさらの付き合いが到達した地点がここである。この起点に「オレはバカだから・・・」という世界への位置づけがある。私はそれを「germ/黴菌、邪魔物、萌芽」と表現してきた。取るに足らない存在のワタシがみているセカイを描き出さずにはいられないヒトのクセという出発点が、人生の最後に辿り着いたところというのは、何とも皮肉にみえるかもしれない。でも、Nさんに倣って、「死ぬということは,死なれることである」と自動詞と他動詞とを混淆し、関係的に位置づけることで、Nさんをいつまでもわが身の裡で活かしつづけたい。そのわが身はいずれ、どこかで誰かに受け継がれ、germが世界の震えに作用する。
そうした関わりがカタチを成し、それが崩れて混沌としたイメージとなり、また姿を変えて変転する。それが人類史であり、生命体史であり、動態的世界である。その一瞬の有り様を永遠と呼んでいる。そんな気持ちが、いま働いている。
「オレはバカだから、あなたは仕事を続けてしっかり世の中のことを勉強して下さい」
十人兄弟姉妹の末っ子だったNさんは高校を出てすぐに就職した。そのことを指していたと奥様は「解釈」していた。それを聞いて思いだしたことがある。中学のときによく言葉を交わしていた近所のイワサ君が,高校受験に受からなかった。それはなぜかワタシの所為でもあるように感じられて暫く心に引っかかっていた。当時岡山県は小学区制で、私の住む町には全日制高校はひとつ、定時制高校がひとつしかなかった。大学へ行ってから当時の進学率を調べたら全国平均で、全日制高校へ35%、定時制高校へ15%、合計50%であった。田舎とは言え大企業の有する造船や金属鉱業の町であったから、たぶん全国平均くらいはあったと思うが、残り半分は中学を出てすぐに就職したのであった。そこからさらに大学に進んだのは,4年制大学が7%、短大を含めて10%を少し超えたくらいじゃなかったろうか。昭和36(1961)年、のことである。5年遅れで団塊の世代が高校・大学へ進学する頃、学校設立が追いつかず受験競争が厳しくなった。「15の春を泣かせるな」というキャッチコピーが飛び交ったのもその頃、1960年代の後半であった。埼玉でも高校増設が進み始めたのは1972年以降。1973年までは「金の卵」である「集団就職」の子どもたちが大勢、私の勤める定時制高校に入学してきていた。新潟、山形、秋田などから中卒と同時に家を離れ、定時制へ通わせるのを条件に就職してきた人たちであった。それを考えると、その頃までは中学卒が普通、高校卒は半数ほど、大学へ行くのは1、2割だったろう。Nさんが何を素に「オレはバカだから」といったのかわからないが、彼の仕事回りに「大学卒」の肩書きを持った人たちが多かったせいかもしれない。奥様も大学を出ている。だがNさんのその恒なる自意識が、他者に対する寛容につながったと思う。
会計処理が人類史的な記録の出発点と前回記した。往々にして、記録に達者な人は粘着質の厳格性を持っているから、他者を見る目が厳しい。同時に他者に対しても厳格厳密を要求することが多い。ところがNさんはしばしば出くわすアクシデントに対して「人のすることですから・・・」と鷹揚な態度を崩さない。ポイントさえ押さえておけば、後は自在に振る舞って,しかし始末はきっちりとついているという成り行きを見て取るような視線を欠かさなかったからであろう。要点は外さない。しかし、形式にこだわるのではなく、最終的な着地点をきちっと決める。前回お話しした、A3の紙をA4に折り畳むやり方のように、始発点と終着点はピシッと決めるが途中経過は自在になっているという振る舞い。文字通り「始末をつける」ことは外さないが、あとは「人のやることですから・・・」という視点を恒に保っている姿が、Nさんの立ち居振る舞いの神髄であったように感じている。言葉を換えて言うと、私にとって彼の振る舞いは人類史が連綿と受け継いできた作法の哲学的な示唆となった。
そうそう、それでさらに想い出した。寡黙振る舞いの人・Nさんは、グルーピングの発行する機関誌に文章を書くのが苦手であった。それがなぜかはわからないが、言葉にするまでに彼の身の裡に右往左往するイメージに言葉を与えるのに手間取っていた。他の原稿はすでに出そろって印刷過程に入り、折りたたみ作業をする脇で、ページを埋めるのに呻吟する彼の姿をよく目にした。いろんなことにちゃらんぽらんでいい加減であった私は、テキトーなところで折り合いをつけて、ま、こんなことで良いだろうとか、時間が来たから仕方がないと思って切り上げる。ところがNさんは、これが出来ない。どうしてだろう。ひとつは、前記した紙折り作業のポイントのように、どこを押さえたら後は自在に(考えても)成り行きが結論に導いてくれる道筋を探していたのではないだろうか。
もう一つ思い出すのは、1972年頃だったと思うが、九州への遠征をしたときの文章で彼が「見るということは見られるということである」という文章を書いたことがあった。九州の柳川や福岡の旧炭鉱町の人たちの暮らし方を見てくる旅で彼が、つねに見られていることを意識していたことが記されていた(と思う)。自分たちのアクションがどう外部世界をつかみ取ってくるかが交わされるなかでNさんは、自分たちのアクションが、現地の人たちにどう見えているかをイメージしていたことを端的に表現した言葉であった。
これも哲学的な示唆を私にもたらした。「(外部を)見る」ということは「見られていることを意識する」ことを通して、じつは「(わが身の裡を)見ること」であると、関係的にわが身を世界に位置づけて見て取ろうとする視線である。生物学者なら「動態的に存在するワタシ」といったであろう。つまり世界を見て取るというのは、わが身を見て取ることと同義である。わが身は人類史だという身体感覚をNさんがもっていたのではないかというのが、私の見立てである。私はいま、ワタシが人類史だとほぼ確信に近い感触をもっている。
半世紀経って、ささらほうさらの付き合いが到達した地点がここである。この起点に「オレはバカだから・・・」という世界への位置づけがある。私はそれを「germ/黴菌、邪魔物、萌芽」と表現してきた。取るに足らない存在のワタシがみているセカイを描き出さずにはいられないヒトのクセという出発点が、人生の最後に辿り着いたところというのは、何とも皮肉にみえるかもしれない。でも、Nさんに倣って、「死ぬということは,死なれることである」と自動詞と他動詞とを混淆し、関係的に位置づけることで、Nさんをいつまでもわが身の裡で活かしつづけたい。そのわが身はいずれ、どこかで誰かに受け継がれ、germが世界の震えに作用する。
そうした関わりがカタチを成し、それが崩れて混沌としたイメージとなり、また姿を変えて変転する。それが人類史であり、生命体史であり、動態的世界である。その一瞬の有り様を永遠と呼んでいる。そんな気持ちが、いま働いている。