13日に「初盆」をアップして以来のご無沙汰です。
14日から霧ヶ峰へ遊びに出かけていた16日早朝、長兄から電話が入り、母が亡くなったことを知らされました。大急ぎで家へ戻り、私は午後の新幹線に乗って岡山へ向かいました。預かっている孫たちはカミサンが翌日新大阪で親に受け渡し、そのまま新幹線で岡山まで駆けつけることにしました。
母は、入院先のリハビリ病院からいったん玉原の家へ戻し、病院に入る前に過ごしていた自分の部屋におさまっていました。湯灌を済ませ死に化粧を施された母の顔は、20歳くらい若返ったようにみえました。聞けば、2時間ほどかけて自室で湯灌を施す手際は、4月の弟Jのとき同様に、ていねいで見事であったと、立ち合った弟Kから聞きました。映画『おくりびと』のやり方が現実化して一般化したのでしょうか。入れ歯を取り外してすぼんでいた口元もきちんと復元されてふくらみを取り戻し、顔艶もしっかりと若さを湛えていました。とても104歳の老衰とは思えない顔立ちに、ちょっと戸惑ったほどです。
これも死に装束を整えた次兄の嫁さんと弟Kの嫁さんに聞いたのですが、母は「私が亡くなったらこれを開けて着せてくれ」と衣装箱を指定していたそうです。開けてみると、自分で仕立てた襦袢や着物がそろっており、西本願寺から頂戴した「名号」などまで入れてありました。もっと驚いたのは、「お別れの言葉」を記した手書きの便箋が一枚入っていたことです。
「お別れの日が参りました。」とはじまる300字足らずの文章です。「……波乱浮沈も多々ございましたが……心置きなく黄泉路へと旅立ちます。」と、穏やかな気持ちのありようと感謝の言葉を述べ、「衷心よりお礼申し上げて還らせていただきます。」と、浄土真宗の本願成就を謳い、「さようなら。」と記して、署名してありました。
死に装束を母に託された嫁さんたちに聞くと、衣装箱を指定したのはもうかれこれ30年近く前、父親が亡くなったころのようですから、70歳代の半ば過ぎ。今年喜寿を迎える喪主の長兄は「私も書いておかねばならん齢なんだね」と感想を話しています。しかも「お別れの言葉」の片隅には、「この文章を封入しているのと同じ紙に印刷して、会葬された方々に配ってください」と指定していました。どちらかの葬儀で貰い受けた薄い和紙の封筒とやはり印刷された「会葬御礼」のご挨拶は、上品な和紙でつくられており、「こんなものすぐには手に入らないよ」と、準備を整えてきた次兄も困惑していたほどです。「まるで自分が喪主(施主)みたい」と私は思いました。明治女の気骨が際立つようでした。
余談ですが、私の「明治女の気骨」という概念は、母親以上の人たちの発するオーラを意味しています。頑固で、人の世話になることを良しとせず、何につけ自律的に切り回す。でも、明治43年生まれの私の母は大正時代の空気を吸って青春期を過ごし、昭和を迎えたとき18歳です。「大正女」と呼ぶ方が正確なのかもしれません。1910年に生まれ1925年に昭和になっています。西暦でいう方がよくわかるのですが、世界の列強の仲間入りをしたつもりの時代から、アジアの覇権を握ったつもりになった時代です。イケイケドンドンの上向き思考、後で振り返ると司馬遼太郎がネイションシップの見どころを見失うような泥沼に踏み込む気概が仕込まれていく時代です。そう書いてみると、1970年代80年代のイケイケドンドンが1991年にバブル崩壊して以降、夢よもう一度と停滞の泥沼に踏み入れている今の時代状況とよく似ていますね。果たして私たちのことを「戦中生まれ戦後育ち世代の気骨」とみてくれるかどうか、ちょっと気にかかります。
「祖母の葬式曾孫の正月やね」と、若いころ老母と十数年同居していた嫁さん。うまいことを言うと思いました。7人の孫に9人の曾孫、その曾孫のうちの7人が来ていました。久しぶりの顔合わせに彼らははしゃいでいます。さすがに曾祖母ちゃんの弔いということはわかるから、葬儀の場面では神妙にしていますが、控室にいるときはほとんど子犬のようにじゃれあって愉しそうです。何しろ104歳(もっとも仏教では数えで行きますから105歳)、天寿を全うしています。悲しさはありません。会葬者も「よく頑張ったわね」「ごくろうさん」と、ねぎらいの言葉が口を衝いて出ます。弟Kは、兄嫁と自分の嫁さん2人の「解放記念日だよ」と繰り返していました。曾孫の正月とはうまいことを言うと私は思ったのですが、埼玉県の北部地方で育った弟Jの嫁さんは「祖父母の葬式孫子の正月」という言い習わしがあると教えてくれました。インターネットで見ると、「年寄りの葬式孫子の正月」というと熊谷に住む人が書いてありました。子や孫(従兄妹)たちが久々に会ってにぎやかになるからと解説しています。年寄りの世話から解放されるという謂いの読み取りは、高齢者がモンダイとなる近年のことなのかもしれません。
「波乱浮沈も多々」と母は記していました。思えば、ほとんど江戸の景観を残している田園風景の中で生まれ育ち、「つもり」とはいえ世界の列強の仲間入りをし、調子に乗りすぎて大戦争に突入して敗戦。しかしそこから立ち直り、経済面だけとは言え世界第二位、個人所得でいえばアメリカを抜いて人類史上初めての物質的に豊かな社会に身を置いてきたのですから、母親の人生は、波乱万丈であったといえます。いまだから私も距離を置いてみることができるのですが、「明治女の気骨」は、子どもにも、嫁さんにも波乱万丈をもたらしました。そのときどきの確執・衝突・悲嘆・愛憎は、忘れようもないほどです。だが、いまになって振り返ってみると、母親もそれなりに変わってきていたのだと、見てとることができます。そうしてたぶん、「お別れの言葉」を書いたころを最後に母は「明治女の気骨」ときっぱりと別れ始めたのではなかったかと、葬儀の間私の胸中に思いが経めぐっていました。
一口には言えないのですが、「生きる」ということは自分の胸中の「ありうべき姿」と照らし合わせて「現実態」を修正し、「現実態」に合わせて「ありうべき姿」を訂正するという面倒な作業を心中でしているものです。それと、息子たちが登場して成長し(自分の)思うに任せない変容を遂げ、あまつさえ嫁という文化を持ち込んでくるのです。「気骨」があればあるほど、文化の衝突は(両者にとって)気骨(きぼね)の折れることであったに違いありません。それを、距離を置き暮らしを分けることによって「他者」として受け取れるようになるには、物理的空間的な場だけではなく、心理的思想的な「変容」を潜り抜けなければならなかったと思います。じつはその「変容」も、自分一個の変わりようではなく、向かい合う相手の変わりようも「変数」になっています。つまり「かんけい」が変わらないとならないし、変わるものなのだと思います。
母にとって、10年ほど前に骨折して入院したことが大きな転機になっています。眼が見えなくなっていたこともあって、身動き着かなくなったことがいろいろなことを断念する契機となったようでした。病床で一つ一つの「執着」と争っていました。自宅が売られてしまったと嫁を恨む愚痴をこぼす。どうしてそんなことをと問う息子に、ラジオがそういっていたと応える。お隣さんへ5円で売ってしまったと、大真面目に訴える。あるいは、長男が多額の寄付をして病院を建てたと誇らしげに話す。食事をさせてもらえないと看護師さんに毒づく。かと思うと、夢で出歩き、バス賃がなくて荘内の誰それさんに世話になった、返しておいてと言ってみたりする。それらを耳にするごとに、彼女の「執着」が一つ一つはがれて幻のように消えていっているのではないかと、私には思えました。
そうしてついに、私が病床に見舞っても「あんた、いつ死んだんなら」とすでに彼岸にいるような口をきき、弟が見舞って「Kですよ」と耳元で声をあげても「Kってだれな?」と、自分の息子の名を忘れ、いつも長男の名前を口にして「Hは来んのかね」と聞き、ついには長兄Hが耳元で「お母さん、来ましたよ」と呼びかけても、「ありがとう」と応ずるばかりになっていました。それはすっかり「執着」が昇華して「変容」の最終段階に来ていたからだと、私はみています。
ここでは母の「変容」として書き留めていますが、そのように見て取れる私自身の「変容」があったと、自省して思います。そのように見て取れる私が、そのように見て取っているのだと。人間は変わるのだ。人が変わることによって「かんけい」も変容し、それが「かんけい」を変える。そうしたことの集積に上に、母の葬儀が執り行われている。そう思いながら棺に花を手向けたとき、ふと涙がこぼれそうになって、その自分に気づいて慌てたくらいでした。
「終わり良ければ総て良し」、そういう終わり方を迎えることができて、母は幸せであった。棺の蓋を閉じ、お骨を拾いながらあらためて、そう思っていました。