仕組みとして、人が人を利用し、その成果を不公平な形で分配するとなると、頭で考えてイイワケはない。
ただ乗りの人は、いないと思っていたが、そんなことはなく、人の好意を利用という形で受け取り、平気の平左という人もいることは事実であって、個別の自由意志だけでは、うまくいきそうにもない。そういう連中と付き合うとなれば、結構タイヘンで、疲れる。ある程度覚悟はしていたものの、まったく違う価値観に遭遇すると、やりきれない、空しさに襲われる。
そうした時、努力した人が、正当に評価をされ、報酬も受けるということは、あながち悪いこととは思えない。人がそのもてる能力を発揮し、見えざる手でもって、報酬を受ける仕組みは、何らかの調整を加えることによって、うまく機能しているようにみえる。
人為的にやるとなると、失敗する。しからば、共産党は、政権をとりうるのか。人類の成り立ちとして、そんな高尚な域に達することは可能なのか。北朝鮮は、まったく失望させてくれる。明らかに、管理され、統制されることの、まずさが、全面にでてきている。しかし、筆者も、相当昔には、あのマスゲームに魅力を感じたこともあった。いまは、生理的に受け付けない。マスゲームをしない、もっと高度のシステムでなければならない。
資本主義の、不具合さは、圧倒的な偏りを生ずることである。調整して、分配をうまくやるならば、現況の人間にとっては、それが、一番あっているのかもしれない。しかし、高次の人間観を標榜するならば、それでいいのか、ということになるのも、自然の流れである。
最低限、日々の日常生活がおくれて、なんらかの生きがいをもてる、というのは、相対的な順位であるとか、生活水準の優劣を競うことにだけ、生きがいがあるのではないことを立証している。もっと、平和で、おたがいが、助け合って、と考えても、不思議ではない。競争し闘いあわなければ、生きがいをかんじられない、という、動物的な心の奥底にある、うごめきを無視するのか、それとも、その存在を認めて、仕組みが構成されているのか、ということである。
結局は、両者の価値観の混在を、きちんと認めて、両者がそれぞれ、生き延びることができるようにすることが、当面とりうる選択ということになるのではないか。どちらかにかたよるのではなく、時に応じ、バランスをもって、相反する価値観が、拮抗するなかで、世の中の進歩がなしとげられる、といった風景を描いてみている。
ただ乗りの人は、いないと思っていたが、そんなことはなく、人の好意を利用という形で受け取り、平気の平左という人もいることは事実であって、個別の自由意志だけでは、うまくいきそうにもない。そういう連中と付き合うとなれば、結構タイヘンで、疲れる。ある程度覚悟はしていたものの、まったく違う価値観に遭遇すると、やりきれない、空しさに襲われる。
そうした時、努力した人が、正当に評価をされ、報酬も受けるということは、あながち悪いこととは思えない。人がそのもてる能力を発揮し、見えざる手でもって、報酬を受ける仕組みは、何らかの調整を加えることによって、うまく機能しているようにみえる。
人為的にやるとなると、失敗する。しからば、共産党は、政権をとりうるのか。人類の成り立ちとして、そんな高尚な域に達することは可能なのか。北朝鮮は、まったく失望させてくれる。明らかに、管理され、統制されることの、まずさが、全面にでてきている。しかし、筆者も、相当昔には、あのマスゲームに魅力を感じたこともあった。いまは、生理的に受け付けない。マスゲームをしない、もっと高度のシステムでなければならない。
資本主義の、不具合さは、圧倒的な偏りを生ずることである。調整して、分配をうまくやるならば、現況の人間にとっては、それが、一番あっているのかもしれない。しかし、高次の人間観を標榜するならば、それでいいのか、ということになるのも、自然の流れである。
最低限、日々の日常生活がおくれて、なんらかの生きがいをもてる、というのは、相対的な順位であるとか、生活水準の優劣を競うことにだけ、生きがいがあるのではないことを立証している。もっと、平和で、おたがいが、助け合って、と考えても、不思議ではない。競争し闘いあわなければ、生きがいをかんじられない、という、動物的な心の奥底にある、うごめきを無視するのか、それとも、その存在を認めて、仕組みが構成されているのか、ということである。
結局は、両者の価値観の混在を、きちんと認めて、両者がそれぞれ、生き延びることができるようにすることが、当面とりうる選択ということになるのではないか。どちらかにかたよるのではなく、時に応じ、バランスをもって、相反する価値観が、拮抗するなかで、世の中の進歩がなしとげられる、といった風景を描いてみている。
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