mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

大峰山、高野山への慰霊の旅(3) 空海、お主、なかなかやるな

2014-08-08 10:33:15 | 日記

★ 日本一ゆっくり走る特急電車は異界へ向かう

 

 往路をそのまま戻って約1時間、橿原神宮前駅に着いたのは2時少し前。予定よりも1本早い電車に乗れたとよろこんだが、どちらを向いてどう走っているのか、見当がつかない。近鉄南大阪吉野線と近鉄長野線を乗り継いで河内長野に着いたのは「予定通り」の時刻。年をとってからは、待ち合わせの時間が長くなっても苦にならない。何もしていなくても、あっという間に時間が経ってしまう。

 

 河内長野から南海高野線の特急に乗った。大阪のなんばと高野山へのケーブルカーに乗り継ぐ極楽橋を結ぶ。ところが、半分以上は、深い山の中を走る単線区間。両側から緑の木々が覆いかぶさるように電車をおおう。ところどころの樹間から見える集落ははるか下の方にあり、そこからこの小さな駅に来るだけでも大変だなあと思わせる。特急だから各駅には留まらない。だがその速度は、鈍行と同じ。ゆるゆると垂れ下がる木々を避けるようにゆっくりとすすむ。まるで速度を出すと崩落した現場に出くわすかもしれないというように用心深く。たぶん、日本一ゆっくり走る特急だと思った。

 

 極楽橋からのケーブルカーも南海鉄道の経営路線らしく、改札もなしにそのまま急な階段を上ってケーブルカーに乗る。他の出口があるようには思えなかったから、もちろん連絡は良く、みなさんが乗車したら出発。車輪に着いた歯車が、レールの脇にしつらえられたカムに食い込みながら急な斜面を登る。30度は超えている。なにしろ車両の床そのものが、25cmほどの階段状になっている。2両連結の上と下とでは10mを楽に超える。

 

 あとで思ったのだが、この特急電車は高野山という異界への参入口になる。恐る恐る近づくというそんな気配を湛えていたのかも知れないと、宮崎駿の映像を想いうかべながら思った。

 

★ 高野山という別天地

 

 登ったところは平坦な台地の上。広場があり、バス停になっている。バスはほぼ満員。夏休みの、土曜日の夕方だから混むのは仕方がない。バス専用道路をくねくねと九十九折れに走って女人堂を経て、一般道路と合流する。静かなたたずまいの住宅街に入る。雨が落ちている。台風が九州の西を通過しているのかもしれない。高野警察署前で降りる。警察署といっても「千と千尋の神隠し」に出てくる湯屋のような外観の2階建て。横にはテラスハウスのようなコンクリート造りもあったから、古い建物を大事に残しているのであろう。ケーブルをあがると別天地、異界であった、という感じ。

 

 宿はそこから歩いて1分の福地院。インターネットで調べて、「温泉」とあったので申し込んだのだが、高野山を良く識る人に聞くと、在住している都府県によって宿泊する宿は決まっているという。福地院が埼玉県の指定かどうかはわからない。そもそも「温泉」に泊まろうという客を、出身県で別の宿に紹介するってことができるだろうか。福地院は、古くからのお寺さんのような外観。砂利道を歩いて門をくぐり、石庭を横に見ながら踏み石を踏んで玄関にたどり着く。その脇の、廊下に沿ってしつらえられた長い踏み段に腰を下ろして、フランス人の女の子が二人おしゃべりをしている。廊下の上の帳場では、お兄さんが英語でお客の相手をしている。飛び込みの客なのであろうか。

 

 受付を済ませ、部屋へ案内してくれると思ったら、新米の仲居さんが片手のメモをみながら、こちらがお風呂、何時から何時まで、こちらで写経教室がある、朝の勤行が6時からと、荷物をもたせたまま館内を連れて回る。館内はまるで旧時代を思わせる博物館のように、畳を敷いた広い部屋、太い柱、長い廊下、その脇に庭園を設え、壁や襖には風神雷神図や王朝時代の絵が描かれ、各所に掛け軸が掛けられている。でも、トイレや何か所ものお風呂や休憩場所や売店が置かれて、しっかり商売をしていると思われる。泊まる部屋は2階であった。

 

 部屋の入口は2畳の板張り、襖を開けると8畳の畳の間、床の間があり、奥の板張りには小さなテーブルと椅子2脚が置かれ、小さな洗面台がついている。3人ならまあまあの広さだ。土曜日とあって満員の様子。食事は部屋に用意された。豆乳を用いた精進料理だが、なるほどフランス人が好みそうな手の込んだ調理。素材の味を活かそうとしている。若い修行僧が作務のように、お膳を運び片づけ、布団を敷いてくれる。実際に、もう少し年季の入っているらしい僧侶が来て、「ご供養」の注文を聞いて回っている。やはりお寺さんなのだ、ここは。

 

★ 我が身から引きはがし我が身と一体化する

 

 8月3日、朝食を済ませ、荷を帳場に預けて、バス乗り場に向かう。今日は、弟K夫婦と奥の院で落ち合って、弟Jの供養をしようという予定。天気が良ければ、高野三山をめぐる時間くらいのトレッキングをする予定だったが、あいにく予報は雨。昨日一日雨の中を歩いた疲れもあって、長兄は三山めぐりをやめようというのに、一も二もなく賛成した。そういうわけで、荷物は、傘を持つ程度でほとんどない。偶然にも、弟夫婦は同じバスに乗っていた。これで兄弟が皆そろった。

 

 奥の院で降り、御廟に向かう。境内(といってもどこからどこまでが境内なのかわからないが)には驚くほど年輪を刻んでいると思われるスギの古木が、文字通り鬱蒼と生い茂る。その合間に、いくつもの墓が据えられている。墓と言っても、朝鮮の墓のようなもの、それに似た沖縄の墓のような、広く宴席を設けられそうなものもある。五輪塔もあれば、その変形と思われる刻みをいれた塔もある。卵塔というお坊さんの墓も、あちこちに点在する。浅野内匠頭や四十七士の霊廟もある。秀吉や信長、も武田信玄も苔むした石塔に収まっているようだ。もちろん私たちの名を知らない信者のお墓もたくさんある。かと思うと、パナソニックや森下仁丹や南海電鉄の会社墓もある。寄付が多い方々が墓所をおくことを認められるのだろうと、下衆な勘繰りをしながら奥へと向かう。

 

 御廟橋を渡ると、いっそう深いスギの木立の間を通して、灯籠堂が伺われる。御廟はその裏側にある。帽子をとって200mほどの石畳を踏んですすむ。灯籠堂で供養を受け付けている。納骨をする人もいる。私たちのように縁者の供養も、1回読経がいくら、3年忌までがいくらと値段が表示されている。弟J の名を書いて読経を申し込む。指定された時間に灯籠堂の中に上がり、お坊さんの読経を拝聴する。右の方では別のお坊さんが、護摩を焚いている。その火柱が高く燃え上がり、暗い本堂を怪しげに明るく照らす。40分ほど続いた読経が「般若心経」に差し掛かると、脇にいたお年寄りたちが一斉に唱和する。そうか、ここは、四国八十八か所めぐりの結願の御座所でもあると思い当たる。お経の中身はわからないが、お坊さんたちの立ち居振る舞いは、異界との橋渡しをしているという気配を漂わせ、弟Jがすでに向こうに行ってしまったことを実感させた。

 

 御廟橋のところへ戻り、お供え所で弟Jの名を記した紙の卒塔婆を書いてもらい、その近くにたくさん置かれている地蔵尊のひとつに備えそうしたて、水をかける。弟Kの奥さんはやはり弟と父とをここに供養している。そうしたことをすることによって、すこしずつ亡き人の想いを我が身から引きはがし、それによって我が身そのものと一体化しようとしているような、そんな気持ちを感じた。それが霊魂なのか、単なる私の記憶なのかはわからない。どっちでもいいではないかとも思う。そうした感触を、スギの木立の佇まいからも感じられる。

 

 空海、お主、なかなかやるな、という感じである。(つづく)