世界一周タビスト、かじえいせいの『旅が人生の大切なことを教えてくれた』 

世界一周、2度の離婚、事業の失敗、大地震を乗り越え、コロナ禍でもしぶとく生き抜く『老春時代』の処世術

なぜ企画書が書けないのか

2012年02月14日 | 人生
書いてる先から


陳腐化していく。



内外の状況が


めまぐるしく変わっていく。




思考が追い付かないのか。







当たり前だが



時は常に流れている。





指をくわえているうちに


時は



ドンドンと過ぎ去っていっている。







その

時を書き留めることができないように



想いもまた


停止してくれない。





成長している証かもしれない。






想いを書き留めた瞬間に


それは


過去のものとなってしまい、





今の想いは


数秒後の想いと


かけ離れてしまう。





考えや


気持ちは



刻々と変化しているのだ。




ある程度継続性はあるものの。









書籍は


想いを固定化してしまう。




過去のある断片を


切り取ったにすぎない。






書き直しても


書き直しても



思考の流れは止まらないから



終わりがない。





常に

完成というものがない。




書き上げた本にしても


未完の状態に変わりはない。








ちょうど


錨を降ろして停泊しようとしても


潮の流れが速すぎて



引っ張られていく感じだ。






早い話


自信がないのだ。




これでいいという



確信が持てないでいる。








その点


ブログはまだましだ。





想いを更新できる。



上書きだってできる。



若干の


タイムラグなら許されるだろう。






そうして


ブログは

自分をブランディングする。





単なる

日記ではつまらない。





想いを


想いのまま



思いっきり




重く書き留めてこそ




説得力と


共感力を伴って





生きてくる。







ブログは


川の流れと同じだ。




滞っては濁る、


腐る。










もう一つ言えることは


時間の流れとともに



想いをブログ認(したた)めてていると




あるとき

不変の真理のようなものが




見つかる時がある。




天から降りてくるという感覚だ。




アイデアもそうだ。





心の中に


パッと灯りがともったような


感覚を覚える時がある。







企画書が出来上がっても


なにか


違和感があるうちは




まだ

その時期ではないのだ。





これだっ!


と感じなければ



それは


本物ではない。




理屈を超えた


閃(ひらめ)きのようなものだ。




まだ


感じない。



降りてこない。




まだまだ

修行が足りないのだ。



その時期でないのだ。





ただ


どこかで



踏ん切りはつけないといけない。







何かを始める時


用意周到に務めるのは


いいことだが、




どんなに準備をしても



100%はありえない。








資格を取り、


資金をため、


資質を磨くことに終始して




いつまでも


物事を始めない人を


よく見かける。




何と多いことか。







どこかで


決断をし




見切り発車をしなければ


それ以上進まない。








そういいながら


今日も


書いては消し、


書いては消しの作業が続く。





踏み切る地点を


模索しながら。

苦しみが楽しみに変わるとき

2012年02月13日 | 苦境
分かってる。



今こんなに苦しんでいるのは


変わろうとしているからなんだ、と。





殻を破るってことは


こんなにも大変なことなんだ。





蝶がさなぎから孵化するとき、


鳥が卵から出る時、



蛇が脱皮するとき。


セミが殻から出る時。

(セミの抜け殻を見て

手にしたとき

いつも思う。



こんなに硬くて

背中の

狭い切れ目から

抜け出すなんて



きっとすっごく痛いんじゃないだろうか、って)





そして

女性の出産のとき。




若葉が


芽から吹き出るときだって


痛みを感じているのかもしれないナー。






どれも


経験したことがないから




痛みも


喜びも分からない。






だけど





想像するに難くない。







自分の人生を振り返ってみた時にも



新しく生まれ変わる時って


成長を遂げる時って




決まって


その前は




苦しみぬいた日々があった。






その辛さに耐えかねて


あるいは




苦しみを想像しただけで





何かを


諦め


何かを



捨ててきた。







その苦しみの先にある


喜びを




強く感じ



イメージした時に





今の


激しい痛みさえ




楽しむことができるのかもしれない。






だが


今まさに


痛みの只中にいて




心底

楽しめるのだろうか。





咽喉元に引っかかる


熱さに



どれだけ耐えられるだろうか。












苦しいときにこそ



笑え!



という。




涙を流しながらでも


笑って見せろ!






嬉し泣きはできるけど


悔し涙は流せるけど、




泣き喜びや


悔し笑は




どこまででできるのだろう。





悲しいときには


笑えなくても





苦しいときには


笑えることを知った。









狐の嫁入り


が好きだ。



日照り雨のこと。

a rain(fall [shower]) in the (sun)shine




明るい雨だから。



自然に顔が上を向く。


自然に顔がほころぶ。






強い陽射しも



冷たい雨も


そこにはない。





中途半端な


曇り空とも違う。







も一つ


2~3度経験したことがある。




雨と晴れの境目だ。




それは




大草原で、


大海原で




会った。





いずれも



旅の途中。





なぜか


幸せな気持ちになった



ことを


覚えている。






人生には



そんな日は少ない。







でも


足元の、


目の前の




小さな小さな



出来事や


人々の中に




そんな光景は


いっぱい潜んでいるものなのだ。





それに


気付くには




時間がかかる。






手遅れの時もある。






無くなって、



居なくなって





初めて気づかされるものの



なんと



多いことか。





【追記】


雨のデイオフが


ボクを




感傷的にさせる。




The day off in the rain

makes me sentimental.

夢思考

2012年02月12日 | 



Dream



何と響きのいい言葉だろう。




ボクは



この言葉を



胸に刻み、



咀嚼し、




紡ぎ、




追いかけながら



生きてきた。







だが



そのためには




常に



未来を見据える



眼力が



要求される。







過去を振り返る夢でさえ



それが



夢である限り




未来を視野に入れたものでなければ



ならない。









なぜなら




夢は




希望へと繋がっているからだ。






希望無き夢は



悪夢に過ぎない。






夢の形、内容も



様々だ。







結果が



希望どころか





絶望へと続く夢もある。





期待を裏切る夢もある。









ドリームジャンボや




アメリカンドリーム



チャイニーズ・ドリームといった



甘い期待を抱かせる





マヤカシも多い。



(全部とは言わないが)








往々にして



人は




甘い夢を観たがる。






だが



真の夢というものがあるとするなら





それは




厳しく




つらい道をたどる場合が多いような気がする。






そして



それを乗り越えた時に





夢を果たし、



夢を叶え、




夢を実現できるのではないだろうか。








胸に秘めた夢もあろう。





公言する夢もあろう。





いずれにせよ



夢は




形を伴って



現実となる。







そして



夢と共にあり、



見つめるのは





将来であり





未来なのだ。











夢を描くには



未来を描く






知恵と



感性
が求められる。












もう一つ



忘れてならないことがある。





夢は


役に立つものでなければならない。




何らかの



役割を果たすものでなければならない。






そうでなければ




希望への架け橋とはなり得ない。








一人よがりの




独善的な夢は





やはり



悪夢と言えるだろう。








夢を見るのは



勝手であり





だれにも止められない。







それだけに





夢にも



責任を持たせなければならない。







夢とは




それだけ




重いものなのだ。









夢を諦めることなかれ。




夢を捨てることなかれ。







夢を抱き



夢を語り、



夢と共に活きる。






夢とは



かくも




美しい言葉なのだ。

Happy Aniversary Day at FREE TALK

2012年02月11日 | 仕事
今日のフリートークは



アニバーサリー・デイ。




多くの人たちの


アニバーサリーがあってます。



現在進行中




    結婚一周年のご夫婦



もちろん


便乗組も。




   これは完全にどさくさまぎれの便乗ですネ




    その横では、コーヒー講座が




    こちらも便乗だけど、何の?




   マリアへのプレゼント







   可愛いお子さんたちも






フリートークは


いつも



ハッピー・アニバーサリーですよ。





夢三様

2012年02月11日 | 
世の中には



夢に関していえば




大きく分けて



3種類の人間がいる。





① 夢があって、


  実現に向かって努力する人





② 夢があるけど、

  どうせできっこないと思って


  最初からあきらめている人




③ 夢のない人






感覚として



だいたい



1:5:4





1:6:3



って感じかな?





要するに



夢に向かって


具体的に挑戦している人は



ごく少数で、






過半数の人は



夢があっても





やりたいなー



とか




出来たらいいナー、



くらいしか思っていない。





そして



どうせ叶いっこない、



自分にはできないと





何もしないうちから



諦めている人の多いこと。







もう一つ


②のタイプで




特徴的なのは、





今の状況を変えたくないことがある。





つまり



変化することを恐れている。






今の状況より



悪くなることを



恐れている。








世の中には



また


2種類のものがあって




変わるものと



変わらないものだ。







だが



圧倒的に



変わるものの方が多い。





時間がかかろうが


かかるまいが。





万物は流転する



というし。






特に人の心は


移ろいやすい。



(※ 女心は


と言いたいが、


反発とひんしゅくを買うのが落ちだから


止めておこう)







自分が


どんなに変わりたくなくても




廻りは


否応なく



ドンドン変わっていく。





その変化についていけなければ



取り残されるだけだ。






現代社会は



その流れが



激しい、




激しすぎる。







夢もその一つかもしれない。



昨日描いた夢が




もう今日は


陳腐化してしまうことなんか



ザラである。








追うことに疲れ切った人も



あっちこっちにいる。


(ボクも

チョッと疲れ気味?)




夢を投げ捨ててしまった人も




どこそこにたむろっている。











新しいことに挑戦するときは



必ず


この恐怖が付きまとう。





つまり



失敗したらどうしよう



という恐怖だ。






起業する人には


必ずといっていいほど湧き上る恐怖心だ。







ハングリーだからこそ



人は何かを口にしようとする。






おなか一杯な時は




わざわざ食べもを探す気にはなれないものだ。








チャレンジする人は




常に



何かに飢えている。





飢餓状態にあるといってもいいだろう。






チャレンジ精神



ハングリー精神





車の両輪のようなものだろう。





この二つのスピリッツが揃って初めて



夢へ向かって走り出せる。











一方、




結構多くの人が




夢さえ持っていない




もしくは




何をしたらいいのか分からないでいる。








同じこの世に生を受け




どうして


こうも違ってくるのだろうか。







どうせ生きるのなら




③より②が



②より①の方が





生き甲斐があるように思うのだが…。





①の人って




③の人に



無理やり夢を持たせたがったり





②の人に




夢を実現するように働きかけたりするけど






大きなお世話なのかもしれない。





②の人も



③の人も





それなりに幸せだったりするし




①の人が



必ずしも


幸せになれるとは限らないわけだし。







人それぞれ、



夢が



あってもなくても





それぞれの生き方がるんだナー。



    <夢追い人のボヤキより>








【追記】




最近


多くの人のコラムに



オーストラリアのナースが聞いた



「死ぬ前に語られる後悔」トップ5



というものがある。




読まれた方も多いとは思うが



次の5つだ。



1. 「自分自身に忠実に生きれば良かった」 


「他人に望まれるように」ではなく、

自分らしく生きれば良かった」という後悔。


これがもっとも多いそうです。


人生の終わりに、

達成できなかった夢がたくさんあったことに気づくのだそう。


ああしておけばよかった、

という気持ちを抱えたまま世を去らなければならないことに、


人は強く無念を感じるようです。




2. 「あんなに一生懸命働かなくても良かった」 


男性の多くがこの後悔をするとのこと。

仕事に時間を費やしすぎず、


もっと家族と一緒に過ごせば良かった、

と感じるのだそうです。



.「もっと自分の気持ちを表す勇気を持てば良かった」 



世間でうまくやっていくために感情を殺していた結果、


可もなく不可もない存在で終わってしまった、

という無念が最後に訪れるようです。




4. 「友人関係を続けていれば良かった」 


人生最後の数週間に、

人は友人の本当のありがたさに気がつくのだそうです。


そして、連絡が途絶えてしまったかつての友達に想いを馳せるのだとか。


もっと友達との関係を大切にしておくべきだった、

という後悔を覚えるようです。




5. 「自分をもっと幸せにしてあげればよかった」 


「幸福は自分で選ぶもの」だと気づいていない人がとても多い、


旧習やパターンに絡めとられた人生を「快適」と思ってしまったこと。








ボクの場合




普段から



1 と 3 には



後悔しないよう


生きているつもりだ。







仕事や



幸せに関しては




取り方によると思う。







自分の心に忠実に



やりたいことをやっていれば






できるできないという


結果は別にして





2、4、5の後悔は




然程ないのではないだろうか。





世間の風当たりは


むちゃくちゃ強いけどね。







ということは





やっぱり



夢を持ち



夢を追いかけ





さらに



それを実現させることって





どんなに



難しく




稀有なことかが分かる。








それだけに


夢を持ち



夢を追いかける価値がある




のではないだろうか。








死ぬとき後悔しないよう





夢を持とう!



夢を追いかけよう!

可愛いおばあちゃん

2012年02月10日 | 人生
84歳の



おばあちゃん。






ほとんど毎日



「フリートーク」にお見えになります。




雨の日も



雪の日も。









そして


ボクの顔を見ると




いつもニッコリ笑って



「あなたに会いに来たのよ」


とおっしゃってくれます。







ずっと


英語の勉強を続けておられます。






だけど


いままで




文法中心に学ばれてこられたらしく





あまり


実践的な英会話は




得意ではないようです。







「フリートーク」



本来



外国人のスタッフ



売りなんですが、


(ボクは大体裏方です)






そのかたは



ボクをご指名されます。


(ホストクラブじゃないけどね)








ボクも



教えながら



一緒に勉強します。






主に



新聞や



雑誌、




インターネットのメルマガなどを使い、







時事問題など



結構難しい課題にも取り組みながら




英語で話をします。







一生懸命です。





ボクも


とても勉強になります。





教えることは



学ぶことなんだナー、





ということをつくずく実感します。







その方の



昔話を聞くことも



とても楽しみです。






嬉しそうに


お話しされます。









本来


海外旅行好きで




いろんなところに行かれていたらしいけど





数年前に



ご主人が亡くなられてから


まったく行かなくなったそうです。







せっかくの英語を生かして




クルーズの旅などを




お勧めしてみました。







でも、



一人だし、


荷物が大変とおっしゃって




諦め顔です。







いたって元気だし、


社交的だし、




英語もできるので




もったいないと思います。







ボクでよければ



お供しますよ。





荷物も持ちましょう、





って言ってみました。






そしたら


また


嬉しそうに




ニッコリされます。







目的が明確になれば



意気込みも違ってきます。





やる気が湧いてきます。








2時間たっぷり


お勉強した後





必ず聞かれます。





「あなたは



次、いついらっしゃるの?」



って。






ボクが



朝からいる日は




決まって



11時のオープンに合わせて



来てくださいます。







ボクに恋されているのかな



なんて




思わず


自惚れてしまいそう。






でも



どうぞ


してください。






『恋』 は



元気と



若さの源です。









ますます


元気で





活き活きと


若々しくなられる姿を見るのは



とても嬉しいものです。







そして



またぜひ



海外旅行を実現して戴きたいのです。








こうしたお客様が


一人でも



増えていただけると




ほんとに


オープンしてよかったな、




頑張って続けなきゃ



って心底思えてきます。






やる気と


元気と






教え
を戴いているのは




ボクのほうかもしれません。







人は


こうして




支え、


支えられしながら




進化し


成長を遂げ、




生かされているんでしょうね。








ほんとうに



ありがとう!



おばあちゃん。








これからも




ますます元気で



長生きして



一緒に海外旅行しましょうネ。

老いらくの恋

2012年02月09日 | 
エ~イ!


こうなったら



恋話4連チャン!で



行ってみyo-。









よく



「老いらくの恋」



って言うけど




幾つから



老いらくになっちゃうんだろう。






辞書には






68歳の歌人川田順が


弟子と恋愛、家出し、



「墓場に近き老いらくの、恋は怖るる何ものもなし」


と詠んだことから生まれた語。



とある。





ならば



68からなのか…。






「生涯最後の恋」




と定義(?)する人もいるが






「最後の女」と一緒で



どれが最後か




死んでみなきゃァ



分からないだろう。








シニアと呼ぶ年齢にも





ここんとこ


ばらつきがあるよね。






ちょっと前までは



60歳以上みたいな感じだったけど





最近


65歳以上を



高齢だとか




シニアだとか呼んでるみたい。






いっそ



70歳以上にすれば





高齢化率も



ぐっと下がるだろうし。






逆に




60歳以上を高齢として



統計取ると




高齢化率が


50%近くになって



国民がパニクルかもしれない。






現在63歳前後の



団塊の世代は





結構元気だから





いっそ



シニアを



70歳からにすれば





日本もまだ若いんだ



なんて


元気づくかもネ。












平均年齢にすれば




日本人は


現在45歳ぐらいだ。





それが


20年後には50歳になるという。







東南アジアアなど




国民の平均年齢が



20才代の国に比べれば





確かに



日本は


老人天国(地獄)に見える。





巣鴨だけで見れば


70才かな?





でも



渋谷じゃ



20代かもしれない。







つまり



若い国って





渋谷みたいなものなんだよね。




人口約900万人のホーチミンなんて


若さムンムンで


活気があっていいよね。





20歳前後の


若いカップルが




夜通し



バイク二人乗りで



クラクション鳴らしながら


走り回っている。





暴走族とは


ちょっと違うけど。







だって



125の


スクーターが主流だし。










またまた


話が


大幅にそれてしまったけれど









実は



84歳のご婦人から



恋をされてるらしい。







これは





もう



「老いらくの恋」


といってもいいんじゃないだろうか。







前置きで長くなっちゃったから



続きは




また


明日~ァ。

恋の形、恋の味

2012年02月08日 | 
ネタ


3連チャ~ン。






人生と同じで



の形は



の数だけあるだろう。




一つとして同じものはない。






だが



誰にとっても







甘く、


ほろ苦い
のではないだろうか。





つまり



の味は



さほど変わらない?








長年のメル友で


フリーランス・イラストレーターの



CS女史(東京在住)がいる。







彼女は



とっても


アトラクティブで、


ハイソでエレガントな女性だ。


(まだ直接会ったことはないが)






      大人の絵本を書かせたら随一だ




ボクは彼女の絵の


色合いとタッチが大好きだ。






多くの男性を泣かせてきたことは


想像に難くないが、





ずっと独身だった彼女が


最近こう綴っている。


(彼女は、


詩人でもある)






「一匹オオカミ


いつもひとりで 
ひとりが心地よくて

ひとりを望んでると思ってた

でも本当はそうじゃない

仲間が欲しかった

寄り添うだけでいい

触れてるだけでいい

ただそういう

心が触れ合える仲間が欲しかった

全部を敵にまわしても

その人の為なら何でも出来る

そういう気持ちを

本当は誰よりも欲しがっていた」











「恋」ですね。


いいナー、相思相愛で。


ボクは片思いなんで。





というボクのコメントに、






かじさん>>本物の 恋 ですw



と、


臆面もなく答えるあたりは




さすがァ。







彼女は



彼女自身の絵本通り





少女の心を



ずっと持ち続けている。






幸せになってほしい。










ところで



「やっぱりおおかみ」


という



佐々木マキさんの絵本がある。








この世に残された


たった一匹のオオカミの子が





仲間を探しに旅をする物語。





ウサギも


ヤギも



豚も、




鹿も



牛も




飛行船すら




仲間を見出すことはできなかった。





その都度


オオカミは



「けっ」 っと言って



離れて行く。





それは




取り方はいろいろあるだろうが、



孤独体験とか、




私とは何者かという


アイデンティティにかかわる内容になっている



ようにも取れる。








してみれば



っていうやつは




自分を探す



自分を決める




一種の『旅』 なのではないのか。







恋(旅)  で



巡り合った相手に照らし合わせて





自分を再確認する。






相手との差異を知り、





その相手を認め、



受け入れ





恋(旅)は進化を遂げ



成就していくものではないだろうか。





それは



常に




美しい夢を伴う。





※(余談挿入)


最近

ボクは

イイ夢ばかりを見る。



目覚めた時には

まったく覚えてないけどネ。



ただ、

暖かいベッドの中に


いつも

心地よい温もりだけが残っている。



きっと



しているかだと思う。









さて


話を戻そう。






日常がであれば





なおさら



に飢え、





を求め



に出会う。





そして



自分が何者かを知り




孤独を噛みしめながら、



また



へと帰っていく。





「旅う」




と書いて




「さすらう」



と読む。





だから



旅人





永遠の 『さすらい人』



なのかもしれない。








この絵本でも



仲間を探しす


オオカミの行動は





結局




孤独の確認のための旅になってしまう。






だが


その旅で




自分の優位性を確認し、



孤独への耐性が確立していく。






もう、


おおかみとして生きていくしかない



と気づいたとき、



「そうおもうと なんだかふしぎに 


 ゆかいな きもちに なってきました」




と結ばれている。









【補足】


読んでない方のために


『やっぱりおおかみ』


内容を下記しておきますね。





*注 《》()内の文は、
原文にはありません。
『二重括弧』「括弧」内が、
絵本原文にある文です。




『おおかみは もう いないと 
 みんな おもってますが
 ほんとうは いっぴきだけ
 いきのこって いたのです。
 こどもの おおかみでした。
 ひとりぽっちの おおかみは
 なかまを さがして
 まいにち うろついています』

《うさぎの町をうろつくおおかみ》
(おおかみを見て 逃げ出すうさぎたち)

「け」
(とおおかみはいいました)

《やぎの町にもやってきました》
(敬虔なやぎたちは教会へ)

《ぶたの国のバザールでは》
(家族や仲間、すごく賑やか、おおかみは羨ましそう。




 おおかみをみるとそそくさと立ち去ります)

「け」
(とおおかみはいいました)

《鹿のくにの住人は、森林公園で楽しんでいます》
(おおかみは、もしかして、鹿になれたら…と考えます)

(おおかみは、遊園地にやってきました。誰も乗っていないメリーゴーランドがあるだけ。おおかみはつぶやきます。
「おれに にたこは いないかな」)

《牛の町にやってきたのは、夕方。》
(町には誰ひとり歩いていません。窓から覗いてみると、夕食時、一家団欒)




《夜になって、おおかみがやってきたのは墓地》
「おれに にたこは いないんだ」
(おおかみが墓地に寝転がっていると、幽霊が。でも幽霊でさえ仲間といっしょ)

《ビルの屋上、飛行船が繋がれています》
『やっぱり おれは おおかみだもんな。
 おおかみとして いきるしかないよ』
(飛行船は誰も乗せずに飛んでいきました)

「け」
(とおおかみはいいました)

《おおかみは町全体を眺めました》
「そうおもうと なんだかふしぎに 
 ゆかいな きもちに なってきました」