mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

「ことば」を考えさせる木霊

2015-11-27 06:58:53 | 日記

 谷川直子『四月は少しつめたくて』(河出書房新社、2015年)を読む。出版社の編集者と詩人との、仕事の上のかかわりが、街のカルチャーセンターの詩の教室を介して、「ことば」と私たちの現実存在との「情況」に迫る。

 

 そういうと難しそうだが、日ごろ私たちが使っている言葉の「過剰」と「軽さ」と「私たちのありよう(現実存在)」を、「ことば」と「ありよう」の両側から迫る。すると、「過剰」と「軽さ」の浮かび上がらせる「かかわり」が見事に抽出される。「ことば」は「衣装」でもあり「装飾」でもある。それが絶えず発せられないではいられない日常の現在、いつしか「過剰」となり、現実存在の内実を侵して「(本体の)ありよう」が空っぽになっている。そういう「情況」を静かな運びで掬い取っている。

 

 読んでいると耳が痛い。こうしてブログを書いているというのが習慣化すると、いつしか「(書かないではいられない)装飾」の気配をまとわせる。無理をして書こうとすると、ときに、「粉飾」になっていることにも気づかされる。なぜ書くのかとつねに自分に問いながら書くということは、実際には難しい。沈黙すればいいじゃないか、そう思うこともたびたびある。沈黙することが「凡俗な己」にみえるとき、観ている自分は「凡俗」の側にいるのか「詩人」の側にいるのかも、気になる。

 

 もちろん私が、「詩人」の側にいると思ったことは一度もない。いやむしろ(己は)常に「凡俗」の側にいて、そこに居直ってでも「凡俗」の思索や感性から「情況」に攻め込んでいると思っていた。でも薄っすらと、「凡俗でない己」があることがそう見せている、と感じないわけではないから、いつも「粉飾」しているのんじゃないかと忸怩たるものを抱えつづけてきている。

 

 いつかも書き記したが「ブログは2年半つづけばいい方」とマスメディアに長年勤めた方がおっしゃっていた。たぶんブログの書き手は、自らの鏡を見るに堪えなくなるのが2年半までと、私は聞き取った。今ご覧になっているブログは1年半しかアップされていないが、じつは開始してから満8年になる。だが、以前アップしていたプロバイダがブログ機能を「終了」したことによって、こちらに乗り換えるしかなかったのだ。つまり私は、懲りずに8年も続けている。月に15回から20回ほどアップする。残りは外に出払っているか、書けない状態にある。だが、この本を読んでいると、沈黙すればいいじゃないか、そう思う。

 

 じつは高齢者(65歳)になった機会に、ブログ開設をしたのであった。還暦を迎えるころに、私より10年早く先を歩いていた方から「結局、自分の得意技で生きるしかないよ」と教えられた。私の得意技といえば、山歩きとおしゃべりしかない。ならばその技に磨きをかけてと思い立ったのが、ブログ開設のはじめであった。

 

 「おしゃべり」は「過剰」と「装飾」の最も庶民的な代表種目である。マスメディアも日々それに満ちている。「磨きをかける」には二通りある、とこの本は教えている。一つは、ますます装飾を洗練すること。もうひとつは、自分の「ことば」を繰り出すこと。詩人ではないが、私も後者を歩いていると(勝手に)考えていた。だが、そうではないのだね。常にそう(自分のことば)であるかを問い続けなければ、「ことば」は世の潮の流れに浮かんで流されてしまうのだ。だって言葉そのものが世の中の浮遊物に過ぎないのだから。

 

 静かに始まり、静かに終わるこの小説は、しばらく私の内部に木霊して、そんなことを考えさせている。


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