カッパのロードスター

幌を開ければFeelin`good。カッパーレッドの
路渡☆くんとの楽しいドライブ日誌。

西国三十三所巡礼 第三十三番札所 谷汲山 華厳寺

2013-09-28 12:51:04 | 西国三十三所巡礼
思えば、すでに四国八十八ヶ所巡礼も結願されていた7駆さんを追いかけて・・・
2011.6/19、第一番札所『那智山 青岸渡寺』を皮切りに始めた 西国三十三所巡礼。
番外3寺を含めた36番目のお寺は、『谷汲山華厳寺(たにぐみさん けごんじ)』
巡礼の終着駅、西国三十三所満願霊場。これにて無事、結願(けちがん)達成です♪



華厳寺は33所で最も東に位置する岐阜県にあります。
Googleマップでルート案内を試したら「地点が道路から離れているか、サービス
提供範囲外の可能性があります」って・・・w

県道40号に山門前って交差点があり、そこに建っている総門をくぐって行くと



待ち構えているのが、駐車場の呼び込み。これってあまり好きじゃないんですよね
京都の郊外のお寺でもよく見ますが・・・
お寺の駐車場(無料)もあるかもと、確かめるため先まで行ってみたら何と!
日・祝日は「これより先、通行止め」だとか。結局「たかい400円」の駐車場に
停めました。10:30ですがまだ充分余裕あり700台収容の町営駐車場でした。
ちなみに平日ならこの先の無料駐車場に停められるはずですw



以前「近畿 道の駅スタンプラリー」に挑戦しましたが、範囲はほぼ同じですね。
近畿エリアなら京都市はほぼ真ん中、何処へ行くのも楽です。道の駅の場合は、
414日で101拠点走破達成!できましたが、巡礼はそんなに甘くなかったです。
歩き、特に難所も多いので・・・



「観光プラザ」と銘打たれた小屋、ここから門前町を歩いてお寺を目指します。



1kmほどもあるという門前町通りには、色んなお店が軒を連ねていました。


秋の味覚をならべたお店や、秋の石?菊花石と言うそうです。菊の花のような
模様が特徴。この辺りの名産なんだそうで、石を売る店も多かったです。


門前町ならでは?それらしいお土産物屋さんも・・・

そうそう、このお店は見逃せません。



「ういろ 三枡屋」
名物なんだそうで、行列ができ、早々に売り切れることもあるとか。
しめしめ、行列はできてません。でも帰りに通りがかった時にはもう・・・


旅館や食べ物屋さんも。さすが巡礼の門前町って感じかな。


さて、長い門前通りを抜けると、立派な二層の仁王門に突き当たります。



いよいよ満願霊場の入口です。









とてつもなく大きな草鞋(わらじ)が奉納されています。



運慶作と伝えられる金剛力士像(仁王像)、格子が太くて見辛いですが。


仁王門をくぐると、石畳の真っ直ぐな参道。まだ本堂は見えません。




仁王門を入ってすぐ右手には

[放生池(ほうじょうち)]と[地蔵堂]


[三十三度石]

参道の真ん中には、三十三度石、百度石、焼香堂。両脇には百八燈が並んでいます。


[百度石]と[焼香堂]。 石畳の参道と両脇に並ぶ[百八燈]。



[一乗院](上)と、[法然院](下)

参道の左右には塔頭や堂宇が建ち並んでいます。


なかなか見応えがあるお寺でした。


[明王院]

明王院には、荼枳尼天(だらにてん)や阿弥陀如来像が祀られています。



他にも・・・

[白象?]
大人の方は乗らないようにね。

ゾウさんの隣り、水琴弁財天のところには「水琴窟」があって、

[水琴窟]
よほど心地よい音がしたのでしょうか・・・(^_^ゞ



[延命地蔵尊]


ここにも[延命地蔵尊]、そして[念仏石]謂れがあるのでしょうが・・・



[十王堂]



長~い石段の先に本堂がやっと見えてきます。
ここの石段は、整っていて勾配もそれほど苦にならなかったです。


三界万霊・・・ん~、難しいです。ネット検索してもいい加減な間違った解釈が
いっぱい出てきます。仏教用語の本来の意味は、よくよく勉強しないとね。


左が観世音菩薩、右が勢至菩薩の大きな菩薩像があります。


[一切経堂](上)と、[英霊堂](下)


[三十三所堂]


最後の石段を登りきると、すぐに本堂です。



よいちょ、よいちょ・・・頑張った子には

こんなご褒美が待っています・・・望んではいなかったでしょうが。(^_^ゞ



[本堂・拝所]

お寺の創建は1200年以上前、延暦17(798)年です。ご本尊は秘仏ですが
幾度かの戦火により伽藍も焼失しているので、当時のものかどうかは?

縁起はと言うと、奥州会津の大口大領(おおぐちだいりょう)という人物が
御告げにより霊木を手に入れ、それを持って都の仏師に十一面観世音を刻んで
もらいその帰路、観音像が杖、笠、草鞋を履き自ら歩き出しました。
「遠く奥州の地には行かない。我、これより北五里の山中に結縁の地があり、
其処にて衆生を済度せん」と言うと、この地で立ち止まり突然重くなって
動かなくなります。大領はここが結縁の地だろうと思い、ここで修業をしていた
豊然上人(ぶねんしょうにん)と力を合わせて山谷を開き、堂宇を建てて
尊像を安置しました。
これにより開祖は豊然上人、本願は大口大領とされています。
なおその際、堂近くの岩穴より油が湧き出し、燈明に使ったことから「谷汲山」の
山号、地名になったようです。



拝所は薄暗い上に線香の煙が充満していました。






本堂の正面、両側の柱には[精進落しの鯉]と言われるものが、阿吽一対あります。
満願参拝を済ませた巡礼者がこれに触れ、これまでの精進生活から解放されて
普通の生活に戻るための習わしのようですが・・・

ところで「精進」と言うのも仏教用語。本来は修業につとめはげむとか、
悪を断ち善を行うという意味。落としてしまってはいけないものですね。(^_^ゞ
「精進料理」と言うのがありますね、肉食はいけないと誤解されている仏教には、
「殺すまい、盗むまい、不倫すまい、嘘をつくまい、酒を飲むまい」の五戒が
ありますが、肉を食うまいとはされていません。ただし酒は駄目、放逸になり
精進を妨げる大きな要因になります。ただ不飲酒戒を守らぬ者でも阿弥陀さまは
救って下さるのだとか・・・フレキシブルな宗教ですね♪



[賓頭盧尊者像]



[納経所]
満願の寺ならではでしょうか、御朱印も3枚セット。(^_^ゞ
現在(本堂・観音堂)、過去(満願堂)、未来(笈摺堂)の3つになっています。






○宗派:天台宗 ○開基:豊然上人・大口大領
○御本尊:十一面観世音菩薩 ○創建:延暦17(798)年

御詠歌
世を照らす 仏のしるし ありければ まだともしびも 消えぬなりけり(現在)
万世の 願いをここに 納めおく 水は苔より 出る谷汲 (過去)
今までは 親と頼みし 笈摺を 脱ぎ納むる 美濃の谷汲 (未来)


これにて西国三十三所巡礼、結願ですが・・・お寺の記事は後編があります。(^_^ゞ



2013.9/22、谷汲山 華厳寺にて。

ショードー買い

2013-09-24 19:14:41 | クルマねた
ついつい買ってしまった、711で。



「頭文字D」って、それほど興味も無いのに・・・

黄色のRX-7 Type-R FD3Sが目に留まり。




我が家のガレージにやって来た「きいろのFD」、どうなったのだろう?






そんなことを思い出していたら、無意識にカゴの中に・・・(^_^ゞ

ロードスターNAもあるというのが分って、また買いに走った。



『ダイドーブレンド×頭文字(イニシャル)D』コラボキャンペーンだそうで
10種類、プルバックでドリフト走行。え~、対象年齢は60歳以上
・・・あ、6歳以上か!(^_^ゞ


ついでにコレも買ってしまいました。



ジョージアオリジナル ヨーロッパ名車シリーズ
「BMWx京商 Mシリーズコレクション」こちらはダイキャスト製ミニカー。
この前は確かアルファロメオシリーズだったはずですが、直ぐに売り切れたのかな?
BMW Z4 M ロードスターに思い入れは無いけれど、ついつい・・・


そうそう、河童の長老にわざわざお出まし願ったのは、ジョージアと言えば
コカコーラ。
「平八工房、河童の長老」ご自慢の甲羅(こーら)は・・・



ホテル風味?のワンプレートランチ

2013-09-21 18:34:45 | ランチ/カフェ
岡崎通二条の交差点、北東角。道を隔てて南は京都市動物園、斜め向いに
京都市美術館。ちょっと北に歩けば平安神宮という場所に昔からあるレストラン。



最初は「伊達」という店だったと思います。松方弘樹がオーナーだと聞いたけど。
随分長い間、やっていたようだけど入ったことは無かった。閉店した後も建物だけ
残っていたのを5、6年前に「美先(みせん)」と言う店がオープン。
京料理を出すお店で、本体は花背の「美山荘」?。本格的で、予約も取り難いほど
評判だったようだが、今年4月に店を閉めて柳馬場六角下るに移転されました。
この店の時も何故か入り難い店構えで、行こうとも思わなかった。

その後、今年7月にオープンしたのが「京都ホテルオークラ ザ・ガーデン岡崎」



創業125年を迎える京都ホテルオークラ、その直営レストランとなりました。

基本的な建物は「伊達」の頃から変ってないと思いますが、入口が西側になり
オープンテラスなども備えられ、開放的な感じにはなりました。





店内も開放的?時間的にお客さんが少なかったのかな・・・
サービスはまさにホテルのレストラン。店先にはドアマンも居るし、この時は
明らかに客数よりウエイター、ウェイトレスさんの方が多かった。(^_^ゞ

ステーキコーナーは別室、中庭を眺められる専用鉄板焼カウンターで。
ダイニングは和洋食、フレンチディナー。カフェ・スイーツもあり
ディナー、ランチも豊富なメニューが用意されています。



ランチメニュー「岡崎プレート」


ビール(もちろんノンアルコール)は、別注文です。

デザートも欲しくなったので・・・




「京都ホテルオークラ特製ケーキ」


「吉野葛の水まんじゅう」











このお店を東に行けば、うどんすきで有名な「権太呂 岡崎店」
全然有名じゃない「木の館」もありますよ。
北へ上がって行くと、いつも行列ができている「山元麺蔵」「岡北」さん。
もう少し先にはこれまた行列ができる洋食屋さん「グリル 小宝」
ちょっと曲がれば「ろくじあん」と、見渡せる範囲だけでもいろいろ・・・

さて、スタートしたばっかりのここはどうなるかな?

お土産も買ってしまった・・・

旅の想い出に?「Suitcase」ならず「Seetcase」・・・英語の駄洒落?(^_^ゞ




2013.8/25、ザ・ガーデン岡崎にて。

爪痕?

2013-09-17 12:48:51 | 今日のボソッ
台風18号。久しぶりに京都市内も台風の影響で被害が出ました。

実はこの連休、私らも三重県桑名の方に宿を予約、小旅行のはずだったのですが
土曜日ぎりぎりまで待っても台風の進路は変りそうにないので、キャンセル。
降り続く雨を恨めしく思いながらの自宅籠城となったのですが・・・



昨日早朝に風雨のピークは過ぎたのですが、サイレンの音やヘリの爆音で
何やら騒がしい・・・
TVの報道では嵐山がエライことになっている。

自宅の周辺は、雨も風も大したことなく、被害といえばお向かいの「よしず」が
バラバラになって飛ばされたくらい。ま、古いものですから普通の風でも(^_^ゞ

台風一過、天気も良くなり爽やかな日和、ドライブにでも行こうかと呑気に。
ただ、高島屋でやっている「杉山寧展」の最終日だったので、夕方になり
四条河原町まで出ることにしました。


「団栗橋から四条大橋を見る」(17:25)

鴨川ですが、報道で見た映像より4、50センチは水位が下っているかな。
午前中はまだ河川敷の遊歩道も水に浸かっていたのに、この時間はもう通れる
ようになっていました。が、普段とは明らかに違う鴨川です。








「四条大橋、向こうに見えるのが三条大橋」(17:29)

川床(かわゆか・納涼床)の支柱に絡んだ草が、朝の水位を物語っています。
嵐山のような被害が出なかったのが幸い、川床も近年は建築法とかで
頑丈に組まれているので、ビクともしていない様子でした。








数十年に一度あるかないかの・・・運用を開始したばかりの初の特別警報でした。
嵐山に住まわれている方の話では、7回も8回も緊急通報の電話が掛かってきたとか。
天災列島、何が起こるか分りません。
緊急時のシステムは少しづつ充実してきているようですが、それでも犠牲者が
出てしまいますね。不幸にも亡くなった方、負傷された方、被害に遭われた方
お悔やみ、お見舞い申し上げます。




観光で来られていた方も大変だったのじゃないかな、鉄道網もストップ、大乱れ。
道路状況も酷いものでした。特に東に向かう道路はマヒ状態。
実は私も自宅に帰るのに、国道1号線がマヒしており、う~んと遠回りして帰宅。
名神高速も上りで不通ヶ所があったり国道も逢坂山でがけ崩れ、片側通行だとか。
渋滞、いや動けないままの車のナンバーを見たら7割以上が他府県ナンバーだった
かなり遠くからも・・・帰れたのかなぁ、大変だったでしょうね。


外国人観光客の方もこの鴨川をパチリ?
・・・いつもこんな濁流じゃないですからね~、数十年に一度あるかないか(^_^ゞ


「松原橋より、車内から」


鴨川、いつもはこんな流れです。2年前の桜の季節、同じ位置じゃないけれど。

左)荒神橋周辺?  右)見えているのは五条大橋。

『普段の嵐山の様子』

近江風土記の丘に明治が・・・

2013-09-15 16:08:10 | 洛外うろうろ
1966年から文化庁が実施している広域的史跡保存整備事業。
遺跡及び歴史資料の保存及び活用を目的として設置された史跡等の遺跡を中心とする
野外博物館・公園であるとともに、収蔵・展示するための資料館の設置等を行い、
史跡整備と資料館の二本立てで遺跡と遺物をともに公開しようとするものである。
・・・なんだそうで、全国に16ヶ所(2007年現在)あるとか。

今回行った「文芸の郷」は、歴史公園「近江風土記の丘」の中心的な施設という
位置づけのようです。
「安土城考古博物館」を中心に、2000年前の農耕集落跡「大中の湖南遺跡」
「安土瓢箪山古墳」「観音寺城跡」「安土城跡」の史跡で構成されている。

ま、そんなことはどうでもいいので、気になったところをチラッと散策・・・


『旧柳原学校舎(きゅうりゅうげんがっこうこうしゃ)』

この建物は、明治9(1876)年に高島郡新儀村(現高島市新旭町)の
初等科小学校として建てられ、この地方では他にさきがけ洋風を取り入れた
学校建築物であるとされ、現存する県下の学校建築としては最も古いものです。
明治9年といえば、日本最後の内戦、西南戦争が起きる1年前ですもんね。

30年間、学校として使われた後、地区の区長事務所として使用されていました。
昭和34(1959)年に擬洋風建築としての価値が認めら県文化財の指定を受け、
昭和45(1970)年に近江風土記の丘の建設に伴い現在地に移築されたものです。
文化財に指定されなければ残らなかったといわれるほど修理前は老朽破損が
酷いものだったようです。



1階が教室、2階は事務室に使われ、特徴的な3階部分の塔は「太鼓楼」。
チャイム代わりに太鼓を打ち鳴らしていたようです。(^_^ゞ
内部も公開されているのですが、16時まで。私が行った時にはもう閉まっていました。
2階は外観から想像できないような畳敷きの和室、1階は机に椅子で、当時の
子供たちにとってはモダンでハイカラな環境だったようです。

もともと太田神社境内に建てられた小学校で、神社の社務所と合体したような
部分もあり、とても奇異で希少な建築物です。
建てたのは地元の大工の棟梁、清水吉平だということで、京都などに出向き
洋風建築を見聞き、勉強されたのでしょうね。
瓦屋根に漆喰の外壁ですが、入口はアーチ型に、西洋の時計台に見立てた太鼓楼。
鎧戸のような窓やベランダ回廊、淡いブルーの配色も当時の棟梁が精いっぱい
表現した“文明開化”だったのかも知れませんね。





これは明治以前のものですが・・・


道標には「柳緑花紅 法名未徹」「みきハ京ミち」「ひたりハふしミみち」と
3面に文字が刻まれており、もとは東海道と伏見街道の分岐点(大津市追分町)に
あったものだそうです。
「柳緑花紅」とは春の景色の良いさまを形容している漢詩だとか。

大津米屋中が建てた「逢坂常夜燈」、東国から東海道で上洛する際、
最後の関所があるのが逢坂山。山城・近江国境でもあります。

 これやこの 行くも帰るも分かれつつ 知るも知らぬも逢坂の関(蝉丸)
・・・多くの人の出逢いと別れの分岐点になっていたようですね。

 夜をこめて 鳥のそら音ははかるとも よに逢坂の関はゆるさじ(清少納言)
・・・逢坂の関所がかなり厳しかったことを喩えにしているようです。

百人一首にはこの二首の他、三条右大臣が詠んだ
 名にし負はば 逢坂山の さねかづら 人に知られで くるよしもがな
と言うのもあります。このように百人一首に三首も出てくるほど昔の人にとっては
京都の出入り口として、避けては通れない要所だったのでしょうね。

〈Google Mapより〉

国道1号線にある関所跡、今は石碑だけですが
以前はここに大津署の逢坂山検問所があり、よく検問をしてましたよ。(^_^ゞ




この常夜燈は「外宮長虹籠」。参宮常夜燈としてはかなり古いものだそうです。
右の写真は、東海道に設置されていた「車石」です。これは京都周辺の街道などに
敷設されたもので、荷車がスムーズに通れるように二条の凹みに車輪を嵌める
ようになっています。特にぬかるんだ峠道などでは効果絶大だったと思われます。


さてもう1軒、明治の遺構に戻ります。


なんともお洒落で瀟洒な洋館建て♪ これ、派出所なんです。
「旧安土巡査駐在所」
明治18(1885)年に、常楽寺交番所として安土駅に近い十字路の角地に建って
いたのを移設したものだそうです。昭和40(1965)年まで使われていたとか。
これも旧柳原学校舎と同じく、地元の大工が造ったものだとか、平成10年には
「国土の歴史的景観に寄与されているもの」として登録有形文化財になりました。
よい仕事をしたものですね・・・(^_^ゞ



建物は木造で五角形平面の総2階建て部分と下屋部分からなり、外観は柱を塗り込む
大壁造の白漆喰塗で、屋根は桟瓦葺。交互に化粧積みされた隅の切石が印象的です。
玄関は洋風の扉にアーチ型の庇を設け、上部はペディメント風の三角形の切妻。
中央に官憲の紋章?1階、2階上下に揃えて配置された両開きのガラス窓など
随所に当時流行した洋風建築の意匠が見られます。
ここも16時までなら内部も公開されています。旧柳原学校舎もそうですが、
畳敷きの部屋、床の間まであるようです。外観は西洋文化を取り入れつつも
まだ生活習慣までは変えられなかったのでしょうね。




それと、旧柳原学校舎と旧安土巡査駐在所、共通しているのが住民の寄付によって
建てられたということ。この時代の住民、国民の気概を感じます。

2軒とも小さいながら洋風を模した公共建築で、内部までほぼ完全に当時の姿が
復元保存されている遺構は非常に少なく、近代化の歴史を伝える建造物としても、
人々の歩み、時代を検証するに貴重な資料だと思われます。

また機会があれば内部までゆっくり見てみたいものですが、何せこの日は
暑さと観音正寺の石段で体力消耗、ふらふらのヘトヘト・・・
散策を打ち切って『安土城考古博物館』へ戻ります。



この施設「安土城・・・」と名前にありますが、
安土城の展示はあまり期待出来ないようです。ほとんどが弥生時代や古墳時代の
古代遺跡研究の展示だとか・・・
私らが行った時はもう閉館していましたが、館内の食事コーナーは営業中だったので。



ここのメニューにも「尾張英傑カレー」だとか「信長珈琲セット・抹茶セット」
なんてのがありました。
信長公は下戸で甘党だったとかで、珈琲や抹茶のセットには、白玉団子にあずき、
黒豆餅に黒蜜ときな粉、金平糖が付いているようです。

とにかく暑かったので、私らはこれを・・・





パイプオルガンを備えたバロック調の音楽ホールである「文芸セミナリヨ」(上)
総合体育館、多目的ホールとしてスポーツや文化交流の場「あづちマリエート」(下)
「セミナリヨ」と言うのは、イエズス会によって日本に設置された初等教育機関
のことで、信長の保護のもと安土に作られ、ラテン語や文化を伝えたとされます。
ちなみに同じ時期、長崎にも作られています。
ここのセミナリヨは本能寺の変後、安土城炎上の際、共に焼失したようです。



やっとこの施設群の意義が少しは分ったような気がしますが・・・




2013.8/15、西の湖の夕景。

安土城天主、信長の館。

2013-09-10 17:58:09 | 洛外うろうろ
『文芸の郷』は田園風景の中、広大な敷地に大きな施設群が建ち並んでいます。
しかもその建物が少し変っているので、違和感ありあり・・・(^_^ゞ



よく分らない施設群なので、HPによると

 一見してローマ風の建物が建ち並ぶこの「文芸の郷」は、ヨーロッパ文化交流の国際都市としての安土桃山時代の象徴として誕生しました。
スペイン・セビリア万博の日本館メイン展示物として復元された安土城天主を展示している信長の館やパイプオルガンを備えたバロック調の音楽ホールである文芸セミナリヨ、総合体育館としてまた多目的ホールとしてスポーツや文化交流にと幅広く活用できるあづちマリエート、四季折々の味を生かした文芸の郷レストランなど、歴史と文化に出会える場所です。


・・・ということです。まだよく分ってませんが。(-。-;)
とりあえず、お腹が減っていたので(遅いランチです3時半)レストランへ。



敷地内の施設それぞれの中にも食べるところはあったのですが、レストランとして
独立しているのはここ「文芸の郷レストラン」だけ。
時間が時間なので、名物メニューの「戦国焼き定食」「安土御膳」などは売り切れ。
ましてや10食限定の「信長ハンバーグ定食」なんて・・・ネーミングはともかく
京都「はせがわ」まで修行に行かれた直伝の味。ってことで期待出来たのに(ザンネン)



「信長そば」と「カレーライス」。注文できたのはこんなもんでして、お蕎麦は
どこが「信長」なのか?? カレーライスは久しぶりに味わう業務用ボンカレー?

気を取り直して、向かったのは「信長の館」。



入館料一般500円、自動販売機で買うのですが、駅前でもらったパンフレットには
50円割引クーポンが付いていたので、直接受付で入館料を払ったのですが・・・
自動販売機で買うチケットには、あのレストランの100円食事券が付いていたとか(+_+)

館内はストロボ禁止の条件で撮影はOK♪





琵琶湖の葦(ヨシ)を漉いた紙で創られた和紙人形。信長の生い立ちから半生の
ストーリーが、シーンごとに並べられています。

さて、ここのメイン展示は何といってもスペイン・セビリア万博の
日本館メイン展示物として復元された安土城天主。



織田信長が築城した幻の名城「安土城」の最上部の5階、6階部分を復元展示。
発掘された当時の瓦を参考に焼きあげて再現した庇屋根、金箔10万枚を使用した
外壁、狩野永徳一門が描いたと伝えられている金碧障壁画の再現を鑑賞できます。


最上階(6階)信長の間?


5階部分は八角形で柱、床、庇までも朱色の漆塗り。6階部分はというと、
見える部分は全て金箔で被われ、金ぴか!何とも派手派手・・・


5階部分の内部も金箔が張り詰められ、意外にも仏画が描かれている。

幻の城「安土城」、その天主復元にあたっては、あらゆる参考文献(と言っても
ルイス・フロイスの『日本史』、イエズス会宣教師らの記録、『信長公記』、
『安土日記』などしか残っていない)や安土城のものかどうか明確ではない
『天守閣指図』と題する建物の図面などから、スペイン・セビリア万博に
展示されたものにさらに手を加え、知り得る限り往事の姿を忠実に原型原寸、
原色原素材で再現したものだそうです。

安土城自体、当時としては独創的。まずは天守閣なるものを造ったのは、この城が
最初だと言われています。地下1階地上6階建てで、天主の高さが約32メートルと
推測されており、その最上階が居住空間としての機能があった。まさに信長は
当時最高の木造高層建造物に住んでいたことになります。
木造建造物としては東寺の五重の塔57m、東大寺大仏殿48mなどありますが、
これらは塔であったりお堂であるので住居の機能はありません。

ちなみに天守閣と言う呼び方は明治以降につけられたもので、それまでは「天守」
と表現するのですが、特に安土城の場合は「天主」と表記されます。
他に「天主」と呼ばれる建物が岐阜城にありますが、これは城の麓にある御殿で
あり、同じ信長が造ったものでも安土城の天主とは、ちと違いますね。
私思うにこの城は、信長が「天下布武」を成し得たシンボル、記念碑。もしくは
自ら神であることを望んだ「信長教団?」の教会的なものではなかったかと・・・

軍事的な拠点ではなく、政治的な機能を持たせていたのは明らかで、
何より城といえば守りの要であるはずが、あまりにも防御策がなされていない。
大手門までの道は幅6mもある直線、これでは敵の大軍が攻め寄せたら
ひとたまりもない。籠城用の井戸も無く、火災に対する備えも無かったとみられる。
もう自分を攻めてくる敵なんぞありゃしないって自信の表われ?傲慢かも。
本当は不安だったかも知れないが、こういう表現の仕方が信長流なんでしょう。

安土城に関しては、今回は行けなかった安土城跡もあるので、いずれまた実際に
行って確かめられたらいいなと思っています。


「信長の館」、他の展示物はそれほど多くは無いのですが・・・



信長の南蛮フェチは有名ですが、天正9年(1581)京都御馬揃え(織田信長が京都で
行った大規模な観兵式・軍事パレード)にはビロードのマント、西洋帽子を着用し
現れたとか。戦場に赴く時にもこのような南蛮具足を身に付けていたらしい。

また、イエズス会が献上した地球儀・時計・世界地図などをよく理解したそうだ。
家臣などは地球が丸いなどの説明を理解できない様子だったが、
信長は「理にかなっている」と言い、科学的な見識も持っていたようです。
それまでの仏教僧が言う逸話など信じず、木や石は神仏ではないと断言したとか。
そのため安土城の石積みには石仏や仏足石まで、ただの石材扱いで使われています。
一方、安土城天主内の天井、壁画には仏画を描かしたり・・・宗教を否定していた
わけでは無さそうです。神道復興への功績も残していますし。


残忍非道なイメージの信長ですが「お・も・て・な・し」の気持ちも充分・・・


「安土御献立~信長の家康餐応膳~」の復元レプリカ展示
信長が、武田勝頼討伐に功をなした徳川家康を安土城にてもてなした時の献立を
復元したものだそうです。
この宴では信長の死に関わるミステリーも語られていますね。
何せ饗応役を命じられたのは明智光秀。しかし信長の逆鱗に触れ、途中解任されます。
このわずか半月後、信長は本能寺において光秀により討たれます。



NHK大河ドラマ『江~姫たちの戦国~』のロケに、ここの天主が使われました。


イエズス会の画家ジョヴァンニ・ニッコロが描いた信長の肖像画
写実的で最も似ていると言われている肖像画です。なかなかの美男子だったようです。
妹の「お市」も絶世の美女だったとか、その娘たち三姉妹も美女揃いだったのかな。
ところで信長の正室「濃姫」との間には子が出来なかったとか、
それでも11男4女の子供が居たようです。(◎_◎)
フィギュアスケートの織田信成くんは、7男信高の家系だとか。



安土城 天主
ここにも天主の模型が置かれていましたが、安土駅前の「安土町城郭資料館」だと
内部構造も分ります。

そう言えばこんな映画もありましたね。




「信長の館」でくじ引きをやっていたので。信長くんステッカー、ゲット♪
・・・残念賞です。(^_^ゞ




2013.8/15、文芸の郷 信長の館にて。

御館様の駅、安土。

2013-09-07 00:10:39 | 洛外うろうろ
安土といえば、信長ゆかりの地だったなと、まずJRの駅を訪ねてみました。

駅前の交番、ここからしてフツーじゃないですね。

駅は意外とフツー?


駅前のローターリー、中央の広場には御館様の銅像が高い台座の上に立っています。






駅と隣接するようなところに「安土城郭資料館」があります。
まずは「らんまる君」の看板がある駅前観光案内所に寄ってみて、駐車場やら
食事どころを教えてもらいました。


なんじゃコレ?気になったのは、駅前のシンボルタワー?屋根には鳳凰が・・・






ユニークだったとされている安土城の天主のイメージかな?
まわりの建物群もユニークでした。




お昼ご飯がまだだったので、駅前で探してみたのですが・・・このお店も
3時過ぎはまだ準備中だったと思います。どこも開いてそうに無いので
駅前を早々に立ち去り、写真は5時過ぎにもう一度訪ねた時に撮りました。



あのユニークな塔?のある建物は線路を越える地下通路の入り口でした。
クルマで線路の向こう側へ行ったので実際には通ってませんが、向こう側には
無料駐車場があると観光案内所で聞いていましたから、ところがその駐車場も
5時には閉門、時間切れでした。ほんまどんくさいことで。(^_^ゞ

駅の向こう側ね、これが「安土城郭資料館」かな?

地下通路の出口というか、もうひとつの入口です。



駅の両側は、もう信長公一色な感じ・・・



JR東海道線(琵琶湖線)、駅としては大正3年(1914)国鉄の駅として開業した
古くからある駅だそうです。


駅裏側の公園には、こんなものも・・・


「相撲やぐら」
安土町は近代相撲の発祥の地とされています。これこそ大の相撲好きであった
信長がこの地で相撲大会を度々行った業績。
そして現代に通じるルール作りもしたと言うものです。
土俵の原形となるものや行司を置いたのも信長の考案だったようです。
優勝者には弓や太刀を与えたり、召し抱えたりもしたようで、弓取り式が儀式化
されたのもこの頃からという説も。(弓を与えるのは以前からあったようですが)
東と西に分かれての取り組みもそうなのかな?ある時、両者譲らぬ見事な力比べ
があり、信長は「感動した!」と両者引き分けにし、東から入場した者に「東」、
西から入った者に「西」って姓を授けたそうで、当時姓を名乗れるのは大変名誉
なことで、今もその子孫が安土におられるとか。

奇行で知られる織田信長、影響力も大きく、かなり興味深い人間です。




2013.8/15、安土駅にて。