カッパのロードスター

幌を開ければFeelin`good。カッパーレッドの
路渡☆くんとの楽しいドライブ日誌。

第十七番札所 補陀洛山 六波羅蜜寺

2012-06-30 01:53:51 | 西国三十三所巡礼
西国三十三所観音霊場、京都市内のお寺が続きます。
番外元慶寺から7連続。特に17・六波羅蜜寺、18・六角堂、19・革堂は
市街地のお寺です。で、1日3寺、一気にお参りしました。
まずは『補陀洛山 六波羅蜜寺』(ふだらくさん ろくはらみつじ)



市内をうろうろするにはコレに限ります。XLとスクーター♪




本堂正面の門、近世っぽい門ですがここからは入れません。

お寺の位置は五条大橋から少し北東にあります。住所は、
東山区松原通大和大路東入ル2丁目轆轤町・・・
町名、怪しいです。(^_^ゞ 「ろくろちょう」って読むのですが。
このあたりは、かつて人間の骨が無数に出てきたことから髑髏(どくろ)町と
呼ばれていたのを、江戸時代に町名を変更させたそうです。




境内は広くありません、つーか最小クラス?
ここも御多分に洩れず幾度もの戦禍にまみれ焼失、復興を繰り返したようです。
創建は、951年(天暦5年)醍醐天皇第二皇子でもある空也上人により開創
されたもので、現本堂は1363年(貞治2年)の修営、1969年(昭和44年)に
解体修理が行われたものです。



なぜか、なで牛?



宝物館(有料)では、教科書でもお馴染の「空也上人像」や「平清盛像」
安置されており、本物を観ることができます。

空也上人は教義の奥義を極めたのち、森羅万象に生命を感じ、
ただ南無阿弥陀仏を称え、今日ある事を喜び、歓喜躍踊しつつ念仏を
唱える「踊り念仏」で、仏教を民衆へ広げるため常に市民の中にあって
伝道に励んだので、「市の聖」と呼ばれました。天皇の子だったのにね。
当時、都で流行った悪疫の際は自ら彫った「十一面観世音菩薩像(本尊)」を
車に乗せて市中を曳き回り、病人には小梅干と結昆布を入れた茶を与え
病魔を鎮められたという。(今も皇服茶として正月三日間ここで頂けます)

印象的な「空也上人像」ですが、首から鉦(かね)を提げ、手に撞木と
鹿の角を付けた杖を持ち、草鞋を履いた清貧な僧侶の姿の像です。
口から6体の小さな「阿弥陀如来像」が吐き出されているのが何とも・・・これは「南無阿弥陀仏」の6文字を象徴しているんだそうです。

鹿の角が付いた杖についの逸話も面白いです。
空也上人が鞍馬山に閑居している時に毎日、側にやって来る鹿がいたそうです。
上人はこの鹿の鳴き声を愛し、鹿が来るのを楽しみにしていた。ところが
ある日から鹿はやって来なくなり、山へ様子を見に行くと、定盛という
猟師が鹿を射殺していたそうです。
大変悲しんだ上人はその皮と角を請い受け、皮をかわごろもとし、角を
杖頭につけて生涯我が身から離さなかったといいます。
また定盛も自らの殺生を悔いて上人の弟子となり、衆生の能化につとめました。
その子孫も有髪の姿に黒衣をまとって踊り、念仏しながら瓢をたたいて
市中を徘徊。これが今に伝わる六斎念仏踊りなんだそうです。




平安後期、広大な境域内には六波羅殿と呼ばれ、平清盛ら平家一門の屋敷が
栄え、その数5200余りに及んだという。その縁からかここには
「平清盛公の塚」が存在します。その隣りにあるのは「阿古屋塚」です。
阿古屋は、平景清の愛人。京都五条坂の遊女で、「壇浦兜軍記」などに
登場します。ちなみに今年六月の南座「坂東玉三郎特別公演」では
玉三郎さんがこの阿古屋を演じらました。(観に行ってへんけど)





「弁財天堂」



阿弥陀如来石仏(鎌倉時代作) 左奥に見えているのは「阿古屋地蔵尊」


たくさんのお地藏さんのピラミッド?

六波羅蜜寺に向かう角に「六道之辻」という石塔が立っている。
六道とは、生前の善悪の行いによって 導かれる冥界で、
天上、人間、修羅、 鬼畜(畜生)、餓鬼、地獄のこと。

地蔵さまは六道にいる人間の苦を救う仏で、この世からあの世へ、
またあの世からこの世へ、さ迷える魂の送迎をする。
地獄に落ちた亡者を救えるのは唯一、地蔵菩薩しかいないのである。

もともとこの地域は鳥辺野(とりべの)と呼ばれる葬送地。
泉涌寺辺りの鳥戸野(とりべの)とは異なり、こちらは一般庶民の
死骸の捨て場的なところ。埋葬もされず野晒しの骸がごろごろ・・・
だったのかも知れない。それで地蔵信仰が特に篤いのかと。



「本堂」







最後に六波羅蜜についてさわりだけ・・・
波羅蜜、波羅蜜多はサンスクリット語でパーラミター。仏教における
菩薩の基本的な実践徳目である。
『般若経』では般若波羅蜜(般若波羅蜜多)ほか全6種(六波羅蜜)を、
数える。
詳しくは『HP』『ウィキペディア』で。(^_^ゞ

六波羅の地名の由来には異説も・・・それは「六原」と書くもの。
六の「ろく」は霊の古語で、墓所(むしょ)がなまって六所となったごとく、
霊が多く集まる原野ということから六原の名が付いたと言うものです。

ちなみに六所神社(ろくしょじんじゃ)というのは全国にありますが
京都・山科にもあります。例の東山トンネルのところに・・・





2012.5/27、六波羅蜜寺にて。



○宗派:真言宗智山派 ○開基:空也上人
○御本尊:十一面観世音菩薩 ○創建:天暦5(951)年

御詠歌「重くとも 五つの罪は よもあらじ 六波羅堂へ 参る身なれば」

京都・西山 あじさい寺。

2012-06-27 22:49:30 | 花だより
柳谷観音の後、あじさい寺としても名高い『善峯寺(よしみねでら)』にも
参りました。西国三十三所巡礼の21番札所でもありますから。









巡礼の記事は先送り、今回は紫陽花の話題だけにします。



宇治市三室戸寺のあじさい園も見事なようですが(まだ観に行ってません)
ここも1万株の紫陽花が咲き誇っていました。



何かえらいことになっているほどの咲きっぷり・・・












その様子が一望できる地蔵堂から観る景色は
こんなに植えんでもって感じ・・・(^_^ゞ









このお寺、境内の広さ3万坪。それも山を切り開いたたものだから
坂道の多いこと・・・
お蔭で眺望は素晴らしい♪ 東山三十六峰が一望に。大阪まで望めます。






ここ、桜と紅葉の名所でもあります。特に桂昌院お手植えのしだれ桜は
樹齢300年で見事だとか。
それに、天然記念物 遊龍の松。これは齢約600年以上の五葉松で
龍が遊んでいる様な姿が全長40数mにも及ぶとか。





フルスクリーンでどうぞ。




2012.6/24、善峯寺にて。

長岡京あじさい祭り

2012-06-26 23:21:22 | 洛外うろうろ
日曜日、西国三十三所巡礼の札所である「善峯寺(よしみねでら)」へお参りに。
その前にちょっと寄り道です。
『立願山 楊谷寺 柳谷観音』(りゅうがんざん ようこくじ やなぎだにかんのん)で
「あじさいまつり」があるというので。
長岡京観光協会が観光客を集めるために、奥の院へ通じる参道に4500株の
あじさいを植えてあじさいの道を作ったもので今年で12回目。
もともと楊谷寺は京都西山三山(善峯寺、光明寺、楊谷寺)のひとつで
紅葉の名所として知られています。





京都であじさいの寺といえば、西京区の善峯寺、宇治の三室戸寺。ともに1万株の
紫陽花が咲き誇ります。ただし駐車場+入山料で一人でも1000円は要ります。
福知山の丹州観音寺も100種1万株が咲く関西では一番歴史の古いあじさい寺だとか。
ここは入山料200円のみ♪ ちなみに楊谷寺は、入山料・駐車場も無料。
ただ、この日は嬉しくない特別ってことで駐車料金400円取られました・・・






さすがに「あじさい祭り」ってことで賑わっていました。
普段は秋の紅葉時期を除くと観光客も少ないとか。なにせここまでの道程は
狭いくねくね山道。観光バスはまず無理!
秋のシーズンとあじさい祭りの日は阪急大山崎駅よりシャトルバスが出ています。




「お玉ちゃん」(細川ガラシャ=明智光秀の娘)が来ていました。
大河ドラマ誘致活動のようです。どうせなら舞鶴の「ゆうさいくん」(細川幽斎)
亀岡の「明智かめまる」くんらとゆるキャラだけの大河ドラマを作れば
視聴率上るかもネ・・・(^_^ゞ



こんなイベントもやってましたが、観客の平均年齢は・・・














回廊、登廊も風情たっぷり。長谷寺や東大寺二月堂を思い出します。









庭園(浄土苑)ではお茶席も。







意外と見どころの多いお寺です。普段、観光客が少ないのは
交通手段がマイカーかタクシーになってしまうからでしょう。
健脚の方なら『京都西山三山・西山古道』をハイキングという手もあります。
「小学生でも楽しく歩けるファミリー向けのハイキング道」と紹介されて
いますが、私には手も足も出ないような・・・(^_^ゞ




天然記念物モリアオガエルにも出会えます。


本堂にはちょうど七夕飾りが♪









短冊に書かれた願いも様々・・・



ざっとお寺の紹介も。



ここのお寺は京都清水寺の開祖である延鎮上人が808年(大同元年)に
開山されたもので、811年には弘法大師(空海)が何度も参詣、
今に残る独鈷水(おこうずい)を発覚されたとされています。





本堂



?門、あまりお寺では見かけない門です。



山門(勅使門)は四脚門になっていました。
左右には風神雷神像が。



手水鉢と鐘楼。



楊谷寺庭園(浄土苑)


ところどころに大きな石がおいてあり、その石は菩薩様に見立てられており、
十三仏(+目菩薩・受菩薩)が安置されています。〔京都府指定名勝〕



独鈷水の近くに弘法大師お砂踏みがあります。



弁天堂。
こちらにも霊水が。独鈷水は眼病治療ですが、こちらは美顔・芸技上達だとか。
淀殿の人形が置かれています。〔有職御人形師十二世伊東久重氏によるもの〕





2012.6/24、楊谷寺 柳谷観音にて。

はち8態。

2012-06-24 00:15:55 | こんちう
8×8。はちはち、葉っぱ・・・64(ムシ)ってことで。(^_^ゞ

こんちうを撮っていると夢中になれますね。夢虫・・・かな?







あまり恐くなさそうな蜂さんだったので、ちょっと寄ってご挨拶を♪









ミツバチくん、花粉だんごを抱えてせっせと・・・

かわいい羽音を楽しみながらの撮影でした。




そう言えば子供の頃、家の裏がレンゲ畑。何度かミツバチに刺されました。
刺したミツバチくんは少し飛んで尽き果てます。

私の父親に教えてもらったミツバチに刺された時の対処方法は・・・
刺して力尽きたミツバチを探し出し、刺されたところに
潰して塗り付けるってものでした。
毒を持っているなら、それを中和するものも自分自体が持っているはず
・・・って論理です。ホントかなぁ?
でもこれ、とっても効きました。腫れも痛みもすぐに消えます。
潰されたミツバチくんは可哀相だけど・・・(^_^ゞ


※この対処方法、アシナガバチでも有効でしたが。あくまで民間療法。
 責任は持てません。





花は百合の花とミツバチが来ていたのは金糸梅です。



2012.6/22、庭にて。

コワ~~~いッ!帰り道?

2012-06-23 01:29:41 | 京都徘徊記
清水寺から我が家へ戻る道で、避けることが出来ない場所があります。

そこは京都でも屈指の心霊スポットと古くから言われている・・・

ネットで京都、心霊スポット、オカルトスポット、恐怖スポットなんて

検索すれば必ず出てくる場所です。

「旧東山トンネル」「花山トンネル」「五条坂トンネル」など呼び名は色々ですが。


ちょっとそこへ行くまでの道沿いにも・・・





こんな廃屋みぃ~っけ! 昼間でヨカッタ・・・夜見たら怖そう。



さて、いよいよ来ましたよ・・・



右にある2つのトンネルは五条通から延びた国道1号線の「東山隧道」。
大津方面行きと京都方面行きが別々に分かれてあります。

木が茂って見難いですが左の小径の先に車止めがあり、その先は
歩行者専用道になってます。

その先にあるのが「花山洞」。

1903年(明治36年)に、渋谷(しぶたに)街道のトンネルとして開通。
1967年に国道1号線(現東海道)五条バイパスが全通したため、クルマは
東山トンネルを走り、こちらの花山トンネルは歩行者専用道となりました。





京都(清水寺)側から見たポータルは、明治の遺構を偲ぶことができる。
それだけにやはり不気味な姿ではある・・・
※坑口の構造を総称してポータルと呼ぶ。



補強のためか、ぶ厚いコンクリートで巻き直されているがポータルを見る限り
以前は総煉瓦巻きだったのか?
煉瓦で組まれたアーチ部分が五重になっているのは極めて珍しく最大級だとか。
笠石は茂った植物で見えないが扁額の下の帯石、アーチの頂点に嵌められた
要石などは当時のままなのだろう。




ここが心霊スポットなどと言われる所以は、この周辺には
昔の処刑場があったり、今も墓地が集まっている地域であり、極め付けは
火葬場がすぐ近くにあると言うことだろうか・・・
それにトンネル工事には事故がつきものだった時代。事実、昭和に作られた
東山トンネルでも発破事故を起こしていた記憶がある。
ここの上を東山ドライブウェイが通っているのだが、かつては今で言う二輪車の
ローリング族が横行、多くの若い命がこのドライブウェイで散っている。
そのためもう随分以前から二輪車通行禁止になったほどだ。

そんなこんなでこの隧道だけではなく、東山トンネル、東山ドライブウェイでも
怪奇現象が報告されるようになったわけで・・・その体験談の中には
男の叫び声が突然響いたとか、足音が追いかけてくる、血が降ってきただとか
挙げ句、首無しライダーが出没するなどと・・・




今は、明るいとは言えないが照明も完備されているし、地元?のおばちゃんなど
平気で通られています(写真↑)

ただ、モルタル吹きつけの壁面いたるところに怪しげなシミが・・・
以前TV番組でも、かの有名な霊能力者(宜保愛子さん、懐かし♪)が
あまりにも恐ろしいと、このトンネルに入るのを躊躇したという逸話もある。



トンネルの長さは142mですからすぐに通過できます。怖くありませんよ。

昼間なら・・・(^_^ゞ




山科側のポータルは煉瓦に似せたタイルで覆われていますが、見事に無茶苦茶。
五重のアーチにはなっているが要石はその上に浮いている。



山科側(東口)の扁額には「花山洞」の文字がはっきり読み取れるが
西口の扁額は・・・「方机適川」と書いてあるらしい。意味不明である。

ともかく何事も無く無事に京都屈指の心霊スポットを通過♪



国道1号線の側道に出る。このまま渋谷街道(しぶたにかいどう)を下って行きます。



山科の街が眺望できます。


お腹が減りました。朝から歩きづめ・・・
渋谷街道に面したいつもの洋食屋さん、「グリルやまもと」に駆け込みました。



いつものビジネスランチ(日替り)を・・・



これにコーヒーが付いて780円♪ 注文を聞いてから調理を始めるので
少し時間はかかりますが、アツアツの出来たてが食べられます。
もう40年近くのお付合い、味も変わらずここでのランチは何かホッとします。
「マスター、髪が白なったなぁ、お互いさんやけど」
「そりゃもう去年、還暦でしたから」
「そうか、僕も来年還暦なんやで」・・・何て会話も♪




2012.5/20、清水寺からの帰り道、道草です。(^_^ゞ

道草、寄り道、帰り道。

2012-06-21 23:28:11 | しゃじ
やっと清水寺を出ます。(^_^ゞ
と言っても表参道からではなく裏門?、南門・・・?
知る人ぞ知る出入口です。京男さんから聞いていた門だと思われます。
子安の塔、泰産寺の奥、境内南東の角になります。



清水寺は本堂(舞台)は拝観料が要るのですが、境内は無料。
だからこの裏門も午前6時から午後5時半までは開いているようです。
清水寺の南東に位置する我が家へ徒歩で帰るには便利な出口でした♪
ただしここへ来るには徒歩か自転車かな。
自宅へ戻るには自転車ならほとんど漕がなくても帰れそうな下り坂が続きます。







門を抜けると静かな林道、東山風景林。この道は「歌の中山」と呼ばれています。
桜と楓の林で風光明媚、かつては多くの歌人が歌を詠んだと言うことらしいですが
昔の話のようです・・・










『清閑寺』に寄ってみることに。・・・えらい登りやん!
今は侘びた小さな古寺ですが、全盛期は清水寺に並ぶ大寺院だったとか。
山号は「歌中山」、延暦21年(802)に天台宗の寺として紹継法師によって創建。
今は真言宗智積院の末寺となっていますが、和歌や古典文学に名高い由緒あるお寺です。
拝観料は志納、「観光寺院では無いので参拝以外の方は入山お断り」とも・・・




宝篋印塔(ほうきょういんとう)が二つ並んでいますが、小さい方が
平家物語に登場する小督局(こごおのつぼね)の宝筺院塔です。
視聴率が上がらない大河ドラマ「平清盛」をご覧の方にはちょうどタイムリーかも。
それでは平家物語とどうゆかりがあるのかを分りやすく解説(できるかな?)

高倉天皇の奥さんである徳子(建礼門院)さんに仕えていた女官に小督ちゃん
って美女が居りまして、高倉くん手を出してしまったんですな、それを聞いて
怒ったのが徳子のお父ちゃん平清盛、小督ちゃんを宮中から追放!
それでも忘れられなかったのか高倉くん、小督ちゃんを見つけ出し、ついに
女の子まで産ませてしまいます。当然またまた激高した清盛、遂に小督ちゃんを
尼さんにしてしまい、この清閑寺に入れてしまった。って話です。
高倉くん、死ぬ時には小督ちゃんのいる清閑寺に葬って欲しいと遺言。
小督ちゃんは生涯、高倉くんのお墓を守ったとさ・・・

かんたんな話やん、それで高倉天皇陵がすぐ隣りにあるのですね。







先代の六条天皇も同じ御陵に葬られています。

ちなみに六条天皇(79代)は生後7ヶ月と11日(数え年で2歳)で即位、
在位2年8ヶ月で叔父である高倉天皇に譲位、満年齢11歳8ヶ月で崩御されています。
高倉天皇(80代)はと言えば、父は後白河天皇、母は平滋子(たいらのしげこ)
清盛の妻、時子の妹です。うむ?奥さんの徳子は清盛と時子の子ですよね・・・
7歳で即位、在位は12年間。20歳で崩御されてます。

ちょっとややこしくなってきました・・・

高倉天皇の中宮(妻)である徳子=建礼門院の間に安徳天皇(81代)を
もうけられますが、19歳の時の子ってことになります。徳子は25歳でした。
安徳天皇は壇の浦の戦いで徳子と入水、5歳で没します。
徳子は生き残り京へ送還されて出家、建礼門院となり大原寂光院で
安徳天皇と一門の菩提を弔ったといわれています。

高倉天皇の寵姫小督局はと言うと、清盛と手を組み、政の実権を握った
信西の孫だったということです。


平家物語はこの辺にしておいて・・・






鐘楼の奥に茶室「郭公亭(かっこうてい)」跡というのがありました。
ここでも西郷隆盛と清水寺成就院住職の月照上人が勤皇の謀議を重ねていたようです。
それにしても石碑に「大」って何?「大西 郷月」って誰や思いましたよ(笑)







境内もこぢんまり、伽藍といっても鐘楼とこの本堂くらいしかありません。
がら~んとしてますな。(^_^ゞ 
本堂には菅原道真が梅の木で彫ったという十一面観音菩薩を本尊としています。

あと、本堂より大きな社務所?おそらく住職の住居かな?
そこには焼き物が展示販売されていました。清閑寺焼発祥の地となっています。
清閑寺窯から発展して、清水焼、粟田焼、御室焼、仁和寺焼などの焼き物が
生まれ、これらを総称して「京焼」といいます。京焼の元祖ですね。




要石(かなめいし)ってのがあるらしい・・・



これがその要石。この石の位置から市内を見ると扇を広げた様に見え、
ちょうど扇の要にあたるのでこのように呼ばれています。




ほとんど観光客の来ない穴場スポット、大きな楓の樹があったので
紅葉の季節には超穴場かも知れません。





2012.5/20、清閑寺にて。

ちょっといっぷく。

2012-06-20 23:01:29 | 京都徘徊記
間が開きましたが、ブログ上ではまだ清水寺にいます。(^_^ゞ

清水寺境内には何軒かお休み処がありますが、
その内の2軒の茶店が『舌切茶屋』、『忠僕茶屋』って名前のお店。
どちらも何かいわくのありそうな屋号です。



そんなことを思いながら、錦雲渓の崖っぷちに建つ「舌切茶屋」に入ってみました。







茶だんごと、ところてんです。歩き疲れた身体には甘いものが嬉しいね。
それで・・・「舌切すずめ」のお話と関係があるのかな?何て思っていたら、

これが、壮絶な幕末の話しになります。
前回に、清水寺の本坊塔頭「成就院」で西郷隆盛をはじめとする
勤皇の志士たちが密談を交わしたと書きましたが、
その頃の成就院の住職でもあった尊王攘夷派の僧侶、月照上人とその弟でもある
信海上人。そしてこの二人に仕えた近藤正慎(こんどうしょうしん)、
大槻重助(おおつきじゅうすけ)という人物が、この二つの茶屋の主人公です。



そう言えば成就院の近くに「勤王聖僧 月照信海両上人遺蹟」がありました。
中の石碑は、向かって左が信海上人、真ん中が月照上人の辞世の句歌碑です。
そして右には西郷隆盛の漢詩が刻まれた石碑が立てられています。

さて、気になる「舌切茶屋」のエピソードですが、幕府の大老であった井伊直弼が
反対派を弾圧、一掃するため断行した安政の大獄の際、捕らわれそうになった
月照は逃げ帰る西郷とともに薩摩に行きますが、どちらにつくか態度を決めかね
ていた薩摩藩から入藩を断られ、失望の末、西郷と共に薩摩潟に入水自殺をして
しまいます。西郷は奇跡的に助けられ一命をとりとめ、後に倒幕の大きな力と
なったことは衆知の通り。
その時、月照の友であり成就院の執事であった近藤正慎は幕府方に捕らわれ、
京都・六角牢獄で月照の行方を問われて拷問をうけます。
しかし正慎は決して白状することなく、自ら舌を噛み切り、牢獄の壁に頭を
打ちつけ、壮絶な最期を遂げたのです。これが「舌切」の由来なんです。



その近藤正慎の妻が開いたのがこの茶屋だったのです。
ちなみに俳優近藤正臣は、正慎のひ孫にあたるそうです。実は近藤正臣さんって、
私の高校の先輩だったりします。(^_^ゞ

もうひとつの茶屋「忠僕茶屋」は、というと・・・



まだ20代の若者だった大槻重助は、薩摩まで月照に付き従います。月照上人の
入水自殺後、遺品を持ち京都に戻りますが捕えられ、六角牢獄につながれます。
そこで同じく獄中にあった信海上人と再会。信海上人は後に江戸に送られ獄死。
重助は解き放たれますが、獄中で信海から後事を託されており清水寺に戻ります。
そしてここに茶屋を開き、生涯、月照・信海両上人のお墓を守り続けました。



「月照上人・信海上人慰霊碑」の左に立つ「忠僕重助碑」

幕末の動乱、命がけで自分の信念をつらぬいた人、それに従った人の物語が
こんな茶屋にも残されているのですね。
ふたつの茶屋はそれぞれの子孫が受け継ぎ150年。今は4代目が営まれています。

ちなみに先の3つ並ぶ歌碑を紹介すると
信海上人辞世の句「西の海 東の空とかわれども 心は同じ 君が代のため」
月照上人辞世の句「大君のためにはなにか 惜しからむ 薩摩の瀬戸に身は沈むとも」
西郷の詠んだ「相約して淵に投ず、後先無し。豈図らんや波上再生の縁。
頭を回らせば十有余年の夢。空しく幽明を隔てて墓前に哭す」(読み下し文)
この漢詩は重助が薩摩で月照上人を悼む西郷隆盛から託されたものだそうです。


気分を変えて、全く関係ない写真を・・・茶屋の近くで撮ったものです。(^_^ゞ



茶屋でいっぷく、元気を取り戻したので錦雲渓の下「音羽路」を散策してみました。



羊腸小径と言いますか、つづら折れの路を下って行きます。
降りれば登りが待っているということをとんと忘れていました・・・

実は飢饉や疫病、災害や戦乱などが何度も起こった都の長い歴史の中、
大量の死体がここへ運ばれてきており、舞台下の谷底には投棄された死体で
あふれかえっていたという時期もあったそうです。



ちょうどその谷の底辺りがここですねぃ・・・


ひゃぁ~ッ!で、出た~!!!



何やカッパちゃんかいな・・・って遊んでいる横で何やら家内が熱心に
シャッターを切っていましたよ。



(¨)nnnnnをこよなく愛すF氏に送るため・・・?





2012.5/20、音羽路から見上げた舌切茶屋。

神代の恋占い?

2012-06-14 23:55:43 | 京都徘徊記
ここはちょっと異色? 観音霊場、清水寺の境内にあって
若い女の子たちでひときわ賑わっているスポットがあります。
それが『地主(じしゅ)神社』。地主(じぬし)とは読みません。
縁むすびの神さま大国主命(おおくにぬしのみこと)が主祭神として祀られています。




「さわがしきもの」として枕草子にも書かれている清水寺の縁日・・・
それに負けず劣らずここの賑わい振りを伝える文献も多く残されています。
今もなお、修学旅行生や若いカップル・・・そうでないカップルも(^_^ゞ
まるで毎日が縁日のようです。










チャラい感じがする神社ですが、本殿、拝殿、総門などは重要文化財。
そして、ここも世界遺産の一部なんです。

創建年代は神代、つまり日本の建国以前とされ、 あまりの古さに
その歴史は明らかではありませんでした。しかし近年の調査により
本殿前の「恋占いの石」が縄文時代の遺物であることが証明されました。











この地主神社に行幸された天皇は、嵯峨天皇、円融天皇、白河天皇・・・
参拝した武人には坂上田村麻呂、平清盛、豊臣秀吉、徳川家光なども。
神社としてはこの内、一人でもウリになるだろうに・・・(^_^ゞ
特に嵯峨天皇が行幸の際、ここの地主桜の美しさに三度車を返されたといい
「御車返しの桜」の由来となっています。

それにしても何でも願い事を聞いてくれそうな・・・ご利益の百貨店?
スーパーマーケットかコンビニか?(^_^ゞ


どちら様かお買い上げでしたなぁ、スクーターのお守り。ご利益の程は?











メインは大国主命(大黒様)の縁結びのご利益ですが、子授け安産の信仰も
集めています。また、 芸能と長寿の神さま大田大神、旅行安全・交通安全の
神さま乙羽竜神、知恵と才能の神さま思兼大神を相殿に祭祀。末社には
商売繁盛にご利益のある栗光稲荷社のほか、祓戸社、おかげ明神、撫で大国、
水かけ地蔵、良縁大国を祭祀しています。ってことで・・・
大黒様といえば因幡の白兎の神話で有名、何でも相談を聞いてくれそうな
白うさぎちゃんも居りましたが・・・




ま、百聞は一見にしかず。異色の?世界遺産、地主神社にご参拝を。




2012.5/20、地主神社にて。

第十六番札所 音羽山 清水寺

2012-06-12 23:04:32 | 西国三十三所巡礼
西国三十三ヶ所観音霊場、第十六番札所は第十五番札所「今熊野観音寺」と同じく
京都市東山区にある『音羽山 清水寺(おとわやま きよみずでら)』です。
京都を代表する観光地のひとつでもあり、世界遺産に指定されている
超有名なお寺。なので詳しい説明は無しにして・・・写真をたっぷり。

トップの写真は清水寺の正門でもある「仁王門」。中に安置されている
仁王像は京都でも最大級といわれています。



「仁王門前の狛犬」
左右両方の狛犬の口がどちらも「阿形(あぎょう)」=開口した形になっています。
東大寺南大門にある狛犬をモデルにして造られたもので、同じように宇治市の
宇治神社にも「阿-阿」の狛犬があります。



「西門」と「三重塔」
西門(さいもん)は門というより拝殿風に前に向拝が突き出ています。
三重塔も桃山時代の様式美を今に伝えるもので、三重塔としては
日本最大級の高さ(31m)だそうです。






「鐘楼」
この鐘楼は柱が6本ある珍しいものです。ちなみに本堂手前の手水舎の柱は
2本しかありません。(^_^ゞ






「千体石仏群」
成就院参道の右手には、数多くの様々な石仏が置かれています。
明治の廃仏毀釈の際に捨てるに忍びないと、地蔵信仰の篤い京都市民から
ここに運び込まれたものだそうです。



「成就院(じょうじゅいん)」
清水寺本坊塔頭ですが、幕末には西郷隆盛をはじめとする勤皇の志士たちが
密談を交わした場所だったそうです。
大西良慶和上はここに約70年間住まわれていました。
“月の庭”と呼ばれる素晴らしい庭園があり国指定の名勝に指定されています。






「田村堂」(開山堂)


手前から「田村堂」「経堂」「三重塔」「西門」と
朱塗りの美しい伽藍が並んでいます。



「?」
「梟の手水鉢(ふくろうのちょうずばち)」の横に建っている手水舎?
門のようでありお堂のようでもあり、2本柱で建っています。


「轟橋(とどろきばし)」と「轟門(とどろきもん)」
轟橋は梟の手水鉢の横にある石橋ですが、下に水は流れていません。
この轟橋を渡れば轟門。三間一戸の八脚門で、ここを通って本堂へと向かいます。
切妻造り、本瓦葺で、妻や天井の構造は東大寺転害門を縮小して写しています。


轟門をくぐって回廊を抜けると本堂です。



内陣は厳かな感じ、ご本尊は内々陣の厨子の内に祀られている
清水型といわれる十一面四十二臂千手観音で秘仏とされています。



「出世大黒天像」
人気者のテカテカの大黒さんですが、室町時代の姿を再現したものだそうです。



「大日如来坐像」
陸前高田の流出松を使用して京都伝統工芸大学の学生さん達が作ったもので
今年5月1日に奉納されたものです。詳しくはコラム「清水寺よだん堂」に。


さて、何と言っても清水寺といえば、本堂から張り出した懸造りの「舞台」。
最長約12メートルの巨大な欅の柱を並べ釘を一本も使わずに組み上げた
木造建築です。現存の本堂は徳川家光の寄進により、寛永10年(1633年)に
再建されたものといわれており、舞台組みの状況は再建時のままだそうです。



























よく見る清水の舞台の写真は、奥の院の参道や子安の塔の方から撮ったもの。
でも今は朝倉堂が工事中でイマイチ、奥の院も子安の塔も修復工事中でした。


「子安の塔」









「音羽の瀧(おとわのたき)」
清水寺の開創の起源であり、寺名の由来となったのがこの瀧です。
瀧といっても水道の蛇口から出るような水が3筋流れ落ちています。
3筋の水にはそれぞれご利益があり、「学業成就」「恋愛成就」「延命長寿」
といわれています。長~いひしゃくに受けて飲むことができますが、
その際注意しておくことがあります。
○3筋すべての水を飲むと受けたご利益が全てなくなってしまいます。
○ひしゃくで受けた水を、2口、3口で飲むとご利益が2分の1、3分の1に
 なるといわれています。1口だけいただきましょう。
いずれも「よくばってはいけない」という戒めなのだそうです。



2012.5/20、清水寺にて。


納経所は地主神社の近くにありました。巡礼では各札所を参拝した証として、
納経帳などに、ご宝印(ご朱印)を押して戴き、墨で本尊を表す文字を
書き込んで戴きます。それと同時にお寺の絵が描かれた紙の札を頂きます。
これ参拝記念の「散華(さんげ)」といいます。寺院で法要をする際、
諸仏を供養するために花が撒かれます。元々は蓮弁をはじめとする生花が
使われましたが、いつのころか蓮の形をかたどった色紙が代用されるように
なったとのこと。だからこんな形をしているのですね。



ここでは、西国三十三所の散華が集められて展示されていました。
実は私の場合、今まで行ったところ全てが揃ってません。施福寺と三室戸寺の
分が欠落してます。諸事情により・・・
ここでもらえないか尋ねたところ、そりゃ駄目って・・・(^_^ゞ



○宗派:北法相宗(大本山) ○開基:延鎮上人
○御本尊:十一面千手千眼観世音菩薩 ○創建:宝亀9年(778)

御詠歌「松風や 音羽の滝の 清水を むすぶ心は 涼しかるらん」

近きにありて

2012-06-10 22:27:07 | 京都徘徊記
京都市東山区にある寺院、清水寺に行きました。実は初めて。(^_^ゞ
京都に生れ育って60年近く、なおかつ歩いてでも行ける距離に住みながら門を
くぐるのは初めてでした。あまりにも有名過ぎて行ったつもりになっていたかも。
そう言えば金閣寺もまだ見たことないです。
そうか京都に修学旅行で来てないからか!(苦笑)

このお寺、国内はもちろん世界的にも有名な観光地。世界遺産にもなっていますしね。
宗派は北法相宗大本山、本尊は千手観音で開創は宝亀9年(778)、奈良時代の末。
縁起によると奈良子島寺の賢心(けんしん)、後の延鎮上人(えんちんしょうにん)が
「木津川の北流に清泉を求めて行け」というお告げにしたがい、ここ音羽山麓に
ある滝にたどり着き、そのほとりで草庵をむすんだというもの。

冷静に考えると、これほどまでに有名になる要素が乏しい気がします。
現在の伽藍だって、そのほとんどが江戸初期の再建ですしね。
確かに京都では珍しく平安遷都以前からの寺ではあるのですが・・・
ちなみに他には広隆寺(603年)、鞍馬寺(770年)などがあります。
それに西国三十三所観音霊場の中でも特に古いってことは無いです。ここは
16番札所ですが、今まで行った16寺中13番目の古さ、ここより新しい寺は
3つだけ・・・ってことで、それほど古いわけでも無さそうです。
興福寺や延暦寺のように歴史に登場したわけでも・・・しいて言うなら
興福寺の支配下にあったから南都北嶺の争いの際には、延暦寺の僧兵による
焼討ちを度々くらったようだが。
それが此れ程までに有名なのはやはり「清水の舞台から飛び降りる」の語源と
なった本堂の舞台かな。
ともあれ東山・音羽山の中腹に広がる13万平方メートルの境内に、国宝、
重要文化財を含む15の伽藍が建ち並ぶ姿は魅力に溢れています。


この日は東山五条、東大路までキャロルで送ってもらい、五条坂、ちゃわん坂を
徒歩で登って参拝に向いました。帰りは東山を下るだけなので自宅まで徒歩で♪



想い出の古都・・・首無しのマネキンは印象的で想い出に残るかも。
ご存知、修学旅行のメッカでもあります。
















良い想い出にしてくださいね。


海を越えて来られるお客様も多々、私らは歩いて来れる幸せを感じます。(^_^ゞ
台湾からのご一行かな、良い想い出を持って帰ってください。
















あっちもこっちも人で溢れていますけど・・・












中にはのんびりな方も・・・










国宝「清水の舞台」は丈夫やなぁ・・・釘も使ってないというのに
これだけの人が次から次へとやって来てもびくともせぇへん!

ちなみに、世界最大の旅行クチコミサイト「TripAdvisor」の日本法人である
トリップアドバイザーが、過去2年間に投稿された日本語の口コミでの評価を
もとに「行ってよかった日本の展望スポット」トップ20を発表したそうだが
それによると、3位は134m(標高差)の大倉山ジャンプ競技場に併設されている
大倉山展望台(札幌市)、2位には高さ250mに特別展望台がある東京タワーが
そしてなんとランキング1位は高さわずか13mの「清水の舞台」だそうな。



2012.5/20、清水寺にて。

太陽にヴィーナスの黒子。

2012-06-06 22:10:17 | 今日のボソッ
ここのところ何かと天体ショーが話題になります。
5月6日はスーパームーン(月が地球に最も近づいた時の満月)
 他の満月よりも14%大きく、30%明るいとのこと。
5月21日は金環日食でした。
6月4日はスーパームーンに次ぐ満月の部分月食
・・・残念ながら曇りで観れませんでした。
そして、今日。6月6日は金星の太陽面通過が見られました。

・・・と言っても今日の金星太陽面通過は、金環日食のように目視での観察は
ほぼムリ、金星が小さ過ぎます。(^_^ゞ

折角、晴れたのと前回の金環日食で準備した観測グッズが使えるので
三脚、70-300mmの望遠ズーム、2倍のテレコン、変倍アングルファインダーを
玄関前にセット。適当ですが観察を始めました。カメラはD7000です。


9時4分頃
太陽面に金星が確認できます。



10時40分頃
しっかり通過中のようです・・・


じゃまくさいので1枚に合成してみました。




見難いので少し大きくなります。

時間経過は左から 8:25、 9:04、 9:38、 10:06、 10:40、
11:29、 12:35、 13:31 です。
太陽の黒点の位置を合わせて合成したので、見た目とは少し違います。
太陽も動いている(天動説かッ!)ので見た目で角度が変わり、
右下に抜けて行ったように見えましたが、黒点で合わせるとこんな動きになります。

ちなみにトップ画像は 12:34、雲がかかっていた時でノートリミング。



12:34頃
これもその時のものでトリミングしてます。




これが太陽の黒いしずく? 黒い涙?「ブラック・ドロップ」って現象ですかね。



2012.6/6 13:30、太陽面からヴィーナスが去ろうとしています。
21世紀最後の日面通過・・・次は105年後。

GoPro 初出動。

2012-06-05 21:47:32 | バイク
この前の日曜、天気も上々。
1975年製、齢37になるXL125に跨がり、ちょこっと走らせてきました。
と言うのもヘルメットカメラ『GoPro HD HERO2』の試し撮りをしたかった。



GoPro HD HERO2 Motorsports Edition
ゴープロ ハイディフィニション ヒーロー2 モータースポーツ エディション
ってやつです。先月、Amazonでポチしました。¥28,600也。



170度ワイドアングル1080pビデオ、防水ハウジング装着で水深60mまで防水
HD HERO2 は、世界でも一番多目的のカメラです。ってことですね♪
バイクやクルマの思ったところに装着できそうです。特に振動が気になる
チャリやオフロードバイクにはヘルメットに装着できるのが利点です。
防水ハウジングは防塵性も高いでしょうからオフロードバイク走行には
もってこいのムービーカメラと言えそうです。すでに某AW氏のブログで
散々その良さを確認済みでしたから、満を持して迷うことなく購入です。





バッテリーは専用の充電式リチウムイオン、720p30の設定で約2.5時間録画可。
充電はUSB経由充電で約2時間でフル充電。
撮影時間は、32GB SD カードに960p30の設定なら6時間ってことです。

GoPro(ゴープロ) HD HERO2 Motorsports Edition ゴープロ ハイディフィニション ヒーロー2 モータースポーツ エディション CHDMH-002
クリエーター情報なし
GoPro(ゴープロ)





フルフェイスのここに装着してみました。着脱も簡単で、小気味よく
カチッカチッとでき、アングルも自在です。ただし、別売りのモニターを
着けていないので、試し撮りが必要になります。
実際、その確認を怠ったため、今回の初撮影は下を向き過ぎていました。(^_^ゞ




これ、ニューヘルメット♪ 昨日届いたので、テスト撮影には
間に合いませんでした。これもAmazonでポチ・・・

[ヤマハ] オープンフェイスヘルメット YJ-5 2 ZENITH SPORTS LINE/ゼニス スポーツライン YC-1 レッド 90791-2242 / YC-1 / L / 90791-2242L
クリエーター情報なし
ヤマハ




さて、それではテスト撮影の結果を・・・はっきり言ってだらだら長いです。

ルートは清滝口、化野(あだしの)から府道50を六丁峠を越え保津峡、
水尾を抜けた辺りで脇道から亀岡方面に出て桂川沿いに保津峡へ戻ろうと・・・


初GoPro その1(6:22)


r50からの脇道、亀岡に出るはずだったのですが・・・途中ダートに。
そこから撮影開始です。
しかし??・・・道はこれで良いのかな? 案の定、行き止まり。
引き返すことに。(^_^ゞ


初GoPro その2 (9:59)


やたらと長いムービーです。自分で見ても眠くなる・・・
r50のワインディング、道幅狭し、クルマでは通りたくない道です。
交通量は少ないので快適ではあるのですが・・・
柚子の里、水尾から六丁峠に向ってます。ブレーキが鳴き出した・・・
つーか、このバイク、旧車ゆえブレーキが効きません!


初GoPro その3 (7:40)


r50、六丁峠から化野のお土産物通りを抜けて清滝道に戻るところでお終い。
途中、六丁峠で道を譲ってくれているのに気がつかないドン臭さ。(^_^ゞ
久しぶりのツーリング、たった75kmほどのトコトコ走りでしたが、
結構疲れた・・・何ちゅうてもブレーキ性能は重要だと実感!








途中の・・・な墓場。不法投棄じゃ無さそうです。




2012.6/3、水尾の里にて。

そうだ泉涌寺にも行こう。

2012-06-03 22:56:45 | 京都徘徊記
泉涌寺(せんにゅうじ)は、東山三十六峰の南端にあたる月輪山の山麓にある
真言宗泉涌寺派総本山の寺院で、山号は東山(とうざん)または泉山(せんざん)。
本尊は釈迦如来、阿弥陀如来、弥勒如来の三世仏。
寺域には鎌倉時代の後堀河天皇、四条天皇、江戸時代の後水尾天皇以下、
幕末の孝明天皇に至る歴代天皇の陵墓があり、これらの皇室の陵墓に対して
香をたき、花を供える香華院(こうげいん)となり、「御寺(みてら)」と
呼ばれている。

トップ画像は「大門」重要文化財。慶長年間創建の御所の門を移した四脚門。

泉涌寺の塔頭のひとつ今熊野観音寺の駐車場から泉涌寺の駐車場へクルマを移動。
どちらも駐車場は無料です。観音寺は拝観料も無料でしたが、泉涌寺は
大門のところで拝観料を払って・・・ただその後、御座所、庭園、雲龍院など
別料金になっている。維持費も掛かるだろうから仕方ないだろうけど・・・
今回は全てパス、伽藍拝観だけにしました。

大門を通るとすぐ左手に「楊貴妃観音堂」があります。
本尊の聖観音像は中国の玄宗皇帝が亡き楊貴妃を偲んで造らせた像で、
楊貴妃観音と呼ばれています。湛海律師が寛喜2年(1230)中国より
持ち帰った美しい像です。(重文)

観音堂の前にはこれまた美しい花が・・・









楊貴妃桜と名付けられていますが、薄紫の石楠花ですね。




描かれているのは楊貴妃? 願掛け地蔵尊、
他に寺宝が展示されている「心照殿」がありました。


さて、玉砂利の参道を下って行くと



「仏殿」に至ります。泉涌寺もまた応仁の乱によりそのほとんどの伽藍を焼失。
現在の諸建造物はそれ以降建立のものです。この仏殿も寛文8年(1668)
徳川四代将軍家綱によって再建されたもので、現在伽藍の多くはこの時
整備されたもののようです。



「浴室」
この頃の浴室は仏前に仕える僧侶の身を清めるための施設で、古式の蒸し風呂です。


清少納言の碑、歌碑。その隣りには「水屋形」が建っています。

「夜をこめて 鳥のそら音は はかるとも よに逢坂の 関はゆるさじ」
の清少納言の歌碑。清少納言は藤原定子(一条院皇后宮)が没した翌年に
宮仕えを辞去し、晩年は鳥辺野近くのこの泉涌寺の辺りに隠棲し、
定子の眠る鳥辺野の御陵を拝しながら生涯を終えたと言われています。

水屋形では寺名の起源となった名泉が、今も涌き出ているそうです。


「鎮守社」
参道をへだてた北側の森の中にあります。これより先には鐘楼もあるのですが
行く事はできませんでした。おそらく庭園側からなら行けるのかも。



「舎利殿」
釈迦の仏牙舎利を奉安する貴重な霊殿である。慶長年間、京都御所の建物を
移築改装したもので、仏殿と並んで建っています。


説明ばっかりではしんどいので、モノクロ写真を・・・
































写真を整理していたら何処を撮ったのか分からんようになったもんで。(^_^ゞ
霊明殿、御座所などです。








五月半ばの泉涌寺でした。







2012.5/13、泉涌寺にて。

第十五番札所 今熊野観音寺

2012-06-01 22:59:23 | 西国三十三所巡礼
西国三十三ヶ所観音霊場、第十五番札所は京都市東山区にある
『新那智山 観音寺(しんなちさん かんのんじ)』
今熊野観音寺(いまくまのかんのんじ)と呼ばれている泉涌寺(せんにゅうじ)の
塔頭(たっちゅう)のひとつです。

東大路通り(東山通り)の東側(東山側)には七条に智積院があり、九条の南には
東福寺がありますが、その間の地域、地名は今熊野(いまくまの)と呼ばれています。
東山七条の東の峰を阿弥陀が峰といい、その峰の南西一帯を鳥戸野(とりべの)
と呼び、北西の一帯を鳥辺野(とりべの)と字を書きかえております。
また両方を合わせて鳥部野(とりべの)という字であらわします。今熊野と
呼ばれる一帯、阿弥陀が峰の南西側鳥戸野の地は、古くから高貴な方々の
葬地であり、いっぽうの鳥辺野は庶民の葬地でした。
その鳥戸野の葬地を掌っていたのが観音寺であります。
・・・分かります?HPからの抜粋ですが、ちょっとディープな説明ですね。




東大路通から泉涌寺道を東に入って行くと、泉涌寺の総門があり、これを越えて
進んで行くと、泉涌寺の手前に今熊野観音寺へ通じる道があります。




車高の低いロードスターだと結構な勾配の下り坂に見えます。




深緑の参道に朱塗りの「鳥居橋」。
(写真は帰りに撮ったもので向きが逆です。一応キープレフト。意味無いけど)

このお寺には山門のようなものはありません。この橋を渡って
参道を行けば境内です。ちょっとした普通の門がありそこを入って行くと
クルマを停めておけるスペースがあります。




本堂へ向う石段を登ると、手水がある広場に出ます。



その広場の中央には「子護弘法大師」像が。
小さな子供が弘法大師の足元にまとわりついてます。

この観音寺の開基は弘法大師空海とされており、上人が唐より帰国後まだ
東寺に居られた時に、東山の山中に光明がさしているのを見られ、そこへ
行ってみると白髪の老翁が現れ、天照大神作の一寸八分の観世音像と宝印を
大師に与え、自らを熊野の権現で、永くこの地の守護神となると告げられたとか。
その熊野権現のお告げのままに一堂を建立され、大師自ら彫られた一尺八寸の
十一面観世音菩薩像の胎内仏として授かった一寸八分の像納め、奉安された
というのがこのお寺の縁起です。



なお、この大師像の周りには四国八十八ヶ所のお砂がまかれており、
「南無大師遍照金剛」と唱えながら廻り祈願するようです。

ここよりまた石段を上って行くと本堂のある広場に出ます。


「五智の井」
この地で、空海が錫杖をもって岩根をうがたれると霊泉が湧き出しました。
・・・弘法大師空海さんの場合、この手の伝説が各地に沢山ある気がします。
大師はこの清水を観音御利生の水として崇められ「五智水」と名付けられました。
今もなお、こんこんと湧き出ている・・・蛇口をひねれば?(^_^ゞ



「大師堂」



この大師堂の前には・・・



このお寺には後白河法皇頭痛封じ霊験記が伝えれており、それによりますと
激しい頭痛持ちだった法皇、今熊野観音に頭痛平癒のご祈願をされたところ
ある日の夜に就寝中の法皇の枕元に観音様が現れ、病める頭に向けて
光明をお差しかけになりました。(今で言うレーザー治療みたいなもん?)
すると永年苦しんでこられた頭痛が、不思議にもたちまちに癒えてしまったとか。
・・・保険外治療かなぁ?よう効くんや!って訳で、「頭の観音さん」と
評判になり、頭痛封じ・智慧授かりなどから今ではぼけ封じ観音として有名。
「ぼけ封じ近畿十楽観音霊場」の第一番札所となっています。
先に参った岩間山正法寺もこの札所のひとつでした。



こちらでは観音様の足元にまとわりつく爺さん、婆さん・・・



お身代わりの石仏が観音像の横にたくさん置かれています。
爺さんバージョン、婆さんバージョンがあるようです。(^_^ゞ




さて、本堂ですが小さいながらも二重屋根の堂々とした造りです。
かつては泉涌寺を凌ぐほどの大寺だったようですが、再三の戦乱、南北朝時代の
兵火では足利氏により復興を成し、応仁・文明の大乱でも伽藍は焼失。
その後復興されたものの、この頃より泉涌寺の塔頭となったようです。



現在の本堂は、江戸時代の1712年に宗恕祖元律師によって建立されたものです。



本堂の向って左側に地蔵堂、その間にご利益グッズ 授与品(お札とかお守り)を
販売されているところがあるのですが、ベストセラーは何と言っても「枕宝布」
枕カバーなんですが、霊験記にあるように観音様が夢枕に立たれ、頭痛を
治されたってことに因んでいるようです。
山中に見える多宝塔は「医聖堂」、頭痛を治されるってことで医学関係?





「三重石塔」
平安時代の創建時のものだそうですが文化財的価値は無いのかな。
「稲荷社」と「熊野権現社」が並んでいます。


「鐘楼」
梵鐘は古いもので太平洋戦争の際、供出されましたが元の姿で戻ったそうです。







医聖堂に向う参道、山道は「今熊野西国霊場」と言われ、西国三十三ヶ所霊場
の各御本尊を石仏としておさめた祠が並んでいます。
三十三あったのでしょうね。数えるのを忘れましたが・・・




竹林と森の先に医聖堂(多宝塔)が見えてきました。






日本の医学の発展に貢献した人々を祀っているということらしいです。


「医心方の記念碑」
医心方とは日本最古の医学書だそうで。石碑は医聖堂の傍らにあります。



側には医家の氏名が彫られた石碑も置かれています。当初は奈良、平安時代
から江戸時代までの122人の医家の氏名が刻まれた碑一個のだったようですが、
現在は明治以降の医家の名前が刻まれた碑が追加されています。
緒方洪庵、貝原益軒、前野良沢、杉田玄白、華岡青州などの名前がありました。





2012.5/13、今熊野観音寺にて。



○宗派:真言宗泉涌寺派 ○開基:弘法大師
○御本尊:十一面観世音菩薩 ○創建:天長年間(824~834)

御詠歌「昔より 立つとも知らぬ 今熊野 ほとけの誓い あらたなりけり」