一昨日から取り上げてきた自問自答が問うているのは、まず、《家庭って何だ?》ということ。つぎに、この「家庭」と社会の関係、さらに「家庭」と世界の関係です。これを(1)ワタシの視点から、(2)社会的視点から、(3)世界的視点からと、三つに分けて考えてみたい。
私の視点というのは、家庭の一員である個人・ワタシの観点。
ワタシの心の内面的な形成過程からいうと、「家庭」というのはワタシが存在する与件として始まります。気が付いた時は「家庭の一員」であり「家庭によって護られ、育てられている」世界のすべてです。「すべて」というのは、概ねそのほとんどはそれぞれの人の身に刻まれて無意識に定着しています。
そして結婚というのは、異なる「家庭」「社会」「世界」で育てられ、違った文化を身に刻んで無意識となって身に定着している二人のワタシの「文化」の異質さが、共振し、齟齬し、ぶつかり合い、夫婦の関係において相互的に変質してくることだと言えます。そう考えると、伊藤かるろすさんの考えるように、予め「契約」でも結んで、齟齬を解消する方法を御膳立てしておきたくなるのも、わからないではありませんね。
だが伊藤かるろすさんの「五原則」は、異なった文化を身に付けた二人が「暮らし」の中で関わり合い、影響し合って変容してくるということを勘案していません。つまり二人が創る「セカイ」が想定されていないのです。この二人が創るセカイが、じつは家庭/家族です。仮にここでかるろすさんのお相手をかろりーなさんとして考えていきましょう。
何をきっかけにして夫婦になったかは扨措いて、もし家庭に「目的」があるとすれば、二人して共に「かるろす・かろりーな家」を創っていこうとすることです。家庭はその存在自体が目的というのは、そういう意味です。それはそれぞれが身に持ち来たっている文化が、時代の流れという作用を受けながら、相互に影響しあって融けあっていくものと言っていいかと思います。
異なる文化が融けあっていくってどういうことか? 夫婦とか家庭というのは、社会関係に向き合いながら、二人の共鳴・共感と違和・異質がほぐれ、別の新しい文化を生み出していく場です。そこで育つ子どもは、夫婦の(まだ溶け具合が程よくない齟齬も含めて)文化を身に刻み、齟齬さえも無意識に堆積させて、その子の文化として受け継いでいくのです。それがまた、次の世代の夫婦・家庭に受け継がれ、ほぐれほぐされ、また別の新しい文化をかたちづくると言えるでしょう。そういうダイナミズムが、かるろすさんが挙げる「五原則」には感じられません。
かるろすさんが挙げる「五原則」は、法的言語です。離婚が問題となった時、それを調停するのに必要な事柄が「契約」として記されたものです。これは「融けあう」ものではありませんね。法的言語は、その社会が意識化し枠組みとして固定した外枠に外なりません。財産分与、慰謝料とか養育費の算定法や扱い方など、枠として決めてはあるが、枠の中をどう定めていくかは二人が創りあげた「家庭」の関係がどのようなものであったかによって話し合いによって決められていきます。もちろん話し合うことができる状況ではなく、まったく「調停」によって収まるものが多いことも事実でしょう。
でも、そうだとすると、異なる文化が融けあって創られた家庭の関係を「契約」で取り決めておくというのは、相互が融けあうことを当然とせず、互いが変わり合うことのない確乎厳然たる決意を保って交渉している姿を前提にしています。これって、夫婦なの? 家庭を創っていくというのは、こういうことなの? と冒頭で思ったのは、この点です。
「会社と一緒」とかるろすさんは言っていますが、会社と社員の「契約」は法的言語の世界のことです。相互が影響し合って変わっていくことを想定するものではありません。雇用者と被用者の契約は対等の関係で結ぶと法的には規定されていますが、それは論理上のこと。事実は力関係が明らかに雇用する側にあり雇用される側は、断る自由しかありません。会社の基本スタンスは、将来社員になる人の意志によって左右されるほどひ弱ではありません。雇われる側が会社の雇用用件に合致し同意しなければ、職を得られないという自由を保っているに過ぎません。これって、結婚するかどうかと言う時の、相手・かろりーなさんと同じって考えますか?
冒頭で扨措いた「何をきっかけにして夫婦になったか」がここで登場してきます。すでに結婚を考える時点で、かるろすさんとかろりーなさんは、文化の解けあいを感じているはずです。
私の視点というのは、家庭の一員である個人・ワタシの観点。
ワタシの心の内面的な形成過程からいうと、「家庭」というのはワタシが存在する与件として始まります。気が付いた時は「家庭の一員」であり「家庭によって護られ、育てられている」世界のすべてです。「すべて」というのは、概ねそのほとんどはそれぞれの人の身に刻まれて無意識に定着しています。
そして結婚というのは、異なる「家庭」「社会」「世界」で育てられ、違った文化を身に刻んで無意識となって身に定着している二人のワタシの「文化」の異質さが、共振し、齟齬し、ぶつかり合い、夫婦の関係において相互的に変質してくることだと言えます。そう考えると、伊藤かるろすさんの考えるように、予め「契約」でも結んで、齟齬を解消する方法を御膳立てしておきたくなるのも、わからないではありませんね。
だが伊藤かるろすさんの「五原則」は、異なった文化を身に付けた二人が「暮らし」の中で関わり合い、影響し合って変容してくるということを勘案していません。つまり二人が創る「セカイ」が想定されていないのです。この二人が創るセカイが、じつは家庭/家族です。仮にここでかるろすさんのお相手をかろりーなさんとして考えていきましょう。
何をきっかけにして夫婦になったかは扨措いて、もし家庭に「目的」があるとすれば、二人して共に「かるろす・かろりーな家」を創っていこうとすることです。家庭はその存在自体が目的というのは、そういう意味です。それはそれぞれが身に持ち来たっている文化が、時代の流れという作用を受けながら、相互に影響しあって融けあっていくものと言っていいかと思います。
異なる文化が融けあっていくってどういうことか? 夫婦とか家庭というのは、社会関係に向き合いながら、二人の共鳴・共感と違和・異質がほぐれ、別の新しい文化を生み出していく場です。そこで育つ子どもは、夫婦の(まだ溶け具合が程よくない齟齬も含めて)文化を身に刻み、齟齬さえも無意識に堆積させて、その子の文化として受け継いでいくのです。それがまた、次の世代の夫婦・家庭に受け継がれ、ほぐれほぐされ、また別の新しい文化をかたちづくると言えるでしょう。そういうダイナミズムが、かるろすさんが挙げる「五原則」には感じられません。
かるろすさんが挙げる「五原則」は、法的言語です。離婚が問題となった時、それを調停するのに必要な事柄が「契約」として記されたものです。これは「融けあう」ものではありませんね。法的言語は、その社会が意識化し枠組みとして固定した外枠に外なりません。財産分与、慰謝料とか養育費の算定法や扱い方など、枠として決めてはあるが、枠の中をどう定めていくかは二人が創りあげた「家庭」の関係がどのようなものであったかによって話し合いによって決められていきます。もちろん話し合うことができる状況ではなく、まったく「調停」によって収まるものが多いことも事実でしょう。
でも、そうだとすると、異なる文化が融けあって創られた家庭の関係を「契約」で取り決めておくというのは、相互が融けあうことを当然とせず、互いが変わり合うことのない確乎厳然たる決意を保って交渉している姿を前提にしています。これって、夫婦なの? 家庭を創っていくというのは、こういうことなの? と冒頭で思ったのは、この点です。
「会社と一緒」とかるろすさんは言っていますが、会社と社員の「契約」は法的言語の世界のことです。相互が影響し合って変わっていくことを想定するものではありません。雇用者と被用者の契約は対等の関係で結ぶと法的には規定されていますが、それは論理上のこと。事実は力関係が明らかに雇用する側にあり雇用される側は、断る自由しかありません。会社の基本スタンスは、将来社員になる人の意志によって左右されるほどひ弱ではありません。雇われる側が会社の雇用用件に合致し同意しなければ、職を得られないという自由を保っているに過ぎません。これって、結婚するかどうかと言う時の、相手・かろりーなさんと同じって考えますか?
冒頭で扨措いた「何をきっかけにして夫婦になったか」がここで登場してきます。すでに結婚を考える時点で、かるろすさんとかろりーなさんは、文化の解けあいを感じているはずです。
人の振る舞いの98%は身に備わった無意識が左右していると私は思っています。頭で考えることは、おおよそ2%か、たいてい後付けの理屈です。いや理屈がいけないと言っているのではなく、いつも身が自ずから選び取った道筋に感じるちょっとした違和感、即決が過ぎたかという感触を、事後的に理屈を立てて腑に落としているワタシの安定装置がアタマだと私は思っています。
だからかるろすさんが「結婚2年契約更改」を思いついたと言うことは、かろりーなさん、あるいはかろりーなさんとの関係に感じている何某かの腑に落ちない違和感があり、にもかかわらず「結婚」へ突き進もうとする己の無意識にブレーキをかけようとする所作ではないかと思われるのです。そして、さらに、互いの変容によって新しい文化を創っていこうというイメージに没入していけない「なにか」を感じているのだとしたら、そこにこそモンダイはあるのだと、八十爺のワタシは思っています。
いや、余計なことを申しました。かるろすさんに何かを申し上げると言うよりは、「2年契約更改」を定めてから結婚仕様という「警戒心」を抱かせる現代社会の傾向、それをメルマガで発信する出版社の担当者のセンスを、ちょっと恐ろしい何かが始まっている兆しのように直感しているのです。
すっかりヒトが変わっていっているのでしょうか。(つづく)
だからかるろすさんが「結婚2年契約更改」を思いついたと言うことは、かろりーなさん、あるいはかろりーなさんとの関係に感じている何某かの腑に落ちない違和感があり、にもかかわらず「結婚」へ突き進もうとする己の無意識にブレーキをかけようとする所作ではないかと思われるのです。そして、さらに、互いの変容によって新しい文化を創っていこうというイメージに没入していけない「なにか」を感じているのだとしたら、そこにこそモンダイはあるのだと、八十爺のワタシは思っています。
いや、余計なことを申しました。かるろすさんに何かを申し上げると言うよりは、「2年契約更改」を定めてから結婚仕様という「警戒心」を抱かせる現代社会の傾向、それをメルマガで発信する出版社の担当者のセンスを、ちょっと恐ろしい何かが始まっている兆しのように直感しているのです。
すっかりヒトが変わっていっているのでしょうか。(つづく)