mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

「わたし」はミステリー(2)自由な選択という「地獄」

2019-05-30 10:48:51 | 日記
 
 自由な社会に暮らす良さは、コトに煩わされない静かなたたずまいにあると、この頃、考えるようになりました。モノゴトや人と「かかわり」をもつことは、それ自体が「煩い」です。それを悦びの素という方がいることもわかります。イヤなことは煩わしい、ヨキことは楽しいというのは、価値判断が伴います。人それぞれの受け止め方がありますから、それに抜きにして「かかわり」というコトを見つめると、それ自体が「煩い」のもとなのです。「人はその存在自体が迷惑」と言ったのが誰であったか忘れてしまいましたが、「迷惑をかける」という次元を取り払って「かかわり」を考えるように仕向けてくれた警句でした。
 
 イヤなことは外から押し寄せてくる。つまり、「煩い」は外部からやってくると、たいてい私たちは考えています。ですが良きことも悪しきことも、イヤなことも悦びも、内と外の呼応によって起こり、その波長の変異と振幅によってイヤになったり悦びになったりするものです。誰かのために佳きことと思ってやることに、じつは、自身の心を充たす動機が底流しているとよく言われることと同じです。そもそも私自身が自ら(の感性や振る舞いや言葉の意味・由来)をわかっているわけではありませんから、善し悪しを自分で決めているのか、世の風潮に流されているのか、わかりません。他人が(口に出すかどうかは別として)褒めてくれるから、そのように振る舞うということは、ふだんよく見かけることですし、私自身もそうしていることを、ときどき気づいたりしています。つまり、「わたし」が何者であるか、「わたし」の感じていることや考えていることは、本当に私のものなのかどうかを、その淵源まで目をやると、それ自体がわからないことなのだと思います。人を「人・間」と言ったり、「人・閒」と書いたりしたのは、昔の人たちのそうした実感を文字に表われたのだと考えています。
 
 「わたし」はミステリーと、私がいうのは、「わたし」の不思議を辿れば、人類史の不可思議につながります。さらに「じぶん」という個体の成り立つ組成の細部にまで思いをめぐらすと、宇宙の大爆発にまで話がいってしまうと聞くと、もうわくわくして来るような心騒ぎを覚えて、とても静かな佇まいなどと気取ってはおられません。煩わしい。
 
 そんな日常を送っているところへ、私の知る若い方の新著が届きました。藤田知也『やってはいけない不動産投資』(朝日選書、2019年)。この方の前著『日銀バブルが日本を蝕む』(文春新書、2018年)を読んで私は、こう記しています(2018/12/8)。
 
《フランスの庶民のように、デモをして、火炎瓶を投げて政府のガソリン税の値上げを阻止するような文化的伝統をもたない私たち日本の庶民は、静かに面従腹背して、てめえら勝手にしやがれって、政治家や経済社会の偉いさんたちに毒づきながら、こちらも勝手にさせてもらうわって具合に振る舞えるよう、ひとつ知恵を絞ろうじゃないか。そんなことをぼんやりと考えている。》
 
 「政治家や社会経済の偉いさんたち」という外部に「てめえら」と毒づいて、「わたし」と分けています。外部と内部が明白。「勝手にしやがれ」と外部を突き放しています。今度の著書も、タイトルをみると「煩わしい」ことこの上ないものです。ところがぱらぱらと目を通していて、前著と視点にずれが起こっていることに気づきました。
 
 とりあげている素材は、不動産投資にかかわる詐欺まがいの出来事です。手練手管は、騙しや嘘、契約の見せかけ、口車に乗せる手口と、具体的でいかにも犯罪的なのですが、ちゃんと被害者の自由な意思に基づく選択も、挟まっているのです。前著は日銀の「横暴」が「日本経済をめちゃくちゃにする」というものでした。今度は地銀を巻き込んだ、不動産系投資グループ。当然、詐欺と被害者という構図が浮かび上がります。ところが、子細を読んでみると、ひと口に外部・投資グループが庶民をだましてお金をせしめたというばかりではないのです。その被害者の自由意思による選択が挟まっているところに、時代を切る鋭い切り口を感じました。
 
 見出し目次をみると、週刊文春か週刊新潮の記事のように見えるのは、「騙しのテクニック」が一覧になったように並んでいます。ところが、そのバックグラウンドに金融緩和やアベノミクスの見せかけ好景気の波があり、何より先行きの「将来不安」に襲われている人々がいます。そこまで視線が届いているのは、いかにも元週刊朝日記者、まだ週刊誌記者の記者魂が収まり所を探っているように感じました。新聞記者となると、たぶんこうはいきません。被害者を悪く書くことはタブーです。ちょうどNHKの夕方のニュース番組の「私は騙されない劇場」のように、騙された被害者は早とちりしたりうっかりしたり、軽率であったという設定で、騙す方はいかにも悪人という顔をしています。
 
 騙される側の自由意志の選択とは、どういうことか。騙される側に、高年収のエリートと平均的な年収を得ている「高収入志望」の疑似セレブ志向の庶民サラリーマンたちがいます。騙す側に中卒とか高卒の、オレオレ詐欺の下っ端手伝いをしていた人たちをみています。つまりこの「詐欺まがい事案」における、社会的な人と人との関係が構造的に構成されていると視点を据えて、出来する諸事象をとらえています。自由意志による選択には、被害者の欲望がうごめいている。そこに、この著者の、確かさの根っこがあるように思いました。本筋から離れますが、この両者の関係を観ていると、日本はとっくに「学歴社会」ではなくなっていますね。かつての詐欺とは、人の弱みに付け込んで「だます」ものでした。だが、この本に取り上げられているさまざまな手口は、人の欲望や思念の隙間を縫ってきわどい境目を歩いています。それはちょうど、不正を指摘されたときの政治家が「法に反するようなことはしていません」と居直るのに似て、社会的には「よくあること」に並んでおかれるようなことです。社会倫理が廃れたと、アダム・スミスならいうかもしれませんが、もうとっくの昔に、スミスさんの考えていた道徳的な社会は姿を変えてしまっているのです。昨今の資本家社会は、地道な生産や流通から離陸してしまって、夢幻のような世界を構築しています。「よくあること」とは「なんでもあり」ということに同義になっているのです。
 
  もう少し付け加えます。私が面白いと思っているのは、その視線の出どころ。この著者の視点は、騙しのテクニックの目の付け所が、じつは、社会的な上昇志向の「希望」と同じところにあると、みてとっています。つまりすでに世の中は、「騙す―騙される構造」がリアリティをもって成立しているというのが、本書の大きな骨格をなす新鮮な指摘なのです。自由意志による選択にも、単にうっかりというのではなく、その欲望の根底に不確実性の時代に相応する「将来不安」があり、その手当は自力でしておかねばならないという、自由社会の強烈な自律的近代的市民像が行き渡っています。
 
 不動産投資の甘い話は、オレオレ詐欺同様に、悪い奴らがいるから起こるものではなく、近年の資本家社会の行きつくところに発生している、ごく普通の事象だということです。これが普通って、どういうこと? とあなたは思うかもしれません。今の社会のエネルギー源が、「騙し―騙される」のと同じ処に発し、同じ手口で、資本家社会の取引は行われており、「騙しのテクニック」と(誰かが)呼ばわることは、トランプさんが謂うのと同様に「フェイク」であり、イヤならディールに応じなければいい事なのです。でも人間が変わってきていることを考えると、人の意思なんて、頼りになりませんね。そういう時代を迎えていると、本書は呼びかけているように思えました。
 
 幸か不幸か、私は幸だと思っていますが、騙し盗られるほどの資産を持っていません。老い先が見えていますから、「孫子のために資産を残してやろう」という将来不安も、もちようがありません。ただただ、静かに暮らしていたいというだけですから、なかなかわがコトのように受け止めることが出来ません。ですが、これから先、ますますこのような時代に生きつづけなければならない子や孫は、気の毒だなあと思います。同時に、でも、なるようになる、なるようにしかならないとケセラ~セラ~と鼻歌を歌っている次第です。

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