mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

無意識に堆積する罪責感の荷を下ろす

2015-04-11 06:48:10 | 日記

 梨木香歩『f植物園の巣穴』(毎日新聞出版、2009年)を読む。植物園の職員である主人公が、園内を歩くうちに出くわすさまざまな出来事を記していると思いながら読んでいると、途中から妙な気分になる。脈絡がない、出来事が変容する、時間の軸も整わない、空間自体があちこちに移ろう、一貫しているのは主人公の思っていることが主人公の目からみて綴られているだけである。

 

 ところが、この奇妙な世界が、読む私の内面にとても親和性がある。筋道だてて読もうとすると、何が何だかわからないと思ってしまうようなことだが、そういう気分に浸ったことがあると場面場面、瞬間瞬間を味わうと、昔日の自分の胸中をよぎったことのある出来事だと思われる。つまり、子どものころに出くわし、触れ合い、あるいは話しに聞き、驚き、畏れ、怯えたもののたちまち忘れてしまったことが、大人になった私の眼前に出来すると、こういうふうになる、と思った。それに親和性を感じるというのは、私の内面に沈潜して、密かに出番を待っていたという、私の無意識に属することだからであろう。それらは脈絡を持たない。すんなり言葉になる完結性を持ったものがたりにならない。謎である。私自身が私にとっての謎である。それは世界が謎であることと同じことだ。

 

 そういう意味で、私は、この作者の時間や空間や出来事や言葉や関係や何やかにやが、通り過ぎるのではなく、ことごとく身体に堆積しているとする「人間観」とそのバックグラウンドの「社会観」「自然観」に諸手を挙げて賛成である。そうだ、そういうふうに育って私は「私」になって来たんだ。

 

 そう考えると、表出してくる体に刻まれた記憶のことごとくが愛おしくなる。怖いことも、そうか、あの時はまずかったなあと今なら思うことも、あれはこういうことだったかと、今だからこそ物語としてとらえられることも、一つひとつ己の身の皮をはがしてはじめて自分の輪郭が浮かび上がってくるような思いを抱く。それを経て目が覚めたとき、長い間身の裡に捨て置いてきたことに、何とかちょっとばかり始末をつけたような、少しホッとする気分を味わう。無意識の堆積する罪責感に、少しばかり罪滅ぼしをしたような、気持ちになる。そういう本であった。