mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

建築って何だろう(1)――経済社会の変容を映す住宅建築の変わりよう

2015-04-12 14:14:15 | 日記

 3年目に入った「第13回 aAg Seminar」のテーマは「建築を楽しもう」でした。長年建築士として仕事をしてこられた講師が、街を歩くときの楽しみにしている「建築をみる」視点がどんなところに眼をつけているのか話していただけるというので、愉しみにしていました。その流れは「ご報告」の通りです。105枚のパワーポイントのシートを使って時間におさまりきらないほどのいろいろな建物の紹介は、なかなか刺激的です。

 

 ただ、テーマが二つあったために、説明の焦点が混戦しぼけてしまったうらみがあります。一つは、1960年前後から2014年までの建築の大きな変遷です。もうひとつは、講師のお好みの建築を紹介するというものです。


 前者は、その時代を大学を経て現在に至る仕事と家庭を歩いてきた私たち自身にとって、自らの人生を(建築を窓口にして)振り返る機会でもありますから、それはそれで面白いテーマです。また後者は、素人の私たちが見る目と建築設計を生業としてきた専門家との目の付け所の違いを発見するという意味でも、興味深いテーマでした。できれば、2度に分けて展開していただきたかった。全体の分量もそれに見合うくらいありました。さらに、できればもっと踏み込んだやりとりをしたかったという思いが残りました。

 

 じっさい、直後のtkくんの「厠考」など、Seminarの余波が1週間余もつづいたのは、関心の広まりと現場でのやりとりができなかったことの証左のようでした。もっともhtさんの「今回のセミナーで感じたことを少々」として挙げている4点は、どれもSeminar後の会食時の話題で、Seminar会場でやりとりされたことではありませんから、参加者全員が耳にしていることではありません。できれば、その中身も少し紹介していただけると良かったと思います。

 

★ 狭いところにどう工夫して住むか

 

 「戦後の住宅はどう変わって来たのか」のスタートで《1950年代から60年にかけて全国に広がった「nLDK」の間取り》が取り上げられました。「トイレ浴室」がシャワーであった。それが浴槽に変わった。それが、1964年ころから「LDK」が登場したと話しがすすみました。たしかに住宅の設計が、米国風直輸入から和洋折衷へ、さらに少しは広くなるという変化も、経済成長の歩みと歩調を合わせていたと思います。

 

 しかしそれよりも、「1958年晴海高層アパート」のように、団地とか高層アパートという集合住宅が登場したことがもたらした変化が大きかったのではないでしょうか。1955年にはじまる高度経済成長、急加速した農村の分解、都市への労働力の集中化と、「もはや戦後ではない」という時代を迎えたこと。それと軌を一にしていましたね。公営住宅の建設ラッシュという住宅政策と「nLDKの間取り」という設計の採用は、どういう関係にあったのだろう。鉄筋コンクリート建築が勘弁に採用されるような技術的な進歩でも、あったのでしょうか。

 

 ところが他方で、「1952年最小限住宅」が出現しています。狭い土地に暮らす設計というコンセプトでしょうか。あるいは、清家清の1954年「私の家」。《ドア、仕切りのない一部屋、トイレも。移動式のタタミ、屋上にコンテナ書庫を乗せる。平屋、周囲は緑に囲まれて》というコンセプトは、着想の面白さよりも、平屋に暮らすという発想がまだ生きていたんだなと、和風住まいセンスの名残を感じさせます。だから後で、コンテナを乗せるような「増設」に行きついて、敷地の広さと対照的に異様な感じを醸し出しているように思えました。「いまだに見学者が絶えない」ということでしたが、なにを見に見学者は足を運ぶのでしょうか。清家清という建築家の高名があるから? 「評価が高いの?」と質問が出ました。講師は「ひとつの提案ですよ」と応じました。たしかに、バブルがはじけてのちに、個室をやたらとつくるよりも、ワンフロア主義とでもいおうか、パーティションをもうけて区割りを自在にするマンションの設計なんかが流行しています。だが、それは1990年代以降のこと、それと同じように受け止めるには、建築年の時代背景と違いがありすぎる。外へ回らなければならないコンテナ書庫への入口も、「不便を厭うな」というコンセプトだとすると、当時の高度成長時代の効率と便利を優先する精神への反抗とも言えますが、そういうことだったのかしら?

 

★ 時代への抗い

 

 時代への反抗という意味では、「軽井沢の別荘1962年」はそういう雰囲気を漂わせる。なにしろ、都会を離れて静謐な森の中。しかも、部屋からの景観を重視して、樹冠に浮かぶ部屋のように感じられる「高床式」。湿気や寒さからの防備にもよろしい。「珠玉の名作」と評判のようですが、現在の知恵からみると、何処が珠玉なのか私にはよくわからない。そこんところを、もう少し踏み込んで聞いてみたかったなあ。

 

 あるいはまた、1966年の「塔の家」も、見方によっては反抗的である。私などは貧乏性だから、つい、狭い土地にこうやって工夫して住んでいるのねと思ってしまう。だが《3.6坪に6階建、家族3人》が、便利さに抗って暮らすという「反骨精神」とみたらどうか。当時はやりの集合住宅の基本コンセプト「便利」を笑い飛ばそうという気概が感じられる。でも私は、いまそんな家に暮らすのは御免蒙りたいね。

 

★ 閉じこもる時代の先駆け

 

 家というのがそもそも、地域社会から家族を囲う、つまり、閉じるという機能を持っています。1970年代の、旭化成ホームズの「二世帯」の提案と安藤忠雄の「自閉」=「住吉の長屋」とを対照させたのは、どういう意図があったのでしょうか。

 

 1970年といえば、核家族化がすっかり定着してきたころです。爺婆の知恵が大切と言われるのはもう少し後のことではなかったでしょうか。「二世帯」の提案というのは、(まだ)親を田舎から引き取って一緒に暮らそうというのではなく、都市労働者の第一世代(これは私たちの親)がぼちぼち退職し、その子ども(私たち)の世代が結婚して家庭を持つけど、同居はいやよという風潮に応えるためであったか。たしかに「二世帯住宅」が流行したことはありました。面白いのはこの二世帯が内部で行き来できないということ。つまり、家族を単位として「自閉」していることです。

 

 他方、安藤忠雄の「自閉」も、コンクリの壁で地域から「自閉」しています。すぐ前に見た「清家清の私の家」や「塔の家」の「(家族の)プライバシーってないのね」という時代から「(個々人の)プライバシー」という時代。内部には個室がしつらえられて、「個人のプライバシー」(ヘンな言い方)が、設計的にはしっかり確立されていっています。それを「自閉」と表現したのでしょうか。

 

 つまり、家族は共同体、その内部ではプライバシーっていわない、という時代から、(家族であっても)一人ひとりの(個人の)プランバシーというセンスが表出したわけですね。その後、個人主義の荒波が押し寄せて、個人の自律、自己決定・自己責任という時代になり、家族といえどもてんでばらばらという現在に至った。そうですよね。家族の解体が進行した時代です。

 

 実際に「自閉」とか「自己中心主義」とかが教育現場で問題になりはじめたのは、1970年代の後半になってであった。ここで「自閉」と呼んでいるのは「ひきこもり」のこと、「自閉症」はまた違った概念だからここではとりあげていない。だから、住宅建築の世界で、批評的に「自閉」ということを70年代の初めに取り上げているのだとしたら、なかなかの慧眼だと思うが、安藤忠雄のそれは、そういう批評性を持っているのだろうか。それとも、「閉じこもろうとする気分」を保護するような建築ということなのだろうか。建築が、そこに住む人の意識を決定するということもあろう。人とは最小限にかかわりにとどめて、我が身の防御をするという気分が、2011年までの日本社会を広く覆っていたこともたしかです。

 

★ 技術革新と量産化

 

 1980年前後の技術革新で、換気設備や水回りの配置が自在になった、とありました。住宅の設計というのが、給排水の配管の埋め込みや取り替えを配慮しているわけだから、住宅の真ん中に水回りを配置できるということは、キッチンやユニットバス、トイレというものを中心におく設計が可能になったわけだ。また、宮脇檀の「松川ボックス」の様子を聞くと、外部はコンクリだが内部は木材を使った自在な構造とか、インテリアという幅の広がりがあったということだろうか。

 

 興味深いのは、1984年「光が丘パークタウン」。練馬区の地域全体を構成していく街づくりというコンセプトに、各種公共施設をもつ公園と高層団地がつぎつぎとつくられていったもの。日本の国民所得がアメリカを追い越して、ジャパン・アズ・ナンバー・ワンといわれたはじめたころの勢いを映しているでしょうか。

 

 同時に、1987年の「多摩ニュータウン」のように、量産化時代の画一化にもうひと色付けた「付加価値としてのαルーム」が登場したり、「小篠住宅」(安藤忠雄)のような、贅沢な造りへと変わってきました。また、プレハブ住宅が登場して、工場生産した素材を組み立てるだけという建築工法の技術革新がすすみ、ミサワホーム、ナショナルハウス、セキスイハウスなどの戸建て住宅も、多様なニーズに応じるデザインを可能にしています。

 

 こうして、バブル時代に突入していったわけですね。(つづく)