mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

弟の一周忌

2015-04-09 09:41:58 | 日記

 去年の今日、末弟のJが急死した。食道がんを患って手術後の静養中であったから、心備えがなかったわけではないが、前日には「医者はあと三か月っていうが、自分が死ぬような気がしない」と体調がよくなっていると話していた矢先であった。64歳という若さもさることながら、まだ現役で出版系の会社を切り回していたこともあって、無念な思いの残ることが多かったろうと慮るところがあった。

 

 1年経った今、さすがに弟Jを思って涙することはなくなった。母や長兄の死が相次いだこともあって、むしろ因縁話のように胸中に思い浮かぶことになることが多い。同時に、血縁というのは、どういう結びつきなのかと考えることがあった。

 

 身体に刻まれた記憶として、血縁で受け継いできた類的な堆積が「私」が実存する99.999%以上を占めていることは間違いない。親や兄弟というのが、さらに文化的資質の継承に大きな影響を持ったことも間違いない。むろんそれらの背景に、日本社会の(私の家族が関わった)共同体がもった変遷も関わっているのだが、とりわけて親や兄弟という関係の持つ親密さは、それ以外の人たちとの関係の持つ影響との差異を明解にするように求めているように思われる。

 

 「親密さ」とは、心置きなく向き合える関係であろうか。カインとアベルの物語りのように、兄弟関係はまた、争う関係でもあったはずである。にもかかわらず「親密さ」とか「仲が良い」と言われる関係を保ってきたというのは、まず、兄弟の序列を秩序付ける親の規範、簡単に言えば長幼の序があったからであろう。しかも、それが揺らがなかった。その規範に応えるに足る兄や弟の現実存在があった。人として敬うに足る兄の存在があり、慈愛に応えるに足る弟の恭順があった。むろん、感性や価値観は異なる。だが、違和感や異論の始末の仕方をほぼみなが心得ていた。場を限定して話をしたし、違いのあることを表明したり、それを受け止めた段階でとどめた。やりとりの応酬はないわけではなかった。だが、それ以上に踏み込んで、訂正させたり修正させようとしたりはしなかった。その程度に、仕事上のかかわりが「棲み分けられていた」こともあったろう。長兄はジャーナリズム、次兄は商業、三男は教育関係、四男は考古学、末弟は出版業と、実際的には重なるところはありながら、拠って立つ専門領野が異なることに敬意を払って向き合ったことが、「親密さ」を良好なものに保ったと思う。

 

 だがそれだけではないと、私は考えている。じつは、体に刻まれた記憶というのは、無意識の中に堆積している生育歴中の共通感覚を指している。昭和12年生まれの長兄、15年生まれの次兄と17年生まれの三男という年齢の違いは、体に刻まれたことばかりか、幼少時の記憶自体で世界を感じる感じ方が決定的に違う。それくらい変転の大きな時代だったからである。まして、22年生まれの四男と25年生まれの末弟ともなると、敗戦後の世の中の記憶が、何を食べて育ったかを含めて、上の三人と大きく異なる。それは身長にも現れ、上の3人に比べて下の2人は8~10センチ近くも背が高い。にもかかわらず、共通感覚となる体に刻まれた記憶というのは何か。

 

 ひとつは、生活習慣。早寝早起き、顔を洗い歯を磨く。食卓を囲み、一緒に「いただきます」をして食べはじめる。祝いの席で、たとえばお神酒をいただくときには、上から順に頂戴する。布団の上げ下げ、掃除、食事の支度など家事の手伝いをする。学校に遅刻しない、休まない。いま思えばなんということのない簡単なことばかりだが、そうした生活習慣が、ちゃんとやることの心地よさや一つひとつ片づけることの「始末のよさ」を共有してきた。それが、その人に対する安心感や信頼感につながったし、兄弟であることの共通の課題――老母のこと――についても、腹を割って話すことができたのではなかったろうか。

 

 言うまでもなく、幸運に恵まれたということもある。兄弟家族が子どもや孫の成長も含めて、大きな事故にも事件にも出くわさず、それなりに順調にいっている。末弟の事業もまた、急死時にかかえていた欠損を何とか凌いで、継続している。これは関わった人の幸運に恵まれたと言っていいであろう。

 

 ふと彼岸のことを思う。母親が「おや、あんたいつ死んだんなら」と弟Jと出会って言う。そこへ長兄Hがやってきて、「はいはい、私も母さんに付き添うことになりましたよ」と笑って話しかけている。母親が「はい、ありがとう」とにこやかである。