mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

生きるとは……。絶句するのがいいのかもしれない

2015-04-15 12:56:39 | 日記

 映画『パプーシャの黒い瞳』(ポーランド映画、ヨアンナ・コス=クラウゼ+クシュトフ・クラウゼ監督・脚本、2013年)を観てきた。映画の紹介チラシはこう述べる。

 

 《書き文字を持たないジプシーの一族に生まれながら、幼いころから、文字に惹かれ、言葉を愛し、こころの翼を広げ、詩を詠んだ少女がいた。》

 

 ジプシーの暮らしぶりが丁寧に描かれる。一族が集団となって旅をして暮らす。森にテントを張り、逗留する。定住する人々からは嫌われ、迫害され、あるいは旧交を温める。楽曲を打ち鳴らし歌を歌い、何百年も前から王室の保護を受けて旅と逗留と演奏の許可を得てきたが、ナチズムの登場と戦争の進展に(ポーランドという地において殊に)翻弄され、伝統的な暮らしが難しくなる。

 

《……彼女は成長し、やがてジプシー女性として初めての「詩人」となる。しかし、その天賦の才能は彼らの社会において様々な波紋を呼び、その人生を大きく変えることになった……。》

 

 この紹介文のトーンが、なぜか気になる。書いていることは、その通りだ。だが、何処からみているのか。

 

 《ジプシー女性として初めての「詩人」となる》。

 

 「詩人」となるのは、彼女の言葉が文字に書き留められ、印刷して紹介されたからか? とすると、この筆者は、あきらかに文字社会の側からみている。むろん映画を観ている私たちも、それと同じ位置に立っているのだが。だが映像は、ジプシーの群れに紛れ込んできたポーランド人の青年を「言葉を盗む」と非難する場面を抉り出す。文字以前の、話し言葉を盗むとはどういうことか。映画では日本語字幕が着いているからわからないのだが、解説チラシには「ポーランド映画、2013年、ロマニ語&ポーランド語」と明記している。ジプシーの言葉がポーランド語と交錯しているのだ。

 

 そして少女は溢れるように出てくる胸中の「思いを口にする」。それが紛れ込んできた青年によって「詩」と呼ばれる。戦争が終わってのちに高名な詩人に「これほどに純粋な詩を詠える詩人を(最近は)知らない」と言わしめるほどのもの(らしい)。ということは、彼女の生育った暮らしのありようが「これほどに純粋」であるということではないのか。文字になるかどうかではなく、その彼女の持ち来った「かんけい」の総体が、彼女の口をついて出てくる。歌になる。それが、それを聴くもの・読む者にとって「これほどに純粋」という感動を呼び起こす。文字を覚えた少女に、青年は詩を書き留めることをすすめる。

 

 青年は戦後、彼女の詩を翻訳して出版しようと高名な詩人に会う。高名な詩人は、その青年にジプシーの暮らしの紹介をさせることを前哨戦にして、彼女の詩を出版しようと企図する。「ジプシー初の女性詩人」という新聞報道がなされる。これははじめ歓迎される。だがすぐに彼女は、ジプシーの秘密を外へ漏らしたとして厳しく問い詰められ、排斥される。青年は「ジプシーの言葉を盗んだ」と、出入りを拒まれる。

 

 そもそもの初めに彼女が文字を覚え始めたころ、それを知ったジプシーの大人たちは、魔物が取り付くとしてそれを排撃する。だから彼女は、密かに(青年に従って)学び始める。だからその後に起こる戦争もナチスによるジプシーの移動の禁止も、自らが招いた「魔物」とみる場面が描かれる。それを「言葉が盗まれる/汚される」とみると、口を衝いて出る言葉や歌が書き留められることによって違った様相を呈するとみていると読める。それを文字社会の側は、新たな命が吹き込まれると歓迎するかもしれないが、文字を持たない側からは「言葉(の魂)が汚される」とみる。高名な詩人の言葉を借用すれば、「これほどに純粋」が違ったものになることを意味している。

 

 彼女の詩は文字社会の中で歌曲になり、大臣も賞賛する舞台を飾る。だが、「詩人」と持ち上げられた彼女は、ジプシーの群れを追放され、精神を病む(とみなされる)。最後に青年が訪れて話しかけたとき彼女は、「私は詩なんて書いたことはない」と応える。ワルシャワに住もうという提案にも、「知り合いが誰もいないから」と応じる。そして画面は、雪原を馬車をひいて移動するジプシーの群れをゆっくりと映す。あたかもそうした文明社会から無縁の暮らしへ旅立つように。

 

 3・11以来、どこか救いを求めるような物語が広まっている中で、これほどに救いを安易に取り出さない映像は、珍しい。それこそが「生きる」ことなのだと、はらわたに沁みるようなメッセージが込められている。そう思った瞬間に、では、今の私は、何を「生きている」のかと、絶句する。絶句するのがいいのかもしれない。容易に救済されるよりは、魂は深まるのかもしれない。