mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

私たちは「洗脳」されていないのか?

2018-01-17 14:39:45 | 日記
 
 もう何年か前の話になるが、北朝鮮を訪問した知人の日本人ジャーナリストが帰国後、「北朝鮮の人たちは洗脳されているから(取材しても)面白くなかった」と語っていたことがある。そのとき「そうかなあ。自分を守っているだけなんじゃないかな。私たちだって洗脳されて育った」と私の口をついて出た。「えっ、どういうこと?」とそのジャーナリストは問うたが(神保町を歩きながらだったので)そのまんまになったのが思い出される。私の感想は、いまも変わらない。
 そのジャーナリストが(面白くない)と思ったのは、誰に聞いても同じ
ような返答しか戻ってこないことを指していたのであろう。だがそれは「洗脳されている」からなのだろうか、置かれている社会状況が「自由でない」からなのだろうか。大雑把に、その両者は同じことだと言ってしまうと、話しはそこで終わる。だが、「洗脳されている」というのは、人は先見的に自らの意思で発想し発言できる(それができないのは、権力者による意図的意識操作があるからだ)と前提しているからではないのか。
 
 「意図的意識操作」を「世論操作」と言い換えてしまうと、日本においても、宣伝広報の大規模企業が意図的に行っていることであるし、選挙のたびごとに政党が大枚はたいて電通や博報堂などに依頼し(人間工学的に)ポスターから衣服から発言まで広報戦略に基づいてすすめているではないか。政府もまた同様に、広報活動をしている。日本のそれが「洗脳」と問われないのは、情報収集や発言の「自由が保障されている」からだ。
 
 北朝鮮の場合は、その「自由がない」。保障されないばかりか、諜報活動も徹底して組織化されて常時監視されているだろうから、身を守るために人びとは同じような発言を仕方なくするとは言えまいか。中国だって似たようなものだと私は思う。だが中国のことを「洗脳されている」社会と(ジャーナリストたちが)言わないのは、どうしてか。ただ単に、資本家的市場経済が行われていて、その局面においては「自由である」からなのだろうか。それはしかし、「自由を保障している」のではない。ネットも出版も常時管理され規制されているし、当局による情報収集は全てのメディアにわたって(法的に規定されて)広く行われている。自由なのは市場経済面の(国内法に合法的な)活動だけである。それもいつどの線で非合法と裁定されるかは、権力当局者の胸先三寸だから、フーコーのパノプティコンじゃないが、その社会に暮らす人々にとっては(逸脱しないように)「推し量らなければならない」。これは「自由の保障」とは言わない。では「洗脳されている」というかというと、そうは言わない。なぜか。
 
 「人は先見的に自らの意思で発想し発言できる」と考えているからじゃないかと、先に述べた。この「先見的に」というのは、(生まれ育って過ごしている)環境に左右されずにという意味だ。そのように考えたのは、(J・ロックをはじめとし、その部分だけを引き継いだ)ルソーであった。彼は、人は白紙で純真無垢に生まれ落ち、育ちながら社会の毒に染まって頽落すると考えた。だから「自然に帰れ」と主張したのであった。だが、そんなことはあり得ない。そもそも言葉を獲得する過程そのものが「環境」に規定される。ことばに含まれる感性や思考や価値もまた、否も応もなく、子どもの胸中に流れ込む。私はまずそう想いうかべたから、「(洗脳されているといえば)私たちだって洗脳されて育った」と言ったのだった。つまり私たちは、ことばを得た段階ですでに、その環境の歴史的社会的から自由ではない。自らの身を守る/守らないということについてすら、社会的規範に囚われて育つ。
 
 だが(日本にいる私たちは)「洗脳されている」とは考えない。私たちが抱懐する意思は「自由に選択している」し、表明していると考えているからである。それは「自由に考え、発言することが保障されている」からにすぎない。つまり社会的なシステムがそうだというだけで、「わたし」が「環境」に掣肘されることなく「自由に」発想し表明しているかとなると、そうではあるまい。
 
 東洋経済online(1/16)に《DeNA筒香「球界の変わらない体質」にモノ申す――子供の「野球離れ」は大人が作り出した必然だ》と題して、広尾 晃(ライター)が取材していることが面白い。筒香は、(勝ち負けだけでなく)野球が面白いと感じさせる少年野球の指導の仕方を説いていて、別に異様な意見を主張しているわけではない。勝利至上主義的に行われている少年野球の指導が、高校野球をふくめて、野球の面白さを子どもたちから奪い、はやばやと野球少年たちを損なっているという。この記者の「そんなことを言って大丈夫ですか」という筒香への気遣いが、いっそう(少年を含む)野球世界の異様さを際立たせている。この記者のように思考するのを、冒頭のジャーナリストは「洗脳されている」というであろうか。
 
 むろん北朝鮮の人々が、ある特定の思想を強要されるような社会構成の中で暮らしていることを擁護するつもりはない。だが、「洗脳されている」と断じてしまうと、そこに暮らす人々は「免罪」されてしまい、ただひたすら政権担当者の邪悪な意図が浮き彫りになるばかりだ。むろん体制転換の争いをしている人たちにとっては、その非難だけで十分かもしれないが、「わが身を守る」ためだけにでも「自発的に」沈黙し、ことばを発し、荒れる海に小舟で操業に出ている人たちをの、「自発性」を見損なってはいけないと思う。その「自発性」が北朝鮮の体制を強めているからだ。
 
 むしろ翻って、私たちは本当に自由に発想し、意思決定し、行動しているかと自問自答する方が意味多いと思う。それは、いつ知らず身についてしまった「環境」による心の習慣を、あらためて点検し吟味し直すきっかけになるからである。
 
 私は自由な意思を口にしているわけではない。単に、心地よいと感じる「選択」をして書き留めているにすぎない。社会的な掣肘を受けているわけでもないのに、どうして? 力がないからですよ。