mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

小春日和の奥武蔵峠歩き

2016-12-21 10:45:53 | 日記

 ぽかぽか陽気の小春日和。昨日はまさにそういう陽気であった。奥武蔵の峠歩きに出かけた。これは3月に予定していた小楢山が、アプローチの林道が5月の連休前まで閉鎖になるため、登れなくなったから、その変わりの山として下見をしたわけである。同行してもらおうと、地元に暮らすkw夫妻に声をかけた。ところが旦那が身体を痛めてつきあえないと、奥さんだけが同行してくれる。

 8時前に小川町駅に降り立つ。15分発と思っていたバスは20分発。早すぎたかと思ったが、なんとこのバスに29人もの登山グループが乗り込んできた。立っている人が何人もいる。終点の方まで行くらしい。笠山や堂平山へ行くのかもしれない。道中の車内が騒がしい。団体料金を集める「幹事」が歩き回り、あとからやってきた人が挨拶を交わし、乗り込んで座った女性陣が世間話に余念がない。25分ほどのあいだ、うるさいのを我慢しなければならなかった。

 内出(打出)バス停で下車。私の高度計が示す標高は170m、地理院地図と同じだ。今日は気圧が安定しているようだ。すぐ前に交番があるが、無人の様子。そこから20mほど先へ道路をゆくと「二本木峠、皇鈴山、登谷山→」の木柱がある。小川を渡り 北へなだらかな傾斜をつくる広い里山の田んぼのあいだの畔道を歩く。国土地理院地図では舗装路と作業道とが入り混じり、どこを歩くのがいいかわからない、と思っていた。ところが、要所に白い「外秩父縦走ハイキングコース 皇鈴山→」とか「二本木峠ハイキングコース→」の小さい標識が立てられて、田畑の脇を抜けるルートがある。整備してくれているのだ。20分ほどして舗装路を離れ、木立の間を歩く。「熊出没注意」の看板がある。

 細いスギ林を登っていると、木と木に注連縄を渡している。その向こうに小屋がある。「七瀧祓戸大神」と扁額をかけた社であった。水の落ちる音がする。裏側に回り込むと、1mも落差のない「滝」があった。マツやクヌギ、サクラの葉の落ちた樹々を寿ぐように陽ざしが地面の落ち葉を照らす。いかにもハイキングコースという感触。枯葉色の中でそこだけ少し緑を残した広い土地がある。牧草地だろうか。鉄条網で取り囲まれてあるから、放牧地なのかもしれない。上を見上げると自動車道路が走っているのであろう、ガードレールがみえ、東屋がある。

 1時間ほどで二本木峠に着く。舗装車道が横切っている。「二本木峠のヤマツツジについて」と表示した絵看板がある。愛宕山654mと皇鈴山を入れて、イラスト地図をつけ、「ヤマツツジ」の解説をしている。5月だろうか、6月だろうか。愛宕山10時ちょうど。見晴らしは良くない。一度下って登り返す。二つの起伏を越えて皇鈴山679mに着く。私の高度計も680mを表示して、正確だ。木立の隙間から、両神山がその独特の姿をみせている。「富士山が見える?」とkwさんが声をあげる。「ああ、あれは浅間山だね」というが、木立に阻まれて、その雪をかぶった姿がすっきりとは見えない。確かに富士山に見まがうばかりだ。

 皇鈴山から一度下り、また舗装道路に出て、その先を登山道に入ると、登谷山669mに着く。細い木に山名と高さを記した金属板が縛り付けられている。北西方面が開け、眼下に、小川町から寄居町、その先の深谷市方面の平地と工場群と住宅地が、陽ざしに明るく白っぽい。手近の山麓には風布らしい集落が、高度を違えて点在する。昔はみかんの北限と言われた土地だ。里山としてのこの山や峠を大事にしてきたのであろう。目を遠方に転じると、男体山と女峰山が並んで雪の姿を見せる。その左手にもっと頭の白い日光白根山がひときわ高い。それに連なる白い山稜は皇海山だろうか。さらに左に山頂が二つに割れてみえるのは、燧岳だろうか。赤城が手近に黒っぽい。その後ろに姿を隠そうとしているのは武尊山か。谷川連峰も白く横に広がる。皿その左に、先ほど垣間見えた浅間山が全身をさらす。いいねえ、この景観。両神山も二子山も遮るものなしに見ることができる。

 登谷山のさきでまた舗装車道に出てしばらくそちらを歩く。車の往来は、4、5台。山道への標識を入るがすぐにまた、舗装車道に出てしまう。「釜山神社」の標識で杉並木に入り、鳥居のある神社の社殿への道をたどる。狛犬が狼のようだ。三峰神社と同じなのだろうか。扁額の前に「海四輝威神」と扁額のような看板が掛けてある。書き順は昔風だから「神威輝四海」、つまり神の御意向が世界を照り輝かしめると読むのであろう。この神社の脇を抜けてさらに奥に進むと、20分ほどで釜伏山582mがある。そちらへ足を延ばす。ひとたび下り、岩を踏んで上る。山頂部には医師の祠がある。奥宮とどこかに記してあったが、そのような扱いを受けているとは思えない。捨て置かれているみたいだ。祠の先に日当たりのいい見晴らし台がある。そこでお昼をとる。11時半。

 12時に釜山神社上の塞神峠への分岐を通過。20分足らずで峠に着く。舗装車道の屈曲するところに木柱が建ち、峠の名が記してある。すぐに山道に入る。この山稜を挟んで東と西の集落を結ぶ峠道が何本も抜けている。仙元峠、植平峠、葉原峠と、2km余の間に峠の名前を記した石柱が埋め込まれている。いずれも標高400~450mほどであるから、昔の往還ではよく使われていたのであろう。いまも踏み跡はしっかりしている。葉原峠着、12時50分。出発してからちょうど4時間。波久礼へ下る道と長瀞へ下る道がある。

 葉原峠から波久礼駅への下山路をとる前に往復30分の大平山へ足を延ばしてみる。ところが、その山名を記したピークが見つからない。地図ではほんの100mほどなのだが、踏み跡は先へつづく。ほぼ同じ高度が途絶えるところまで行ってみることにした。巻道もある。たぶんそれが合流していると思われる合流道もある。なんと20分も先へ歩いて、とうとう標高535m地点で「金尾→」の標識を見つけ、その先はもっぱら下りのしっかりした踏み跡の道になっている。そうか、こちらを歩いて下山しても波久礼に行ける。でも、下見だから、「往復」の道をたどる。巻き道が合流していたところの上が、地図によれば大平山538mかもしれない。となると、この巻道を巻くと、葉原峠からくる波久礼への道と合流する地点への近道になる。そちらへ踏み入る。すぐに、葉原峠と波久礼への分岐の標識にぶつかる。この標識の木柱は倒れたのを添え木をあてて立て直したようで、角度が45度曲がっている。「葉原峠→」と指す方向は、針葉樹林の斜面。私たちの北方向は「←作業道(行き止まり)」とある。中間の下山道を辿る。歩きやすい。25分ほどで、舗装路「みかん大通り」に出る。13時48分。小林地区のみかん山の集落が利用して、この名をつけたのであろう。歩いていると、道端にミカンの木がたくさんある。小さい温州ミカンのほかに、ユズ、オニユズ、夏ミカン、白っぽい大きな夏みかんもあって、名がわからない。出荷シーズンらしく、軽トラに積み込んであったり、道端にテントを張ってみかんを並べていたりしている。おっと、サクラの花が咲いている。そう言えばこの辺りは「鬼石の冬桜」にも近い土地であった。小春日和にお似合いの花である。

 駅までのたのたと舗装車道を歩くこと35分、大きな橋を渡り、秩父へ向かう国道にぶつかり、その左に波久礼の駅がみえた。駅着、14時27分。時刻表を見ると、14時32分に寄居方面への電車がある。すぐにホームに上がる。と、まず、秩父方面への下り電車が入り、ついで上り電車がやってくる。秩父線は単線だから、こうして交差しているのだ。すぐ隣の駅が寄居。乗り換えて東武東上線の途中でkwさんと別れ、17時前に帰宅した。山の会の山行としては適当だ。葉原峠から先を、金尾に下るか小林のみかん道路に下るか、しばらく思案してみよう。


「人間の尊厳」の重み

2016-12-21 10:38:36 | 日記

 フェルディナント・フォン・シーラッハ『テロ』(酒寄進一訳、東京創元社、2016年)を読む。山への往き帰りの電車の中で全部読み終わった。シナリオ仕立ての重い話である。場所はドイツの裁判所。事件は、ハイジャックされた民間航空機を空軍パイロットが撃墜した。そのパイロットの有罪無罪を問う裁判である。

 ドイツの裁判は「参審制」、日本の裁判員裁判のように市民が裁決に参加する。ただ、「参審員は事件ごとに選出されるのではなく、任期制になっている」「犯罪事実の認定や量刑の決定の他、法律問題の判断も行う」と、日本語訳出版社の注記がある。この「注記」の(日本との違いの)重みが、読み終わった後にずっしりと心裡に響く。

 大雑把に言えば三幕もの。第一幕は、事実認定と争われる「環境」の様子が浮かび上がる。何しろドイツでは、2001年の「9・11」を受けて、民間航空機が乗っ取られ「武器」として使用されようとしているときには軍が(その民間機を)撃墜してよいとする法律ができた。その法律が2006年に最高裁で「違憲」判決を受け、無効となっている。2013年、ルフトハンザ機がハイジャックされたと、機長から報告が入る。ハイジャック犯はサッカーの試合が行われている7万人収容のスタジアムを目指している。出動命令を受けた空軍機が、民間機に接近してコックピットの様子を視認。航空機に対して警告をし、威嚇射撃をし、着陸するように命令するが、機からは何の応答もない。撃墜を許可するかと求める空軍司令に対して、航空大臣は許可を出さない。むろん空軍司令も許可を出さない。あと数分でスタジアムというところで、パイロットが空対空ミサイルを発射してルフトハンザ機を撃墜した。パイロットは事実関係で争わない。検察官と弁護人と裁判官と何人かの証人が登場し、パイロットも交えてやりとりが交わされる。

 第二幕は、検察官の「論告」、弁護士の「最終弁論」。それぞれの論理を展開する。それはまるで哲学論争のようにも読み取れる。第三幕は「判決」。なんとここが二章に分かれ、「有罪」と「無罪」の、二通りの評決が開示される。これもまた、哲学的に読み取れるが、シーラッハは読者が参審員としてどう評決するかに委ねたと思われる。

 読み終わった後に、もう一章が設けられている。
「是非ともつづけよう」と題されているこの章は、日本語出版社の注記に寄れば、「本稿は、2015年に雑誌〈シャルリー・エブド〉に対してM100サンスーシ・メディア賞授与された際の、授賞式における著者の記念スピーチです(編集部)」だそうだ。私は、シャルリー・エブドが攻撃を受けたときの、あとのパリの街頭デモに際して、2015/1/14のブログ欄で「370万人のデモを風刺してこそ、シャルリー・エブドの再出発にふさわしい」と対岸の火事に言葉を挟んだ。その因縁もあるから、大変興味を持って読んだ。「メディア賞を授与する」というセンスは、真っ向から私のコメントを嗤うものに思えたからだ。

 だが、ルフトハンザ機撃墜事件の裁判の後に、このシーラッハのスピーチを読むと、つくづく「人間の尊厳」に関する裾野の広さが違うのだと、感じさせられる。それは、言葉を挟む次元と視界のちがいを照らし出す。ドイツ市民の共同体がつくる規範の根っこに、ごくごく普通にカント(の論理)が居座っていたりするのは、思えば当たり前のことではあるが、日本にはそういう「伝統」というか蓄積がないなあと思う。ドイツが良いとか日本が悪いとかいうことではなく、それだけの蓄積の上に言葉が交わされる社会の「知的力量」の差が感じられて、重いのであった。


「国家独占暴力団」の面目躍如

2016-12-18 10:06:09 | 日記

 東洋経済online(12/17)が「日本版カジノは大きな成功が約束されている」と、いかにも経済紙らしい論評記事を掲載している。それにしても、「カジノ法」に関しては景気刺激の浮揚のとお金の話がアップビートの交わされているが、肝心なことを忘れていないかと思う。いや、「バクチ依存症/中毒」の話ではない。

 「国家は最強の暴力団である」と言ったのが誰であったか忘れたが、このことばは「暴力装置」のことを指していた。だが「カジノ法」の本題は、「暴力装置」ばかりでない「資金源」としての「国家は最強の暴力団」にある。暴力団対策法が「粛々と」遂行され、暴力団は、然るべきは地下に潜り、表向きはいまや、ほぼ装いをあらためて民間企業に変身しつつある。近頃ラジオで盛んに繰り返される「過剰返済金を取り戻そう」という法律事務所のコマーシャルも、「闇金」を撲滅して暴力団の資金源を断とうという国家戦略の掌中にある。「麻薬撲滅」もそう。「大麻を合法に」と主張する元女優を逮捕したときの、元麻薬取締官のTVでの発言は、麻薬も大麻もみな「薬物」としてひっくくって「取り締まりは必要だ」と言っているにすぎない。つまり子細の論議に分け入らないで、玄関払いしようとしている。これも暴力団の資金源を断つ裾野を焼き払っている積りなんでしょうね。あるいは「元暴力団組員」が改名して「堅気に戻る」ことを裁判所が承認するというのも、「国家暴力団」の独占がすすんでいることを証明している。

 えっ? ――「市民」とか「国民」という名の「組員」として国家が独占するって意味さ。

 それと同様に、「カジノ法」は暴力団の資金源を「国家暴力団」の手に取り戻そうという戦略。だが経済の話にしてしまえば、市民社会の話になる。パチンコの「景品交換チケット」は「賭博」に変わらないのではないかという「国会質問」に、「景品交換所とパチンコ経営者が別だからそうとは言えない」と法制局が見解を変えたというのも、「国家暴力団」がこれからは「賭博」の御開帳をつかさどるぞというちらり宣言みたいなものだ。むろん暴力団も「国家暴力団」も「依存症」のことなどは顧客の「自己責任」を基本としているから、知ったことではない。そういう態度をとってきた。首相の国会答弁も、カジノそのものよりも周りにつくられるリゾート施設やレジャーランドが投資を呼び込むと、おとぼけエコノミックアニマルに終始して、滑稽であった。さすが「組長」、市民社会に溶け込んでいる姿勢を崩さない。「国家独占資本主義」ならぬ「国家独占暴力団」の面目躍如である。

 もっとも、日本の「国家暴力団」も、日本国内の暴力団を視野に入れているだけでは間尺に合わないと思ってきた。だから、今回の「日本版カジノ法」も、「諸国国家暴力団」に富裕層のお金を占有させるわけにはいかないと、そちらも視野に入れていると、国会の答弁に力を入れていた。そして今や時代は、20世紀初頭のような、各国国家利益を最優先にして駆け引きをする「戦国時代」に突入している。なりふり構わず、というわけである。私たち日本の「国家暴力団の組員」としては、組長に頑張ってもらうほかないと日頃の暮らし向きだけを考えて、つまらない思案をしている。

 そんなことを考えながら東谷暁『戦略的思考の虚妄』(筑摩書房、2016年)を読んでいると、論壇で使われている「地政学などの戦略論ブーム」というのは、せいぜい数年を視野に入れた「ご都合主義的な使い方」、戦術や技術に属する論議だ、と手厳しい。グランド・ステラテジー(大戦略)を考えよと、力説している。「大戦略」って何か? 「人間が判断可能な二十年単位の未来予測が要求する戦略上の問題」と東谷は言葉にしている。まさに「国家暴力団」的な視野こそ、本命だと言っているのではないか。カジノ法にまつわって、そんなことを考えるともなく思っている。

 一体どういう日本にしたいと考えているの? そこを明快にして論議をしないと「戦略」もへったくれもないんじゃないか。でも、そういうと、当面、日本会議のような「日本イメージ」しか描けないのだろうか。それも何だか陳腐で、あの戦争の「反省」がないやね。

 そう、まさにこういう「情況」を、「大戦略」がないって言うんだろうと、腑に落ちた。


深い夜

2016-12-16 10:44:47 | 日記

 TVのニュースでシリアのアレッポの制圧に政府軍が乗り出し、戦闘が激しくなっていると報じ、一人の30歳代の男が瓦礫の街に座り込んで「何処へ行けばいいのか」と頭を抱え込む映像が流れる。それに重ねるように昨日(12/15)のTV、BS1のドキュメンタリー番組・「消える難民の子どもたち」を観ていると、つくづく寄る辺のない庶民の哀切というのを感じるばかりであった。

 シリアの戦乱で身寄りを失った18歳と15歳の男兄弟がギリシャにたどり着く。目指しているのは父親が働いているドイツ。だが、EU各国は難民の受け入れと通過を拒み、動きが取れない。もちろん労働ビザもないから、失業者の多いギリシャで働き口を求めることもできない。難民としてでなくドイツにわたるには、「闇業者」に頼まなければならないが、最低でも12万円を必要とする。持ち金は底をつきつつある。そこへ、シリアで亡くなったと思っていた妹たち二人が生きていると、知人から知らされる。携帯電話とインターネットがその間をつなぐ。喜ぶ二人、迷った末にシリアへ帰ることを決意し、有り金をはたいてトルコ国境近くまでの鉄道のチケットを手に入れ乗車する。その先は、川を渡って国境を越え、歩いてシリアまで行くという。つくづく日本の私などは別世界に暮らしていると思う。彼ら難民と私たちを結ぶ結節点が、まったく見えない。うすうす気づいていながら見ていないのかもしれないが、私には見えない。

 桐野夏生『夜 また夜の 深い夜』(幻冬舎、2014年)が、その「見えない」結節点を抉りだして見せている。この作家はこういうところに目をつけて来たのかと感慨深いものを感じている。

 舞台はナポリ。母親と二人、放浪するように暮らしてきた18歳の少女。容貌と言葉から日本人(らしい)と思っているが、国籍もパスポートももっていない。母親の放浪は、何かに追われ身を隠して逃げ回っているゆえらしいが、それがわかるのは家出をしてのちのこと。ナポリの街に逃れてきたアフリカ系不法難民の少女たちと一緒になり、身過ぎ世過ぎをしていく過程で、彼女たちの身の上もだんだんと明らかになって行くのだが、その苛烈なことは、上に記したシリア難民の兄弟をはるかに上回るものを描き出す。その反照として、この主人公少女の「日本」との関係が緩やかに明らかになって行くのである。その照らし出されている「日本」が、私のいう「見えない日本」なのだと徐々に滲み出すというか、読む者の心裡に沁みだしてくる。

 この「心裡に沁みだしてくる」ところに、先述の「うすうす気づいていながら見ていないのかもしれないが」という感触が生まれる。だがまだ「見てはいない」。TVの報道やドキュメンタリーなどで「つくづく寄る辺のない庶民の哀切というのを感じるばかりであった」というのは、ただ単に小説を読んで慨嘆するのと同じなのだ。ニュースとかドキュメンタリーといえども、我が身に突き刺さる棘を感じなければ、フィクションを読むのと変わらない。棘を感じるのは「切実さ」だ。登場人物への共感性の根柢には舞台の仕立てに関する「現実」の共時性、共有性が欠かせない。だが私たちは、海に囲まれ、日本国という国境に囲われて、「現実」の共時性も共感性も、棘を抜き去って感じられる世界に住まわっている。桐野に言わせれば、「夜」のない明るい社会ばかりなのかもしれない。

 もっとも「とげぬき地蔵」にお参りする年寄りとなれば、いまさら何をほざくか! とお叱りを受けるかもしれない。かほどに苛烈ではなかったが、それなりに恐れおののいた、敗戦前後の「深い夜」に思いを致して、「とげぬき」に感謝をしているのではありますが。


私の山の会の終わり

2016-12-15 14:17:37 | 日記

 私の山の会は、ボチボチ終わりだなと、昨日の山を登って思った。山梨県の御正体山(みしょうたいやま)。1681m、日本二百名山の一つ(でも、誰が決めたんだ?)。今年の7月20日に私は一度上っている。そのことは「見事な針広混淆林の御正体山」としてブログに載せた。

 《御正体山は丹沢山塊の北、大月を挟む中央沿線の山並みの南、山中湖平野の北東数キロのところに位置する。6月に歩いた倉見山の南東に位置する大きな山である。二百名山にも入っている。調べてみると御正体山の登山口は、4カ所ある。都留市の方から2カ所、道志村の方から2カ所。そのどこから入っても、山頂まで3時間余かかるほど、奥が深い。当初の計画では、都留市側の2カ所の登山口に車を止めて登り、山頂でキーを交換してそれぞれ別のルートへ下山するという「交差登山」を考えていた。三輪神社からの標高差が1000mを超えるが、まあ、このくらいは頑張れるとみた。ところが、もう一つの登山口である池の平登山口に冬季は車が入れないことがわかった。そこでもう一つ別の山伏峠登山口から歩いてみようというわけ。》

 これを下見として、昨日、山の会の人たちを案内したわけである。11月に高川山に登った際、山頂から東にみた御正体山の姿は、みごとであった。大きな山体を南北に広げて道志山塊の中心に位置している。山伏峠からの標高差は600mほど。二カ所の急登を除くとあとは稜線を歩くだけだから、山の会の人たちにも十分大丈夫と思っていた。

 ところが、1週間前の「道志村」の天気予報を見ると「80%の降水確率、雨または雪」とあったので、「12日に延期かどうか判断します」とお知らせして様子を見た。そうして12日の予報、「9時弱雨、12時曇り、3時曇り、降水確率40%、降水量0mm」。気温が9℃と高いのが気になったが、稜線の上は雪になるかもしれない。雪なら歩くのにそう不都合はない。雨の方がむしろ怖い。「実施します」と連絡した。軽アイゼンとストックは用意してもらう。

 と、一人の方から「御正体山の天気をみると、山行「不適」となっている。朝雨だったら参加しませんので、よろしく」とメールが入った。そうだ、山の情報サイトがあって、「適/不適」の表示を3段階に分けて出している、それか。「ご随意に」だ。私の山の会の「規約」では「山行に際しては、倫理的・道義的責任は共有しますが、法的には自己責任で行動するものとします。」という一項が入っているから、参加者本人の判断が最優先される。それで、もう四年。月一回山行が月に二回になるほど、皆さんの脚を現地で鍛えてきていると思っている。私はほとんど「山居/やまい/病」と思っている。

 ところが13日に「道志村の予報」を見ると「3時雨、6時曇り、9時から15時まで晴れ。降水確率は10%、降水量は0mm」である。と、くだんの会員から「山行・適「A」になりました。疑った非礼をお許しください」とメールが来て、行くことになった。相変わらず最高気温は9℃、10%確率が当たると、雨か雪か稜線ではすれすれだなと思うが、晴れマークが心強く、そんなことはすっかり忘れていた。

 出発のさいたま市は雨、高速を走っているうちに雨が上がり、天気予報が当たる感触。ところが待ち合わせの藤野駅に近くなると雨が落ちてくる。結構な降りだ。皆さんがそろって2台の車で出発したのは8時10分ころ。途中道の駅「どうし」でトイレを借り、相変わらず雨が落ちていたから身支度を整える。このとき、kwrさんが足が痛むという。今朝、駅舎を歩いているときに、緩んでいた自分の靴紐に躓いて転び、膝の上を打ったと痛そうである。彼はここからバスに乗って帰ろうかとひと思案して、でも、歩けるだけ歩いてむつかしそうだったら、先に車に引き返すことにしたいという。

 山伏峠に着き、車を置いてトンネルを抜ける。トンネルの出口に集められた雪が凍っている。除雪してここに溜めおいたものだろう。登山口へ回り込み、上り始める。9時40分。雨は落ちている。緩やかだが細い山道をたどること10分。「山伏峠」の標示がある分岐に出る。標高1100m、南へ「丹沢 大棚の頭」、北へ「石割山分岐・御正体山」とあり、その脇に(距離が長い健脚向き)とコメントが加えてある。上り3時間、降り2時間15分のコースタイム。足元が凍りついているとそれぞれ30分くらい余計にみておく必要があるかと思っていたが、その必要はなさそうだ。

 木々はすっかり葉を落とし、見晴らしが利く。右手の樹林の中をのぞくと下草がまばらに白っぽい。昨夜の雪か。左手には石割山が、前面には奥の岳に連なる高い山が立ちはだかる。ここに上る急登が手ごわい。細いロープが張られている。ロープには瘤がつけられていて、つかむことができる。足元は落ち葉が散り積もって、滑りやすい。雨はいつしか上がっている。雨着を脱いで登りにかかる。コースタイムの50分で石割山との分岐につく。1330m。一息つきながらおしゃべりが弾む。少し上った奥の岳のさきは背の高いササが生い茂り、木々は葉を落とした広葉樹。いわゆるスギやヒノキの植林はなされていない。針葉樹はツガやモミ。広葉樹はミズナラやブナの混淆林。木の紅葉時期に歩くといいのかもしれない。10分ほどで送電鉄塔に着く。とどめのために網が張られ芝が植えられている。周りは木々が切り払われて見晴らしがいい。遠く下の方に山中湖がみえる。上方はすっかり厚い雲に覆われて見晴しは利かない。誰かが「石割山からの富士山が絶景ってあった」と話す声が聞こえる。その石割山が黒々と前に居座っている。どお~んという音が響く。「雷?」と誰か。「いや、自衛隊の演習場の音さ」と別の誰か。そうだ、この周辺の山で、何度かこれを雷と間違えたことがある。

 また雨が落ちてくる。少し下りまた登るという稜線歩き。中の岳の少し手前で小雪になった。11時27分、kwrさんが「私はここで折り返します。上りより下りのほうが足の痛みがひどいので、ゆっくり戻っていますから……」という。そこでお昼にする。少し風も出ていて、冷え込みはきつくなる。周りはすっかり雲の中。そそくさとお昼を済ませる。それでも20分ほど経って「さあ、次へ行きましょう」と、kwrさんと別れようとすると、「あのう私も、一緒に下山します。私、寒いのに弱いんです」と一人が言い、「私も生あくびが出て、今日はだめです」と声を出し、さらに一人が同じように手を挙げる。するともう一人が「私、自信がないんです」といい、「大丈夫だよ。行きましょう」と励ます声を袖にして、やはりkwrさんと一緒に下るという。kwrさんは男性、一緒に下山すると声を上げたのはみな女性。山頂を目指そうというのは今日のトップを務める男性のkzさんとkwrさんの奥さんkwmさんと私の3人だけになった。私の車のキーはすでにkwrさんに預けてあったが、kzさんの車のキーも預け、別れた。11時50分。

 kzさんは登行速度を上げた。kwmさんは懸命についていく。稜線歩きとはいえ、上り下りが繰り返され、緩やかに高度を上げる。「急がないで、自分のペースで」と後ろから声をかける。kzさんはそれを気にしつつも、ペースを緩めない。強いものが残ったのなら、早いペースで山頂往復をして、あまり待たせず全員合流しようと考えているのであろう。学生のころから鍛えた山岳部精神が、よみがえったように感じているのかもしれない。少し行くと日差しが差し込む。ちらりと木々の合間から、富士山が見える。南のほうは雲に隠れているが、北の方は3、4合目あたりまでの雪とその下の東富士演習場のクサモミジを日差しが照らし出している。そうだよこれを見てもらおうと思ったのだと、カメラのシャッターを押すが、自動焦点では手近の木に焦点があって、富士山が遠方にかすんでぼやける。ま、しょうがない。ここまで来たご褒美だと話しながら、きつい登りにかかる。前の岳を過ぎたところから急斜面の上りになり、一気に高度差200mほどを500m余の間に上げる。kzさんも「いやあ、結構きつい上りでしたね」と、あとで振り返っていた。あと標高50mほどになってから山頂までの大きかったこと。木々の西面に雪が付き、日の当たらないところの草地にも雪が残る。積もっているというほどではなく、さらりと雪を振りかけたような気配だ。気温は低い。鼻の先が冷たい。零度くらいか。

 日が差している山頂はベンチやテーブルもあって、思えば7月にはここでお昼をとった。いまは、12時50分。中の岳から1時間15分のコースタイムのところを、ほぼ1時間できている。小さなお社もあり、山頂の説明書きの大きな看板も据えられ、片隅に「皇太子殿下登頂記念 平成6年」の立て札もあった。10分ほどを過ごして下山にかかる。しばらくは私が先頭を歩いたが、急斜面で滑ってからは、kzさんに代わってもらった。kwmさんは慎重に、しかし、しっかりとkzさんについていく。お昼をとったところには45分で戻った。ここから引き返した人たちは、もうすでに車のところに戻っているだろう。この日差しがさした山稜を少しは味わったろうか、と思う。

 送電鉄塔のところに戻ると、富士山が石割山に南側のすそ野を隠すように姿を現す。山頂部は雲がかかって望めない。kzさんも立ち止まってアイ・パッドを取り出してシャッターを押している。日差しがまぶしい。そこから少し上る。kwmさんが立ち止まって太もものところをマッサージしている。攣りそうなのだなと、思う。以前の彼女はときどき足がつっていた。ここしばらくはそういう症状も見ることがなく、強くなったねと、彼女の足の施療をしたことのあるkhさんも感心をしていた。今日は、お昼以降の早い登りと冷え込みとにやられたのかもしれない。二度目に彼女が止まった時kzさんは「脚つりに」と記された薬を取り出し、彼女に奨める。彼女は山頂を出るときに自分で用意したそれを飲んでおいたのだが、長時間の強行軍に、その効力を使いつくしてしまったようだ。登りの時につりそうになるということだった。ここからは下りばかり、頑張りましょうと声をかけ、下り始める。そこから35分、石割山分岐を通り、急斜面を下って、「丹沢 大棚の頭」の分岐で道を分け、国道のトンネルをくぐって車のところについたのは15時15分。出発してから5時間35分。歩行時間はコースタイム通りであった。

 降りてから聞いたのだが、kwrさんたちは1時半にこちらについたという。最後の分岐のところで左に曲がらず、右の広い道を下り、すでに廃業しているホテルの脇に降りてきたらしい。入り口にはロープを張り「立ち入り禁止」の表示があったが「出るな」と書いてあったわけではないから、ロープを超えて車に戻ったのであろう。旧登山道という近道を通過したのだ。早く降りた女性陣は車の中でおしゃべりに興じ、挨拶も交わさずにそこで解散してkzさんの車で駅まで戻った。私はkw夫妻を乗せ「道の駅どうし」でトイレを借り、お店をのぞいたら、「芋焼酎・御正体山」というのが目に入った。それを買って帰途に就いたのであった。

 さて、8人で行って、一人は足を痛めたから仕方がないとはいえ、途中で「寒いから下山する」というのは、いったいどういうことであろうか。冬の山、軽アイゼンまで用意しての山歩き。しかもアイゼンを使うまでもないほどの気温。雪が待ったとはいえ、たぶん1~2℃。冬の山としては温かいといわねばならない。皆さん日ごろの暮らしで、お疲れなんだろうか。それとも寄る年波に勝てず、体力が落ちているのだろうか。そんなことを考えていたら、歩いている途中でkzさんが「皆さん、鍛えようという気持ちをお持ちじゃないんですね」という。「そうか、快適登山を希望しているってわけか」と、私の疑問が氷解する。

 山の会に対する私のモチーフは、「力ぎりぎりまでを歩いて、現在能力を保持する」にある。その「能力」というのはもっぱら「体力」のこと。もちろん「快適」であることを否定はしないが、それを最優先にしたら、(たぶん)登山意欲は削がれる場合が多くなろう。「ちから」は落ちる一方ではないか。だから山歩きに「快適」が加わったら「ラッキー」と思って感謝をする。そう思ってきた。晴れていても、そう。おいしい食べ物に出会っても、そう。山行中の面白い話を耳にしても、そう。皆さんが元気で無事に下山したらもちろん、その時々の場面を反芻していくと、苦しかったり、危なかったり、困ったりしたことを「面白かった」と振り返ることができる。そう思って登ったし、そう思いながら、このように山行記録をつづっている。どうも、それはこの後、続かないのではないか。幸いにも今年の春から、「日和見山歩」と称して少し楽に登れる山歩きを、会員が交代ごうたいでチーフ・リーダーを務めて毎月1回行ってきた。だから私は、これまでの月例会を担当して仕切ってきたのだが、それが叶わなくなってきている。75歳まではと思っていたが、本当に私は来年75歳になる。そうして山の会のほうも、「日和見山歩」の方が中軸になる。私の山歩きガイドは終わりを迎える。そんなことをわからせてくれた御正体山であった。「正体見たりわが登山」というところか。