mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

お遍路最終章(11)なんだ、この空っぽさは

2023-12-08 06:58:24 | 日記
 さあ、いよいよお遍路最終日。あと20kmとあって、気持ちは軽い。疲れもほどよく抜けて身体も軽い。いいねえ。こうして1400kmほどを歩き続けることができたと、まだ終わっていないのに成就感が満たされるような気分になっていた。と同時に、「気持ちが緩んで最後に大きな災厄に遭う」とお遍路経験者が話していたことが甦る。
 7時に出発。すぐに宿へとって返す。ストックを忘れてきた。靴を履く時、目の前にあるストックをみて、ここに置いていて良かった、これで忘れないで済むと思っていたのに、靴を掃き終わった時にはもう意識の外へ出てしまっている。こういうことが多くなった。「災厄」もこういう恰好でやってくるのかな。
 86番札所・志度寺の手前、常楽寺に「源内さんのお墓所」と看板があった。入口の築地塀の一部が朱く塗られている。センスのいい色でもデザインでもない。でも何だか、異色の人という感じは出ているか。門を入るとすぐ右側に墓はあった。ごく普通の人のお墓と変わらない。どこかの鉱山で人夫を殺めたとかで獄に入り、52歳で獄中死したのではなかったか。翻訳家でもあり、「解体新書」の翻訳にも裏方から力を尽くしたという人には似合わない死に方だが、何で人夫を殺めたのかは浄瑠璃にでもなるのかも知れない。常楽寺の説明書きには、寺の由来のあとに「平賀家は当院の檀家である。源内さんは本草学薬草研究のほかにエレキテル、火浣布、平線儀、寒熱昇降器等の創機、鉱山開発、西洋画、陶法伝授等で有名である」と添えられていて、誇らしげである。この地の出世頭、名士って感じかな。
 そこから1分もいかない所に86番札所・志度寺はあった。山門の両側に大きな草鞋を掲げ、そうだ、源内さんもそうだが、江戸の人たちは歩くことが基本であった。今私はそれを受け継いでいると思った。五重塔が傍らに紅葉を侍らせて威勢を放つようだ。寺の由緒由来には藤原不比等の次男が貢献して、天台宗や真宗、真言宗などの手を経て現在に至っていると記しているが、草鞋のことには触れていない。
 この寺を出て2両連結の青い電車が走るJR高徳線の踏切を渡り、一路南へと国道3号線を辿る。中学生や高校生の登校には出喰わしたが、小学生の登校を見掛けなかったのは、なぜだろうか。1時間半ほど歩いた所に「萩地蔵」と記したおへんろ休憩所があったり、イチョウの大木が一本、真っ黄色に染めた葉を満身に着飾って屹立している。いよいよ秋がやってきたぞと慶んでいるようだ。
 薄雲が広がり、寒い。私はウィンドブレーカーを来たまま。3号線に並行して走るJR高徳線をときどき特急電車や普通電車が走る。鴨部川(かべがわ)にぶつかり、その左岸に沿って南西へ向かう。この川もそうだが、御坊川を「ごぼがわ」と呼び、鴨部川を「かべがわ」とつづめて呼ぶのは、この地方の「方言」なのだろうか。それとも、古代日本語の読み方に起源を持つ由緒由来のある読み方なんだろうかと、気になった。
 耕作を終えた田畑の脇に「京都中井氏の道標」と題した看板があった。何でも京都のお方が280回も四国お遍路をして、長尾寺を前にしてこの地で78歳で果てたのを祈念して、その子孫が四国中に240基近くの遍路道案内標識を立てたと記している。280回目の結願を目前にしてというよりも、280回も経巡った活力を誘う「なにか」がこのお遍路道にあると言えるのかも知れない。「四国のみち」の案内標識にはずいぶんお世話になった。こういう由来があるのだ。
 9時半頃、街中の住宅街の一角に竹垣を施した風情のある白壁の御堂があり、真っ赤なイロハモミジが、葉をすっかり落とした大きなサルスベリと常緑照葉樹と共に景観に色合いを施している。
 裏側から87番札所・長尾寺に着いたようだ。山門を入ると先ず大きなクスノキが一本姿勢正しくというか、バランス良く背を伸ばしているのが目に入った。その脇に「大窪寺16.5粁」と彫った石柱が建てられ、さあ、いよいよお遍路も最終盤だよと、気合いを合わせてくれているように感じる。
 志度寺から大窪寺までの三つの札所がいずれもさぬき市にあるせいだろう、「新四国のみち・へんろ道」と題して志度湾に始まり山中の大窪寺に至るイラストマップを掲げ、山を縫う「四国のみち」と山裾をぐるりと回り込む「へんろ道」を描いている。当然私は、山の道を辿ろうと思っていた。前山ダムの堰堤に来た。そこから地図では、山を通る道と山裾を回り込む道とは分かれているが、ダムの下のところに「道の駅ながお」がある。そこで、お昼を済ませて(もう一度この堰堤の分岐に戻って)から山道へ行こうと考えた。時刻は11時頃。トイレを借りることもあった。
 ダムを回り込むと「おへんろ交流サロン」(標高144m)という施設があった。山道の地図でもあればと立ち寄った。するとスタッフが「歩き遍路ならこれに署名してくれませんか」と一枚の紙を出す。遍路の開始年月日、終了年月日、区切り打ちか通しか、歩きか車かなどを書く。ああ、アンケートねと思って書き入れる。スタッフが、大窪寺へはどの道を辿るかと尋ねる。地図をくれた。それをみると、ダムの堰堤まで戻らないでも、山の道と女体山への上り口で合流する道がある。ああ、それならそれがいい。それを行きますと話をしていると、別のスタッフが「四国八十八ヶ所遍路大使任命書」と記したB5版に、私の氏名を記し、今日の年月日を記載し、第642号とナンバーを記したペーパーとCDを一枚をくれた。これは「88ヶ所完歩証明」のようなものと、どこかの遍路宿で話が出ていたやつのようだ。CDはまだ見ていない。
 道の駅ながおで菓子パンを買ってベンチでお昼を済ませる。この道の駅に面白いポスターが貼ってあった。「研究・発明・工夫」「第31回源内賞等募集」とあり「令和の知恵者奮起されたし」と浮世絵の源内先生がキセルを加えてつぶやいている。源内大賞100万円、源内賞50万円、源内奨励賞30万円と賞金も張り込んでいる。さぬき市教育委員会・エレキテル尾崎財団と主催者の名も記して、250年ほど前の地元の名士を頌えている。
 11時半、いよいよ最後の札所を目指す。国道3号線を700mほど進んで「女体山へ→」という表示で左に分かれ、川沿いの道をたどる。紅葉が彩りを鮮やかにして歩調を軽くする。多和神社(標高240m)が苔むしてひっそりと佇んでいる。「鴨部川本流の源附近」とか「ホオノキの話」という香川県の啓蒙看板がポツポツと立っている。そのなかに「古大窪(ふろくぼ)」というのがあり、88番札所・大窪寺はこの近辺に散らばる「信仰遺蹟」の集約されたものと由緒由来が書かれていた。香川大学の宿泊実験実習施設・太郎兵衛館(標高452m)で前山ダム堰堤で別れた山道と合流し、ここから女体山(標高774m)を越える道に入る。ここまで約1時間半。「大窪寺→2.1粁」と標石が置かれている。山頂に近づくにつれ、風が強くなる。ウィンドブレーカーを首まできっちり閉じ、風に倒されそうになる身体を屈めてやり過ごす。岩場もないわけではないし、一部手で摑んで上る金具を岩に打ち込んであったりするが、技術が要るわけではない。
「女体山の植生」とか「女体山の自然」と題した香川県の啓蒙看板が置かれ、ハイキングコースとして使われているような感触があった。ルートから俯瞰する紅葉もまた見応えがあった。14時半、大窪寺の境内(標高458m)へ裏から入ることになった。
 広い境内の、先ず本堂にお詣りし、ついで太子堂を探して山門の方へ向かい、そこで、志度寺手前の宿で昨夜同宿であったご夫婦と出会った。彼らは山裾を回り込んでやってきたのであった。私がすでに到着しているのに驚いていた。太子堂のお詣りを済ませ、再び本堂の方へ戻って納経帳に御朱印を頂き、88ヶ所のお遍路は「結願」したのであった。
 だが、不思議なことに(なのかどうか、それもわからないが)、結願したという感懐が湧いてこない。そもそも「願」をかけるほどの信仰心がないとわかっていたから、「結願」の充足感がないのは、当然だ。じゃあ、たぶん(後で集計してみないとわからないが)1350kmほどを歩いたろうが、その距離を歩ききったという達成感はどうかというと、これも、ない。ただ、やあ終わったと思っただけ。なんだ、これは?
 山歩きよりも平易であったという気持ちは微塵もない。そもそも比較することでもない。自分で決めて歩き始めたことなのに、達成感がないというのは、これは何なのだろう。千数百年間かけて、あまたの人が歩いてきたお遍路道をなぞっただけじゃないかと思っているのだろうか。確かにそういう気持ちがないわけではない。設えられた遍路道を迷いながら辿り歩いた。もちろんその間にでくわしたもろもろのことがわが心に響き、それなりの感懐を刻んできた。それは全46日にわたる旅をしたという思いにはなっている。でもなんだか、自分で成し遂げたという心持が湧いてこない。何かが未完という気がするわけでもない。心地よい清々しさは感じる。
 山裾を回る遍路御正道の入口の山門へ戻り、振り返って頭を下げた。成就感も達成感もないけど、それなりに面白いお遍路を無事に終えたことは確か。ありがとうございましたと感謝を身の裡で言葉にして献げたとき、そうか、人が生きるってこういうことか、こういうことじゃないのか、という思いが湧き起こった。いちいち達成感や成就感というのは、いつでも後付けの感懐。それを求める心持ちが、今、すっかりそげ落ちているのだワタシは。
 大窪寺傍の遍路宿、民宿・八十窪に断られて、山門から3キロほど御正道を戻った宿までのくだりみちを歩く間、後付けの感懐がそげ落ちたワタシのことを胸中に転がしながら、心地よく歩いた。
 これって、ワタシは空っぽってことじゃないのか。そうだった、エンプティ・エイティーズって、いつか言わなかったか。わが心の不思議に一つの回答を見つけたような心地がした。