カッパのロードスター

幌を開ければFeelin`good。カッパーレッドの
路渡☆くんとの楽しいドライブ日誌。

西と東の間の正面でランチ。

2016-02-27 18:03:04 | ランチ/カフェ
ややこしいタイトルですが、要は西本願寺と東本願寺の間の
正面通にあるカフェでお昼ご飯ってことで・・・(^_^ゞ



『SOLUM CAFE(ソルムカフェ)』まだオープンして2年も経たない
新しいお店のようです。
町家をリノベーションしたもので、新しいと言ってもノスタルジック
ですけどね。
SOLUM の意味は、土や土台。建物全体が若きアーティストのための
シェアオフィスになっていて、クリエイターという農夫達が町を耕し、
より豊かな町づくりに貢献できるよう創造性が育つ土づくり、
環境づくりのお手伝いというのがコンセプトなんだとか。
そのひとつがこのカフェなんです。

青い窓と赤い郵便受けが何ともイイ感じ♪
「かもめ食堂」荻上直子に代表されるようなアンニュイ系?の
日本映画を連想してしまいました。
女性オーナーなのかな、まさに映画のイメージのまんま・・・(^_^ゞ



店内はカウンター席と、奥はちゃぶ台と座布団が置かれています。



メニューは多くありません。キーマカレーとサンドイッチ、
ドーナツくらいかな・・・
珈琲・紅茶の他に日本茶やチャイもありました。

ベジタリアンカレーとキーマカレーを頼みましたが、
あまり違いは無かったような。(^_^ゞ
私、キーマカレーはあまり好みじゃ無いのですが、ここのは結構
美味しかった♪ お腹空いていたからかな・・・




正面通にはそれほど食べ物屋さんが少なくて・・・
最初ここへ入ろうかと思ったのですが、お昼の営業終わってたしw



Oyako donburi…chicken and egg rice bowl
きつねうどんはどう訳すのかな?まさか Fox udon てなことは・・・
noodls with deep fried tofu となっていました。(^_^ゞ


東本願寺に突き当たってしまったので、新町通を南に七条まで出ました。

京町家、ホルモン焼きにリノベーション?





こちらは串カツ屋さん?




南側にはヨドバシカメラの駐車場

「酒類商若松家本店」
デカい酒瓶!ここも創業100年越えの老舗だそうで、夜は刺身や鍋コース
などが出るようですが、なかなか予約のとれないお店だそうで。


〈田中極楽堂〉
こちらの看板は左から右で現代的。仏具店だから極楽堂?(^_^ゞ

東本願寺にお参りして、また正面通を東進。
東本願寺の飛び地境内、枳殻邸(きこくてい)とも呼ばれている
渉成園(しょうせいえん)の手前でこんな建物と遭遇。



何だろう?廃屋のようになっていましたが、元は中華料理店?



結局、正体不明・・・


東本願寺周辺には小さな旅館が幾つかありますね。



〈旅館 わかさや 百浦〉面白そうですね、泊まってみたくなります。



近江屋?あの坂本龍馬が暗殺された?・・・ちゃいます!
あの近江屋事件の舞台になったのは醤油商の近江屋ね。
京都にはやたらと「近江屋」って店や会社があります。
呉服やふとん、ロープの会社、酒店、米穀店、寿司屋にカレー店・・・
近江商人の活躍の場だったのでしょうね。

ところで近江商人がルーツの企業って多いですよね、高島屋や大丸、
伊藤忠、丸紅。日清紡や東レ、武田薬品や日本生命、ニチレイもね。
最近ではワコール、実はトヨタも初代は彦根出身。
近江屋自動車って名前なら世界企業になれたかな・・・(^_^ゞ



2016.1/11、ソルムカフェにて。

後ろの正面だ~れだ?

2016-02-23 23:30:33 | 京都徘徊記
豊臣秀吉が造った正面通り、その正面には方広寺大仏殿が歴史上
破格のスケールで建っていましたが、後ろの正面は?
これまた歴史の動きが見えるようで・・・

ちょっと流れを整理するため年表を…暗記の必要は無いです。(^_^ゞ

1583年:石山本願寺跡に大阪城を築いた秀吉、同年に関白となり、
1586年:太政大臣になり、豊臣政権樹立。
1590年:小田原征伐で実質上天下統一を果たし、
1591年:本願寺(西本願寺)を京都に移します。
1593年:伏見城を築城し、自らの本拠地としました。
1595年:方広寺大仏殿を建立、西本願寺までの路、正面通ができました。
1596年:大地震(慶長伏見地震)により、伏見城天守閣、大仏殿が倒壊。
1598年:秀吉、伏見城にて没。
1599年:方広寺東方の阿弥陀ヶ峰山頂に葬られ、その麓に豊国神社を創建。
1600年:関ヶ原の戦いで、西軍が敗北。徳川家康が実権を握ります。
1602年:徳川によって東本願寺が造られ、正面通は分断されます。
1603年:徳川幕府が成立。
1615年:大坂夏の陣で豊臣家は滅亡。同時に秀吉の神号は剥奪され、
    墓であった豊国廟社を取り壊し、豊国神社も実質上封鎖。

こんな経緯ですが、正面通にとって大きなことは、やはり本願寺の存在。






〈西本願寺〉

本願寺は11世・顕如の時(石山本願寺・大阪)、織田信長と対立し、
11年に及ぶ石山合戦の末、信長に屈する形で和解。石山本願寺を
明け渡します。しかも内部は表方(穏健派・顕如三男准如)と
裏方(抗戦派・顕如長男教如)に分かれます。
秀吉は、穏健派に跡を継がせた本願寺に寺領を与え、七条堀川に
現在の西本願寺が建てられました。

阿弥陀如来を本尊とする本願寺、その阿弥陀堂と向かい合うように
盧舎那仏を鎮座させた大仏殿を建立、その間を結んだ路が
正面通でした。(正面通の呼称は後に定着したものです)

さて西本願寺の無料駐車場にクルマを停めたまま(本当は駄目
なんでしょうが、参拝も済ませたことだし・・・)正面通を東へ
方広寺の方向へ歩いてみます。(^_^ゞ



後ろを振り返ると重文の総門、堀川通越しに西本願寺が見えます。
この辺は珠数屋町、北隣りは仏具屋町という町名。
正面通はまさに仏具店が数珠つなぎで軒を連ねています。

〈山本亀太郎商店〉創業1710年(元禄元年)

〈京念珠ぜにや〉



いつ見てもユニークな西本願寺伝道院、1895(明治28)年に
設立された真宗信徒生命保険株式会社の社屋として、
東京帝国大学教授 伊東忠太の設計により建築されたものです。


〈本願寺伝道院・重文〉



〈鍵長法衣仏具店〉

西洞院通(にしのとういんどおり)、若宮通(わかみやどおり)の
交差を過ぎれば新町通(しんまちどおり)で突き当たってしまいます。



東本願寺は“右左”へ500m、西本願寺は“後”へ300m・・・


永井株式会社・一疋屋(いっぴきや)座布団専門の老舗のようです。

東本願寺へ行くため、どん突きを右に。新町通を南に七条通に出る
手前でユニークな建物を発見。





黒塗りの壁、何とも言えなず興味を覚える建物でしたが、正体不明。

七条通を東へ、烏丸の角を北に上がればもう東本願寺です。



三方を掘に囲まれ、境内に入るには橋を渡って門をくぐります。



西本願寺も堀がありますが、水が涸れていて美しく無いのですが
東本願寺にはちゃんと水が張られています。だから・・・



アオサギさんを見ることもあります。交通量の多い烏丸通沿い、
歩道は観光客がぞろぞろ歩いているしバス停の側なんだけど、
ほんの数メートルのところから写真に撮れます。
肝の座ったモデルさんですね♪
写真を撮っていると、観光の方がすぐ先にカワセミがいたよって
教えてくれました。見に行きましたが、すでに飛び立ったのか
姿は確認できず。でも近くの渉成園(しょうせいえん)の池には
いると聞くので、ここに飛んできても不思議ではないのですが・・・



京都タワーは今でも「お東さん(東本願寺)のローソク」って
呼ばれることがあります。(^_^ゞ





〈阿弥陀堂門〉
東本願寺も西本願寺と同じように阿弥陀堂門、御影堂門がありますが、
位置が逆。阿弥陀堂、御影堂(ごえいどう)の伽藍配置が真逆で、
東本願寺の場合は南に阿弥陀堂、北に御影堂が建っています。
畳の向きも西本願寺の南北方向に対し、東本願寺は東西方向。
柱は西本願寺が角柱を使うのに対して、東本願寺は丸柱を使うという
徹底した対向心?他にも仏具まで含めると48通りも相違点があるとか。
同じ教義をもつ宗派なのに・・・
どうやらこれも家康が秀吉色を払拭させるために企てたものか?
まんまと門徒勢力を2分されている気がしますね。


〈左:阿弥陀堂、右:御影堂〉

御影堂は、世界最大の木造建築物と言われています。
・・・それって、奈良の大仏殿じゃ?
確かに高さは東大寺大仏殿の方が高いのですが、建築面積は東本願寺
御影堂の方が大きいのだとか、容積は同等と思われています。
ちなみに秋田県大館樹海ドームやティラムーク航空博物館(アメリカ)、
メトロポール・パラソル(スペイン)も世界最大の木造建築物と
言っているようですが、構造があまりにも違うので無視しましょう。



御影堂の修復が終わったと言うのに、今は阿弥陀堂の修復をやっている
ようですね。現在阿弥陀堂は閉鎖されていますが、今年の春までと
いうことなので、もうすぐ終わりますね。






手水舎も立派。外国の観光客の方かな、図解を見ながらかマナー通りに
されていて、何かほほえましかった・・・(^_^ゞ



御影堂門、これまたデカい。国内最大級の木造の山門であることが
最近の調査で確認されたとか。東大寺南大門(国宝)、京都の知恩院
三門(国宝)を越えているそうです。ここのは登録有形文化財ですが・・・



御影堂門を出ると・・・



噴水♪ 正面通だから小便小僧でもいいのですが・・・(^_^ゞ



ぐるっと回って北側(花屋町通)はこんな具合。



ここ、京都的には異質?でも好きな風景です。



2016.1/11、東本願寺にて。

さるの名残りは正面に。

2016-02-19 22:24:47 | 京都徘徊記
何のこっちゃ分からんタイトルですが、今度は正面通り界隈を
うろうろしてみました。
正面通りって? 京都の東西を走る路なんですが・・・
例の「京の通り名おぼえ唄」には出てこない。

丸・竹・夷・二・押・御池、姉・三・六角・蛸・錦、
四・綾・仏・高・松・万・五条、雪駄・ちゃらちゃら・魚の棚、
六条・三哲・通りすぎ、七条、越えれば、八・九条、
十条、東寺でとどめさす。

六条通と七条通の間なんですがね、歌詞にはありません。
「三哲」は現在の塩小路通のことです。
この正面通り、平安京には無かった。豊臣秀吉が造った路ですからね。
今の京都の街は秀吉が再興した街と言っても過言じゃないです。
応仁の乱、戦国時代によって焦土と化し、都の面影は全く無く惨憺たる
有り様だったようで、御所も廃墟のようだったとか。

鎌倉(源氏)・室町(足利氏)のように幕府を開かず、朝廷から地位を
得て天下統一を図った秀吉、大阪城築城とともに京都の街を復興?蹂躙?
都を完全支配するため大改造、復興に乗り出します。

街を守るため城塞化する御土居、御所の修築、聚楽第の創築。
天正の地割りと言われる京都改造を行ないました。新しい路を造り
寺院なども強制移転させ寺町を形成し、職業別に地区を割り当てる
近世城下町的な都市形態にしました。

現在、大和大路から千本通まで途切れ途切れに走る「正面通り」、
豊臣秀吉が京都に残した興味深い足跡のひとつです。



その起点になるのが方広寺(ほうこうじ)と豊国(とよくに)神社。






〈後陽成天皇宸筆による『豊国大明神』の勅額〉オリジナルは唐門に。

〈手水舎・五七の桐紋〉

秀吉は、天正14年(1586)松永弾正(久秀)の焼き討ちにより焼損した
東大寺大仏に代わる大仏を京都に造立することを発願。
文禄4年(1595)、ここに造られた大仏殿は、高さ約49メートル、
南北約88メートル、東西約54メートルという史上最大級の木造建築。
境内も現在の方広寺・豊国神社境内のみならず、京都国立博物館、
妙法院、智積院、三十三間堂まで含む広大なものでした。
盧舎那仏(大仏)も奈良の14mを上回る19m、市内を見守るように
西向きに置かれました。その先に真っ直ぐな道路(後に正面通りと
呼ばれる)を敷き、突き当たりに本願寺(西本願寺)を建てました。
当時の本願寺は大宮通から千本通まであり、その先に今のように
正面通りはありませんでした。


〈豊国神社 唐門・国宝〉

大仏はというと、開眼法要前に京都を襲った大地震によって
完成1年後に崩壊、秀吉もその2年後に亡くなってしまいます。
大仏殿と本願寺(西本願寺)を繋ぐ正面通りは、徳川によって
建てられた真宗本廟(東本願寺)で、寸断されてしまいます。

〈唐門・石灯籠〉

〈唐門・目無しの鶴〉

秀吉はその遺言により東山の阿弥陀ヶ峰の山頂に葬られ、その麓に
秀吉を神「豊国大明神」として祀る神社が創建されたのが、豊国神社の
始まり。今よりずっと東の位置にありました。
大坂夏の陣で豊臣家滅亡の後は、家康によって神号は廃され社領も没収。
秀吉の正妻、北政所ねねの願いで社殿だけは残されましたが、参道上に
新日吉神宮(いまひえじんぐう)をわざわざ移設、参道を塞いでしまい
社殿は放置され荒廃していったようです。
江戸時代はついに復興されることなく、維新になリ明治天皇が秀吉を
「天下統一を果たしたが、幕府を作らず天皇を尊重した人物」と
再評価、1880年(明治13年)現在の場所に社殿が再建されました。

唐門の左右にある古い石灯篭。これは秀吉に仕えた武将達から
寄進されたもので、創建当初は56基もあり豊臣の威光の大きさを
知らしめましたが、今は8基が現存するのみです。



再建にあたり、南禅寺の塔頭・金地院から移された唐門。西本願寺、
大徳寺の唐門と並び、国宝三唐門に数えられる見事な門ですが
もともと伏見城の城門であったと伝えられています。
欄間の彫刻に左甚五郎作の鶴が三羽ありますが、いずれも目が彫られて
いません。目を彫ると飛び立って行くからだそうで・・・


〈唐門から拝殿、その奥に本殿〉
本殿横には北政所ねねを祀る貞照(さだてる)神社があります。

〈千成ひょうたん絵馬〉秀吉の馬印にちなんで。

〈十二支みくじ〉



十二支の変わりみくじが揃えられるのは、ここだけかな?



私は巳年ですが、今年の干支「申」、秀吉のあだ名「猿」にちなんで
猿の変わりみくじをお持ち帰り♪ 
みくじの内容には興味が無いのですが、「大吉」でしたよ。(^_^ゞ




さて、隣りには「方広寺」があります。豊国神社との境は無いですが。

〈方広寺 本堂・大黒天堂〉

〈花天井〉
大黒天堂には極彩色の天井画があるようです。写真の花天井は
平成になってからのものだとか。

何と言ってもここには、あの有名な鐘が・・・



日本史上最大のなんくせ?いちゃもん?いいがかり・・・
方広寺鐘銘事件の梵鐘、これに刻まれた「国家安康」「君臣豊楽」の
銘文に家康が因縁をつけ、大阪冬の陣、夏の陣で大阪城を攻め
豊臣家を滅亡に追いやったきっかけですね。

この事件から遡ること14年前、家康は関ヶ原の戦いで勝利し、実質的に
天下を取ったようですが、それはあくまで豊臣の家臣としての話。
関ヶ原でも豊臣家を逆臣石田三成から守るという大義名分で戦った。
下手に豊臣を攻めようものなら、第二の明智光秀になりかねない・・・
虎視眈々とチャンスを窺い、豊臣の力を弱めるため秀頼、淀(茶々)に
各地の神社仏閣の再興、寄進を進言。この方広寺もその内のひとつ。
莫大なお金を使わすも、一向に豊臣の経済力は弱まらず、
家康自身はすでに73歳、跡継ぎはぼんくら・・・
それに反して豊臣秀頼は21歳(年齢は1914年冬の陣の時点)、頭脳明晰、
帝王教育をうけた天下人として立派に見え、家康は焦りまくり?
無理からでも豊臣家を滅ぼすきっかけを掴んだってことでしょうね。


〈方広寺 鐘楼、梵鐘・重文〉
鐘楼にも草花や鳥獣と人の現世・来世を描いた天井画が残されています。
知恩院・東大寺の梵鐘と並び日本の三大梵鐘と言われます。

扉が閉ざされていたので、中に入れず梵鐘の内側まで見られません
でしたが、内側には何やら淀君の恨みの姿が浮かんで見えるとか!
京男さんが写真を撮られてました。


さて、豊国神社・方広寺の駐車場にクルマを停めたのですが、
参拝者のみ無料、境内からは出ないようにと・・・監視の方も居ます。
しかもちょうど私のクルマの横に。(^_^ゞ
仕方が無いので、家内をクルマに残し私だけ境内を出て・・・


〈耳塚〉
あ、ちゃんと係の方にもことわりを入れましたよ。
耳塚の写真を撮りに行っても良いですかって。(^_^ゞ



横にある耳塚公園、どう見ても児童公園。この意味を知っていたら
はしゃげないかも・・・



方広寺から正面通を西へ100m。高さ約7メートルの墳丘で、天辺に
五輪の石塔が立っています。
織田信長が描いた大陸支配の夢を実現しようとした豊臣秀吉が、
朝鮮半島に出兵・侵攻した文禄・慶長の役の際、戦功の証しとして
討取った朝鮮・明国兵の首級の代わりに、耳や鼻を削ぎ塩漬けにして
持ち帰ったものを供養した塚です。
その数、なんと12万6千人分とも言われています。残忍なようで
複雑な気分になりますが、秀吉は敵を弔い供養するため、
京都五山の僧を集め盛大な法要を行っています。


耳塚の写真を撮るだけの約束ですが、ちらっと近くの町家の写真も…


〈なかにしや京扇〉


〈甘春堂(かんしゅんどう)〉
創業1865年、現在6代目だそうです。2代目が創作した「茶寿器」って
菓子が最近も話題になっていましたね。一見、抹茶茶碗に見えて
お薄も点てられますが、バリッとかじって食べてしまえる。
ちょっとビックリする可笑しなお菓子です。(^_^ゞ



本店は川端通正面の角、ここは豊国神社前・東店。それと清凉寺前に
嵯峨野店があります。
本店は正面橋東詰め、ちなみに五条大橋と七条大橋の間にはこの橋しか
ありません。一条は一条戻橋と呼びますが、二条から七条までは大橋と
なっているのに六条大橋はありません。六条通も河原町から堀川までの
わずかな間、実質的には烏丸までかな。その先は車も入れませんし。

さて、正面通りレポ、次回は西本願寺の無料駐車場に停めて・・・


2016.1/11、方広寺にて。

風情でおもてなし?

2016-02-15 15:44:44 | ランチ/カフェ
京都・岡崎動物園の北側にある蕎麦処『権太呂・岡崎店』
耳を澄ませばライオンの咆哮が聞こえるかも・・・(^_^ゞ



権太呂は京都だけに3店舗を構える麺料理店で、その起源は明治時代。
老舗の風情を感じさせる店構え、演出ですね。


〈茶室・霞月(かげつ)席〉
門をくぐって直ぐ左に茶室があります。この霞月席は明治維新まで
徳大寺家という清華家の格式を誇る公家の屋敷内(現・同志社大学
構内)に建てられていたもので、明治になり京都華族会館の時代に
当地に移転されたもののようです。
一般的な茶室に比べ躙り口が破格の大きさであったり、点前座と
客座の位置が逆、水屋(洗い場)がなく点前座と兼用だったり、
通常点前座の上は亭主の客に対する謙譲の心を形に表す手段として、
天井を客座より一段落とす「落天井」の手法を使われることも
ありますが、あまりにも高さが違い過ぎるなど、全国的に見ても
珍しい茶席になっているそうです。



その茶室が眺められるところに席をとりました。



庭も見られて風情たっぷり・・・
さすがに寒いので、外のテラス席は遠慮しました。
つか、以前は縁側だったと思うのですが、いつの間にか
テラス席になってるんやね。(^_^ゞ



ここの名物料理は「京風うどんすき 権太呂なべ」、
TVなどでよく取材されたりしています。一人前4,000円なので
お昼に気軽には・・・



で、今回も家内はきつねそば。私は鶏なんばでした。(^_^ゞ



鶏なんばは、プラス500円のお好み御膳で鶏なんば御膳にしました。
自家製そば実豆腐・季節ごはん(小)・香の物がつきます。



そば実豆腐は香ばしくて美味しかったですが、お蕎麦は特に・・・
私的には出汁が少し濃い気がしました、麺も特別な感じじゃないし。
御膳にしたら1,600円、コスパ的にはどうかな?(^_^ゞ

出汁へのこだわりなど『HP』でかなり書かれているのですがね。
おうどんには合うのかも・・・



お店のサービスや雰囲気は悪いものではありませんし、この界隈では
珍しく駐車場もあるので便利♪
ただこの界隈、行列のできる麺屋さんが多い中、ここはすんなり入れる
ことが多いです。(^_^ゞ
気になったのは「食べログ」の評価が権太呂3店舗の中で、ここだけ
低いのが・・・何でだろ?
ともあれ、風情も味わえるのでアリかと思います。




この日は京都市美術館へ日展を鑑賞に。毎年、招待券をもらうので。



平安神宮の前も再整備が整いクルマが閉め出されたので、
歩行者にはスッキリのびのびできるようになりましたね。
「岡崎プロムナード」と呼ぶようです♪



平安神宮前の工事がやっと終わったと思ったら、今度はこっちが・・・
発掘調査のようですね。



円勝寺跡・成勝寺跡・岡崎遺跡、埋蔵文化財発掘調査だとか。
具体的には平安時代後期に造営された六勝寺(寺名に「勝」のついた
六つの寺)である円勝寺跡・成勝寺跡の推定地だそうで。
すでに色んなものが発掘されているようです。

あれ?国立近代美術館まで工事中?
こちらはお化粧直し程度かな、予定ではもう済んでいるはずです。



府立図書館の隣りには懐かしの市電が・・・



「岡崎・市電コンシェルジュ」だそうで、要するに観光総合案内所。
ま、岡崎は1895(明治28)年に開催された第4回内国勧業博覧会に
合わせて、琵琶湖疏水による電力を用いた鉄道が敷設された
市電ゆかりの地でもあるので、市電を使うのもイイかもね。



激増する例の国の観光客、それでも京都の場合、爆買い旅行とは
縁が無いのか欧米観光客の比率もまだ高い方かもね。




いつもスルーしていましたが、こんなのも「ワグネル博士顕彰碑」。



ドクトル ゴットフリード・ワグネル氏の記念碑、結構立派なものが。
1868(明治元)年、長崎県に招聘され来日されたドイツ人。後に京都や
東京で明治時代の日本の工学教育で大きな功績を残され、日本に
骨を埋めることに。青山霊園に埋葬されているそうです。
日本の近代化に貢献した恩人ですね。
京都では耐火煉瓦を用いた新式の陶器焼成窯を発明。陶磁器、七宝、
ガラスの製法などを指導。島津製作所を創業した島津源蔵に技術指導を
行なったりもしたそうです。
この頃に贈った木製旋盤が島津創業記念資料館に現存しています。



2016.1/17、岡崎界隈にて。