mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

〈動物になること〉を待ち構える

2022-05-17 07:08:17 | 日記

 2021-05-16のブログ記事「ご報告(第16回)  脳裏に焼きついた記憶」が、いま読んでいる国分功一郎『暇と退屈の倫理学』と見事にリンクしていると分かる。
 国分は今昔の哲学者の文献を渉猟し延々整理してきた後に次のような結論を導き出す。
《人間がその他の動物と全く同じかといえば、そういう訳でもなかった。人間は他の動物に比べ、相対的に、しかし相当に高い環世界間移動能力を持っている。そしてその事実こそ、人間であることのつらさの原因でもあった。なぜならそれは、人間が1つの環世界にひたっていることができず、容易に退屈してしまうことを意味しているからだ。》
 ここで国分が言う「退屈」は、私が「(お遍路に)飽きちゃった」ということと同じ感触を讃えている。と同時に国分は、〈動物になることの日常性〉も指摘する。
《だが、人間はその環世界間移動能力を著しく低下させる時がある。どういう時かといえば、それは、何かについて思考せざるを得なくなったときである。人は、自らが生きる世界に何かが「不法侵入」し、それが崩壊するとき、その何かについての対応を迫られ、思考し始めるのだった。人は思考の対象によってとりさらわれる。〈動物になること〉が起こっている。「なんとなく退屈だ」の声が鳴り響くことはない。》
 国分が言う「とりさらわれる」思考状態を、私は「ヒトのクセ」と呼んできた。
 国分の論脈はこうだ。
 人間の環世界を支配しているのは習慣というルールである。その環世界の崩壊と再創造は日常的に起こっている。人が思考にとりさらわれること=〈動物になること〉は「ありふれている」。それは動物としてのヒトの環世界の再創造なのだ、と。つまり、その再創造した環世界を「楽しむことは思考することにつながる」。
《人は楽しむことを知っているとき、思考に対して開かれている》
 と結論づけて、
《……楽しむためには訓練が必要なのだった。(思考を促すものを)受けとる訓練となる。人は楽しみ、楽しむことを学びながら、ものを考えることができるようになっていくのだ》
 と、365頁までの渉猟の後に記している。
 この国分の著書が面白いのは、暇と退屈に関する古今の哲学者の著作を縦横に往来し整理して行く過程そのものを読み取ってほしいから、いわば一気通貫で読み進めてほしいと冒頭に記述している。気になることはあとにまとめる註記を参照して振り返って貰いたいと述べるのは、彼自身の身の裡に堆積している(人類史的な痕跡に)問いかけながら解き明かしていく航跡を、謂わば同時体験して貰いたい。その(読書)体験こそが、じつは、思考を促すものを受けとる訓練であり、かつ「暇と退屈の倫理学」であるという実践構造を持っている。そういう著作物としては希有な構成を試みている。
 というよりお遍路にかこつけていえば、じつはそういう追走というか、併走というか、いわば一緒に追体験してみようというのが「お遍路の(お大師さんとの)同行二人」ではなかったか。そう、振り返って考えている。
 私が飽きちゃったというのは、お大師さんとの同行二人を感じ取ることがどこかで薄れ、折角場を変えて四国まで足を運んだのに、いつの間にか(私の)近代の日常世界の「暇と退屈」が露出するような「お偏路」になっていた。そういう感触を受け止めたことを「飽きちゃった」と言葉にしたのではなかったか。もっと私に引きつけていえば、私が動物としてのヒトのクセにとりさらわれるには、日々(あるいは間欠的に)PCの前に座ってよしなしごとを書き付ける(緩るやかな)具体的作法が欠かせないことも意味している。
 国分功一郎はこう述べる。
《(思考は強制されるものだと述べた)ドゥルーズは(映画館や美術館に足を運んで)自分がとりさらわれる瞬間を待ち構えている。〈動物になること〉が発生する瞬間を待っている。》
 つまりジル・ドゥルーズにしてから、思考したくないのが人間であると考えており、「世界は思考を強いる物や出来事であふれている」とみている。その「思考の強制を体験することで、人はそれを受けとることができるようになる」。
《〈人間であること〉を楽しむことで、〈動物になること〉を待ち構えることができるようになる。これが本書『暇と退屈の倫理学』の結論だ》
 と、晴れ晴れとした気分を誇らしそうに差し出しながら、締めくくっている。「楽しむ」という言葉を(中動態を明快に提起した国分が)差し挟むことに私はちょっと抵抗を感じるが、ま、それはそれで世代的な表現の好みの差異が現れているのであろう。
 これは、去年4月の山での遭難事故以来、事故の顛末を記憶を遡って考え、リハビリを含めて「わたし」自身を対象にして「考えること」を楽しみながら、この1年間に私が過ごしてきた行程を総括する感触と重なる言葉である。
 国分功一郎は1974年生まれ。私の子どもの世代であるのに、違った経路を歩いて、似たような人間観と世界観を持っている。それを知って、面白いと思っている。私は全く市井の暮らしを歩いてきて、ここにいる。国分功一郎は西欧の言語と古今の哲学書を読み込んできて、似たような感懐を抱いている。その、学者としてではなく、立論の起点に同じ社会を生きる市井の民をおくことに、なにがしかの時代的な共通感覚が培われているように感じ、嬉しく思っている。


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