八雲町内の国道5号を走っていると、こんな標柱を見つけました。
「蝦夷地・和人地の境跡」?
「和人」というのは、江戸時代から、先住民族である「アイヌ民族」に対し、アイヌ民族の血を引かない日本人を称するものとして使われてきた言葉で、それは私も子供の頃から知っていましたが、気になるのは「蝦夷地」の方。
「蝦夷地」って、かの松浦武四郎が、1868年に「北海道」と名付ける以前の、現在の北海道地域を指す地名だったはず。その「蝦夷地」と、アイヌ民族の血を引かない日本人の住んでいた土地の境?どういうこと?
実は、ここでいう「蝦夷地」というのは、かつての北海道全域をダイレクトに指すものとはちょっと違っていて、アイヌ民族の居住区と、和人の居住区とが、この辺りで明確に区分けされていたのがこの場所だったということを意味しています。
つまり、ここでいう「蝦夷地」というのは、「アイヌ民族の居住区」を指すのです。
諸説あるものの、「蝦夷」と書いて、「えぞ」の他に「えみし」と呼ぶことがあり、平安時代の末から鎌倉時代に以降においては、「蝦夷」といえばアイヌ民族のことを指すとされてきていました。(もっとも、数ある説の中には、「蝦夷」=「アイヌ民族」であることは肯定しつつも、一般的な呼称ではなく、むしろ「蔑称」であるとするものもあるので、使い方には注意が必要かと思います)
そのことから、アイヌ民族が住んでいる場所ということで、「蝦夷地」と名付けられたという説がありますが、八雲町を含む道南地方は、現在の北海道全域の中でも、比較的早い時期から和人が移住してきた地域のため、和人の居住区とアイヌ民族の居住区とを明確に分けたということなのだそうです。
標柱の解説の冒頭に「野田追場所」という表記がありますが、ここでいう「場所」とは、17世紀末から、松前藩の家臣が、運上金(税金)を取って、商場の経営を商人に委ねた「場所請負制」という制度に基づく商場、即ち商取引の拠点となる場所のことで、1801年に「野田追場所」が定められたのがきっかけで、アイヌ民族の居住区と和人の居住区が明確に区別されるようになったということなのですね。
この標柱は、国道に架かる小さな橋の側にあります。
何という橋かなと思ったら、「境橋」というんですね。
土地の歴史がそのまま橋の名前として残っているということになります。
橋の上からの海の眺望は綺麗です。
この日はあいにくの曇りでしたが、晴れた日には絶好の眺望になりそうですね。