mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

わが身体に寄り添う

2023-12-20 10:51:53 | 日記
 図書館の書架に五木寛之『健やかな体の作り方』(NHK出版、2023年)があって、手に取りました。五木寛之は1932年生まれ、私より十歳上です。
 体の発する信号を「身体語」と呼んでいると、いかにも言葉を共にして生きてきた作家らしい表現をします。読んでみようと思ったのは、「はじめに」のなかで、「健康法」という言葉はキライ、「養生法」と呼びたいというのが気に入ったから。
「健康法」には人為の匂いが色濃く宿っています。「自然(じねん)」の成り行きに抗して、不都合を排除する趣といいましょうか。病や年齢と共にやってくる身体の不具合を遠ざけるニュアンス、つまりプラス志向が籠められています。それは、容貌にせよ体力の衰微にせよ、感官や環境の変化を察知するセンスの鈍麻にせよ、イケナイこととして排斥するニュアンスが裏側に張り付いています。そうじゃないんだ、「自然(じねん)」の成り行きが生きることの不都合に急激に影響を及ぼさないように、わが身の中に自然を取り込むことが肝要と、つねづね感じていたからでした。
 それに対して「養生法」には、加齢と共に生じる不都合も病も、急激な出来・激変を避け、緩やかに生きている所在と馴染みつつ、受け容れていこうというスタンスがあります。私にも、anti-aging=抗齢研究ではなく、寄る年波調所と言葉を選んでseminarに取り組んだことがありました。自ずから成る成り行きに逆らうというよりも、それを身を馴染ませて、コトの進行を緩やかにしようと思っていたのですね。
 先日もTVをつけたら映画『トランボ――ハリウッドにもっとも嫌われた男』(2016年)をやっていました。ちょうど脚本家トランボが議会に召喚され詰問されている場面。「あなたは共産主義者ですか、yesかnoで答えて下さい」と査問委員長が問うのに対して、トランボが「私の作品の何のどこを指してそう言っているのか?」と反問する。それに対して、「長くて読めるもんじゃない……yesかnoで答えよ」繰り返す。
 そうなんだ、見栄えのいい場面は、こうしてイイかワルイかを明快にすることを急きます。それがまた英雄的で、受ける。これをもって、そう受けとる大衆もワルイと評論家が口にすることがありますが、それは次元が違うでしょう。大衆は何やらよくわからぬわが身の裡の何かにつき動かされて、そう反応している。大衆には大衆独自の(善し悪しは別として)内心のメカニズムがあり、衝動がある。
 場を推し進めている発言者が自らの発言を大衆のせいにするのは、お門違い。あるいはそれを見ていて批評する評論家が、ウケ狙いの発言をウケ手の所為に帰するのも、見当違いといわねばなりません。もしあなたが評論家のような立ち位置にいるのであれば、ウケ狙いそのものの発言趣旨(の次元)を剔り出さなくてはならないのです。
 でも1947年のレッドパージの是非善悪をYES/NOで仕分けるセンスは、その後76年を経て見直されているか。そう問うと、相変わらずの趣を感じます。デジタル時代が一層それを加速させたというか、ヒトのそれがますます出口なしの様相を呈しているというか、即断即決できないと次のプロセスに勧めないで立ち往生するか、置いてけぼりを食らうか。時代と社会全体が、そういう方向へものすごい速度で突き進んでいます。これはこれで、別種の恐さを感じさせます。
 五木寛之はなかなかの経験的体感を口にしています。百寺巡礼など「健脚自慢」だった彼が「数年前左足の膝から太股のあたりが痛み出しやがて歩くにも不自由を感じるようになった」ので医師に診てもらったら、「変形性股関節症」と診断は下された。加齢によるものと言われ、「日常のありふれた症状に対して現代医学は思いのほか無力」と、医学の、患者の身体との向き合い方に「頼りなさ」を感じています。
 こう言い換えることができると私は思いました。五木さんは自らの体に関心を傾け、微妙な信号が何の徴候であるかを探ろうとしてきた。それに対して医学は、五木さんのそれではなく、80代半ばの年寄りの一般的な症状として受け止め、一般的な病状の進行と酷くなったときの手術という処置について述べ、プールで水中歩行をするくらいという処方を下す。五木寛之はこの、一人一人の一つひとつの症状を診て、処方を下すことをしない医学、医師の在り方を批判する。批判というのは、非難することを意味しているのではありません。医療がしているほとんど無意識の振る舞いを、意識して何であるかを取り出すこと、それが批判です。
 つねづね私も同じことを感じて、かかりつけ医を信頼しています。内科クリニックの、60代半ばの循環器専門医です。ふだんは聴診器を当て「山歩きを続けていますか」と問い、顔色や身体の崩れ具合を診るようにして、薬の処方をします。あるとき心電図をとりましょうといい、その結果データを診て、すぐに近くの大病院へ連絡を取り、救急車よりも速くタクシーで行けと指示して、私の心臓の異変に対処したのです。カテーテル検査をし、結果はステントを入れることもないと診断を受け釈放して貰ったのですが、これでいいのだと私は大きな安心を得たのでした。
 加齢というのは、生き物の「自然(じねん)」です。然るべくしてそうなるもの。五木寛之は医師から「そもそも人間の体は、せいぜい五十年の寿命を前提に設計されているのだから、七十年、八十年と生きれば不具合が出て当然、仕方のないこと」と言われたと、医師の診断をある種のパターン認識と受け止めています。一般的な社会的文化として、人それぞれといいながら、人生五十年というパターン認識を当て嵌めて経年劣化を「診断」とするのは、実は何も診ていないことと同じです。つまり医師は、この患者の身体の動態的変容には関心を払わず、一般的な劣化図式を当て嵌めているに過ぎないと見て取っています。
 人は、というか、科学などは人の体にくっ付いている多数の個々事例を一般化して「症例」として受け止め、その「起因」を(ときには統計的に)突き止めて「処方」を出します。大切なのは、その「起因」は「動態的原因の現在形」だということです。ヒトの考え及ばぬ要因がかかわっているかも知れないという「起因の余剰」が想定されていれば、その人の体の「症状」に至るまでの「自然(じねん)」の成り行きを、その事例として診ることが欠かせないのではないかと、五木寛之は問題提起していると思いました。
 これを慧眼と呼ぶのは、作家に対しては失礼かも知れません。作家というのは常日頃からそのような目利きをもっていてこそ、作家であり続けることができているはずだからです。一般的な世の中の考え方、風潮に対して、個体であるワタシから異議申し立てを突きつける。それに触発される読者・大衆・市民が、わが身に照らして、それを反芻する。そういう営みこそが、市民大衆の欠くべからざる知性です。
 個々の体験は、いうまでもなくワタシのもの。つまり見聞きしたこと、読み取り感じたことなど、経験的に身に備えて蓄積してきた「からだ」に問い直して、ワタシ自身の診断を下す以外に、わが身を上手に保つことは出来ないかも知れません。頑張りましょう。