mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

静かな山、温泉岳・根名草山

2018-07-12 09:25:20 | 日記
 
 気温の高温注意報が出ていた昨日朝6時に家を出て、金精峠から温泉岳と根名草山に登って来た。山は涼しい。半袖インナーの上に長袖のTシャツ一枚で歩きはじめるときは、ちょっと寒いかなと思うほど。金精道路の栃木県から群馬県へ抜けるトンネルのすぐ手前の駐車場に車を入れる。すでに10台ほどが止まっている。山の標高は2300m余。これだけで平地より12度以上気温は下がる。
 
 いきなりの急傾斜。金精山への分岐までの標高差200mが、今日一番の上り下り。登山道はこのところの雨の流路になったのであろう、ざらざらの小石が歩きにくい。一部の急峻な沢は大きく崩れ、新しい踏み跡が上へとつくられている。丸太の階段が崩れ落ちてゆがみしゃくる。ササが刈り取られたところに来て初めて、道の手入れが為されているとわかる。金精峠というのは、じつはこの上部の分岐の名称である。西へ向かえば金精山を越えて日光白根山に至る。東へ向かうと温泉岳や根名草山へ連なる。つまりこの峠が栃木県と群馬県の県境を区切る。峠から北へ下ると菅沼。白根山への登山口がある。南を振り返ると、湯の湖や男体山が明るい陽ざしを受けてどっしりと腰を据える。下の駐車場にあった10台の車の人たちは白根山へ向かったのか根名草山へ歩いたのか。白根山の方は、上部に黒っぽい雲がかかって、南部と全く違う様子に見える。
 
 東の稜線へ踏み出す。樹林の中。コメツガの林にナナカマドやツツジの落葉樹が間を埋め、鬱蒼としている。、シャクナゲの薄赤っぽく咲き始めたのやくっきりと白い花が咲き誇っている。ところどころ崖になるところで南の見晴らしがよくなる。40分ほどで温泉岳山頂への分岐。15分の往復をする。じつはこの山頂が2332mと今日の踏路の最高点だ。南には切込湖刈込湖が下方に見えその向こうに太郎山と小真名子山大真名子山が立ちはだかり、太郎山の山頂部から頭をのぞかせるように女峰山の頂が頭をみせている。男体山は右の樹林に半分姿を隠している。北をみるとこれから向かう根名草山が彼方に峰を高め、その手前に念仏平の避難小屋が樹林に取り囲まれて姿を見せている。
 
 分岐に戻り温泉岳の山体の南側を巻くようにトラバースする。踏みつけられた篠竹がすべりやすく、注意してすすむ。ここのササは昨年かられたのであろうか、すでに葉は枯れて散り敷いている。ひとたび下って沢を渡り、ここにかつて念仏平避難小屋があったとわかる。「最後の水場」とあるのは、この先15分ほどのところにある念仏避難小屋に止まる人のことを考えてのことであろう。このルートを先へ延ばすと、日光沢温泉の近くを経て奥鬼怒沼を通り尾瀬の大清水へ抜ける縦走路になる。一日では踏破できないから、ここで泊まるのであろう。念仏平の避難小屋は気配が新しい。西側にはテーブルやベンチが設えられて、樹林の中の休息所の感がある。その先はまた上りになり、近づいてみると、ひと山区切って根名草山が単独峰のように高みをみせる。向こうからチリンチリンというクマスズの音が聞こえる。一組の若いペアがやってくる。「うわあ、驚いた」と私をみて先頭の女性が声をたてる。「熊だと思ったんでしょう」と応じる。「誰か追い越しませんでしたか」と聞く。いえ誰も、と応えると、彼らは6時半に金精峠駐車場に車を置いて一人追い越した。その人は引き返したのかなあとつぶやく。男性が「何時に出たんですか」と聞くから8時15分頃と応えて、そう言えば彼らの歩きは、昭文社の地図のコースタイム通りなのかなと思った。たぶん山頂から引き返したとみると、私との間が1時間ほどになっている。でも私は、コースタイムで歩いている(と思っている)から、この差がとても不自然に思える。彼らは山頂で日光沢の方から登って来た一組と出逢っている。その人たちは出発点へ戻っていったそうだから、今日のこの山は都合三組だけとなる。「独り占めですよ」と言われて別れた。
 
 山頂は少し広いが、南方向への見晴らししか眺望は利かない。11時15分。出発してから3時間。昭文社の地図では3時間55分のコースタイム。だが、YAMAPでは、2時間45分。この違いは何だ。じっさいに歩いてみると、YAMAPの念仏平の沢から避難小屋までの「5分」というのが、15分かかるから、私はほぼコースタイムで歩いている、とおもっていた。かなりテキトーな時間設定だが、これはちょっと記憶にとどめておく必要がありそうだ。腰掛けてお昼にする。寒く感じたので、ウィンドブレーカーを出して羽織る。風はない。20分ほど過ごして戻ることにした。
 
 変化に富んでいるというより雨で道が崩れているのが変化になっている。おおむね行きも帰りも温泉岳の分岐までは同タイムだ。シャクナゲばかりでなく、ナナカマドの白い花びらが地に落ちていて、見上げるとまだ花を残した大きな木が頭上にあった。また足元の小さい赤い花びら散り敷いてドウダンツツジだとわかる。キバナノコマノツメの黄色が鮮やかだ。ゴゼンタチバナの白い花びらも輪郭をくっきりとして自己主張している。コバイケイソウがもう少しで開花になりそうな花芽をいくつも頭につけて背伸びしている。いい季節だ。帰り道の方がシャクナゲが鮮やかでたくさんあるように見える。葉の裏を見るとアズマシャクナゲかハクサンシャクナゲかわかるというが、白っぽくないほうがどちらであったか、忘れてしまった。
 
 こうして金精峠の白根山との分岐についたとき、チリンチリンとクマスズの音が下の方から聞こえてくる。先ほどすれ違ったペアに追いついたのかもしれない。昭文社の地図の方が山慣れない人たちには適切なのかもしれないと思った。今日一番の危ない下りを、チリンチリンに決して追いつかないように、ゆっくりと降りる。駐車場には1時50分。歩き始めて5時間35分。ちょうど一台の車が発車するところであった。今日のコースは7時間10分と考えていたから、3時半ころ下山と言っていたのに、歩行は5時間15分。ま、早くて文句を言うわけではない。4時半ころには帰宅していた。

私的感懐という「せかい」の山

2018-07-12 06:10:32 | 日記
 一年前の記事が送られてきて、そうか、こんなことを書いていたかと振り返っている。これに気づいていれば、4月にまとめた「孫たちと爺婆の二十年」に掲載したのにと、いまさらながら思う。すっかり忘れていたのだ。この角度から切り取ると、人がいかにして人になり、「せかい」を身につけて歳をとるかと、まとめることができる。もちろん一般的にはそういうふうにまとめた方が私の「世界観」が浮き彫りになる。でもそういうふうに、屋上屋を重ねることが世の中に意味があるとも思えない。もしまとめるとしたら、「私的感懐」として上梓することになろう。昨日ひとつ山を歩いてきたが、私的感懐という世界の山を年寄りは歩いてきているのだと、記しおくのも悪くはないか。そんなことを、いま思った。
 
「時の密度」が薄くなるということ

  歳をとると時が早く過ぎると思う。私は一年の長さが年齢分の一で過ぎ去ると考えてきた。ふとある時、それを逆の方、つまり暮らしにおける「時の密度」として考えると、私たち年寄りは年......
 

 


利尻島・礼文島・稚内――弥生的な復元縄文人

2018-07-09 10:14:38 | 日記
 
 バスで香深港に降り、すぐ近くの礼文町郷土資料館に向かう。島の北部にある船泊からたくさんの縄文遺跡が発掘されたと聞いたからだ。十数体の屈葬して埋められた骨が、ほぼ原形を保ったまま掘り出されている。こまごまとした副葬品も同じところから出土しているそうだから、どんな人が住んでいたかわかるのではないか。あった。DNAを解析して、髪の毛や目の色、肌のシミや皺までも復元した女性像が展示されてある。おや? と思ったのは、通常縄文人と聞くとえらが張った四角な顔を想いうかべるが、そうではない。むしろ弥生人のイメージに近いほっそりした顎をしている。やはり、南方系の縄文人と違った経路で入ってきた人びとではないか。しかも展示では、のちにアイヌが入ってきたと記しているから、アイヌとも違った人種なのかもしれない。面白いが、そうした侵入経路に関心がないのか、展示はそのようなことには触れていない。縄文土器も呪術に用いたのであろうか小さな土人形もまた、つくりがずいぶんしっかりしている。
 
 外へ出ると風が強い。温泉に入ってからお昼にしようと駅近くにある温泉施設へ足を運ぶ。だが開場は12時から。風呂を諦めお昼を食べて宿に帰り部屋で宴会をしようと、近くの食堂に入る。寒いからラーメンを頼む。これがおいしかった。昆布の出汁がきいている。タクシーで宿に帰り、礼文島だから「礼文の昆布焼酎」を買っていって開ける。「昆布1%未満」とあるのは、どういうことだろう。度数は20度。これが軽くて飲みやすいとkwmさんはお湯で割って堪能する。甲類の焼酎をたくさん使っているのが口に合わない私は、利尻で買った昆布焼酎25度を開ける。生のまま飲むと、昆布の味がほわっと口に広がり、なかなかの味わい。kwrさんも口に合うのか、生のまゝに呑み、今日までの利尻や礼文の印象をあれこれとおしゃべりして、これが私たちの礼文の旅だと酔った勢いで納得していくようであった。やがてくたびれて寝込んでしまった。風は強く相変わらず吹き止まない。私は酔い覚ましに風呂に入り身体を温めてからひと眠りしてから夕食に行った。
 
 最終日、港までご主人が車で送ってくれる。ふとバス停の名を思い出して「高校があるんですね」というと、生徒がじつは26人しかいない、これ以上減ると統廃合されてしまうという。といってこれ以上島民が増える見込みはないから……と愚痴る。4月に行った吐噶喇列島のことを思い出して「山海留学なんてやってるところがあるよ」と話すと、いやじつはそういう試みもなかったわけではないが、なにしろ南の島と違って冬が寒い。それに耐えられないで、居つかないんですよとため息をついた。礼文島の人口は2700人くらい。その人たちが住み慣れたこの島の自然を何よりも大事に思い、寄り添って大切にしている。稚内と一日3便、利尻島とも3便の往来は決して少なくない。吐噶喇列島の平島などは週に2便が行き来するだけだった。それに比して私たちが乗った船の出版時刻には、どこにこんなにたくさんの人がいたのかと思うほどの観光客が集まってきて一緒に乗船した。300人を越えていたように思う。
 
 今日の波は穏やか。青空が広がり、利尻岳も中腹以上を雲に隠して大きな裾野を海に広げている。立っているとそれほど感じないが、横になると船の揺らぎが伝わってくる。大半の人は畳敷きの船室でごろりと横たわって寝入っている。船室のTVが韓ドラばかりをやっていると思っていたらいつのまにかコマーシャルばかりに変わっていた。2時間足らずで稚内に着いた。
 
 飛行機が出るまで4時間半ほどある。稚内駅までタクシーで行き、レンタカーを借りる。プリウスしかないという。3時間借用し空港で乗り捨てることにして、kwrさんをnaviにしてレンタカー屋が手渡してくれた「観光地」を経めぐることにした。まず稚内公園。本道を逸れてぐいぐいと高台へと上がっていく。その丘の上が広々とした展望台になっている。北にはオホーツク海が広がる。東にはフェリーの港や漁港、稚内の市街地が屋根を連ねて眼下に稚内湾が一望できる。
 
 「御製」と表題して「樺太に命をすてし たをやめの 心思えばむね せまりくる」と詠んだ石碑が設えられている。ちょうど五十年前に昭和天皇の行幸があったという。昭和天皇は、樺太駐在の(電話の)通信員であった女性たちがソ連軍の侵攻に際して「皆さんこれが最後です。さようなら、さようなら」と通信して(全員に与えられていた)青酸カリを呑んだというのを聞いてこう詠んだらしい。だが、何だか他人事のような「心思えばむね せまりくる」だなと思った。「氷雪の門」と名づけられた大理石の石柱と高さ8mの女性像が建てられている。その解説に「人びとの天への祈り 哀訴 そしてたくましい再生への願いを表現している」と記しているが、この「天」が自らを指していたとどれだけ意識していたか。天声人語とは言うが、人声天語とはいかないようだ。神は人の代理はしない。そう言えば、話し変わるが、「テンゴゆうとらんと、はよ、仕事しいや」と大阪で商売をしていたオバが口にしていたテンゴというのは、戯言という意味であった。はて、あれは、天語であったか。
 
 ノシャップ岬へ向かう。北の端へ来たという実感を味わいたいと思ったわけだが、北辺の海の先に利尻岳が山頂と山麓をはっきりと見せて、のっぺりとした海の広がりに強調点を打っている。すばらしい。あれに登ったんだよと、kwrさんが声を上げる。港の方からたくさんの人がやってくる。若いオジサンに「なに?」と問う。「北門神社例大祭」が催されているらしい。大漁旗が建てられ、神輿も来ているよ向こうに、とオジサンは指さす。餅も撒いてね、終わったところだと自転車を漕いで走り去った。手に餅の入ったビニール袋をいくつももったオバサンたちも、にぎやかにおしゃべりしながらやってくる。神輿を観ようと行ってみたが、ちょうどトラックに積み込んで運び去るところであった。大漁旗を飾った漁船の帆柱の向こうに、青空を背にした利尻岳が見えている。いいねえ、この景色。日本だねえと、海べり育ちの私は思う。
 
 一路、東へ向かう。今度は宗谷岬。日本の最北端。宗谷湾をぐるりと回り込んで40kmほど走る。街中は北門神社の祭りが行われていて「通行止め」のところがあったが、主要道路は広く走りやすい。ついつい70km/hを超える速度が出てしまいそうになる。宗谷岬はひっそりとした観光地だ。「日本最北端の地」は三角錐の石柱。北斗七星を象徴していると記している。イタリアのミラノと同緯度と聞くと、えっ、と思う。気候条件がまるで違うからだ。観光客は記念写真を撮るとさかさかと車に戻り次へと向かっているように思える。間宮林蔵がキッと北を睨んで立つ銅像が凛として見える。生誕二百年を記念して建てられたのが1980年。ということは1760年生まれか。この地から海へ漕ぎだしたのは48歳の時だというから、今なら働き盛り。とはいえ、小船でよくぞと思う。「間宮海峡を発見、樺太が島であることを確認。世界の地図の空白を埋める偉業」と、説明板は言葉を尽くしている。
 
 お昼は空港でと言っていたが、もう1時近い。道路わきの海鮮料理の看板がある食堂に入る。私たちだけ。私はイクラ丼を頼んだ。利尻港の食堂では4500円もしたものが、1750円。人の感覚というのは分からないもので、高い値段が記憶にあると、とても安く思えてしまう。そう言えば、羅臼岳に登ったときの知床のイクラ丼は2600円したのではなかったか。おいしい。一息ついて空港へ向かうその途中に「間宮林蔵渡樺出航の地」と記された場所があった。立ち寄る。そこに表示された解説を読むと、林蔵は1808年に二度も樺太に渡り、二度目のときは、ひと冬越して戻って来たらしい。ここからも利尻岳が見える。今は山頂を雲が覆っている。
 
 ガソリンを入れ、車を返し、空港に着いたのは2時過ぎ。ひとつ誤算があった。ここでお土産を買えばいいと、街中をすっ飛ばしたのだが、この空港のお土産屋に「焼酎りしり」がない。いや焼酎どころか、アルコール類を一本も置いていない。stさんはご主人にぜひ「昆布焼酎りしり」と考えていたのに、置いていないと聞いて、がっくり。kwrさんは「羽田で買えばいいよ」と笑っている。土産を買う人たちを置いて、私とkwrさんはレストランに入る。生ビールを注文して「下山祝い」。
 
 思えば、よくぞ無事に利尻岳にのぼったものだ。もしそれが無ければ、この5日間、なにをしに来たのかわからないような観光客になっていた。ただ北辺の地に住む人たちの空気を吸い、私たち通過者に向ける笑顔の裏側に耐えている日常が浮かび上がるように思いをはせてきただけに過ぎない。でも、しらなかった地を歩き、そこに暮らす人たちと言葉を交わすと、わが身が関東という地方の、現代文明に守られた環境の中で平々凡々と、そして、ぬくぬくとすぎしているなあと、感慨を深くする。慨嘆しているわけではない。すぐに一般化して、人間てすごいなあと、原初の人の暮らし方へ思いを飛ばして、いまをそれを受け継いでいる人たちへの敬意を、さらに深くしているのである。(終わり)

利尻島・礼文島――寒い! ホッカイドーですから

2018-07-08 14:36:16 | 日記
 
 稚内の街が、案外大きいのに驚いた。どのくらいの人口だろう。帰ってきて調べたら、35,000人ほど。それにしては広い面積とほどよい高さの丘を背にめぐらして、北に宗谷湾が海を抱え込むように開け、高いビルも立ち並んでいる。その西端の突先がノシャップ岬、東端の突先が宗谷岬、北海道最北端の地になる。稚内空港は宗谷湾の少し宗谷岬寄りにあり、賑やかな街並みやJR稚内駅や船の出るフェリーターミナルはノシャップに近い方に位置している。こちらがそうだからそう見えるのかもしれないが、観光客が多い。
 
 稚内から利尻島への船便は一日3便。同じく礼文島へも3便あり、それとは別に利尻島と礼文島を結ぶ船便が、やはり一日3便ある。距離が20kmほどと近いせいもあろうが、交通は盛んと言える。船はノシャップ岬を大きく回り込んで、西に位置する利尻島を目指す。すっきりと屹立する利尻岳が見え、段々と近づいてくる。山腹の上部には雪がついている。険しさは思った以上にみえる。夕方6時を過ぎて港に到着。民宿・花りしりの若いご主人が大きいバンで迎えてくれた。島中央の利尻岳が海に流れ込む裾野の平地に棲みついている民家は、小さな集落に別れ散らばっている。そのため、宿の車で送り迎えするサービスがとてもありがたかった。登山口まで、港まで、温泉まで、レンタカー屋までと、こちらの行動予定を聞いて、送り迎えをしてくれた。
 
 山歩きのベースにと宿をとる私としては、あまり宿の良しあしについて考えたことはないのだが、この「花りしり」は、民宿としては上等の部類ではないかと思った。建物はよく整備され、ペンションとでもいうようにきれいだった。食事は、驚くほど手をかけ、12品が並ぶ夕食は(お酒を飲んだこともあるが)海のない県に住む私たちにとっては、新鮮そのものの味わいを堪能させてもらった。車での送迎中の老主人の山歩きに関するアドバイスやレンタカーを運転するときに配慮することの若主人の言葉は、島人の暮らしをほうふつとさせて、うれしかった。もしまた訪れることがあれば泊まりたいと思う宿であった。
 
 二日目は一日、雨。レンタカーを借りて、島内を観光巡り。パンフレットにある名所を訪れて、島をひとめぐりする。このとき「利尻島郷土資料館」と「利尻町立博物館」と二つあって、この小さな島が利尻町と利尻富士町の、二つの行政区に別れていることに気づいた。どちらもおおよそ2700人ほどの人口を抱える。もともと一つだったのではなく、利尻町と利尻東町に別れていて、東町が利尻富士町と名前を変えたという。なぜ合併しないのかは(今年4月にこちらに来たから)わからない、と、「利尻町立博物館」の受付嬢は話す。「平成の大合併」の折も、そういう話がすすまなかったところをみると、外からは見えない集落の長い関わり合いの「蓄積」があるのであろう。「利尻島郷土資料館」では(私にとっては)懐かしい出会いがあった。ロナルド・マグドナルド、森山栄之助、松浦武四郎。前二者は、幕末、利尻島に漂着を装って上陸したアメリカ人・マグドナルドが長崎に送られ、そこで(オランダ語なまりの英語をつかって)通詞を務めていた森山と出逢い、彼に(アメリカ風の)英語を教え、森山はペリーが来たときに(身分は)通詞としてながら、事実上外交官として活躍したという話を読んだことがあった。後者は、やはり幕末の伊勢に生まれた下級藩士の次男坊であったか、全国を放浪し、各地の山を歩き、ついには蝦夷地に赴いてアイヌの文化を吸収し、記録をとり、当時の松前藩の乱暴な蝦夷地統治を非難する建言を幾度も行っていたという傑出した人物。山の縁で名を知り、彼の記した「蝦夷日誌」を図書館で見つけて読んだこともあった。この二つの「資料館」と「博物館」はやはりニシン漁など、昔の暮らしぶりについては「資料」を集めて興味深いところもあったが、地質学的に利尻島の成り立ちや利尻岳の構造に触れた展示記述はなく、ちょっと残念に思った。
 
 天気が良ければ利尻岳が湖面に写る姫沼やオタトマリ沼、花の綺麗な沼原湿原、沓形岬のウミネコやアシカ、富士野園地の雨の「夕日が見える丘」など、雲に覆われて姿を見せない利尻岳の山麓をひとめぐり60km、4時間のドライブ、8000歩ほどの行程は、なかなか今の感触を体感する面白さがあった。そうそう、最後の富士野園地の展望台の木柵に「日本百名山ひと筆書き 全山登頂達成記念 208日11時間 田中陽希」と本人自筆署名の小さな表示板が掛けてあった。そのつつましさと言い、ザックを背負った彼の上半身のイラストと言い、そうだ明日登らにゃならんなと思わせる気配に満ちていた。そうして、昨日のこの欄で記したように、往復9時間の利尻岳登頂を果たしたのであった。
 
 船の乗客をみていると、町は観光客でにぎわっているはずだが、そう感じさせない。大きなホテルも何軒かあり、民宿やペンションが名を連ねる。レンタカー屋も数件あり、予約をしていなかった私たちは一番安い車両を借りることができなかった。ところが港の食堂は2軒だけ、土産物もレンタカー屋が兼ねていたりする。地元産の昆布などを少し並べていて、商売気がないといおうか、田舎の小間物屋風。良ければどうぞというようであった。
 
 三日目、利尻岳の登頂を果たして温泉に汗を流した私たちは、15時過ぎの船で礼文島に渡った。海からみると島は平均標高200メートルほどの平らな丘。島の南北はおおよそ13km、東西は2,3kmしかない細長い島。海から起ちあがって急に小高くなるから人々は海際の平地にしがみつくように暮らしている。港について最初に目に入ったポスターが面白かった。「隣の島も礼文島の自慢です」と中央に書き記した背景には、雪で真っ白になった利尻岳とその前の海を航行する礼文を行き来するフェリーが大写しになっている。今山から下りて来たばかりの私たちにとって、振り返ってみることのできる絶好の展望地がここであったと気づかせてくれる。
 
 香深港には民宿の主人が出迎えてくれ、礼文島の南端に近いところ、「知床」にある宿へ向かう。「知床」というのは地の果てという意味だと、ここの主人に聞いて知った。アイヌ語なのであろうか。港のカフカというのも、面白い名前だ。礼文島は利尻島と違って港周辺に集落が固まっているせいか、にぎやか。しかし数百メートル走ると、道路は一車線になり、すれ違うのも大変になる。島を周回する道路は、ない。
 
 道を挟んですぐ海になる民宿は、寒かった。島の気温は10度と「天気予報」でみていたが、強い風が吹きつけて体感温度は5℃以下に感じる。部屋のサッシの窓ひとつで逆巻く海と隔てられ、ぴゅーぴゅーと音がする。建てつけもそうよくない。寒いねえというと、ホッカイドーですからと宿の主人は笑って答える。40歳前後の宿の主人夫婦は、しかし、とても礼文島に惚れこんでいる気配に満ちていた。宿の壁には写真展のギャラリーのように礼文島の風景と花の写真が、所狭しと飾られている。その何枚かは、「****所沢市」というふうに撮影者の名前が記してある。ということは、名のない写真は全て主人風のものか。あとで分かったが、奥さんは前橋の方。この地に観光でやってきてご主人と出会い、結婚してここに住まうようになったという。尋ねると、部屋に置いてある礼文島案内の冊子の写真と説明文は、ぜんぶご主人の手によるものだと付け加えた。彼はネイチャーガイドの専門家のようだ。山にも詳しい。
 
 ここも14人ほどが泊まっていると夕食のときにわかるのだが、そのような気配を感じさせない。皆さん年配者だ。利尻登頂の疲れもあってか部屋が寒いからか、kwrさんは夕食までの間、布団に入ってひと眠りした。だが廊下に出てみると、石油ストーブがたかれていて暖かい。ホッとする。外はますます荒れてくる。宿の主人は「もし(お客さんが)一泊なら、来島を中止したほうが良いとお知らせしていたところだ」という。明日は出航が中止になるとみているようだ。
 
 翌朝、風は吹き止まない。だがこの宿にじっとしていては何をしに礼文島に来たのかわからない。初めは、バスで登山口に向かい礼文岳を往復し、またバスで香深港に戻って桃岩コースを歩いて宿へ戻ると考えていた。だが標高490mとは言え突出する礼文岳に吹く風は尋常ではない、十分注意をとご主人。そこで「桃岩コース」を宿から歩き始め、元地灯台を経て桃岩へ抜け、香深港へ下ることにした。おおよそ4時間ほどか。お昼頃港に降りてお昼にし、温泉に浸かってタクシーで帰ってこようという算段をした。8時、歩きはじめる。ところが、海からの風と一緒に波しぶきが降りかかる。ときどき体が左へ押し寄せられる。バランスに気を配っていないと、転げてしまいそうになる。登山口に着いた。そこへ大きな車がやってきて声をかける。宿の主人が「温泉の割引券」を持ってきてくれたのだ。いやはや、ありがたい。
 
 草付きの斜面を脇にみながら上がる少し広い砂利道を辿る。標高50mほど登ると、緩やかに200m程へと向かう草地に地面が剥き出した踏路を踏む。チシマフウロがある。オオハナウドの花芽が背の高い茎のてっぺんに大きなこぶをつくって目に止まる。その先には、すでに花をつけたそれらが満開であったり五分咲きであったりして立ち並ぶ。イブキトラノオが並んで花をつけている。この青いのはイワギキョウではないか。一輪だけハクサンチドリがある。黄色いのはキバナノコマノツメだ。エゾカンゾウのオレンジ色が草の緑の中で異彩を放つ。こちらの黄色いのは葉のかたちからするとエゾノリュウキンカだろう。紫のミヤマオダマキが4輪花をつけて萎れかけている。おっ、こっちのオダマキは今が盛りか、勢いがあって綺麗だ。そう花を楽しんでいる間にも、風は強まる。灯台が見えた。先頭を歩くkwrさんの身体が斜めに傾ぐ。倒れないように踏ん張りながら、こちらを見て、「これ以上はだめだね。帰ろうよ」と声を上げる。彼は今度の旅のカナリアだ。彼の安全/危険感覚が私たちの行動の基準でもある。一番後ろを歩いていた私も「では、引き返しましょう」と呼びかける。灯台の向こうから大きく90度曲がった道が、西側の崖沿いに北へとつづいているのが見える。stさんにそれを指さして、あそこはもっと風が強そうだね、と話す。
 
 こうしていま45分ほどかけて登って来た道を引き返す。登り近く口に来ると、「←北のカナリヤ 0.6km」と標識が出ている。「そちらへ行こう」と草叢の中へ踏み込み、小さな沢を渡る。私たちが上からみて「学校」と思っていたのは違っていた。その前を通り、広い二車線道路に出て登っていくと右側に海がみえ、前方に建物が現れた。「北のカナリア」という映画のロケ地になったところ。離島の小学校の校舎が建てられ、そこを舞台として育った子どもたちが青年になって、それぞれの人生を歩く姿を描いた映画らしい。「映画見た?」とstさんに聞かれたが、観たような観てないような気がして、応えられない。後者の中に入って観たことが分かる。吉永小百合がこの小学校に赴任してきた教師役。誰だったか警察に追われる教え子をかくまう物語であったか。ストーリーは霧の中だ。映画の撮影を追ったドキュメンタリー風のTV画像が流されている。島民挙げてのエキストラだったようだし、雪かきなども大変だったようだ。積雪量は1メートル半にもなるようだ。礼文島の景観のいいところをしっかりと映画には取り込んでいる。それが、小学校の校舎とすぐ東側の海とその向こうにくっきりと浮かぶ利尻岳がポスターに取り込まれている。そうか、これだ、「隣の島も礼文島の自慢です」というのは。得心の行く景観のはずだが、生憎今日は、雲の中。強い風が吹きつける。
 
 その後者の入口にエントランスの建物があり、休憩舎になっている。200円でドリップコーヒーを頂戴でき、自分で淹れる。このコーヒーがおいしかった。強い風を避け、暖かいコーヒーをいただいて、しばらく休む。「どこへ?」と売り子のおばさんに聞かれ、「港へ」と応えると「あと3分でバスが来るよ」という。乗ろうと、外へ出たらkwmさんのザックカバーが風に飛ばされて駐車場を南へと走っていく。彼女は慌てて後を追うが、ウサギとカメの競争のように逃げ足が速い。とうとう百メートル先の草地にまで行ってしまった。バスはやってきて、kwmさんの戻って来るのを待つ。何しろ乗客は私たちしかいないのだ。(つづく)

利尻岳に登る――海に浮かぶ姿がいい

2018-07-07 19:23:21 | 日記
 
 月曜日から4泊5日で利尻岳に行ってきました。梅雨の晴れた関東から、なぜか梅雨前線を追って北海道くんだりまで行くことになり、日々悪くなる「天気予報」をみて、どうしようかと思いめぐらして飛行機に乗りました。ANAの300人乗りの7割程度の座席が埋まっています。稚内は良く晴れていて、お迎えの車や観光バスの一団はそれぞれに散っていきます。私たちは、空港から稚内の中心部へ向かう飛行機便に合わせたシャトルバス。2,3台待機していて、発車していきます。私たちは立ったまんま、40分ほどかけてフェリーターミナルに着きました。
 
 利尻島へ向かうフェリーは思ったより大きく、定員550人、大型トラックが30台ほど乗れるそうです。静かな海を大きく北へ進路をとり、ノシャップ岬を回り込んで南西の利尻島へ向かう。稚内の西側、サロベツ原野の海岸から20km離れた利尻島は、海に浮かぶというよりは、海底から天を目指して屹立するように突き上げて勇壮にみえます。船が近づいていくと、山の北東側にはところどころまだ雪が残り、白い筋を何本も描き出しています。これがちょうど私たちが上ろうとしている鴛泊ルートの稜線がスカイラインをつくり、1200m付近の尖った鋒が長官山だと分かります。そしてじつはこれが、利尻岳の見納めでした。
 
 翌日は一日、雨。雨の中を上るよりは、少しでも亜鉛の少ない翌日の方がいいと判断。翌日はレンタカーを借りて、雨の中、島内の観光地を巡り、利尻という島と人々の暮らしに触れることにしました。そうして、7月4日、朝3時に起き、4時に登山口を歩きはじめました。コースタイムでは4時間20分ほどで登頂、3時間ほどで下山となっていましたが、登頂に5時間、下山に4時間と見込み、もし予定通りに歩くことができれば、船が出るまでの2時間半ほどの間に温泉に浸かって汗を流し、礼文島へ向かう船に乗る。温泉や港までの脚運びを、泊まった民宿の方が請け負ってくれたのでした。
 
 登山口まで送ってくれた民宿の爺さんはもう何十回と利尻岳に登っている方。「上り3時間、下り3時間だね」というから、上り下りの道筋がそれなりに険しいのだと判断した。「いや9時間もはかからないよ。気を付けて」と送り出してくれた。kwrさんを先頭にゆっくりと歩く。後になって思うのだが、登りの道筋が下りにこんなに時間がかかるとは思いもしなかった。つまり軽快に、しかしペースを崩さず歩き始め、着実に力を配分していました。花を見つけては立ち止まり、写真を撮り、針葉樹がミヤマハンノキやダケカンバの林に変わり、そのダケカンバの木が背をかがめて腰を曲げるように枝を撓めて道を塞ぐのを一つ一つ確認しながら、歩をすすめて行きました。霧のように落ちてくる雨が、木の葉に着いた雨粒が落ちてくるかのようにポツンポツンと小やみになり、気が付くと風ばかりが吹いて雨は上がっているようになりました。2時間40分の長官山には朝食休憩をふくめて3時間20分。すでに標高差1000mを上っていました。
 
 トイレ小屋のある避難小屋を出るときkwrさんが「何分遅れてる?」と訊ね、時計を見ると20分遅れ。そう告げ「風も強いからあわてずに、ゆっくり行ってよ」とつけくわえると、頷いてまた歩一歩と歩きはじめました。このときはまだ、くたびれた様子はありません。あとにつづくkwmさんstさんも疲れをみせず、おしゃべりをしながら歩いています。登り道はここからが正念場。ルートにも「胸突き八丁」とあり、七合目、八合目と標識が目に付くようになりました。それとともに足元の地質が変わって来るようです。避難小屋を少し過ぎる辺りまでは黒土がぬかるむようであったのに、ざらざらとした砕けた火山岩のようになり、九合目辺りではぼろぼろのざれ石の上をバランスをとるのに苦慮しながら歩くようでした。山のでき方が違うのかもしれません。でも昨日見た「資料館」でも「博物館」でも、利尻島の成り立ちに関する地質学的な説明はなかったなあと、歩きつつ想い起していました。
 
 沓形からのルートをあわせる分岐に気づかずkwrさんは、ゆっくりとすべりやすい火山礫を踏みながら、切通のようになった地点へ歩を運ぶのですが、バランスをとるのがやっとのように強い風が吹きつけていました。宿のガイドにあった「注意点」ではこの先が道が崩れやすく、霧が濃いときには踏み跡がわからず崖に落ちる危険があると書いていました。また風が強いときには、この先を取りやめて下山するようにという注意も書いてありましたから、ここから先頭を代わろうと話していたのですが、彼は気づかずにすすみ、ロープを張ったところや片側が崩れ落ちているところを気を付けながら登って、ふと気が付くと頂上についていたという調子でした。なんとちょうど9時。想定の通りに歩いたようです。
 
 山頂には60年配の男二人連れだけ。神社の社があるが霧に隠れそうになっています。カメラのシャッターを押してあげると、お返しに写真を撮ってあげるから並びなさいよといい、私たちも並んで、立ち込める雲を背景に「利尻岳山頂」の標識と記念写真を撮りました。周りを見回しても、何も見えない。風は強い。下山にかかる。上りにもっと時間がかかるとみていたkwrさんは元気を取り戻し、やはり先頭になって下山を開始。慎重に崩れ落ちたところとすべりやすい地点を通過し、切り通しを抜けなんだここが「分岐」かとあらためてルートを再認識。登ってくる人がいる。単独行の若い人が案外多い。先ほどすれ違った若い男がすぐに後ろから降りてくる。「あれっ、もう」というと、「ハイ、山頂は一秒だけ。写真を撮ってすぐ下山です」と屈託がない。独りで登ってくる30代の女性は風に吹き飛ばされそうなのに元気がいい。この人は下りで私たちと入れ違いで避難小屋にやってきて、下山路の下の方で私たちに追いつき、追い越して下って行った。
 
 すれ違ったのは約40人ほど。60を境にすると半数は若い人たちだ。全日に登った人たちの半数ほどは、長官山の手前から引き返したのではなかったか。平日の最果ての登山としては、けっこう多いように思った。stさんは下山に掛かってからは、立ち止まって花の写真をカメラに収める。「登るときは懸命だったから目に止まらなかったけど、降るとなると余裕だね」と嬉しそうだ。リシリヒナゲシだとか、リシリリンドウだとか、リシリの名がつく花もある。私は名前がわからないから、写真だけ撮るが、カメラが湿気てレンズが曇り始める。そのうち、ジィーと嫌な音をたてるようになり、ふと気が付くと、レンズカバーが一部つっかえて開いていない。画面の一部を隠すようになっているのだが、それに気づくほどモニターがよく見えない。風が冷たい。「まるで露天風呂に入っているみたい。顔は冷たくて、でも身体は汗ばむほどだ」と言いながら快適に下る。ハイマツ帯を過ぎていくぶん風が弱まると、下りの速度も速くなったように思った。「これじゃあ、ひょっとすると1時の船に間に合うかもしれないね」と私がいったものだから、女性陣が「お風呂はいいから、礼文へ早く行って向こうで風呂に入りましょうよ」と言い出し、kwrさんはその言葉に動揺して、転びそうになる。下山したら温泉に入る、これが彼の一番のたのしみだったからだ。「オレって、二つのことができないからね。風呂に入るかどうかって考えるのと、下りの足場を選ぶのとが一緒に来ると、転ぶのよ」とヘンな釈明をしている。ところが結局、そのあと下りに疲れが出てきたのと、のんびり下ったせいで、当初予想したとおり午後1時に登山口に帰着した。
 
 靴の泥を落とす刷毛を用意した水道が三つもあり、トイレを済ませたころに宿のバスがやってきて、私たちを温泉まで連れて行ってくれる。風呂ですっかり着替え、しっかりザックにパッキングしてから、迎えが来るまでの間、生ビールを飲む。ジョッキも冷やしてあって凍りついている。ビールも一部がジョリジョリしている。面白く、おいしい。
 
 こうして私たちは利尻岳を登るという今回の旅の第一目的を果たしたのだが、第一日目にその姿を見ていなければ、どこを歩いているのかもわからなかったであろう。また、この山の姿をみていたからこそ、標高差1500メートルという、富士山五合目から山頂へ登るよりも大きな標高差を日帰りする気合が入ったのだと思う。ここに来る当初、避難小屋で一泊しようかと言っていたが、下山して、一般の人は泊まれないとも聴いた。9時間で無事帰ってくることができたのは、まずまずと言わねばなるまい。雨と風のせいで、このあとじつは、観光の旅もできなくなったのだが、それゆえにまた、利尻島と礼文島という北限の島の暮らしが目に止まる機会をもった。さらにまた、礼文島から稚内に帰り着いて飛行機が出るまでの間に、ノシャップ岬や宗谷岬をもてみまわることもできた。こんなにたくさんの人たちが、これほどの厳しい土地で豊かに暮らしている気配を感じて、人間て強いなあと感じたし、「失われた何十年」などという嘆きよりも、自然に生きる人たちの力強さを感じとることができた。だがそれは、また別に機会に記すことにしよう。