すべては変化し続けて、とどまることはない。一見、何も変わらぬような日常生活だけど、やはり変化している。
近所の犬が、いつものように、意味もなく吠え続けている。いつもの日常のbgmである。
そのなかで、家がとりこわされたり、なにかのモノを撤去するというのは、明らかに日常とは違っているはずなのに、それほどの変化とは思わない。
モノとして考えるならば、それは、大変化であり、景観が変わり、存在そのものがなくなるのだから、大事件であるはずなのだが、周囲の全部が変わるわけではないので、全体としては、大きな変化はない、と感じている。
100年とか、150年とかの時代を過ごしてきたモノがあっけなく取り壊されていく。いろんな時代を潜り抜けてきたが、昨年の台風で、一部が損壊して、周囲の影響を与えるとして、このモノはとりこわされることになった。
これは、モノに限らず、人間もまた、もっと短い時間で変化を受け入れることとなる。人間の一生も長いようで、短く、もはや、小生も、日暮れ時をむかえようとしている。
終わりよければすべてよし、とはよく言ったものだ。どんなに、大変な人生であったにしても、その最後が、本人にとって、よければ、すべては、この日のための試練であり、この日を迎えるための、条件であるとみることができる。そう考えると、すべてに、満足できるのではないだろうか。
最後をつつがなく終えるための準備が、超高齢化社会のなかで、活発なようである。いわば、自然の流れであるが、対象者が多ければ当然に起こる現象であり、みんな似たようなことを考えるのだなあという感慨を覚える。
当方も、ぼちぼちと具体的なことを考えていこうと思う。どんなプランになるのか、いまのところは白紙であるが、これこそ、生涯の総決算として、大事な仕事を位置付けたい。
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