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超親日国家 ベトナム

2014年05月17日 | 国際
ベトナムと中国の関係が悪化している。

言わずと知れた南シナ海での領土をめぐる対立だ。


暴動に発展し、中国企業が放火されたりしている。

日本企業もそのとばっちりを受けているらしい。


これはあくまでもとばっちりであり、

ベトナム人が日本企業を狙うわけはない。


ボクにも経験がある。


大学紛争に過激派としてしていたボクは、

ゲバ棒を持ってデモしていた時、

投石を繰り返し、火炎瓶を投げた。


だが攻撃の対象はあくまでも大学であり、機動隊であったにもかかわらず、

興奮して民家のガラスを次々に叩き壊したことがある。


興奮すると見境がなくなるのだ。

そして、スカッとして気持ちが良かった。

これも若さがなせる技だったのかもしれない。


申し訳なかったと思っても後の祭り。

こういう愚行を繰り返していたから民意が離れていったのだ。


そのうち、内ゲバ、リンチ、テロへと過激さがエスカレートしていった時、

ボクも逃げるようにその活動から手を引いた。


その反省もあって、

当時(1970年代)の「ベ平連(ベトナム平和連合)」に加担して

反戦運動に携わることになっていった。


ボクがベトナム関わったのはそれが初めてだった。

だがそれから2008年、JICAのボランティアでベトナムに行くまで、

約35年間、ボクの脳裏から全く消えていた存在だった。


2008年、JICAを機に、

まるで当時をフラッシュバックするかのように

それ以降ボクはベトナムの魅力に取り憑かれていったのだ。


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ベトナムではおもに工業団地が狙われているようだが、

そこには各国の企業が混在しているので

少なからず影響は出るだろう。


流れ弾のようなものだから、注意は必要だが、

日本人であれば普段の生活には危険性はない。


ベトナム人は極めて親日的で、

日本人をリスペクトしてくれる。

(英語ができないことは馬鹿にしているが)


それは今まで日本人が培ってきた長い歴史がそうしているといえよう。



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そこで、

今起きている事情を知るにはベトナムの歴史を紐解かねばならない。



ベトナムの歴史を一言で言うとなれば、

支配と支配からの反抗の歴史と言える。



紀元前111年から、1千年間のあいだ中国により支配され、

その後も元による進行、フランスによる統治、

日本軍と続き1945年の独立宣言までの長い間、

支配とそこから逃れるための戦争の繰り返しの歴史だった。


1945年の日本軍の降伏により、ベトミンが一斉蜂起、

ハノイを占領し、9月2日ホーチミン主席によりベトナムの独立宣言がなされた。


だが、同年フランス軍によるサイゴン占領、

1946年ベトミンとフランス軍の武力衝突がハイフォンで起こり、

アメリカの介入で本格的なベトナム戦争へと入って行く。



1975年4月30日北ベトナム軍のサイゴン占領によりベトナム戦争が終了するまで、

悲惨な泥沼の戦いが続いたことは周知の知るところだ。



だが、これで平和になったわけではない。


ベトナム戦争(1965年 - 1975年)終結直前、

ベトナムの隣国カンボジアでは1975年4月にロン・ノルの親米軍事政権が倒れ、

1976年1月にポル・ポト率いるクメール・ルージュが政権を奪取し、

民主カンプチアの成立を宣言した。


しかし間も無く大量虐殺を伴う恐怖政治を行うようになった。

また、ほぼ同時に成立した統一ベトナムとの間では対立が激化し、

1978年1月に国境紛争によって国交を断絶した。


ベトナムは

カンボジアから亡命していたクメール・ルージュの軍司令官ヘン・サムリンたちを支援するという形で

カンボジアに侵攻し、

1979年1月にプノンペンを攻略、

ヘン・サムリンによる親ベトナムのカンボジア政権を樹立した。


ポル・ポトは密林地帯に逃亡しポル・ポト政権は崩壊した。



その時ポル・ポト政権には中国が後ろ盾となっていた。

またベトナムが中国の反ソ政策に同調しない態度だった事に対応し、

当時、ソ連への敵意が強かった中国(小平と華国鋒)は

ベトナムをソ連の手先と見なし開戦を決断する。



1979年2月17日、中国は「懲罰行為」と称して、

56万の軍をベトナム国境に集結させ威圧し、

雲南と広西からまず10万の陸上軍によりベトナム北部に侵攻した。


この時期、ベトナム軍主力はカンボジアにあり、

北部には正規軍3個師団ほど(約3万人)と民兵しかいなかったが、

この民兵はベトナム戦争において米軍に勝ち

ベトナムを統一した主力であったために、

彼らは実戦経験が豊富であり、

さらにベトナム戦争時の大量のソ連製や中国製の長距離砲を含む各種の武器、弾薬も残っていた。


まさに精鋭の民兵だったのだ。



中国にとって朝鮮戦争以来の大規模な対外作戦となった本戦争は、

ベトナム北部の一時的な制圧という政治目的こそ達成されたものの、

純軍事的には悲惨な結果に終わった。


中国軍は、占領していた省から撤退するにあたり、

非人道的な焦土作戦を繰り返してベトナム領から撤退した。

その後中国政府は内外に向けて戦争勝利を宣伝する。


ここでも嘘で塗り固められた中国の体質が覗える。


だが、皮肉にも

この戦争の後、中国において軍の近代化が最優先の国家目標とされることとなる。

こうして中国は、軍事大国、経済大国へと一気に上り詰めるのである。



中越関係はその後も改善せず、

1979年から1989年にかけて中越国境紛争や赤瓜礁海戦(南シナ海)などが引き起こされ、

敗れたベトナムは、中国にとって有利な条件での国境線画定を余儀なくされた。

結局、中国の支配地域が増すこととなった。


    尖閣もこうなる!100ミリ砲でベトナム領を無理やり奪い取った中国!

   もう一度載せておこう。 見ていない人はぜひ見て欲しい。


冷戦終結後両国関係はおおむね安定しているが、

ベトナムでは自国への侵略戦争として、

中国では一般的に中越戦争を裏切り者

(ベトナムは中国の支援のもとで対南ベトナム・アメリカの戦争を戦った)への侵攻と認識され、

また旧南ベトナムの経済を支配していた華僑への迫害や、

ベトナム難民(ボート・ピープル)が20年に渡って香港の深刻な社会問題となっていたため、

中華圏でのベトナムのイメージは、

中越戦争以降悪いままである。



大陸国境線は2000年代に入って画定したが、

中国の侵攻により占領された西沙諸島および南沙諸島の国境線は画定されていない。



長くなったが、以上が今回の紛争の原因である。