mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

下山の極意を会得した天覚山

2018-01-25 14:20:22 | 日記
 
 昨日から厳しい寒気が入ると予報されていた関東平野は、一昨日の雪が残り、高いところから見下ろすと白一色、モノクロームの晴天。道に残る雪と除雪あとの凍りついた路面を恐々と踏んで、朝、駅へ急ぐ。相変わらずの通勤ラッシュ。申し訳ないが私はリュックを担ぎ、山行スタイル。ま、後期高齢者だから、縮こまる必要はない。降り立った西武秩父線の吾野駅は、昨日の高い気温に溶けた雪の部分と、それでもまだ残る部分とが混ざり合って、でも、全体に雪景色であった。あとで聞いたが、この町で予定されていた「ウォーキング大会」は中止になったらしい。今日の山歩きに参加の方々が顔をそろえる。
 
 9時に駅を出発する。西端の線路の下をくぐり、山の斜面にしつらえられた大きな墓地の脇に出る。その南端の道路わきに「大高山・天覚山→」の手書きの標識があり、雪かきされた急な舗装斜面を墓地の上の方へと向かう。上端に行き着いてから登山口を通り過ぎたことに気づく。去年の10月にここを通っているのに、雪景色に目を奪われ、おしゃべりに気をとられ、入口を見損なったようだ。下へ下ろうとして私は、凍てついた舗装路面に脚をとられ、大きく後ろへひっくり返って、しりもちをついてしまった。リュックを背負っていたから頭も背中も打たなかったからいいようなものの、頭を打っていれば、救急車を呼ばなければならなかったに違いない。
 
 すぐにスギ林の間の急登になる。森が深いせいであろう、平地ほど雪は降り積もっていないように見える。それでも少なくなり雪が、なぜか人の歩く幅ほどに薄くなっている。その上にはっきりと靴跡がついている。脚の向きは下山したようだから、昨日の好天に柔らかい雪を踏んで、このルートを(向こうから)下って来たのであろう。皆さんはあとで(この足跡を)「雪男」と呼んでいたが、「雪女」かもしれないと想いうかべて、ずいぶんなイメージの違いに思わず、独り笑ってしまった。この「雪男」の足跡が私たちの歩く行程の道しるべとなった。先頭を行くkwrさんは後のペースをみながらゆっくりとすすむ。汗ばむ感触に立ち止まって上着を脱ぐ。雪で足が滑ることもない。重心移動に少し心配りするくらいか。ストックをついているのが、バランスを保つのに資して身が軽い、とkwrさんはいう。四輪駆動だと私は思う。
 
 去年10月に子の権現へ向かったときの分岐点、前坂に50分ほどで来ている。去年秋には42分だったから、雪を踏むので8分ほどの時間をとった計算になる。まずまず順調な歩みだ。そこから休まず左の大高山への踏路をとる。次第に雪が厚くなる。軽アイゼンをつける。「独りでつけられたわよ」とmrさんが起ちあがって歩きはじめたのは、10時を過ぎていた。結局このアイゼンは、下山駅手前の舗装林道に降りたつまで外すことがなかった。
 
 じつはこのコース、当初月例に予定していた山ではなかった。もとは前日光の、地蔵岳。先週下見に行ったとき、「(スギの)伐倒作業中」の林道が荒れて、とても遠路やってきて歩くほどのルートではなくなっていたので、急きょ変更したのだった。私は歩いたことがない。西武秩父線沿線に沿うように伊豆が岳から南へ下る山嶺が子の権現を経て大高山、天覚山を通って、多峯主山と天覧山を南端において飯能の町へ下るロングトレイルがある。飯能のマニアックな山好きは「飯能アルプス」と名づけて大事にしているらしい。私は『中後年向きの山100コース』というガイドブックをみて、吾野駅から大高山・天覚山を経て東吾野駅に下るルートを採用した。3時間50分のコース。そこに変更する旨のメールを送ったらすぐにsさんから電話が入り、「カマド山を経て武蔵横手駅に下るコースにできないか」と言う。彼女は「日和見山歩」をつないで、飯能駅まで歩くコースを「完成」させたいらしい。カマド山のルートは地理院地図には記載されていない。「いいですよ。でも、私は歩いたことがないから、天覚山から先は案内してくださいね」とお願いし、彼女は快諾していた。okdさんも歩いたことがあるらしく、「アップダウン・アップダウンの繰り返しで、なかなかなコース!」とメールがあったが、地図を見る限り、最高標高も498m、駅が180mほどあるから、せいぜい300m。アップダウンはあるが、50mくらいを上ったり下りたりする程度、たいしたことはないと読んでいた。ところが2日前にsさんから「風を引いていけない」と電話。さらにそのあとに雪が降った。皆さんには「ストックと軽アイゼンをご用意ください」と連絡をして、今日を迎えたわけだ。街中の積雪もなかなかのもので、暖かかったとはいえ、昨日1日ではそれほど溶けない。まして山だから、コースタイム以上に時間もかかるから、東吾野駅に下るルートにしようと算段していた。
 
 歩きながら話を聞いていると、okdさんばかりかmrさんも歩いたことがあるようだ。mrさんの持っていた地図(のコピー)にはカマド山のルートも破線で記載され、「入口がわかりにくい」と小さな字で記載されて、コースタイムも書き込まれている。「ここは、トレーニングコースなんです」とokdさん。そうか、ならば案内役を彼女たちに任せて今日は連れて行ってもらおうと、お気楽を決め込んだわけ。あとは、雪のせいでどれくらい時間がかかるかだ。
 
 なるほどアップダウンがたくさんある。でも、アイゼンをつけてからは調子よく歩く。アイゼンの爪が雪をとらえているというよりは地面をつかんでいるという感じだ。国道299号線を超えて、また山道に入る。ようやく日が当たる稜線に出る。岩の細い尾根をたどる。「ここだけですよ」とokdさん。大高山493mの山頂に着く。10時45分。石柱の表示がある。樹林が途切れ、西の方の山並みが見える。棒の折れから川苔山へつづく峰々が前景をなし、その向こうに背の高い山がある。大岳山のようだ。ガイドブックにはその右側に富士山が見えるとあったが、今は雲が湧きたって姿を見せない。陽ざしは明るいが木立の陰に覆われてサングラスが必要なほどではない。天覚山まで1時間10分と聞いて、そこまでお昼を先送りすることにして、少しばかり食べ物を腹に入れる。
 
 また、降り、登る。20分ほどで大岩。岩の上に蛍光色の「←」が記されている。そろそろ天覚山じゃないの、と声が上がる。上りにかかる。上がりきってみると、また道は下りになり、大きい山体は正面の樹林の向こうに見える。あれだ、あれだと行き着いてみると、まだ先がある。こうして、天覚山の山頂445mに着いたのは、12時10分。。南側が開け、関東平野の平地が一望できる。スカイツリーがくっきりと立ち、東京の高層建築が林立する。その向こうに「島のようなのが見える」というので、双眼鏡で覗いてみると、房総半島のようだ。川崎、横浜から西の方へもポツンポツンと高層ビル群が並び、「江の島かい? あれは」と言うが、きっと大島が見えていたのであろう。丹沢山塊とその東端の大山がはっきりみてとれる。富士山は、相変わらず雲の中。陽あたりがよく、丸太を並べただけのベンチが適当にあって、お昼にする。
 
 ここから40分くらいで東吾野駅に下る、当初のルートへ行くと説明する。mrさんが「えっ、武蔵横手に行かないんですか」とジョークを飛ばす。それを真に受けて私が「行きますか?」と聞くと、「私、リーダーに従います」と潔い。「どう、kwrさんは?」と尋ねると「せっかくここまで来たんだから、武蔵横手へ行こうよ。夏はもっと歩かなくちゃならないんだから」と(利尻岳のことを考えていて)元気がいい。「じゃあokdさん、案内、お願いできますか」と頼むと、「(昔歩いたのと)逆コースをたどっているから自信はないが、いいですよ」と先導してくれる。瓢箪から駒。お昼で元気がでたのと、明るい陽ざしに誘われて、さらに2時間を歩くことになった。「雪男」の足跡も、そちらの方へつづいている。
 
 アップダウンを降りながら、mrさんが「なんだか、アイゼンつけてると、降るときの脚のおき方がわかったような気がする」と話す。爪を噛ませるように踵をつけて脚をおくと、踵と膝と体の重心がしっかり腰に座り、これまでのようにおっかなびっくりで腰が引けて滑りやすくなり、いっそうびくびくと降るようなことがない。「奥義を極めたような感じ」とうれしそうな声を出す。「夏だって使えるアイゼンをつくってくれないかしら」とアイゼンが気に入ったようだ。「いっそのこと自分で作って、高齢者向けに商品販売すれば」と混ぜ返す。
 
 okdさんはときどき立ち止まり、こちらの方でいいですかと、目で問いかけてくる。私はスマホのGPSをみて、ルートを外れていないことを確認する。分岐がある。okdさんは、踏み跡がついている左へ踏み込む。スマホの地図には右へのルートはない。なんとなく、東吾野駅に向かっているんじゃないかと、私は思う。谷あいに降りて行き、沢沿いの道を降る。とうとう林道に降り立った。そこに「←東吾野1.2km 東峠」とある。okdさんは左へすすみ、ほんの200mほどで「東峠」の看板と「←多峯主山」にみちびかれて舗装林道と別れる。天覚山から35分ほど経っている。
 
 そこから20分ほどで高圧鉄塔に出くわす。最近の地理院地図は高圧線を記載しなくなったから、こんな鉄塔も目印にならなくなった。尾根上には雪がない。アイゼンを外そうかとkwrさんはいうが、少し様子をみようと先へすすむと、また雪がついている。天覚山を出て1時間25分で、標高303m地点に着く。「入口がわかりにくい」と記されていたところに、「釜戸山入口」と手書きの四角い板がつるされている。「雪男」の踏み跡もそちらの方へ向かっている。直進して久須美峠へ向かう道の雪の上には、足跡がない。ここから50分くらいかなと歩きはじめる。
 
 「カマド山へ行くと、また引き返してくるようになるよ」とmrさんが声を上げる。「そんなことはない。あなたの持っていた地図のコピーには経路が記されているよ。出してみて」というと、「めんどくさい」と応じる。くたびれてきたのであろう。下りはじめると、また登るのに何で降るのよとつぶやく。「おっ、いつもの調子が戻ってきた」と茶化す。地図上では破線であったが、雪が積もり踏み跡があると、実践になるような気がした。15分ほどでカマド山の山頂に立つ。「里山・白子地区、武蔵横手駅→」の表示板にしたがって、ここからは下りに下る。いつのまにか斜面が終わり、沢に沿った渓の道。倒木が多く、道がふさがれるようになっている。林道が廃道になったような、広いが草ぼうぼうの道に出る。すぐに林道は終わり、入口のフェンスにぶつかる。網戸を開けて通過するとすぐに、舗装路面に出逢い、雪もまたそこで終わっていた。
 
 こうして国道に出て武蔵横手駅に着いたのは15時10分。電車が来るまでに10分と都合がよい。東飯能駅で川越に向かう人たちと別れ、飯能駅から池袋行きに乗り換えて、さかさかと帰ってきたのでした。全行動時間は約6時間。そのうち40分は、昼食タイム。コースタイム4時間50分のところを、5時間20分。まずまずの歩き方であった。kwrさんは「いや快適だった。「天覚山から足を延ばしてよかったねえ」と自信を深めたようであった。

雪、降り積もる

2018-01-23 08:35:07 | 日記
 
 雪深い福島県の新野地温泉から帰ってきた翌日、つまり昨日(1/22)、午前11時にはもう降りはじめていた。小さな雪片がちらちらと落ちてくる。積もりそうな気配。お昼になって庭を覗くと、土がうっすらと白くなっている。
 
 昼食を済ませて映画を観る。『さらば冬のかもめ』(原題: The Last Detail)。こんなにデリケートに心裡を描きとるアメリカ映画があったんだと感心したら、なんと、1973年の制作。そうか、そんな時代だったんだと45年前を振り返る。私だって32歳だったんだと。その頃私は、それほど繊細ではなかった。
 
 3時前に外を覗くと、庭もヒバの葉の上も真っ白。駐車場の車の屋根にもはっきりと積もった雪が見てとれる。玄関を出て、外の通路をみるともう、かなり積もっている。雪かきをしておかないと、降り積もり固まってからでは面倒だ。4年程前に買った雪かき用のスコップを取り出し、さかさかと内の周りの歩道の雪を取り払う。人が一人歩けるほどの幅を救ってはわきに除ける。まだ柔らかいから、負担にならないが、残った具合をみると、もう10センチは積もっていたろうか。車道面はすっかり厚く覆われている。5時前に外を見ると、また、3時ころと同じぐらい積もっている。また雪かきをする。ひっそりと静まっているのが心地よい。
 
 夕食にそばを打ち、てんぷらを揚げた。しばらく休んで7時過ぎに外を見ると、さらにまた、積もっている。雪山用の帽子をかぶり、雨着を着て、また雪かきをする。何度も掻いているからさほどの手間がかからない。帰宅する人が「ごくろうさん」と言って通る。車道との境目にはもう50センチを超える雪が積もっている。
 
 今朝になり、薄暗い外を見ると、どっしりと積もった雪が車の屋根も立木も、道路も覆って白一色に染め、別の世界を見せているようだ。明るくなってスマホで写真を撮り、関西に住む娘に送る。「さむそう。外に出られないですね」と返信がある。そうだ雪かきをしなくちゃと、外へ出る。やはり昨日掻きとったのと同じくらいの雪が積もっている。簡単に取り払い、今度は北側の風景をスマホに納め、岡山に住む兄に送る。どうだい、こんなに積もったんだぞって、威張っているみたい。この兄は、東京の駒込に一緒に住んでいたころ、大雪が降った朝カメラをもって六義園に行き(いま思えば、どうやって中に入ったのだろう)、雪景色を写真に撮ってご満悦であった。
 
 TVは大雪で混乱と騒いでいるが、私はうれしい。庭の木の葉の上にこんもりと降り積もり、その先の駐車場の車という車を隠している雪景色は、違う世界に誘われたようで、よし今日は、ちょっと違う世界を生きてみようかという気にさせる。
 
 もちろん、思うだけ。なにもない。でもぼんやりと雪を見ているのも、違う世界ではあるなあ。

いまどき「社員旅行」?

2018-01-22 11:56:47 | 日記
 
 一昨日(1/20)から「ささらほうさら」の合宿。今回は初めて福島県の新野地温泉に足を運んだ。まだ現役の方がいるので、土~日に設定している。njさんは朝になって突然の不調。右脚が不自由な彼の利き足である左脚が「しびれ」、痛みを伴って歩けなくなったとのこと。人の身体というのは、バランスを保って「身」を支え続けようと全力を挙げているのだとわかる。彼の脚を気遣い、現地まで車で入ることになっていたwksさんが迎えに行ったとき、njさんは玄関まで出てくることもできないほど弱っていたという。他方、12月の例会に欠席したmsokさんが咳き込みながらも参加。参加しようという意気込みでもないと、そのまんまクタバッテシマウと笑いながら話す。
 
 雪の気配のない福島駅を降りたとき、西の方に雪を頂いた峰々が南北に青空を遮る。北側のが吾妻小富士と一切教山、南側の峰が山頂の丸い箕輪山と尖った鬼面山。新野地温泉は、その鬼面山の懐にある。迎えのマイクロバスで福島駅から32kmを送迎してくれる。裏磐梯への主要道と道を分け、標高1200m近い野地温泉方面に右折すると、途端に路面を雪が覆っている。空は快晴だから、青と白のコントラストが葉を落としたブナの木立の林立と相まって冬山の雰囲気を強く醸し出す。道の山側には背の高さを超える雪が壁をつくり、奥深く入り込んだ感触が漂う。湯けむりが見えるころ、野地温泉の大きな宿の前を通る。駐車場にはたくさんの車が止まっている。土曜日だからネと言葉を交わす。その先の新野地温泉相模屋が今日の宿。駅から40分ほどで着いた。
 学事開始までに2時間以上ある。さっそく風呂に向かう。晴れているから、外
の露天風呂が気持ちいい。以前、強い風に雪が舞っている中この露天風呂に入ろうと来てみたら、湯温が熱く、とても入れない。震えながら懸命に、脇に降り積もった雪を湯船に投げ込んでかろうじて体を浸けたことが思い起こされる。今日は事前に調整してあってか、ほどよい。krさんは1時間も露天風呂で過ごしていたらしい。msokさんは、露天風呂への板敷の傾斜の上りがきついとみて、その入口にある内風呂に浸かっている。彼は肺を痛めていて、すぐに息が切れる。あとで聞いたが、内風呂の「効能書き」には「肺気腫、肺疾患に効く」とあったそうだ。肺疾患とはCOPD(慢性閉塞性肺疾患)のことらしい。呼吸の出し入れが厳しくなり、すぐに息が切れる。と同時に、「注意書き」には「心臓病の方が入るのは注意」とあったそうだ。彼はペースメーカーを入れている。どっちをとるかだねと笑いながら話すが、この湯が気に入ったらしい。その後も何度か湯船へ足を運んでいた。「njさんにも効くかもしれないね」と誰かが言う。
 
 それでもまだ時間がある。持ち込んだビールで一杯やる。すっかりくつろいで「学事」に入る。krさんの用意したプリントで社会学の泰斗・マックスウェーバーの「権力と支配」の「第二部・官僚制」を軸に、彼の体験途上の教育行政に関する変化と問題を俎上に上げる。その様子はまたの機会にでもお話ししよう。みっちり3時間、くたびれもせずやりとりを交わし、「ささらほうさら」の意気軒昂ぶりを示していた。外は風が強い。雪が舞う。「これ、吹雪っていってもいい?」と誰かが私に訊く。「なに風が強いだけ。まだ視界があるもの」と応じて、雪の少ない埼玉の平地からきた好奇心を感じる。
 
 夕食は私たちだけの会場で、宴会風にはじまる。ビールも頼んだが、どちらかというと日本酒の冷酒。kwrさんが数本注文し、さらにのちに数本追加し、空けた。さらさらと呑みやすいおいしいお酒であった。料理の方も、会席膳風に、しかし福島牛やイワナの塩焼きも含め、手の込んだ品々が並ぶ。お腹がいっぱいになり、私はご飯を頂戴しなかった。
 
 部屋に戻りひと休みし、あるいはひと風呂浴びて、近況報告。といっても、毎月会っているから、一人一題の「小話」の会のようだ。小話と言っても、面白いかどうかは突っ込みの入り具合による。お酒も飲んだが私は、それ以上に水をとることを気にしていた。脱水症状が起きないように、部屋の暑い暖房にも負けないようにしなくてはならない。私が床に就いたのは10時半を回っていた。夜中の2時ころ一度トイレに立ったが、目が覚めると6時半過ぎ。体にお酒は残っていない。吸収しきれないほど飲めなくなったのか、お酒が良くてすっかり消化したのか。朝風呂に行く。
 
 部屋の窓から露天風呂に人がいることはみえたが、寒い中を敬遠して内風呂に向かう。二人、見知らぬ客が入っている。こちらも熱さがほどよい。10分ほど浸かり身体があったまる。その温さが持続するのが、温泉の不思議なところだ。大広間の朝食に足を運んで、お客の多さに驚いた。私も含めると50人近くが泊まっていたのだ。それにしては静かな佇まいであった。五十年配の方々の、職場の社員旅行だろうか。土日だから、ね。「いまどき(社員旅行なんて)珍しいね」というと、「いや、近ごろは、そういうこともしなくちゃならないって、経営の指導法に入っているらしい」と誰かが口を挟む。でも多くの皆さんは朝方帰っていったから、車でやってきて、風呂に浸かって一杯やって、日曜日の午後は家族と過ごすってわけか。
 
 御膳は、小鉢が並び、品数の多さに「こんなに朝食べることをしないから」と驚嘆している。昔がどうであったかあまり覚えていないが、これほどこまごまと手を加えていたという記憶がない。どちらかというと、山小屋風の田舎風、ぶっきらぼうだが暖かい心遣いという雰囲気だったように思う。それが、調理も丁寧だしデザートも加わっているし、セルフとは言えコーヒーなども用意されて足りないことがない。これでこの料金ではねと、誰かが口にする。やっていけるのかと心配していたのだが、このお客の人数をみて、得心している。何より、裏方を担当している人手がずいぶんいたんだとわかる。家族経営的な格好だが、若い女将夫婦が引き継いでから、いわゆる「秘湯の会」的な古風な経営ばかりでなく、清潔でさっぱりした佇まいと、料理に心遣いを込めている気配が感じられる。
 
 朝食のあと、裏山のブナ林の雪山を歩くことにしていた。1時間ほど歩いてひと風呂浴びてから「学事」にしようというわけ。スノーシューや長靴は宿が貸してくれる。案内は私が担当する。おおよそ標高差で150mほどを上って箕輪山や稜線の向こうの横向スキー場が見えるところまで行き、帰りの急斜面を歩く楽しさを味わってもらおうとコースを選んだ。だが寒いのと、身体の故障があるのと、風呂の方がいいのと、あれこれあって、出かけたわずか3人。降りつもった新雪を踏んでブナの大木が立ち並ぶ林を稜線へ向かう。いつもなら雪面に残るテンやウサギ、キツネなど獣の足跡も見当たらない。好天が続いていたのだろうか、雪は良く締まっていて、それほどラッセルの力が要らない。10分ほどで稜線に出る。尾根の向こう側の横向を走る国道が雪の原に流れるような踏み跡をつくり、トラックが走っている。その向こうの裏磐梯の方は、雲に閉ざされている。風が強い。今度は稜線に沿って鬼面山の方向へ向かう。木の枝が邪魔をするから、右へ左へよけながらルートを探る。急な斜面を上ると目標点の反射板が見える。電波の受けと跳ね返しをして、遠方の山頂にしつらえられた反射板へ送り届ける送電伝達板だ。自衛隊のか総務省のか民間のかはわからない。鬼面山はうっすらとそのかたちをみせている。箕輪山は雲の中に隠れて、形が見えない。
 
 若いwksさんは、スキーでくれば面白いねとご満悦だ。kwrさんはマイペースを守って着実に歩く。この反射板ところで、トップを入れ替わる。下山はこの方向、と大雑把に示して歩いてきたのとは違う下りをとる。ここは樹木がそれほどない急斜面だ。wksさんは横にスッテプを切るのかと聞くが、あなたならまっすぐに下へ向かって踏み出す方が面白いよと返す。下へ踏みだすとずるずると滑り落ちる。kwrさんも踏み出す。勢いがついて、身体が下へ急ぐ。脚が踏み止れないが、転倒するのを避けようと腰が引ける。今度は脚を先にしてしりもちをつく。そのまんま少し下へ滑る。面白い。まっすぐ下れば登るときの踏み跡にぶつかるからというと、wksさんは気分よく歩を進める。kwrさんも、自分の踏み跡をつくるように雪に足跡を刻んで、降る。こうして、ほぼ予定の時間で宿に帰り着いた。帰り着いたころから雪の降りが強くなり、「いい時間に戻ってきましたね」と声をかけられ、そちらをふと見ると、八郎さんという登山家で、宿の元主人。元気そのものであった。
 
 ひと風呂浴び、荷物をまとめて「学事」をはじめる。10時。レベッカ・ソルニックの『ウォークス――歩くことの精神史』(左右社、2017年)の一節を読み合せる。「歩行とは自己の身体を世界との関係において理解する経験である」というフッサールの提示したモチーフを、モデル化と抽象化と普遍化によって身体から飛翔してしまった近代哲学批判のように展開している面白い論考と、國分功一郎『中動態の世界』の末尾の一章を読み合せる。この内容についてもまた、機会があれば、触れよう。
 
 「学事」の途中でお昼が来た。牛丼。冷めては何だからと、「学事」を中断して30分ほどかけていただき、終了後に再開。結局12時半までしっかりと勉強してしまった。二組の人たちが、やはり出発するところであった。一組は小さな子ども二人をつれた家族。この宿の縁戚の人なのであろうか。もう一組は、自家用車で来ていた一組の夫婦。その人たちを見送ってから、1時ころに宿のマイクロバスを出してもらい、福島駅に向かう。雪が降りしきり、前が見なくなるほど。対向車が結構あって、運転手も慎重だ。日帰りで温泉にやってくる人たちなのかと思ったりする。道の傍らに軽自動車が一題止まっている。誰もいない。「あれは故障車、昨日ですよ」と運転手が言う。主要国道に出ても路面は積雪している。前の車が始終ストップランプを踏みながらゆっくり進む。その前のトラックが、同様に慎重に下っている。やがて路面の雪がなくなるころ、スピードが上がり、45分で駅に着いた。
 
 土産を買う人は買い、私は座席がkwrさんと隣り合っていたから、会津の大吟醸酒と小さなプラスティックのコップを手に入れ、大宮までの1時間余をおしゃべりしながら、よく呑んだ。だが、気分爽快に、いま、こうやって書き込みをしている。

どちらがボケているのか

2018-01-19 11:49:45 | 日記
 
 夢は、雰囲気(イメージのもつ気配)をみている。かたちはおぼろなのだが、(ゆったりしている)とか、(安心している)とか、(変だなと思っている)とか、(妙な感じだ)というのは、割としっかり覚えている。夢の中のことばも明瞭なのだが、覚めてみると、何だかずいぶんはっきりと分析的にしゃべっていたという(印象)が残るばかりで、何をどう分析的にしゃべっていたかは、思い出せない。夢のなかでは、ずいぶん頭が良かったのに……と思うこともないわけではない。願望だろうか。無意識の「自己主張」なのだろうか。
 
 今朝方見た夢は、妙であった。カミサンと二人の住まいにいる。もう五十年も連れ添っているから、言葉を交わすことがなくとも、気持ちが通ずる。そんなふうな雰囲気だったのだが、ふと足元を見ると、先ほどまでテーブルの上にあった(なぜか大切なガラスの皿だったか鏡だったか)が砕けて床に落ちている。
 
「あれっ、割れてしまったぞ」
「前から割れてましたよ」
「そんなことはない。今ここにあったじゃないか」
「そんなことありませんよ。前々から割れていましたよ」
 
 これだけの夢。その言葉を交わす前段に、比翼連理のごとき睦まじさの印象があるが、忘れてしまった。その果ての会話である。これで半醒半睡になった。(なんだこれは?)と思い返して意味を自問自答している。
 
 (カミサンがボケ始めたか)と私は思っている。ところがカミサンのセリフの側に立つと、(私がボケ始めている)とカミサンは思っているかもしれない。そういう言葉にはならないのは、気遣いがあるからか。
 
 でもひょっとすると、どちらもボケているわけではなくて、「認知・認識」が違うってことかもしれない。比翼連理という互いの仲が「割れている」ことに気づいた私。それに対して、「前々から割れてましたよ」という醒めたカミサンの認知。それを、ともに現実の認知や認識は同じはずだと思い込むところから、ズレが生じる。ずれが生じても、まあ人生ってそういうものよとカンネンしていれば、わざわざ荒立てて騒ぐこともない。相手が比翼連理と思っていれば、それはそれで構わないと心遣いをして(カミサンは)、それにお付き合いしてきたのかもしれない。
 
 私が夢で見たことだ。起きてカミサンに問いただしても、間違いなく「???」と反応するだろう。ということは今、私の内面で「壊れているのではないか」という疑念というか、不安に結びつく何かが生じているのであろうか。そうして、カミサンの認識に取り残されて、能天気に過ごしてきた何十年かをあらためて見つめ直す衝動が湧きだそうとしているのであろうか。う~ん、面白いといえば面白いが、そういう認知・認識のズレはこれまでいくつもの事象に向き合って、あったとはいえる。カミサンの直感的な視力に適わないと思ったこともある。でもなあ、今ごろ反省してどうなるよ。
 
 歳をとれば、どちらがボケているかと考えた方が、実務的には間違いが少ないかもしれない。

心棒が曲がっている

2018-01-18 11:41:07 | 日記
 
 「石灰化」のために左肩に痛みが走ったのが昨年9月半ば。注射や投薬、湿布薬の施療で何とか痛みが取れたのが11月初め。リハビリと称して左腕を動かすことを心掛け、なんとか動かせるようにはなったが、いつのころだったか、動かしていると左の二の腕の筋肉に痛みが走るようになった。山歩きのときなどに左腕で木につかまってバランスをとろうとすると、烈しく痛みがあり力が入らない。そのうち痛みが、腕を垂らしているときにも手首の方にまで及ぶような気がする。まいったなあ、これじゃ、左手が使えないよと思う。ザックを背負う時にも左腕を先に通さないとならなくなった。つまり、後ろの方に伸ばすことができないのだ。整形外科へ行っても(たぶん)湿布薬をくれるだけだ。
 
 いつか足を運ぼうと思っていた「接骨院」に行った。これまでの経過を聞き、左腕を前へ後ろへ、上へ、あるいは回してみたりして、「よく動きますね」という。不思議と痛みは感じない。ついで「電気」をかける。左肩と肩甲骨と上腕に通電帯を張り付けて電気を通す。ビリビリ、ビリビリ、トントントントン、ズ~~ンと5分か10分ほど。時間が経つにつれ、その響きが変わるのが妙な感じだ。この通電は、筋肉にどのような作用をしているのだろうか。温めている? 柔らかくほぐしている? その両方? 
 
 そのあと俯せになり、腰骨と背骨の様子を見ている気配。そして「曲がってますね、腰骨が」と、左と右の腰骨が水平を保っておらず、左側が少し上になって右へ傾いていると指摘する。

「そのね、バランスをとろうと、肩甲骨が逆に左へ傾いていて、そのストレスが全部左側の方にかかったんですね。」
「カルシウムが左肩に溜まったというのも、そのためですね」

 と、去年9月の石灰化のワケを説明する。

「でね、左の二の腕に力が入らず痛いというのは……」

 と、腕の痛みになってきた分けに、話しは移る。肩のあたりは、広く動かせる(稼働領域が大きい、と説明したが)ように、筋肉が錯綜している。こちらが縮むとあちらが伸びる、そちらが縮むとこっちへ伸びる作用が働くってように、全部の筋肉が作用して、力をいれたりバランスをとったりしている。ところが、左側肩甲骨が固まって動かなくなったために、筋肉の作用にも変化が生じて、その緊張が左二の腕に集中してきたと思われる、と。その説明をしながら、腰骨の上の部分、背骨の両側の洋書、肩甲骨の一部、首筋の左右のところどころを押さえて、ほぐしていく。そのさえたところを「ツボ」と表現していた。
 
 首筋の話になったときに、一つ納得のいくことがあった。私は子どものころから、少し首をかしげている気配があった。年をとってからもカミサンから、首が曲がっている、姿勢をまっすぐに立てなさいよと、言われたこともある。そのクセが、抜けないのだ。それが、腰骨と肩甲骨の傾きと、やはりバランスをとるために首を傾けるしぐさが身についてしまっている。そういわれた気がしたのだ。
 
 心棒が曲がっている。よくこれで歩けたものだと(今振り返って)思う。山を歩いても膝に負担がかかるわけではないし、重心の移動が比較的スムーズに動いていると、常々自己評価してきた。「体幹がしっかりしている」とアスリートに評価されたこともある。それなのになんと、心棒が曲がっている。まあ、性根が曲がっていると言われるよりは、気が軽いか。
 
 この施療で、ずいぶんほぐれたように思う。「週1くらいで通えますか」という呼びかけにも、すぐに応じる気持ちになった。この整骨師は浦和レッズやヤクルトの選手などの施療もしてきた方。私の古くからの友人の「教え子」ということで、五年以上も前に紹介されたスポーツ・トレーナーだ。まだしばらくは、こうした施療を受けて、身体を保たなければならない。保険が利かないが、五十代のころに指圧にかかっていたことを思えば、そのくらいは構わないだろうと胸算用もしている。