半世紀来の友人から電話が入る。やはり半世紀来のグルーピングをしてきた末裔とも言える老人会「ささらほうさら」のメンバーの一人・Nさんが亡くなったという知らせ。私より4つほど若い。最初に就職した職場で顔見知りになった。職域は違ったが、振る舞いと考えの誠実さと堅実さが際立っていて、彼の職域の人たちをひとつにまとめる行動力を(目には見えなかったが)もっていた。
その後彼が転勤した職場でのモンダイを発端に顔を再び合わせるようになり、いつしかグルーピングが発生していた。出入りした人の数は百人を超える。はじめのモンダイがほぼ解消した後も、そのときに開始した半月刊誌を2006年まで、じつに35年間にわたってつづけてきた。月2回集まり、編集作業をする。年に何回か「合宿」と称して子ども連れで行事を行う。遊びや勉強やおしゃべりなどをする運びになり、いわば初めは若衆宿のように、歳をとるにつれて家住期・遊行期・林住期と移り変わるようにして「ささらほうさら」となってきた。寡黙で実務肌のNさんは、半月刊誌刊行の裏方に徹し、その慥かさで半世紀を超すアクションを支えてきた。
年を経るにつれて体も思うに任せなくなり、2020年からのコロナ禍によって月一回の集まりも出来なくなった。でもそろそろ集まってもいいんじゃないか,車を出すからと提案する人もいて、「ささらほうさら」の再開を検討したのは先月であった。だがNさんは、その間に喉に癌が出来、それへの対処と治療に入退院を繰り返していた。Nさんが参加できないのではやるわけにはいかないとなったとき、毎日訪問看護を受け、点滴をして家で過ごしているのなら一度見舞いにこうと連絡を取ったら、「子どもにも来るなといっている。いましばらくご勘弁を」とSMSが返ってきた。
そうして昨日の訃報である。知らせてきた亮一さんと手分けしてメンバーに知らせる。電話に出たマサオキさんは一瞬、黙ったまんま,絞り出すように口にしたのは、「そうですか」だった。ありうることと予測していたとは言え、言葉にならない。Nさんより少し若いOsさんはメールで「言葉もない」と返信してきた。
Nさんの得意技であった事務・実務とは、会場の予約・準備、泊まりの時の宿の確保・食事の手配,そして何より、会計の始末であった。会計といえば、文字が発明されて書き残されていたことは、まず王や豪族にかかわる贈答の中味であり、会計の処理であった。そのために文字が必要となったかと思うほど、日本の木簡などにも,そのときの会計始末が記されている。つまりNさんの技は、人類史的に最初に記録することが人の身から切り離され、人はそれを対象としてみることによって、時間を意識することへと踏み出したとさえ言えることだ。いつしかそれを凌ぐコトゴトが作り出されては来たが、ついに会計記録をないがしろに出来たものはなく、未だに原初以来の記録の伝統を繰り返し用いることによって、暮らしが円環ではなく、変わりゆくものであると考えるようになった。時間が起点から未来へ向けて途切れることなく続くという観念も、会計処理による文字の発明と記録に残す事務・実務の継承によって人々の無意識に定着していったと言える。
ワタシはそれに気づかず、文字を読み、文字を書き、自分の感懐や思索を書き付けることが高尚な人類文化のように思い込んで、高等教育まで受けるに至ったのだが、その実、そのワタシの行為は、根柢的にNさんの担う事務・実務によって支えられていたことを、いまさらながら思い知らされたのであった。いわば、エクリチュールの起点から,一つひとつを丁寧に記録し、しかも、印刷・発行・郵送するという「仕事/アクション」を、誰でも出来る容易なことのようにみなして振る舞ってきたと、あらためて思う。いや、Nさんだけではない。そうした事務・実務を担う人たちが黙々とサ業変格活用をこなすことによって、グループの35年間の機関誌発行が続いていたにもかかわらず、それに依存しているとはつゆ思いもしなかったことを、今になって痛く感じる。
これこそが、半世紀にわたるグルーピングの成し遂げたものであった。あらためて、そう思う。Nさんの訃報に接し、言葉がなくて当然だと思うのであった。
その後彼が転勤した職場でのモンダイを発端に顔を再び合わせるようになり、いつしかグルーピングが発生していた。出入りした人の数は百人を超える。はじめのモンダイがほぼ解消した後も、そのときに開始した半月刊誌を2006年まで、じつに35年間にわたってつづけてきた。月2回集まり、編集作業をする。年に何回か「合宿」と称して子ども連れで行事を行う。遊びや勉強やおしゃべりなどをする運びになり、いわば初めは若衆宿のように、歳をとるにつれて家住期・遊行期・林住期と移り変わるようにして「ささらほうさら」となってきた。寡黙で実務肌のNさんは、半月刊誌刊行の裏方に徹し、その慥かさで半世紀を超すアクションを支えてきた。
年を経るにつれて体も思うに任せなくなり、2020年からのコロナ禍によって月一回の集まりも出来なくなった。でもそろそろ集まってもいいんじゃないか,車を出すからと提案する人もいて、「ささらほうさら」の再開を検討したのは先月であった。だがNさんは、その間に喉に癌が出来、それへの対処と治療に入退院を繰り返していた。Nさんが参加できないのではやるわけにはいかないとなったとき、毎日訪問看護を受け、点滴をして家で過ごしているのなら一度見舞いにこうと連絡を取ったら、「子どもにも来るなといっている。いましばらくご勘弁を」とSMSが返ってきた。
そうして昨日の訃報である。知らせてきた亮一さんと手分けしてメンバーに知らせる。電話に出たマサオキさんは一瞬、黙ったまんま,絞り出すように口にしたのは、「そうですか」だった。ありうることと予測していたとは言え、言葉にならない。Nさんより少し若いOsさんはメールで「言葉もない」と返信してきた。
Nさんの得意技であった事務・実務とは、会場の予約・準備、泊まりの時の宿の確保・食事の手配,そして何より、会計の始末であった。会計といえば、文字が発明されて書き残されていたことは、まず王や豪族にかかわる贈答の中味であり、会計の処理であった。そのために文字が必要となったかと思うほど、日本の木簡などにも,そのときの会計始末が記されている。つまりNさんの技は、人類史的に最初に記録することが人の身から切り離され、人はそれを対象としてみることによって、時間を意識することへと踏み出したとさえ言えることだ。いつしかそれを凌ぐコトゴトが作り出されては来たが、ついに会計記録をないがしろに出来たものはなく、未だに原初以来の記録の伝統を繰り返し用いることによって、暮らしが円環ではなく、変わりゆくものであると考えるようになった。時間が起点から未来へ向けて途切れることなく続くという観念も、会計処理による文字の発明と記録に残す事務・実務の継承によって人々の無意識に定着していったと言える。
ワタシはそれに気づかず、文字を読み、文字を書き、自分の感懐や思索を書き付けることが高尚な人類文化のように思い込んで、高等教育まで受けるに至ったのだが、その実、そのワタシの行為は、根柢的にNさんの担う事務・実務によって支えられていたことを、いまさらながら思い知らされたのであった。いわば、エクリチュールの起点から,一つひとつを丁寧に記録し、しかも、印刷・発行・郵送するという「仕事/アクション」を、誰でも出来る容易なことのようにみなして振る舞ってきたと、あらためて思う。いや、Nさんだけではない。そうした事務・実務を担う人たちが黙々とサ業変格活用をこなすことによって、グループの35年間の機関誌発行が続いていたにもかかわらず、それに依存しているとはつゆ思いもしなかったことを、今になって痛く感じる。
これこそが、半世紀にわたるグルーピングの成し遂げたものであった。あらためて、そう思う。Nさんの訃報に接し、言葉がなくて当然だと思うのであった。