mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

七夕の便り

2023-07-07 09:43:49 | 日記
 暑い。コロナも第九波がやってきたと(今更ながら)公的なお知らせ。相変わらず年寄りには厳しい天の啓示であるようですが、余り頼りにならないワクチンの6回接種と、公共の屋内場所マスクで自助努力するしかない日々を過ごしています。
 昨日も、散髪屋へ行ってきました。これまでのご近所散髪屋が店をたたんでしまったので、3kmほど離れた「カットファクトリー」と名付けられた千円カットへここ半年、足を運んでいます。1kmほどのところにもあるのですが、よく足を運ぶ図書館と生協の間にあって、ニトリなどが入るショッピングセンターの中。屋外に並ばなくてもいいというのが、いいのかな。昨日もすでに5人が椅子に座って順番待ち。6番目の私も、しかし50分ほどでカットを済ませ日ざしの中を歩いていました。ホントまさしく千円カットだと、以前のカット・洗髪・髭剃り・肩もみなどの50分、4000円と比べて思っています。
 友人夫婦から「夏野菜」の手荷物が届きました。中型トマトやタマネギ、ジャガイモ、蜂蜜やピクルスなどを詰め合わせています。この暑い中、熱中症に襲われそうになりながら畑仕事をしているご夫婦の姿が目に浮かびます。
 いやいや、すごいなあ。それと併せて、そうか、こうした大地に触れて作物を育てるというのが「暮らしのセンス」の土台なのかと思い当たりました。そう考えてみると、私が身につけている暮らしのセンスは、せいぜい、洗濯したり山料理のような食事を軽く作ったりする程度。若いころから全くその「暮らしのセンス」に欠けると思ってきました。それがこの手荷物に現れている。胸を衝かれる思いがしました。
 こういうことです。「暮らしのセンス」というのは、衣食住をこなし保つことというのは、末端の事象です。その土台になるのは、台地に触れてそれを耕し、作物を育て作り出す身のこなしと才覚です。いやその源には、農耕民ではなく狩猟採集民の、収獲と採集、生き物の解体もあったに違いありません。時代が移り変わるにつれて私たちは、どんどんその身のこなしと才覚を分業と協業によって切り離してきました。その極みとも言うべき近代社会においては、市場で交換する身のこなしと才覚においてこそが優越する価値観をつくり育ててきました。それに適応する身のこなしと才覚をもった人を大量に生み出し、いまやそれをこそ培い伸ばそうとしています。そのようにして小市民、プチブルジョワジーであるワタシの身の記憶から「暮らしのセンス」は失われてきたようです。
 ところが年をとると、仕事現役から解き放たれ、生産活動から退きます。それは来し方を振り返って見やる日々を日常にすることでした。すると、わが身が生まれたこの八十年というだけでなく、父母祖の来し方をさらに超えて、ヒトの誕生と歩みも含めて、さらに遠く生命体の歴史を振り返ることなりました。
 でも「知識として」の径庭ではありません。ワタシが生命体の歩みの当事者として感知できるような気がしてきたのです。身の記憶のどこかにその当事者性が残されている。身のこなしと一括してしまうと何が何やら見えなくなってしまいます。
 たとえば手指がどうものを摑み、力の具合を調整して柔らかく包み、あるいは撫で摩って感官を伝え受けとっているか。その微細もまた、意識に上ってきました。そうやって振り返ってみると、いかにも若いころはエネルギッシュであったと同時に知らないってことの勁さと弱さを思い起こさせて、いやワタシは知らないことが多いと、わが身の不可思議を、今更ながら強く感じるのです。
 こういう変化が年をとることのご褒美だと思うと同時に、それを意識することが知性なのだと思うようになりました。この高齢者の知性は血意識と「知血一如」です。若いころは、欧米文明から流れ来る奔流に巻き込まれ、しかもそれが世界大に激流をなしてワタシを襲っていましたから、泳ぎ渡ることに懸命で、わが身が何処にありどこから来て何処へ向かっているのかさえ暗中模索、五里霧中、無我夢中でした。それを泳ぎ渡っている渦中で身につけた知意識人の作法や秩序階梯価値観が、ワタシの無意識に宿る感官と齟齬し、違和感を醸し、いつ知らずワタシの身のこなしをつくり変えてきました。状況に適応したり反発したりしながら一体このワタシってなんだ? ワタシって誰だ? どこから来て何処へ向かっているのか? とさながらゴーギャンのように、思い巡らす日々もありました。
 そうして今、八十路に踏み込んで振り返る生命体史の景観は、いや、量子力学が伝える素粒子の次元にいたってわが身の生成と大宇宙の生成とが始原を共にすることを明らかにして、ワタシを当事者に引き込みました。量子力学や素粒子論はいうまでもなく専門家「境内」の所産物です。そのものは私にはワカリマセン。「門前の小僧」のワタシが一知半解というか、我田引水して勝手に得心している「誤配」の郵便物に過ぎません。しかしその一知半解があればこそ、わが身の裡が大宇宙と一体に感じられます。もう何を耳にしても我がことであり、ワタシの何を語っても大宇宙の当事者としてバタフライ・エフェクトを及ぼしていると実感するようになりました。これが門前町に棲む「門前の小僧」の、今時点の充足感です。
 では、「知的である」とはどういうことか。「血的である」とはどういうことか。近代世界の文明文化にどっぷり浸って育ってきたヒトに、その殻を脱ぎ捨てて改めてわかって頂戴というのには、大きな体系をつくって「世界観」「宇宙観」として語るほかないと思ったのでしょうか、たとえば画家・かこさとしは、子ども向けの絵本として「大宇宙の不思議」や「宇宙の旅」を著し、好奇心を掻き立ててきました。
 だが彼は、ワタシが宇宙の始原と一如であると(まで)はみていません。彼にとって宇宙は外部、知的対象でした。血的対象でもある内部、わが身そのものとは思えなかったようです(でも、そう感じ取っていたことはわかります)。彼の好奇心の対象が、街の人々の様子から大宇宙まで視界の中に収まっていたというのは、ワタシの実感に寄り添っている「境内」のように感じられて好ましく思っています。
 残念ながら私は、大宇宙から体系を以て説き起こす力も方法ももっていません。だが間違いなくそれがワタシの唯一の方法と思われることがあります。「門前の小僧」であり、暮らしのセンスをこそ、わが身からもう一度呼び起こして言葉にすることです。それが、もしそう呼ぶ必要があるなら、ワタシの知性/血性です。でもそんなこと、どっちでもいいじゃありませんか。
 ご夫婦に「暮らしのセンス」の贈り物に感謝する葉書を書き、今日ざしの中を歩いて投函して来ました。植木屋さんがトラックを二台止め、大荷物を持ち上げ積み上げたり積み降ろしたりする街路樹の手入れをしています。この重機は、なんて呼ぶのだろう。生成AIで調べてみると、バンダ・デバンダなど、いろいろな呼び名がありました。で、この日ざしより、トラック上で仕事をしている方の大きな体躯が、もっと暑苦しさを強調しています。ご苦労様。彼にこの暑さは相乗して響くだろうなあと横目で見ながら帰ってきました。
 葉書の末尾に日付を書いたとき今日が七夕だと気づきました。いやこの暑さは七夕には相応しくない。矢っ張り夕闇の星空を見上げて七夕なのでしょうね。でもこうやって文で遣り取りすることができるのは、その送る方と受けとる方のタイムラグといい、まさに七夕、嬉しいですね。