mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

わが身から解き放て

2023-07-31 16:55:27 | 日記
 ご近所のストレッチ仲間との飲み会があった。間もなく82歳になる一人の呟きが気になった。
「あなた方はいいよ、孫がいるから。」
 彼は子はいるものの孫がいないから、この後の生き甲斐がないと沈んでいる。自分の時代がよかったなあと言えれば、それでいいのだろうかという響きが籠められている気配。ちょっと複雑な感慨を抱いているようだ。
 でもなぜ、「わが孫」にこだわるの? わが孫の世代ってワケにはいかないの? 
 もうこの年になれば、わが子、わが孫がどうなったからわが人生がどうなるってものではないと私は思うが、違うだろうか。何を寂しがってんのよと応じた。
 彼の人は、自分のDNAが絶えるってことを淋しく思っているのだろうか。私がそういうふうに考えたことがないのは、孫がいるからか。
 だがこの歳になって孫のために何かをして生きていこうと考えたことはない。逆に私が幼かったころ、父や祖父に何かをして貰いたい/貰いたかったと考えたこともない。また実際にもし(何かを)そうされていたら、煩わしくてそれに反発して違う道を探ったかもしれない。それほどに、父や祖父は身近であるが故に、触れないでほしい存在であったと、振り返って思う。
 ただ子や孫の世代が、明らかに未来である(と感じている)ことは、その通りだ。未来を明るい/暗いと価値づけてみているわけではない。ただ単に、私たちは古い世代、彼らの年代は私たちの思いも及ばない困難と向き合うことになるかもしれないと思ったりもする。でもこのとき、わが子、わが孫をイメージして心配しているわけではない。わが子や孫をイメージして受け渡すことというと、具体的な遺産になる。だがそれは、あるというほどない方がいいと思っているから、考えたこともない。むしろ、どんな社会を生きることになるだろうという文化の気風である。でも今更年寄りが受け渡す文化の気風をどうにか出来るわけではないから、ただひとつ、どんな文化の時代をワタシは生きてきたかを、出来るだけ意識化して文章化しておきたいという程度である。
 そこではもう、わが子とかわが孫という特定のイメージは浮かんでこない。
 ふと思い浮かんだのは、宮沢賢治。妹としこが亡くなったとき詠んだ「永訣の朝」。妹を思うが故に妹にとどまらない人たちへ思いが広がって世界へ溶け込んでいく様子をとどめていた。


うまれでくるたて
こんどはこたにわりやのごとばかりで
くるしまなあよにうまれてくる


 と、逝く妹・としこの呟きが聞こえた如くに差し挟まれた「永訣の朝」は、兄・賢治の差し出す「あめゆじゅ」が兜率の天の食となって数多の人々にわたることへと転じていく。これを読んだとき当初私は、賢治のとしこへの思いの深さを感じ取っていた。だがこの歳になって読み返していると、その思いの深さが普遍へと繋がっていく道筋を拓いているように思うのだ。わが子、わが孫というわが身のこだわりがほぐれて、すべてを包み込むが故に一切を放下する領域へと「思い」を昇華させていくように感じたのであった。
 そうして、間もなく82歳になるご近所の方も、「血のこだわり」を解きほぐして、この世の次の世代をまるごと包み込んで一切放下する世界へ、ぼちぼち入域してもいいんじゃないか。そう思った。
 そうして、一年前(2022-07-28)の本ブログ記事「社会の体幹が旧弊旧習」を読んだとき、ああ、同じモンダイを違ったふうな次元で考えていると感じた。それを、下記に添付する。
*****(2022-07-28)「社会の体幹が旧弊旧習」
 今日(7/28)の朝日新聞に林香里(東大教授)というメディア論の専門家が《(メディアが読者大衆の)思考枠組みの議題提起役割》を持っていると話を始め、末尾の方で《日本の新聞社は横並びで(阿部銃撃事件に際しても)同じ見出しを付け、「宗教法人」についても匿名扱いも同じだった》という趣旨の記述をしている。
 市井の老人の私は各紙に目を通すわけではないから気が付かなかったが、とっくに新聞というのは、「人それぞれ」「多様性の世の中」「同調圧力は良くない」と同一性に対して批判的なのだとばかり思っていた。違うんだ。そうか、そう言われてみれば、大手メディアの「記者クラブ」の専横とかいうことが、十数年前の民主党政権の発足時に取り沙汰されていたな。変わらないんだ、この人たちは。というか、資本家社会の情報化時代の社会構造が変わっていないから、こういう大きな社会的なメカニズムは変わらないのかもしれない。相変わらずバブル時代の経済センスで為政者は動いているようだし、林香里が評論した「旧統一教会」と自民党とのお付き合いも、旧態依然、昔の名前は捨てましたといえば、それで通ってるんだ、この宗教集団は。
 うん? オウム真理教の装いを変えた教団は未だ公安の監視下にあるんじゃなかったか。
 えっ? そちらはカルト。こちらは集金集団だから資本家社会的にはクラウドで集金しているのと同じ穴の狢、ってか?
 報道機関といえば大手メディアを(読者としてしか)知らないで、いきなりミニコミに筆を移して喋喋してきた輩としては、ガタイを比べるということをしないで、直ぐそのメディアに記された中味(記事)を問題にして、対等と考えてきた。このメディアの見立て方は、躰をみていないってことかもしれない。図体が大きいってことは、そこにかかわるメカニズムも多々あるわけで、理解するってのは難しい。同じジャーナリズムってとらえたり、同じコミュニケーションって見て取るのは、アタマしか見ていない。人の行動はアタマが決めるものであって、カラダはアタマが使って動かしているという身体観に拠っている。魂と体を分けてとらえ、魂が体を動かしているという自然観は、ギリシャ由来の西欧的なもの。
 因みに、欧米的なアカデミズムにちょっと身を浸しただけの私も、すっかりその自然観を受け容れて育ってきていた。そこからの離脱に1970年からの20年間ほどの、ある意味で幸運なカンケイを必要としたのであった。ま、それはまた別の機会にでも話すことにしよう。
 いつ頃からだったろうか、朝日新聞の記事も記者名が表記されるようになって、デスクのお役目が一歩引き下がったようにさえ思ったものだ。オーナーが報道現場に口を差し挟まないというのは、綺麗ごと。コマーシャルにだって気を遣うんだもの、オーナーに気を遣わないわけがない。ましてオーナーのお友達などへの気遣いなしにこの世の具体的関係が築かれていると思うのは、ナイーブもいいところ。世間知らずの高校生のセンスですね。まして資本家社会の,ここ日本。裏まで探れば、おおよそ目も当てられない人の性がそちこちに転がっていよう。その性は、旧弊旧習というよりも、社会が身に刻んできた慣習を良いとか悪いとか区別せず、何でもかでも違和感のないままに繰り出す気遣いや心配りやおもてなしが、実はそのまんま旧弊や旧習になっているってことである。
 それを突破しないと、口先で言うことと身の振る舞いがしていることのギャップさえ気づかない。その壁が,横並びの大手メディアの習癖になっているというのが、冒頭朝日の林香里の記事を読むことが出来る。つまり、それを超えるには、わが身の無意識を炙り出すように身の裡側へ向かう視線を送ること、返す視線で世の常識的な気風を断ち切って、裂け目を作り出すことが世の人々の視線を変える論議を提供することになる。
 さあ、となると私たち年寄りが、身に備わった世の気風に心地よく触っているだけではおおよそ心許ない。槍を突き立て、異議申し立てをして、それをどうまとめるかは有識者に任せて大いに遣り取りを沸騰させようではないかと、気分が盛り上がる。
 社会の体幹を変えるのは、年寄りが身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれと許りに、前のめりになること。隗よりはじめよというではないか。