mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

いい体調はどこから来るのか(1)

2015-11-01 11:27:46 | 日記

 10月は、ほんとうに過ごしやすいいい季節であった。日中はたいてい半袖でよく、風があったり日陰に長くいるときは長袖を一枚羽織れば十分という身軽さ。出かけるもよし、家の中に籠って過ごすにも快適、仕事をしていない身にとっては、ストレスしらずの「ひねもすのたり」だ。

 

 でも、いよいよ今日から11月。少し肌寒さを感じるようになる。出しっぱなしの夏物を片付け、冬物を出す時節。関東地方は、春までの長い乾季に入る。いま外気が行き交っている陽当たりのいいリビングの室温は22℃、「快適温度」の夏寄りの限界。湿度は33%、「快適湿度」を越えて「dry」の領域に入る手前。それらを総合しているのであろう(何を基準に決めているのかわからない)「不快指数計」は「快適」のギリギリを示している。目下私の気をつけるべきは、適度な水分補給だけ。熱中症になる心配もないから、喉が渇かない程度に水気をとること、「ひねもすのたり」に相応しい。

 

 一昨日、体力チェックのために山を歩いた、と記した。チェックのポイントは、じつは、「疲れ」がいつ、どのように出るか、いつどのように回復するか、である。「疲れ」というのは総体的表現。「足の疲れ」「腰(体幹)の疲れ」「筋肉の疲れ」「内臓機能の疲れ」「気力の疲れ」などに分節化してみることができる。翻って、どのように「保持されているか/漸減しているか/危機的状況か」を、「身体能力の面」からと「技術的な点」、および「精神的な気力」から考察する必要がある。それらを分節化した細々したことを、じつは山を歩きながら、帰宅後の日常生活を送りながら、自身の身体に問いかけて自ら回答しているのが「私のチェック」である。

 

 9月末日から10月30日までの間に、8山登った。山歩きには格別の季節である。泊をともなう山は3回、5山。最大標高差はいずれの山も1000mを越え、累積標高差は1700m近くになる(であろう)。ところが「疲れ」が出ない。「体の疲れ」も感じない。これは、自慢しているのではない。「疲れ」を感じないことに、齢相応の「不安」と「適応」を覚えている。どういうことか。

 

 「筋肉の疲れ」がよくそれを示すが、若いころは歩いている途中で、「疲れ」が出る。中高生が山を歩いている途中で「筋肉痛」になったりするのがそれだ。「疲れ」は、じつは「疲労」から回復するときに感じる「(身体の)負担感」である、と私は思っている。若い人たちは力任せに筋肉を使ってしまう。しかしすぐに回復しようとする「若さ」を秘めているから、すぐに「疲れ」が出る。歩きながら文句を言っているのは、若い人に限る。年寄りは、文句を言うほど歩けないか、文句を言うのはとっくに歩き終わって家に帰ってから。ときには2,3日後になってからというほど「疲れー回復」に時間差がある。それがついに、(私の場合)古希を過ぎてからは、「疲れ」が出ない。つまり「恢復」しないのだ。これが「不安」の根源である。忍び寄る「老い」のように、どこまで、どこに、何が忍び寄っているか。少しでも見極めたいと思う。見極めて、自然条件の中における己の身体性を「適応」させることが、唯一、私に残された山歩きをつづける「知恵」だと思うからである。

 

 「足に疲れ」は出ないが、「腰に疲れ」が出る。「腰の疲れ」というは(たぶん)体幹の疲れであろう。歩いている途中にグラリと「腰」が不安定になることが(たまに)ある。私は40歳代から「腰痛」を抱えているから、(長い車の運転や山歩きのときには)用心のために「腰痛ベルト」をしている。これに援けられて、これまで何とか凌いできた。歩行中のグラリはバランスを崩したときに起こるが、体幹の疲れからくる「腰の疲れ」は、1日か2日経ってから発現する。朝起きてみると、腰が立たない。まっすぐに伸ばすのがとても不安定で、できないのだ。カミサンにはよく笑われるが、腰を曲げた昔の年寄りのように、へっぴり腰でよちよちと歩く。むろん大急ぎで「腰痛ベルト」を締めて、しばらくしてからやっと、腰をまっすぐに伸ばして歩くようになる。あるいは(仙骨を痛めたときにわかったのだが)、右だか左だかへ体が斜めに傾いでしまう。そうしていないと、ギックリ来てしまって腰砕けになるような気がした。バランスが崩れているからだが、そのように「適応」しようとして、体が傾いたり腰が曲がったりしているのだと考えて、なだめなだめしながら、緩やかに元へ戻ることを試みる。むろん、山歩きの途中でそうなってしまったら歩けなくなるから、そうなる前にストップを掛けなければならない。

 

 なぜ「足に疲れ」は出ないのか。(たぶん)登降中の体重移動と重心の置き方とがうまくマッチしているからだと考えている。歩幅が広すぎたり体が揺れ動いていると、すべりやすくなるだけでなく、むやみに体力を消耗する。重心を移す膝の中心部が(移動している身体の重力をいちばん引き受ける)足の親指のあたりにうまく乗っているのであろう。むろん運動中の動きであるから、理屈で考えて歩いているわけではないし、歩けるわけでもない。長年の、日常的な歩行がそれを保っている。どう保っているか? (たぶん)平地の歩行時には、背筋を伸ばし、腰に全体重をのせて重心を移動させるのが、いちばん奏功していると思う。上体だけで重心移動しようとすると、上体が前かがみになって、転びそうになってしまう。

 

 話は少しそれるが、杖を突くようになって一番怖いのは、上体を杖で支えて腰を曲げて歩くようになることだ。杖をつかわない方がよいと言っているのではない。私自身、ストックをつかうようになって、山歩きがずいぶん楽になった。バランスをとるのにストックは大いに働いている。齢をとるとバランス感覚がいちばんに衰える。つい、体が右や左へ傾いてよろけたり、前かがみになってつまづいたりする。上ったり下ったりする山歩きの場合には、ことに、岩の上を歩いたり、木につかまったりして体は左右に動き回るものだ。ところが背筋を伸ばしてストックを使うと、身体がぶれない。下降においても、ストックをバランスの支えにして足を降ろすと、(底が硬い登山靴だから)角ばった石の上に置いた足も安定させることができる。それだけで「疲れ」がずいぶん少なくなる。その分だけ、長い時間歩くこともできるようになる。

 

 つまり私の場合、たまたま「足の疲れ」が少なくて済むように(その結果、膝にばかり負担がかからないように)歩けるのだが、(たぶん)その負担部分を「腰」が引き受けて、「疲れ」を溜めているように思う。

 

 この「腰」を支えているのが、腹筋や背筋であろう。だから「腰の疲れ」というのは、腹筋や背筋の疲れと考えて良い。これを特別に鍛えようと私は考えていないが、(週に1回)山を歩くトレーニングで現状を保つことができればいいと思っている。それが「保たれ」ていない。年のせいだ、そう思うことで、「保たれ」ていない状況に「適応」しようと考えている。(つづく)


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