1週間の旅から帰ってきた。名目は弟Jの慰霊登山。兄2人と大峰山に登り、その後弟夫婦を加えて高野山にお参りして供養し、Jをかわいがってくれた二人の叔母にご報告をしてきた。
7月31日、ゆっくりとこちらを出発し、東京駅で長兄Hと落ち合って京都へ向かう。京都では岡山からやってきた次兄Yと会い、近鉄特急で橿原神宮前駅へ。そこでレンタカーを借り、天川村の洞川温泉の宿へと走る。
奈良盆地の周縁山地がこれほどに奥深いとは思いもよらないほど、くねくねと曲がる道をたどる。途中の通りは、しかし、いかにも町らしく整っている。下市町、古くからの宿場町のような風情だ。ここの人たちはなにを生業にしているのだろうと、疑問が口をつく。温泉地をもっていることは知っているが、この通りはそれとは大きく外れている。わりばし製造と記した建物が命に目に入る。割りばしごときで暮らしていけるだろうかとも思う。
さらにすすむと「だらにすけ」と記した看板が電柱に掛けられている。「発売元」として個人名らしきものが掲げられているところをみると、名産品らしい。だが、なんだ? 「だらにすけ」って。中には「だらにすけ丸」ともある。薬だろうか。
★ 洞川温泉
丹生川から逸れて長いトンネルを三つくぐると天川村。天の川に出会ったところで21号線に入り高度を上げて進むと、やがて洞川温泉に着く。標高は820m。大峰山の水源からの水を集めて流れる山上川に沿ってにぎやかな街並みが開ける。間口を大きくとり、戸も障子も広く開け放して、屋号が記してある。年季の入った建付けと江戸風の破風や床の間、飾り棚が狭い通りに面して開かれ、町の雰囲気を醸し出している。まるで江戸の時代にタイムスリップしたような気分だ。「だらにすけ」と表示している店がそちこちにある。お目当ての宿もすぐに見つかった。ここも奥村宗助という個人名をそのまま宿の名に冠している。やはり修験者だったのだろうか。聞けば修験道の基地として栄えた町らしい。
「だらにすけ」も、胃腸薬だと分かる。宿の女将によると、すこぶる苦い、薬効はあらたか、歯の痛みにも効く。少し乳首につけて子どもの乳離れを促したと、笑いながら話してくれた。「正露丸」のようなものかと思う。その看板は修験者の販売特権として掲げられているのであろう。製造元はこの向こうと、川の対岸を指さして種明かしする。
小学生の林間学校かスポーツ少年団の合宿なのか。3つ4つの宿からにぎやかな声が聴こえてくる。宿の部屋の対岸の道を列をなして歩いている。たしかに豊かな緑、清流、奥深い山、そして古くからの街並みと温泉。非日常の世界に飛び込んで、やっと夏休みという響きが声の明るさに感じられる。
夕食までの合間に、町を散策する。川の対岸に龍泉寺という大きな真言宗のお寺がある。スギの古木が重しのように入口に陣取る。そこから山の斜面を登って「つりばし」の方向へ向かう。明日からの登山の足慣らしと言いながら、しかし、40mの高さにかかって道路を横切る50mほどのつり橋の向こうには、大蔵山という893mの小山が盛り上がっている。橋のたもとに掲げられたイラスト地図を見ると、もう少し登ると展望台があり、そこから山頂まで行かずに町へ下る道がある。一回りしようと前へすすむ。展望台とは名ばかり。大きく伸びた木々の葉に阻まれて、下の町は俯瞰できない。そういえば夕食の時刻に間に合うかなと言いながら、山を下り、町に通じる道路に降り立つ。
道路は川を渡る何本かの細い橋を含めて、縦横に走る。街中に出ると「行者祭り」の横断幕が掛けられ提灯に赤い灯が入り始めている。明日と明後日がこの街のお祭り。その飾りつけで忙しなさそうに、町の人たちが動いている。女将も、明日からはたくさんの泊り客があってたいへん、大学生の息子が帰ってきて祭りの準備を手伝っている、と嬉しそうに話す。
★ 役行者
宿の女将が『役行者ものがたり』(松下千恵、絵と文)という絵本をもってきてくれる。そこには大峰山と修験道の先達である役行者の由来が記されてあった。役行者(役の小角)1300年御遠忌記念とあるから、亡くなって1300年が過ぎる。7世紀の後半を生きていたことになる。
じつはそこで初めて知ったのだが、大峰山というのは奈良県の吉野山から熊野にかけて南北に連なる山脈群の総称であって、大峰山寺のある山上が岳のことではないのだ。吉野山から熊野の前鬼に至る山稜をたどる道を「奥駆路」と呼んで、4泊5日で踏破するコースも紹介されている。
あとで山頂の宿坊のひとつ「龍泉寺」の御坊に聞いたのだが、役行者も渡来人だそうだ。彼らは水銀や金、銀の採掘を生業として、この大峰山地に住み着き、修験道を身に着けて、力をふるっていたらしい。修験道って仏教? というくらいの知識しかなかったが、道教の流れをくむという。密教の空海も心服して、修験道に学んだというが、空海は8世紀末から9世紀に活躍した方だから、小角と直の接触があったわけではない。龍泉寺が真言宗だったので、両者の関係を尋ねたことから、話しが広がった。御坊の話では、仏教よりも早くに道教が伝わっていたと、ほんとかどうかわからないことも織り込まれているが、朝鮮半島と九州とが一衣帯水の「倭人」の国であったという発端は、最近の研究を取り入れて信頼性を高めている。
役行者は熊野の前鬼の先導により大峰山の修行に入り、山上が岳にて神に出遭い大峰山寺を立てて洞川に下ったそうだ。そこで、洞川の地を後鬼と呼ぶという。その通りに「後鬼のそば」と銘打った蕎麦屋の看板も見かけた。洞川はしたがって、修験道の基地であり、その地の人々は修験者の末裔のようであり、「だらにすけ」はその証という格好であろう。そう言われてみれば、町全体の雰囲気も荘重な、それでいて庶民的にくだけた気配を漂わせている。なんだろう。どこか禁欲的であり、野放しの自分の欲望を控える結界をもっているように感じた。(つづく)