カッパのロードスター

幌を開ければFeelin`good。カッパーレッドの
路渡☆くんとの楽しいドライブ日誌。

三十三間堂、算数計算どぉ?

2016-03-27 18:30:37 | しゃじ
行かれたことがある方も多いでしょうね。天台宗妙法院の境外仏堂、
通称:三十三間堂。
本堂は国宝、中には国宝の木造千手観音坐像、木造風神・雷神像、木造
二十八部衆立像と重文の木造千手観音立像(1001体)が詰まっています。



後白河上皇が平清盛に命じて1165年に創建したもので、もともとは
院政を行なう離宮として建てた法住寺殿であり、その本堂でした。
創建当初は五重塔などもある本格的な寺院だったようです。

〈法住寺殿(ほうじゅうじどの)・址碑〉


後白河天皇は在位わずか3年で譲位した後、上皇となり後白河院として
34年に亘りここを院御所とし、院政を行ないました。
当時の法住寺殿は広大なもので南殿、西殿、北殿の三御所があり、上皇の
住まいがあった南殿に建てられたのが蓮華王院(三十三間堂)です。

当時は大きな池があったようですが、今は名残りだけ・・・



後白河院の治世は保元・平治の乱、治承・寿永の乱と戦乱が相次ぎ
二条天皇・平清盛・木曾義仲との対立により、幾度となく幽閉・院政停止
に追い込まれますがそそのたびに復権を果たしている。
大河ドラマ・平清盛をご覧になった方は思い出して下さい、松田翔太を。
印象的だった伊東四朗は白河上皇ですからね。(^_^ゞ

ま、この頃は平安末期、権力争いで乱れに乱れていたので、なかなか
頭の整理が難しいです。この法住寺殿も1183年、木曾義仲の夜襲により
焼失します。ただし三十三間堂は奇跡的に焼失を免れました。

法住寺殿は1191年、源氏の援助により再建されますが、後白河院は
戻ってすぐに体調を崩し、翌年1192年春に崩御されます。
この年号、1192年。私らは「いい国作ろう鎌倉幕府」の語呂合わせで
日本初の武家政権、鎌倉幕府成立の年として覚えたのですが・・・
今は「いい箱作ろう鎌倉幕府」、1185年が新定番のようですね。
しかも初の武家政権ではなく平氏の武家政権に次ぐ。となっている。



〈法然塔・名号石〉        〈写経奉納塔〉
後白河法皇の13回忌にて、法然上人が「六時礼讃」という法要を
修したことを記して建てられた石塔。(鎌倉時代)
参集の人々に紙筆を与えて写経を勧めたという。
南無阿弥陀仏と刻まれた文字は法然上人の筆跡から起こしたもの。

      〈夜泣き泉〉


平安時代、堂僧が夢のお告げにより発見した。夜、水の涌く音が
人のすすり泣きに聞こえることからこの名が付いたという。
やがて地蔵尊が祀られ、子どもの夜泣き封じの信仰が生まれた。


〈手水鉢〉
「いつも冷たくて美味しく、お腹を痛めることのない極楽井で、
汲んでも尽きず、汲まないときも余ることのない不思議な泉」と
古今著聞集に記されているそうです。
あくまで伝承で、今は当時と位置も違い飲料水ではありません。

〈鐘楼〉

      〈東大門〉


〈東大門からつづく回廊塀〉

修復されたばっかりか(一部まだ途中)朱塗りが鮮やかでした。
本堂のくすんだ佇まいとは対照的ですが、創建当時の本堂は
朱塗りで内部も極彩色だったそうです。いずれ復元されるかも。




訪ねたのが2月14日だったから、木瓜の花と蝋梅。季節外れですね。



南大門、西門もありますが、本堂正面に位置するこの東大門が
正門なんでしょうね。


ここも荒廃していたのを秀吉、秀頼が再建に尽力しました。
これが太閤椿かな・・・?



護摩焚きの跡かな?

庶民からは「頭痛山 平癒寺」と言われていたようです。
今でも頭痛封じのお守りもありますが・・・
その訳は後白河上皇が酷い頭痛に悩まされていたところ、上皇の前世は
蓮花坊という修行僧で、その髑髏が熊野・岩田川に沈んでおり、髑髏を
貫いて柳が生え、風に揺られて柳が当たることが頭痛の原因だとの
お告げを受け、川底より引き揚げた髑髏を観音像の頭に収めて祀ると、
以後頭痛は消えたとか。柳は棟木に使われたとも言われています。

しかしこの逸話、江戸時代の浄瑠璃によって伝えられており、
真意のほどは・・・実際、観音像の頭に髑髏が収められている事実は
ありませんし、棟木に柳は使われておりません。
蓮華王院の名がこの逸話によるものだと言われたりしますが、そもそも
千手観音の別称は蓮華王ですし。(^_^ゞ
とはいえ、ここでは毎年成人式の日の「大的大会:通し矢」と同じ日に
「楊枝のお加持(やなぎのおかじ)」という頭痛平癒祈願の法要が
行なわれています。




本堂正面の向拝、蟇股(かえるまた)の部分に彫刻があります。
彫刻は犀(さい)・獅子・麒麟の3種類。西本願寺唐門の彫刻に似た
雰囲気があります。これも極彩色だった名残りはあるのですが・・・


〈麒麟〉             〈犀〉


〈獅子〉




鬼瓦も国宝に相応しい立派なものでした。
阿形と吽形が見られ、梵字も書かれています。




三十三間堂、さすがに凄いお堂です。地上16m、奥行き22m、南北120m
の長大なお堂は、世界一長い木造建築だと言われています。

ご存じのように中はもっと凄いですが、撮影禁止なので・・・
ちょっと算数レベルの計算も交えて数字遊びを。(^_^ゞ

まずは「三十三」という数、これは観音菩薩の変化身三十三身に
もとづく数を表しています。この数にしたがって三十三間なんですね。
ここで言う「間(けん)」は長さの単位ではなく、社寺建築の柱間の
数を表す建築用語です。
柱間が33あるのは本堂の内陣で、建物外部から見る柱間は35あります。
そもそも1間は約1.82m、×33なら60mほどなので半分にしかなりません。
三十三間堂の柱間は2間だとも言えるのですが・・・ムリヤリ?

堂内中央に本尊千手観音坐像を安置。その左右には階段状の仏壇に
なっていて、各10段50列に1,000体の千手観音立像が並んでいます。
壮観、圧巻、おかんもビックリですね。しかも一体一体の表情がすべて
異なっている。体型も微妙にぽっちゃりだったり、痩せてたり・・・
1体見るのに30秒でも1000体見ていたら30000秒=500分、
8時間以上かかります。(^_^ゞ

千手観音さん、頭上に11の顔をつけ左右に20本づつ、両脇に40の手が
ついています。1本につき、それぞれ25の救いの働きがあるといわれる
ので、40×25=1000。つまり「千」の救いがあると考えられています。
千の手が千体、百万もの救いの手が・・・

ところで、千体、千体と言ってますが、千手観音立像は本尊の背後にも
1体あり、計1001体なんです。その1体だけ室町時代に作られたもので、
かつては各地に出張してご寄進を募るために用いられていそうで
「行像尊」の名前で呼ばれています。
これでご本尊も入れれば、1002体の千手観音像が置かれていることに。
ただし、5体は東京・京都・奈良の国立博物館に寄託されていますし、
年に10~20体は専門家による修理・清掃が施されます。その立ち位置
には「現在修復中」の看板が置かれています。
フルメンバー揃うことはまずありませんが、もし揃えば合掌印の2本
真手(しんしゅ)も含めて、42,084手と12,024の頭が見られる?



現在の三十三間堂は、平清盛が後白河上皇のために建てましたが、
実は先代、平忠盛(清盛の父)も鳥羽上皇(後白河上皇の父)のために
同様な三十三間堂を造くっていました。お互い父の真似をした?
左京区岡崎にあったようですが、現存していません。
1185年、京都で起こった大地震によって崩壊してしまいました。
折しも平家一門が壇ノ浦で滅亡した直後のこと、なんとも歴史の
奇縁を感じるできごとです。



この日本最長の軒下(トップ画)を使って行なわれたのが「通し矢」。
全長(小口から小口まで)121.7m、高さ4.5~5.3m、幅2.36m。
三十三間堂の西側軒下を南から北に矢を射通す競技です。いくつかの
種目があったようですがメインイベントは、夕刻に始め、翌日の同刻
まで24時間一昼夜1万本前後の矢を射続ける「大矢数」が有名です。
軒下だから、かなり強い弓で座ったままの姿勢で的をめがけて射る。
10,000本の矢を放つには、8.64秒に1本、それを24時間射続ける
ことになります。まさに“矢継ぎ早”・・・
ちなみに総矢数や通し矢(命中)は「矢数帳」に記載されています。
最高記録はと言うと、紀州藩士・和佐大八郎の総矢数13,053本、
通し矢8,133本。このとき大八郎は18歳、なんとも凄い!これって、
36400秒(24時間)÷13053本=約6.62秒。的中率は約62.3%。



現在は「大的大会」という通し矢にちなんだ大会が毎年、成人式の
日に行なわれています。
新成人の晴れ着姿での競技は、正月ならではの華やかさで、
京都の風物詩のひとつです。
これは、お堂の西隣の広場で60m先の的をゆっくり狙います。(^_^ゞ


さて、写真が撮れるのはお堂の外観と周りだけ・・・ザンネンナコトニ!


〈久勢稲荷大明神〉        〈宝篋印塔〉


      〈太閤塀〉
安土・桃山時代、1588年頃築造。方広寺の遺構。
豊臣秀吉が方広寺大仏殿を創建した際、蓮華王院(三十三間堂)も
方広寺の境内に取り込まれたためその工事に伴って築造されたもの。
かつては西にもありましたが、現存する当時のものは南の塀のみ。


〈歌碑・梁塵秘抄〉        〈百僧供養碑〉


〈西門〉
内側から見た画像です。外側には「洛陽古跡 通し矢射場」の木札が
掲げられています。この門から外部への出入りはできません。
もともと秀吉が方広寺を造った際に建てられた西大門は、
東寺の南大門として移設され、現存しています。


修学旅行の定番スポットなんでしょうが、京都に住んでいると
逆に行く機会がなく、初めて訪ねましたが素晴らしいところですね。
ここもまた歴史の坩堝、ディープなドラマを感じられました。


2016.2/14、三十三間堂(蓮華王院)にて。

舌も抜かれそうな・・・

2016-03-25 01:41:22 | しゃじ
家隆山光明遍照院石像寺(かりゅうざん こうみょうへんじょういん
しゃくぞうじ)…名が長ッ!
通称「釘抜地蔵」、くぎぬきさん。
ちょっと駈け足状態でしたが、初めて訪ねてみました。



819年、弘法大師空海が開いたとされるお寺、石像寺(しゃくぞうじ)。
名前に“石像”とあるように、弘法大師が唐より持ち帰った石に、自ら
地蔵菩薩の尊像を彫り、人々を様々な苦しみから救うことを祈願した
のが始まりとされています。



西陣・千本通上立売(かみたちうり)上ルにあるこじんまりした
お寺ですが、京都では知らない人は居ないのでは無いかと思える
ほど名前は知れ渡っています。



人々の諸悪・諸苦・諸病を抜き取る「苦抜(くぬき)地蔵」と
言われていたのですが、「釘抜き地蔵」に変わったのには
こんなエピソードが・・・室町時代に両手の痛みに悩まされていた
商人が苦抜地蔵にすがり願掛けしたところ、夢の中に地蔵菩薩が現れ
「お前の前世が人を恨み、藁人形を作って、その両手に八寸の釘を
打ち込み、呪ったことが原因だ」とお告げになり、前世のしたこと
であり、真面目なお前に報いがあるのは可哀相だからと、両手に
刺さった釘を抜かれたのだとか。
夢から覚めると痛みは消えており、苦抜地蔵にお礼参りに行ったところ、
お地蔵さんの前に血の付いた2本の八寸釘が置かれていた・・・
と言うお話です。

そんなことで「釘抜地蔵」と呼ばれるようになったのですが、
中門の前に置かれた釘抜き、デカッ!
これを使えば、かなり重症の痛みも抜いてくれそうな・・・(^_^ゞ

      〈開山大師堂/観音堂〉

〈絵馬堂?〉床几が置かれ、休憩所になっていました。





八寸釘や釘抜きと釘がセットで括り付けてある板があちこちに見え
ますが、これは願い成就して苦が抜けた暁に、釘抜地蔵菩薩様に
御礼として奉納した絵馬なんです。



〈本堂〉

本堂前にある巨大なブロンズの釘抜きモニュメントは、日本画家・
堂本印象氏がご自身の母親の満願成就のお礼に奉納されたものです。

この釘抜きなら舌でも抜けそうですね。嘘をついたら閻魔さまに
舌を抜かれる・・・子供の頃、そう言われたものです。
データー改ざん、デザイン盗作、経歴詐称・・・云々
今こそそんな 脅し 躾が必要なのでは?




ご本尊は秘仏で地蔵盆の際しか御開帳されませんが、そのご本尊・
地蔵菩薩からは結縁紐(けちえんひも)が伸びており、紐の先には
左手に宝珠、右手に五鈷杵(ごこしょ)が結ばれています。
それを撫でるなり握るなりして願い事を伝えるのかな・・・

住職さんでしょうか、読経されていました。この住職さん、心の痛みを
抱えてお参りにこられる方の力になればと、臨床心理士の資格をとり、
「心の相談室」を開いてカウンセリングされています。



本堂の軒下にも例の絵馬がずらりと・・・
このセット、ホームセンターでは置いてないだろうな。(^_^ゞ



〈阿弥陀三尊像〉【重文】

本堂背後の小堂に安置された石造阿弥陀如来像、脇侍像に観音・勢至
菩薩像が立っています。鎌倉時代、元仁元年(1224)に彫り、翌年に
開眼供養したという銘がある貴重なものだとか。
堂内には石造弥勒仏立像もあり、これも重文。

      〈おさすり地蔵さま〉

〈撫ぜ仏・賓頭盧尊者(びんずるそんじゃ)さま〉

どちらも病んでいる部位を撫でると除病の功徳があるといわれています。




本堂の側面、裏手の壁は・・・!
千枚もの釘抜き絵馬が貼られています。これだけ御利益があったのか?



ね、すごいやろ・・・(^_^ゞ


〈開山大師堂/観音堂の中〉
弘法大師の後ろに、行基作という藤掛観音菩薩」が祀られている。
写真、真っ黒で分からへんけど・・・
ただ、寺院内の西陣織と思われる金襴がやたら目につきました。



手水舎には深い井戸があり、つるべのバケツで水を汲むらしい。
ここには「弘法三井」と呼ばれる弘法大師が掘られた井戸が
あるのですが、それは境内の奥、墓地の中にあります。
加持水といわれるありがたい水が今も涌いているそうです。



不動明王やら十一面観音、ここはいろいろ願掛けができそうですね。




さすが庶民的なお地蔵さんがご本尊だけあって、信仰の場でもあり
地元の方にとっては憩いの場、コミュニティの役割も果たしている
そうです。毎月24日(地蔵尊の縁日)は「地蔵しるこの日」として
住職さんの法話のあと、「おしるこの唄」をみんなで歌うのだとか。
その後、おしるこのふるまいも頂けるようです。
私が訪ねたのも24日でしたが、気がつきませんでした・・・



2016.01.24、釘抜地蔵にて。

枝垂れて咲くや、近衛の糸さくら。

2016-03-22 21:40:58 | 花だより
京都御苑、近衛邸跡の糸桜がもう見頃どした♪

御所で一番早く咲く桜、桃林のももの花とも一緒に楽しめます。



桃林はちょうど満開、まだ見頃です。





















御苑の梅、桃、桜もいいけれど、見逃せないのが木蓮の花。
見事な木が何ヵ所かにあります。



白木蓮(ハクモクレン)、桃林の北だったと思います。



木蓮は地球上で最古の花木といわれており、1億年以上前から
すでに今のような姿だったそうです。
単に木蓮(モクレン)という場合は、赤紫の縦長な花を咲かせる
別名:紫木蓮(シモクレン)のことで、白木蓮や更紗木蓮は
近縁種とされています。



更紗木蓮(サラサモクレン)、木蓮と白木蓮のハイブリッドね。



中立売御門を入って直ぐのところにあるので、人気の木です♪
ちょうど今が見頃、白木蓮は少し終わりかけ、木蓮はこれからです。




こちらは木蓮より野趣を帯びた「辛夷(こぶし)」。
英名:マグノリア(Magnolia)は、辛夷のこと。
木蓮は Lily magnolia、白木蓮は Yulan magnolia と呼ばれます。
コブシは別名:田打桜(たうちざくら)とも呼ばれ、この花が
咲き出す頃から田植えの準備をするからだとか。
純白の花が多い中、御苑のコブシは紅色が入っていました。


やっと近衛邸跡に着きました。今は屋敷はありませんが
池を含む庭園は保存されています。
近衛家は五摂家の一つで、多くの摂政や関白を輩出した名家です。
明治時代、3度も総理大臣を務めた近衞文麿も当主でしたね。



ここには30本ほど、数種類のしだれ桜が植えられています。
御所で真っ先に咲き始め、順次咲いて行くので1ヶ月以上楽しめます。






先日、すーさんのブログで伏見の長健寺の糸桜が見頃だと知り・・・
ならば御苑もと思い見に来たら案の定、見頃でした♪
実は長健寺の枝垂れ桜もここの枝垂れ桜も桜守は佐野藤右衛門さん。
どちらも「糸桜」と呼ぶので、きっと親戚の木?

もともと近衛邸の池のほとりは古くから糸桜の名所だったようで
孝明天皇が詠まれた「昔より名には きけども 今日みれば
むべ めかれせぬ 糸さくらかな」などの歌が残されています。
「昔から評判を聞いてはいたけれども、今日こうして見てみると、
なるほど目が離せなくなるほど美しい糸桜であることよ」ってな
意訳になるでしょうか・・・
「見れとやあかぬ風をすかたの糸さくら 花のいろ香は・・・」
と続きます。




近衛池の水面に吹く春風のようですね♪



御所は野鳥の宝庫ですが、この池の周辺は特に人気スポット。



ルリビタキの女子ですかね、あまり人を恐れない可愛いコです。



やはりここでもスターは、このコ。わざわざ人前に出てくる感じ?



カワセミくんが飛んで来ると、何処からとも無く大砲抱えた
アマカメさんも現れ、一斉に連射音が轟きます・・・
超ズームとは言えコンデジで狙っているのは私くらい。
はっきり言ってウイてました。(^_^ゞ


この日も半数以上は海外からの観光客?
人気のようですね日本の桜。









京都もこれから本格的なさくらシーズン。
日本の、京都の春の風情を楽しんでもらいたいものです。










2016.3/21、京都御苑 近衛邸跡にて。

初御代桜、はらはらと。

2016-03-20 17:16:15 | 花だより
滋賀県大津市の皇子が丘公園に早咲きの桜が観られると知り、
昨日観に行ってみました。
今年は例年より2週間ほど早く(3/8)満開を迎えたということで
もう散ってしまったかなと思いつつ・・・



訪ねるのは初めてだったので、広い公園内をあちこち探して・・・



まだ何とか散り終わる寸前の零れ桜(こぼれざくら)が観られました。






『大津・皇子が丘公園』
は、皇子山総合運動公園、皇子山球場と
隣接する大津市街を一望できる丘にある森の公園。
桜越しにびわ湖が見えたりします♪






前日は雨でしたしねぃ、ほんと桜は徒名草(あだなぐさ)。
その儚さがまた愛おしくもありますが・・・
あ、本格的な桜の季節はまだこれからですね。(^_^ゞ



ここのは早咲きの桜「初御代桜(はつみよざくら)」という
カンヒザクラにケイオウザクラを交配し誕生した品種です。
花色は淡紅紫色、小枝でも多くの花を付ける美しい桜で
小高木状であまり大木にはなりません。







満開の華やぎは観られませんでしたが、
散り桜も風流なもの、桜吹雪の中での観桜となりました。










鳥撮りができるかなと、久しぶりにSX50HSを持ち出し・・・


〈ヒヨドリ〉
ん~、ピンボケばかり・・・撮り方をもう忘れたかな。

〈コゲラ〉


エナガちゃん、ちょっと羽根が桜色に染まってました・・・


〈エナガ〉

高い木の上の方に何やら鳥の巣が・・・



トンビさんの巣でした♪


〈トビ〉


地面に目を向けると・・・



落ち椿やフウの実が♪



楓(フウ)の実は大量に転がっていました。



まっくろくろすけ(ススワタリ)の群れみたいですね。(^_^ゞ


池に映る紫陽花の花殻(はながら)、これは風流かな?


2016.3/19、皇子が丘公園にて。


おかめさん

2016-03-18 23:48:49 | しゃじ
千本釈迦堂(大報恩寺)は、おかめ伝説発祥の地といわれています。

ここの本堂を建築する際、棟梁を務めた大工「長井飛騨守高次」の
妻がおかめさん。その物語はHPによると・・・

「高次が重要な柱の寸法を間違えて短く切り過ぎた際、枡組で補えば
良いと助言して、窮地を救いながらも「専門家でもない女性の知恵で
棟梁が大仕事を成し遂げたと言われては夫の恥」と上棟式を迎える
前に自害した」
有名な「おかめ」のふくよかな笑顔は明るい人柄を今に伝えています。
悲話の主人公「おかめ」の“助け合う円満な夫婦であり続けたい”
という強い思いがお参りする人を応援してくれるのかも知れません。

・・・と、結ばれていますが、現代人にとっては何か理不尽に感じて
しまいますね。今ならおかめさん、良妻賢母で機智知に富んだ人気の
コメンテーターになれたかも。経歴詐称をしなければね。(^_^ゞ

時代とは言え、夫の危機を救うベストアドバイスをしたのに
世間の目を気にして、自ら命を絶ち口封じ??
自殺するほどの強い意志があれば、秘密を守れると思うけど
そういう性格じゃなかったのかな(笑)



境内には江戸時代、京の大工がおかめさんの冥福を祈り建てたという
宝篋印塔(おかめ塚)があります(写真右端)。
阿亀多福像は昭和54年、有志によって置かれたものですが、ちゃんと
手には枡組(ますぐみ)を持っていますね。
この像を造立された有志には大林組、清水建設、飛島建設など
建築関係も名を連ねています。
無事建設成就し、度重なる戦乱にも残った本堂とも結びつき厄除、
招福のおかめ信仰につながっているようです。

これで分かりますよね、新築で棟上げの時(上棟式)、関西だけかも
知れませんが、おかめの面をあしらった「おかめ御幣」と言われる
お飾りを棟の高いところに工事の安全や魔除けの目的で飾ります。
そうそう、「となりのトトロ」の屋根裏のシーンでちらっと出て
きたりしますね。まっくろくろすけも出てきますが・・・(^_^ゞ

こんなやつね。

こんな話が残っています・・・
一番の功労者でありながら本堂の上棟式を迎える前に自害して果てた
おかめさん。夫であり棟梁であった高次は、扇を二つ広げて円にして、
妻おかめの顔を描き、木の先にそれを付けて高々と上げ、女性に対し
人前で感謝をすることも無かったこの時代に、おかめ有難うと叫んだ
そうで。これを見た者はみな涙したといいます。
以来、世の大工たちは、棟上げにはおかめの御幣を上げるようになり、
今に継承されているのだとか。


本堂内には信者さんによって寄進されたおかめの置物や面が数多く
展示されていました。



ところで、ぺちゃんこ鼻におちょぼ口、ぷっくりほっぺのおかめさん。
醜女の代表のように言われてますが、下ぶくれのふっくらしたお顔は
平安の昔から美人の条件。意外と絶世の美女と言われていたのかも♪



何よりも笑顔が素敵ですね、たくさん福を呼んでくれそうな
お多福顔。人気者であったのは間違いなさそう。






今ならマツコ・デラックスと人気を二分できたかも・・・(^_^ゞ



笑う角には福来る。笑うって免疫力を高め、健康にも良いそうですね。
そう言えば子供の頃、お正月はおかめの福笑いで大笑いしてたな♪

おかめ顔のお面は古くから存在し、お亀、阿亀、お多福、阿多福とも
書かれ、文楽人形ではお福、狂言面では乙御前(おとごぜ)あるいは
乙(おと)ともいう。
やはり滑稽な醜女として扱われることが多いですが・・・



そもそも起源は、日本神話のアメノウズメ(古事記では天宇受賣命、
日本書紀では天鈿女命と表記されている)。
「岩戸隠れ」のくだりなどに登場。太陽の神・天照大神が岩屋に
こもり、世の中真っ暗闇。困った八百万の神々は策を講じ岩戸の前で
どんちゃん騒ぎ。そこでアメノウズメがおっぱいもおまたも丸出しで
踊り、盛り上げたお蔭で岩戸を開けることができたとさ。
おかめの始まりアメノウズメは日本最古のストリッパー踊り子として
芸能の女神として信仰されていますね。

そんなことからか、ちょっとセクシーなおかめさんも・・・






不細工な女性を「オカチメンコ」なんて呼びますが、その語源は
オカメチンコ・・・じゃ無いですからね!(^_^ゞ

語源と言えば「俳優」という言葉が初めて出てきたのは日本書紀。
「わざおき」と読むようですが「天鈿女命(アメノウズメノミコト)
…手に茅纏(ちまき)の矟(ほこ)をもち,天石窟戸(あまのいわやど)
の前に立たして,巧に俳優(わざおき)す」とあるのが初見だそうです。
これも読みようによっては、かなり意味深?



このエロじいの手のようにね・・・




それにしても国宝の本堂の中に、これですから♪
ぜひ外国の観光客の方にも見て欲しいですね、日本の文化を(笑)




千本釈迦堂では2月3日の節分に「おかめ福節分会」があります。
見ものは本堂で行なわれる茂山社中奉納による
狂言「鬼追いの儀」・・・
鬼が登場して、打ち出の小槌を振り回し暴れまわります。暴れる
鬼達を「鬼は外」と豆まき攻撃の武力行使、一時は退散させますが
再びやって来て暴れ出す鬼達。今度も豆まきで鎮めようとしますが、
逆に鬼に襲いかかられ占拠されてしまう始末。
そこに、おかめが愛嬌を振りまきながら登場。鬼達はおかめの愛嬌に
へなへなとへたってしまい、無抵抗に。おかめにさとされた鬼達は
武装解除、打ち出の小槌を渡します。おかめに改心させられ、今後は
人を守護する事を誓い、おかめと共に去っていく・・・

この後、ここでの福豆まきは「福は内!」「福は内!」の掛け声で
行なわれ、「鬼は外!」とは言いません。
この一風変わった節分行事、何やら現代の外交にも通じそうな・・・




お多福に化けたお狸?そのまんまやん・・・(^_^ゞ


何故か河童も見かけましたが・・・


2016.1/24、千本釈迦堂にて。

応仁の乱を生き延びた千本釈迦堂。

2016-03-16 17:22:11 | しゃじ
西陣にある真言宗智山派の名刹、瑞応山 大報恩寺(だいほうおんじ)。
『千本釈迦堂』と呼ばれています。承久3年(1221年)創建。

京都ではもうひとつ「嵯峨釈迦堂」があり、そちらは浄土宗
五台山 清凉寺(ごだいさん せいりょうじ)。寛和3年(987年)創建。
嵯峨釈迦堂の方が古いのですが、知名度は千本釈迦堂の方かな・・・
タクシーに「釈迦堂へ」と告げると千本釈迦堂へ向かうようだし。(^_^ゞ



ぶらぶら歩いて西門から入りました。
大きな樹が目を引きます。樹齢どのくらいだろ・・・
西門を入ればすぐに寺務所があり、拝観料600円で本殿・霊宝殿に
入れます。クルマで来ても境内に無料で駐車できるようです。



霊宝殿には、快慶作「十大弟子像:重文」、定慶作「六観音像:重文」
などが間近に観られて、仏像ファンならずとも感動ものです。




五辻通(いつつじどおり)からだと参道、山門を通って本堂正面に。

本堂までの左手に稲荷社、北野経王堂 願成就寺が並んでいます。
〈北野経王堂〉

     〈稲荷社〉

北野経王堂 願成就寺、現在は大きくもないお堂なんですが、
足利義満が明徳の乱で倒れた敵(山内氏清)味方の冥福を祈るため、
北野天満宮の門前に建立したもので、建立当時は東山三十三間堂の
二倍半もあるという大きなお堂だったといいます。
江戸時代、荒廃したお堂を縮小しここに移転されました。その際に
貴重な仏像や経典、義満の宝物なども移され、現在は霊宝殿に保存
されています。

稲荷社は茶吉尼天尊、天上多田稲荷大明神を祀る。
前に置かれている石には「千度石」と彫られていました。
お百度では済まないんですねぃ・・・



〈千体地蔵塔〉
本堂の右手、境内の一番奥にあります。近くには行けませんでした。
おそらく明治の廃仏毀釈で廃棄されたお地蔵さんを集めたものかな?
組体操、人間ピラミッド・・・いや、地蔵ピラミッド状態ですね。




〈布袋尊像〉
本堂右にあり、立派な石像で目を引きますが、なぜ七福神が?
弥勒菩薩の化身とされているのでよいのかな・・・

それよりこちら♪ このお寺を有名にしているのは「おかめさん」。


〈阿亀多福像〉
本堂造営の際の棟梁・長井飛騨守高次とその妻・阿亀(おかめ)の
悲しくも切ないエピソードが美談として伝えられています。
この横には高次が阿亀の菩提を弔うために建てた宝篋印塔があり、
このお寺は、おかめ伝説発祥の地なんです。


〈阿亀桜〉
本堂前の右手に樹齢90年ほどといわれるしだれ桜の大木が!
御室仁和寺(おむろにんなじ)の御室桜は背が低く花が低いところから
おたふく桜と呼ばれていますが、ここのおかめ桜は花が高く立派?
「わたしゃお多福 御室の桜、はなは低とも ひとは好く」



黄桜、御衣黄桜も咲くようですね、お花見が楽しみ♪ すぐ近くには
境内全域に約60種類400本の桜銘木が咲く平野神社がありますしね。


さて、本堂へと・・・



全景の写真を撮るのを忘れていましたw(^_^ゞ
承久3年(1221年)に義空上人により創建、本堂は800年ほど前に建て
られたそのままで、京洛の中でも最古の木造建築物。国宝に指定
されています。※もちろん、解体・復元の大修理はされています。
京都のお寺はそのほとんどが応仁の乱で焼失してしまい、その後も
幾度も大火に見舞われていますから意外と古い建造物は無いです。



ここももちろん、明徳・応永の乱(1391年・1399年)に始まり
応仁・文明の乱(1467-1477年)の戦乱の渦中にあり焼失を逃れたのは
奇跡的かも。そもそもこの界隈を西陣と呼ぶのは、応仁の乱の際、
西軍の陣が置かれたことが由来ですから、まさに戦禍の真っ只中だし。
西軍の大将・山名宗全の特別な計らいもあったとか・・・
とは言え、この本堂の柱には当時のおびただしい刀、槍の傷跡が
残っています。



それにしても、室町幕府・足利氏、大内氏、山名氏、細川氏・・・
南北朝の動乱・・・この室町時代の争乱は脳がぐちゃぐちゃに?
大河ドラマ・花の乱を観なかったのが悔やまれる・・・(^_^ゞ

日本史上最大の内乱といわれる応仁の乱。京都は焼け野原となった
ことから、京都で「戦後」と言えば応仁の乱の後のことだか。
もう一つ言えば、京都人が腹黒なのはこの応仁の乱が原因だとも。
なにせこの戦乱、日本全国を二分しただけじゃなく親兄弟まで分裂
どちら側かが問われ、裏切り寝返りが当たり前。
腹の内、本音を言おうものならどうなることやら・・・
ちなみにこれがきっかけで日本は下克上、戦乱の世になります。




この桔梗紋は、真言宗智山派の宗紋ですね。



さて、本堂でもあちこちに「おかめ(=お多福)」さんのお姿が
見られます。
おかめさんに関する話題は次回に・・・(^_^ゞ



2016.1/24、千本釈迦堂にて。

一本なのに千本通。

2016-03-14 19:00:13 | 京都徘徊記
前述のキッチンパパは上立売通千本を東に入ったところ。
ちょっと近くをうろうろしてみました。



千本通は京都の南北の道で、西大路通と堀川通の間にありますが、
そもそも平安京の時代では都への入り口、羅城門(羅生門)と
大内裏(だいだいり)の朱雀門を結ぶメイン道路、朱雀大路でした。

都を守る平安京四神(玄武、青龍、朱雀、白虎)として、朱雀大路の
正面には船岡山=北の守護神玄武(亀)があり、南には
巨椋池(おぐらいけ)=朱雀(鳥)をひかえた、まさに中心の通り。
ただ、風水を考えるあまり、無理からな都造営だったので、もともと
水はけが悪く住みにくかった東にあたるこの地域は寂れてゆき、
京の中心は西へと移動していきました。
大火や戦禍に紛れた大内裏も安貞元年(1227年)には、ほとんど焼失。
これ以後再建されることはなく、跡地は「内野」と呼ばれる荒れ地に
なってしまったとか。平安京の西の端であった西京極大路もどこが道で
あったか分からないくらい荒れ果て、本来中心であった朱雀大路が
都の西端になってしまったようです。

都造営当時、華やかであった朱雀大路もやがて船岡山の西麓にあった
蓮台野(れんだいの=墓地・火葬場)へ行く道となり・・・
誰が立てたかはわからないが、いつしか千本もの卒塔婆(そとば)が
立ち並んでいたため「千本通」と呼ばれるようになったとか。
この他にも、真言密教の僧・日蔵上人があの世で醍醐天皇に出会い、
「菅原道真を左遷した事を悔いている。現世に戻って、尊いお経を唱え、
卒塔婆を千本立てて、道真を供養してくれ」と告げられ、生き返った後
蓮台野に千本の卒塔婆を立てて、供養したのが朱雀大路を千本通呼ぶ
謂れとして残っています。

とは言え、その後大正末から昭和にかけての都市計画事業として
拡幅され市電が走る大通りとなり、昭和47年(1972年)まで市電が
走っていました。特に下立売、中立売周辺は河原町と並ぶ繁華街
として栄え、今でも商店街が多く面白いところです。


またまた前置きが長くなった。(^_^ゞ
千本通上立売あたりをちょっとうろうろしてみます。



「鰻のおぜき」、典型的な京町家ですかね。店内で炭火焼されている
鰻を店頭でも販売されていますが、店の奥には坪庭が見える座敷が
用意されていて、それこそ焼きたてのうな丼がいただけます。
奥に行くまでに井戸があり、その井戸でウナギを泳がせているとか。
京町家、まさに「うなぎの寝床」。一度入ってみたいです♪



「京漬もの 近為(きんため)」明治12年創業、137年の老舗です。



ここも奥の座敷で『京のぶぶ漬け』コースがいただけるようです。






店舗は20年ほど前に大改装されたとか、ビルとかにせず町家の風情を
残されたのは正解ですね♪



この辺も西陣と呼ばれる界隈なので、いろいろ古い町家も見られます。

〈ポンジーズテーブル〉町家カフェ、今度はここもイイかな♪

〈珈琲茶館〉知る人ぞ知る珈琲豆専門店。
喫茶業をしたい人、豆販売したい人、焙煎業したい人。
みんなここで修行したがるのだそうです。
オーナー・田中勝氏の珈琲豆へのこだわりは半端じゃないそうですが
気難しく無く気さくな方のようで、師匠と仰ぐ方も数多く・・・。
ところで、日本で最もコーヒーを飲むのは京都市だとか。
県庁所在地別コーヒー消費量ランキングで1位でした。
(総務省統計局・平成23年~25年平均)






個人宅かな、立派な商家の建物のようですが・・・
やはり景観重要建造物・歴史的風致形成建造物・歴史的意匠建造物に
指定されているようです。


北山杉の磨き丸太や銘木を扱っているお店。安政5年(1859年)創業。
〈松文商店〉重厚な感じですね。

〈いほりホール〉バス停の前でちょっと目を引く昭和風?洋館建て。
カフェかなと思ったら、葬儀屋さんでした。(^_^ゞ



〈長谷川杼製作所〉
日曜だったから暖簾も看板も上がっていませんでしたが
杼屋(ひいや)さんです。西陣織には欠かせない「杼(ひ)」を
作られているようです。杼とは織り機の用具のひとつです。
縦糸が開口している間に横糸を通すために使う木製の舟形の道具で
シャトルともいいます。行ったり戻ったりしますからね。

♪縦の糸はあなた 横の糸は私 織りなす布は・・・♪

昭和5年に建てられたという町屋、二階のガラス窓が何だか懐かしい。
そんなことより、京都でも杼屋はもうここ一軒。職人さんはご高齢の
長谷川淳一さんだけ?文化庁の選定保存技術保持者として認定されて
いるようですが、後継者無し。部材に使う赤樫も枯渇寸前・・・
パーツである真鍮製の「杼金」を製作するところも無くなり「杼」を
作るための特殊工具も新しくは手に入らない、深刻な状態だとか。

他にも伝統産業、伝統工芸を支えるべき道具が消えつつある。
危機的な状況のようですね。


最後に下の写真は、ここもゲストハウス「木音 KIOTO」です。
築85年の町家、北野天満宮や平野神社、国宝 千本釈迦堂(大報恩寺)
などが近くにあり、金閣寺(鹿苑寺)へも自転車で10分程度で行くこと
ができます。何よりも周辺の路地を散策すれば古い軒並みと今でも
機を織る音が聞こえて、西陣織の町ならではの風情が味わえます。


2016.1/24、千本上立売界隈にて。

ナイスなライスのランチ♪

2016-03-12 23:46:18 | ランチ/カフェ
安政3(1856)年創業の米穀店が経営されている洋食店、
『キッチンパパ』。ネットでも評判だったので
ブックマークに入れてました。ま、私のブックマークには
一生かかっても行き尽くせないほど入ってますけどね。(^_^ゞ
ちなみにここは京男さんがよく行かれてます。



京都西陣 おおまい米穀店、今年で創業160年。
名前が良いですよね、大米さん。名字の方が後で付けられたような。
Oh! My 米屋♪国際的にも通じそう・・・



お店に入ればこんな感じ、木製の米櫃には精米仕立ての
各地のお米が入っていて並べられています。




レストランをされるようになってからも20年経つのかな。



もちろん、厳選されたお米を使用するのがご自慢。
本日のお米は京都産コシヒカリのようです。



ランチタイム、平日なら800円のドリンク付日替りランチが、
土日祝にはスペシャルランチが用意されています。1,100円。



ごはん好きには嬉しいサービスでしょうね♪
土日しか来れず、ごはんは小か並みでいい私らには
ドリンク付の方が良いですが・・・



ご自慢はごはんだけにあらず、ハンバーグやクリームコロッケも。
誰からも好まれる、納得できる洋食屋さんメニューでした♪
特に私らの世代だとカフェ飯には抵抗がある、昔ながらの
洋食がやっぱり嬉しいです。



サラダの量もたっぷりめ、テーブルに置かれたお漬物もGOOD♪
干し大根のはりはり漬け、三十三間堂西にある「赤尾屋」さんの
お漬物だそうで、この赤尾屋は元禄12年(1699年)創業、
300年を越える老舗です。




なんだかんだで美味しゅういただきました、ごっつぉさん。






2016.1/24、キッチンパパにて。

行者橋、渡れば首塚…

2016-03-10 23:59:02 | 京都徘徊記
三条通から知恩院古門のある華頂道(古門前通)までの白川沿い
白川筋は柳並木の風情が素敵なおすすめの散歩道。

京都に来られたら耳にすることもある「白川(しらかわ)」って地名、
ちょっと複雑なので、京都の地理を整理しておきましょう。

まずは白川、比叡山と如意ヶ嶽の間を源に左京・東山区を流れる
一級河川で、京都市動物園付近で琵琶湖疏水に入ったのち、
京都国立近代美術館の南、慶流橋から疏水と分れ、四条大橋の北で
鴨川に注ぐ川&運河です。

この白川とは別に「白川疎水」がありますが、これがややこしい。
現地検証していないのですが、白川疎水道を辿ると、北大路通の少し
南の鴨川から始まっているようです。鴨川を隔てて対岸は紫明通。
ちょうど京都府立植物園の南ですね、そこから北大路の北をぐるっと
回って高野川とクロス。高野川とは合流すること無く川底の下を
くぐっているようです。その後、南下しますが銀閣寺に至る今出川通
より南、永観堂の北・若王子までの間を「哲学の道」と呼んでいます。

東大路より東にあり南北の主要道路である「白川通」は、北は宝ヶ池通
から南は仁王門通(南禅寺前)まで、白川に沿うように通っています。
白川通の周辺で今出川通より北、一乗寺までの地域に北白川と呼ばれる
エリアがあり、東は滋賀県境まで広がっています。
白川の上流に沿って白川通から志賀越道、山中越という街道があり
大津市近江神社の北に出ます。
流域の川砂は白さの際だつ白川砂として京都の特産品となっており、
各地の神社仏閣、京都御所、天皇陵などに古くから利用されています。
最近では川砂は採れなくなり、山を切り崩して採取していますが・・・

白川上流域は平安時代から花に恵まれた土地だったようで、
白川女(しらかわめ)と呼ばれる花売りの行商をする女性達が活躍
していました。京都では他に、大原女(おはらめ)が薪の行商を。
桂女(かつらめ)による魚の行商も知られています。

さて本題は、京都市動物園のところで琵琶湖疎水に合流してしまった
白川、神宮道の西からまた白川として復活するのですが、散歩道は
仁王門通から西岸なら三条通の一本北の筋まで川沿いを歩けます。
三条通からは両岸を華頂道まで、その後、花見小路通までは桜並木の
川沿いを歩けますが、祇園の密集地の間は通れなくなり、祇園巽橋の
少し上流から白川南通と名前がついて風情あふれるお花見小径に
なっています。そして最後は大和大路、川端通の下を流れて鴨川に
注ぎ込み、白川はそこで終わります。


前置きがやたら長くなりましたが、今回目的地は古川町商店街だった
ので、白川沿いを歩いたのは三条通と華頂道のわずかな間だけ。(^_^ゞ


〈通称:一本橋〉
この橋は、比叡山の阿闍梨(あじゃり)修行で千日回峰行を終えた
行者が粟田口の尊勝院の元三大師(がんざんたいし)堂で
元三大師に報告するため、入洛する時に最初に渡る橋で行者橋とも
阿闍梨橋ともいわれています。

縦2列に並べられた切石を石柱橋脚で支えているだけ、見ての通り
欄干も無く橋幅は60cmほどしかない。実にシンプルで質素な造り。
ある意味、命がけの荒行で煩悩を超越したであろう阿闍梨には
この簡素の極みのような一本橋こそ相応しいのかも・・・




この辺りの白川では昔、友禅流しが行なわれていた。友禅染の反物を
川の水で糊を落とすのに川の流れを利用したものです。
そのため川に降りる石段が両岸のあちらこちらで見られます。
昔と言っても私の子供の頃はまだやっていました。鴨川でもね。
特にここには行きつけの歯科があって、順番を待っている間、
気を紛らわすため二階の窓からよく眺めていたものです。(^_^ゞ




少し三条寄りの東岸に「餅寅」というおまんやさんがあります。



「光秀饅頭」がウリのようで、何やら明智光秀ゆかりとか。



お店の角には「東梅宮 明智光秀墳」と刻まれた弘化2年(1845)の
銘が入った石碑が建っています。



横の路地を入って行くと、すぐ左側に小さな祠があります。



光秀公、有能な人物であったようだが、天下を取るため主君信長を討ち
謀反を謀った裏切り者として扱われているから、首塚もこんなもの
なのかな・・・。
本能寺の変に関しては様々な説があるように、光秀の死もいろいろな
話が伝えられている。まさに戦国最大のミステリー?

そう言えば、以前訪ねた亀岡・谷性寺にも光秀の首塚がありました。
首は坂本城に運ばれたとも言われているし、
宮津の細川ガラシャ(光秀の娘)の元に届けられたとも・・・
明智光秀は幾つ首があったんだろう?

ここの謂れは、栗田口黒谷に、他の三千余りの首と一緒に埋められた
光秀の首を、明和8年(1771年)に光秀の子孫と名のる明田利右衛門が、
もらい受けて、石塔を自宅(現在地の東)へ移して菩提を弔った。
明治維新後、現在地に移されたというもの。
もらい受けたのが死後約190年後というのも・・・?

ちなみに光秀の胴体は山科・勧修寺の近く小栗栖の明智藪に埋められて
いるということで現在は石碑が立っている。
これもまた、首の無い胴は秀吉方に渡り、首と縫い合わされた後、
六条河原で磔にされ晒されたとか・・・どうも謀反、裏切りを
起こさせないため、えげつない話になっているように思われる。


この明智光秀の塚は、餅寅さんによって管理されているのだが、
その餅寅さんの近くに一日一客貸切の宿『白川庵』がある。



5年ほど前から開業されており、以前から気になっていたのですが。
ここの宿主も餅寅さんです。



白川筋に面しており、前には白川が流れ、行者橋より少し幅のある
一本橋が架かっています。
建物は大正時代の町家で風情のある佇まいですね♪

この後、古川町商店街に戻り「万両」さんで食事をするはずが
貸切のため食べられず、仕方ないのでぶらぶらと四条大橋まで
歩いて「レストラン 菊水」に入ってみました。



大正5年(1916年)創業、今年で百周年を迎える老舗洋食レストラン。
南座の向かいにあり、国登録文化財に指定された建物は竣工当時の
レトロな雰囲気を保っています。夜なので建物は撮れませんでしたが。

南座は江戸時代から続く日本最古の劇場、建物は昭和4年に建替え
られたものです。鴨川を渡ると北側には鰻料理の「先斗町 いづもや」。
大正5年に新京極で創業し昭和21年に現在の場所に移転した老舗。
四条大橋西詰南側は中華料理「東華菜館」、ここも大正15年(1925年)
に建てられた登録有形文化財、ヴォーリズ建築。
四条大橋の四隅はレトロですね♪



メニューはイマイチだったかな・・・(^_^ゞ
コスパが良いとは言えなかった。ま、2階の本格的なディナーは
違うのかも知れませんが。






2016.1/16、白川(白川庵周辺)にて。

ちょいと知恩院。

2016-03-08 17:01:45 | 京都徘徊記
古川町商店街を抜けた後、時間つぶしに知恩院辺りを散策してみました。



この辺りの白川沿いは交通量も少なく(一応クルマも通れます。
一台分の幅しかないので西岸と東岸で逆の一方通行ですが)、
柳並木が芽吹くと風情のある散歩路になると思います♪



白川に架かる通称「一本橋」の先に見えるのが「古門前橋」
そのたもと、川面の近くにベンチが置かれています。
この親水テラスや一本橋はよくTVドラマに出てきますね。
koh925さんからコメントいただいたように、古川町商店街も
「京都地検の女」で名取裕子が演じる鶴丸あやが主婦として
買い物をしている商店街のようです。

ドラマのロケ地として使われるのはいいのですが、例えばここの
ベンチで容疑者を発見、門をくぐって尾行するのは産寧坂の石塀小径、
角を曲がって犯人を確保するのは南禅寺の水路閣なんて・・・
京都らしさを描くあまり、地理的には支離滅裂ってことが多かったり
しますね。(^_^ゞ


上の写真で左端にちらっと見えているのが「知恩院古門」です。





ここの東西の通り名、東大路通より西は古門前通、東は華頂通と
名前が変わります。

この通りには知恩院の塔頭がずらりと建ち並んでいます。





華頂中学・高校・短大・大学の女子校の校舎も並んでいます。
またまた正体不明の建物、中からぞろぞろ尼さんが・・・?



どうもここの煉瓦の壁が気になって・・・何かの遺構のような。

華頂通、古門から東へ歩いて行くと神宮道とのT字路の真ん中に!


〈瓜生石(うりゅうせき)〉
クルマで走って来たら突き当たりそうになる場所にあります。
これ「知恩院の七不思議」のひとつ。

黒門への登り口の路上にある大きな石は、知恩院が建立される前から
あるといわれ、周囲に石柵をめぐらしてあります。
この石には、誰も植えたおぼえがないのに瓜のつるが伸び、花が
咲いて瓜があおあおと実ったという説と、八坂神社の牛頭天王が
瓜生山に降臨し、後再びこの石に来現し一夜のうちに瓜が生え実った
という説が伝えられています。また石を掘ると、二条城までつづく
抜け道がある、隕石が落ちた場所である等、さまざまな話が言い伝え
られている不思議な石です。(知恩院HPより引用)

牛頭天王(ごずてんのう)と言えば、八坂神社の元々のご祭神。
祇園精舎の守護神とされています。八坂神社も元は祇園社と呼ばれて
いたので、今でも京都では「祇園さん」と呼びますね。
祇園祭の期間、7月は胡瓜を食べない風習が京都にありますが、
それは八坂神社の御神紋が胡瓜の断面に似ているからという理由で。
「五瓜に唐花(ごかにからはな)」別名「木瓜(もっこう)」って
紋ですが、実はキュウリではなく瓜。マクワウリなんですけどね。
牛頭天王の神紋ですが、何故か織田信長も家紋として使っています。

知恩院のすぐ北にある粟田神社の大祭で行なわれる夜渡り神事の際、
この瓜生石の周りを三度巡拝する「れいけん」という神事があるの
ですが、その時に知恩院の僧侶も祈祷されるという神仏合同の珍しい
祭事が見られます。

話がこんがらがりましたが、(^_^ゞ
華頂道の突き当たりは知恩院の黒門になっています。


〈知恩院 黒門・黒門坂〉
拝観時間(午後4時締切)を過ぎていたので、門は閉じられていますが
この門を通って黒門坂を登ると知恩院北門があり、そこから境内中心に
入れます。有名な三門が表玄関だとしたら、ここは裏口かな。
秋は紅葉が綺麗で、おすすめのルートです。

ちなみにこの前の通りは神宮道。南北の通りで、北は平安神宮、南は
円山公園までの道です。
知恩院の北隣りは青蓮院門跡、南は円山公園で神宮道を挟んで西に
八坂神社があります。


黒門から神宮道を南に下がると三門までに知恩院の塔頭
元大谷 崇泰院(そうたいいん)があります。
親鸞聖人の墳墓や蓮如上人産湯之井戸などがあるのですが



一般公開をするようになったと聞いたのですが、どうも・・・
1ヶ月前までにホームページから予約する必要があるみたいですね、
しかも団体のみです。「宗派にとらわれず、歴史上色々な出来事が
起こりました地として、知的好奇心を持って、 多くの方が参拝される
ことを心よりお待ちしております」と書いてあるのですが。ザンネン



書院が見えるので、覗いてみました。明治31年(1898年)に建てられた
もののようです。本堂も明治34年(1901年)に再建されています。



知恩院には広い大型バスの駐車場、ターミナルがあるのですが満車。
溢れた大型観光バスが華頂道や神宮道にズラッと並びます。
観光客はほとんどがC国人?
ここらでは標準語が日本語ではない気が・・・




浄土宗総本山 知恩院。詳名は華頂山知恩教院大谷寺(かちょうざん
ちおんきょういん おおたにでら)、京都では「ちおいんさん」と
呼んでいますが、「ちおんいん」でないと漢字変換できませんねw



国宝・三門はいつ見ても壮観。東大寺南大門よりも大きく、現存する
我が国の木造三門、山門では最大とされてきましたが、最近の調査で
東本願寺の御影堂門の方がわずかに大きいと言われています。

日本三大門:法隆寺南大門・東福寺三門・知恩院三門
京都三大門:東福寺三門・知恩院三門・東本願寺御影堂門

※一般には寺院の門を称して「山門」と書くのに対し、知恩院の門は、
「三門」と書きます。これは、「空門(くうもん)」「無相門(むそう
もん)」「無願門(むがんもん)」という、悟りに通ずる三つの解脱の
境地を表わす門(三解脱門:さんげだつもん)を意味しています。
(HPより引用)

三門を通って真っすぐは急勾配の石段で、男坂。三門の右側、
南阪道からだと少し緩やかな女坂へと繋がっています。



こちらは知恩院南門。円山公園との境です。「いもぼう」や
「長楽館」が見えますね。




2016.1/16、知恩院にて。

古くて新しい古川町

2016-03-05 23:29:42 | 京都徘徊記
古川町通は東大路通の東にある南北の通り、北は仁王門通から三条通を
跨いで南は華頂通の手前までの短い通りです。
京都の人なら古川町と言えば、三条通より南の古川町商店街のことに
なります。この商店街は東の錦市場と呼ばれていたこともありますから。

〈白川橋〉


三条通に架かっている橋です。下を流れるのは白川。
この白川は比叡山を源に東山沿いに流れて来て、動物園のところで
琵琶湖疎水に少しの間合流、国立近代美術館のところから疎水と分かれ
有名な巽橋(たつみばし)など祇園を通って鴨川に注ぐ河川です。

橋の横にたつ石の道標は、京都における現存最古の道標で
「是よりひだり ちおんゐん ぎおん きよ水みち」と彫られています。




さてこの橋より少し西、地下鉄東山三条駅への入り口の隣りから



『古川町商店街』のアーケード街が始まります。



商店街として発足したのが昭和25年、昭和38年には簡易アーケードが
設けられたといいますから、結構古いですね。



暮らしの店、よろず屋さん。今で言えばホムセン?



私の子供の頃は、この狭い通路に人がびっしり、賑わっていましたが・・・



今的にはアパレルショップ、ドラッグストアでしょうかね。(^_^ゞ




このお店でランチが食べたかったのですが、時間が遅くてお昼の営業が
終わっていました。仕方ないので夕方の営業時間までぶらぶらすることに。



洋食とおばんざいの店、各種定食・コーヒー。ちょっと面白い♪
鯖の焼いたん、大根と厚揚げの炊いたん。エスプレッソコーヒー付・・・
時間をつぶし、夕方再訪したのですが何と「本日貸切のため」だって!
むむむ、ガックシでした。(^_^ゞ
そんな様子を見てか、店からおかみさんが飛び出し「ごめん!」って
ん、また出直すかな・・・




消えゆく商店街が多い中、頑張ってるほうじゃないかな。



あちゃ、ボロニヤが名前通りボロ家に? 
このお店、近くに移転して新しいお店になっていました。




アーケードが途切れて、ここが商店街の南の端。白川端に出ます。




ここでもリノベーションされた京町家をよく見ましたが、
特に空き家になった町家を改装してゲストハウスになっているのが
目につきました。商店街の中だけでもこんなに・・・



『桜香楽(SAKARA)』



『沖のまちやど』



『はる家』

『小町家』

確かにここなら北は平安神宮、岡崎公園。南は八坂神社、円山公園。
東は知恩院、南禅寺。西は鴨川、河原町三条・四条と徒歩で行ける。
外国人観光客をターゲットにしているのでしょうが、日本の観光客でも
ドミトリー(相部屋)から一棟貸しまであり、旅の楽しみが増えそうです。
京町家の風情をたっぷり味わえるようになっているようですし♪



2016.1/16、古川町商店街にて。

正面外して文子さんとご対面。

2016-03-03 18:37:26 | 京都徘徊記
家康によって寸断された正面通、うろうろし難い通りです。
東本願寺とその飛び地境内・渉成園(しょうせいえん)があるので
どうしても回り込まなくては・・・

東本願寺と渉成園の間には、わずかですが正面通が通っています。
この間は中珠数屋町通とも呼ばれています。


〈平安法衣店〉
御影門前の噴水から烏丸通(ここでは不明門通(あけずどおり)が
合流しています)を渡って正面通(中数珠屋通)に入る角にあります。

ここもしばらくは仏具店が並んでいるので、看板ウォッチングを・・・

〈法藏館〉仏教関係の書店です。創業は1602年、東本願寺創建と同時。

〈薫玉堂〉創業1594年と古いですが、ここの店舗はもう営業されて
いないようで、看板だけ大事に残されている感じ。
今は西本願寺前に新しい店舗があります。


〈寺嶋念珠老舗〉ここも創業400年を軽く越え、17代続いているとか。

正面通、烏丸通から一筋(東洞院通)過ぎれば、間之町通(あいのまち
どおり)、渉成園に突き当たります。
渉成園、庭が美しく桜の季節もおすすめです。
以前は隠れスポットでしたが今はどうなんだろ・・・?



ここで正面通は途切れるのでUターン、今度は北の上数珠屋町通へ
回って西本願寺の駐車場まで戻ることにします。

〈佛願寺〉

〈光久寺?〉

間之町通(あいのまちどおり)、上珠数屋町を少し北に上がると・・・


〈文子天満宮〉



文子(あやこ)天満宮。北野天満宮の前身神社、天神信仰発祥の神社。
と言われています。ご祭神は当然、菅原道真。
菅原道真公は、大宰府へ左遷され失意のうちに59歳で亡くなります。
その後、都では天候不順や政治の混乱が続き、人々はそれらの災いを
道真公の怨霊のせいだと考えるようになりました。
そんな没後、道真の乳母であった多治比文子(たじひのあやこ)は、
「われを右近の馬場に祀れ」との道真の託宣(おつげ)を受けましたが
文子は貧しく、社殿を建立するなんてムリ。自宅に小さな祠を建て、
道真を祀った。それが天神信仰の発祥とされています。

後におつげの場所、うこんのばば(ひらかな表記しないほうがイイね)
現在の北野天満宮に祀られるようになったことで、ここが
北野天満宮の前身と伝えられています。





文子さん、発見♪





道真公が太宰府へ御左遷の途次お立ち寄りの際腰掛けられた腰掛石。



どうやら天満宮の神紋「星梅鉢紋」かたちに1円玉を並べるのが
慣わしのようです・・・もぅ~!(^_^ゞ




さて、上珠数屋町通に戻って西へ・・・また看板ウォッチング。

〈京仏具 犬塚〉大正時代に創業。まだ100年経っていない新しい店?

〈だるまや〉
だるまやの看板と建物、達磨型の窓や火灯窓(花頭窓)がいいな。
○○公認会計士事務所の看板も年季が入ってる。(2階右端)



〈八田彩華堂〉表具屋さん。高浜原発の“再稼働”は失敗!(^_^ゞ

〈芝川骸骨堂本店〉仏壇仏具。
上の看板はちと読み難かったのですが、電飾看板にははっきりと
「骸骨堂」・・・極楽堂とかだるまやなんてある中、骸骨って!



ここの通りは東本願寺と西本願寺の間だけに残る東西の通り。
仁丹標識には「花屋町通」となっていますが、これは古い呼称で
今は旧花屋町通。今の花屋町通は東西本願寺の北側に面した通りに
なっています。






これが今の花屋町通、東本願寺の北壁沿い。西には城のような
石垣が残っています。

ぶらぶら散策していると、正体不明、意味不明なものに出会しますね。
今回はコレ・・・何処かの駐車場の壁側に!





2016.1/11、旧花屋町通にて。

弥生三月、スタートはSnow。

2016-03-01 19:16:12 | in My お庭
昨夜、2月29日から3月1日に日付が変わる頃から降り出した雪。
あれよあれよという間に積もってしまいました。
もちろんわずかですが・・・よくあるんですよね3月の初めの積雪。

〈2月29日23時40分頃〉

〈3月1日8時10分頃〉(トップ画も)

お昼までにはすっかり、とけていたのですが・・・

お昼前後になってまた雪が舞ったり止んだり、2時前頃には
かなり降ってきたので
久しぶりにD7000を持ち出して庭へ・・・


〈3月1日13時50分頃〉




白木蓮の蕾みも膨らむのをしばし躊躇かな?



もうピークを過ぎた庭の梅の花にもひらりと雪の華が・・・



この梅の木、以前は単に紅梅だったのに2、3年前から
白い花を咲かす枝が成長してきて、源平咲きのようになってきました。



1本の木なんですがね・・・










2016.3/1、我庭にて。