カッパのロードスター

幌を開ければFeelin`good。カッパーレッドの
路渡☆くんとの楽しいドライブ日誌。

風鈴の音も・・・

2015-08-31 16:46:49 | しゃじ
夏ももう終わりかな、今年はこのまま秋を迎えそうです。
いつもなら9月半ば、いや後半まで残暑って感じだったのにね。

お盆休み、唯一出かけたのがここ『正壽院(しょうじゅいん)』
今まで知らないお寺ですが、京都新聞で風鈴まつりをやっていると
紹介されていたので訪ねてみようかと・・・



小さな境内いっぱいに1000個のガラス製の風鈴が揺れていました。



「まつり」は今日まで。風鈴に絵を描く「絵付け奉納・有料」も。






ホタルからトンボ・・・これも季節の移ろいかな。



3年ほど前から集めた風鈴を飾ったところ、評判を呼び、
今年は新聞に紹介されて大勢の方が来られたようです。


正壽院、ちょっと紹介しようかいね。(^_^ゞ



のどかな山間、茶畑がたくさんある京都府宇治田原町に
ひっそりと佇む高野山真言宗の小さなお寺です。
創建は平安時代と伝えられていますが、不詳。資料としては
1596(慶長元)年、祐胤大徳が再興されたとあります。
北大峯の行場として栄えた鷲峰山金胎寺(じゅぶさん こんたいじ)の
麓にあり修行道場として栄えたが、幾度の火災で今は本堂と地蔵堂が
残るだけだそうです。



樹齢400年とおっしゃってたかな、山門に立派な百日紅の樹があります。
境内に入るとお寺の方が冷た~いお茶をふるまって下さり、お話も。
現在のご住職は27歳、そのお母様なのかな?(勝手に推測)






ご本尊は秘仏の十一面観音ですが、国の重要文化財に指定されている
貴重な「木造不動明王坐像」がある。といっても、今はここにはなく
奈良国立博物館で保管されています。
この不動明王坐像は、快慶作と推定され、台座の銘記・史料から奈良の
興福寺または幻の大寺内山永久寺の関係遺宝といわれている。












大寺院と違い、見どころは少ないですがお寺の方の心遣いといい、
何か癒される場所でした。









涼やかな風鈴の音、夏の想い出のひとつにはなりますね♪

夏の終わり・・・何かやり残したような、そこはかとない寂しさを
感じるのは何でしょうね。子どもの頃、夏休みの終わりに感じた
寂しさからかな・・・(^_^ゞ






2015.8/14、正壽院にて。

一文字じゃなく大文字。

2015-08-28 23:00:19 | ランチ/カフェ
一文字屋に人が入れば大文字屋・・・そんなとこやろね。
何の話かと言えば、嵯峨阿弥陀堂(清凉寺)の境内にあるお店の話。
「嵯峨名物 あぶり餅」が食べられる甘味処です。

あぶり餅と言えば、今宮神社門前の「かざりや」と「一和(いちわ)」が
有名。特に一和(正式名:一文字屋和助)なんて創業1000(長保2)年。
千年以上も続く超老舗。元祖です。
それにあやかったのか、ここは「大文字屋」って屋号で。(^_^ゞ



お店は仁王門の左手(西側)にあり、仁王門を通らなくても行けます。

清凉寺西門の前にも案内のお姉さんが・・・
正面とは少し違いますね、姉妹かな?(^_^ゞ



この日は暑かったので「氷」の看板に惹かれて入ったのですが・・・





その名も「嵯峨しぐれ」



抹茶シロップのかき氷に抹茶アイス、あずきに栗。八つ橋までついて
さらに練乳がかかった、フルスペック?ヽ(´∀`*)ノ



あぶり餅は12串で620円・・・ん!今宮神社前の2軒は15串で500円。
この違いは、競争相手がいないせいかな・・・?



これ、最古の和菓子とも言われている。
撞いた餅を竹串に刺して、きな粉をまぶし炭火であぶったものに、
ちょっと甘い白味噌のタレがついているという素朴なもの。
こんなんが結構、美味しいのよね。千年続く味だもんね♪


清凉寺の境内にはもう一軒、お店があります。
京料理・ゆどうふのお店、『竹仙(ちくせん)』です。



「ひやしどうふ」って、如何なるものか気になったのですが
お腹も空いていなかったのと、かき氷の誘惑があったものでスルー。



ここで出されるお豆腐は全国的にも有名な『森嘉(もりか)』の豆腐。
そりゃ美味しいことやろな、雰囲気も良さそうやしおすすめかも。

嵯峨豆腐の『森嘉』は、清凉寺の隣りにあります。仁王門の東側ね。
敷地的には境内でもおかしくないくらいですが。
お持ち帰りにと寄ってみたのですが、すでに売り切れ。ざんねん!



ここは『甘春堂 嵯峨店』ね、ここも寄らずに帰りましたが、
『甘春堂』は一応、創業が1865(慶応元年)年の和菓子の老舗。
150年の歴史ですね。
京都の老舗としては新しい方かも知れませんが・・・(^_^ゞ



2015.7/20、清凉寺境内「竹仙」にて。

嵯峨で黄泉帰り

2015-08-27 00:31:03 | しゃじ
清凉寺(嵯峨阿弥陀堂)の境内にはもうひとつお寺があります。
それは『竜蟠山 嵯峨薬師寺』
819(弘仁9)年に建立された嵯峨天皇の勅願寺です。
普段は一般公開されていませんが、年に一度、8月24日の地蔵盆には
誰でも入れるそうです。


〈本堂〉
嵯峨薬師寺は清凉寺の西門を入ってすぐ左手、狂言堂の向いです。
        〈清凉寺西門〉


嵯峨天皇勅願の寺として大覚寺(嵯峨御所)の保護を受けていましたが、
明治時代以後は大覚寺・真言宗を離れ、現在は浄土宗知恩院派に
属しています。本尊は「心経秘鍵薬師如来像」。
世に疫病が蔓延し、これを憂慮した嵯峨天皇は、弘法大師空海に
薬師如来像を彫ることを命じ、弘法大師が一刀三礼して刻んだ
薬師如来像と伝えられています。
秘仏であり、勅封仏とされて勅命が無いとご開帳出来ませんでした。
その上、厨子の開閉は大覚寺の手で行われ、嵯峨薬師寺の住職は
開くことも許されなかったと言われています。

現在は地蔵盆の日(8月24日)に、拝観できるようです。
かつては厳重な秘仏が、年に一度とはいえ見られるのはスクープ?


〈日月門〉
嵯峨薬師寺の山門です。本堂と並んで建っている、本堂には入れませんが
こちらは入れるので、ちょっと覗いてみます。




〈三地蔵と庫裏〉
庫裏(くり)の手前に三地蔵尊像がありました。




〈三地蔵尊像〉
このお寺には寺宝としてご本尊の他、「嵯峨天皇像」や「阿弥陀三尊像」
などと「生六道地蔵菩薩像」があるのですが、この石仏はその分身?
右より瑠璃光地蔵菩薩像、生六道地蔵菩薩の分身、夕霧地蔵菩薩像。



貴重な仏像群、本堂を覗くと普段でも写真だけは見られます。


〈生(しょう)の六道・石碑〉
さて、だいたい清凉寺を訪ねたのも、これを見に来たかったからです。
今は石碑だけだけど・・・(^_^ゞ

かつてこの近くに小野篁(おののたかむら)由縁の「福生寺」という
お寺があり「生(しょう)の六道」と称されていました。
明治になりこの嵯峨薬師寺に合併され、廃寺となりました。その際、
いくつかの仏像が移され、生六道地蔵菩薩像もそのひとつです。

あの世とこの世とを自在に行き来できた…などの伝説を持つ小野篁。
平安時代前期の公卿・文人ですが、謎の多い興味深い人物ですね。
その小野篁、毎夜東山六波羅にある六道珍皇寺の空井戸から冥土へ
出かけて閻魔王の仕事を助け、朝になると嵯峨六道町の福正寺に
ある空井戸からこの世へ戻ってくるのが常だったそうです。
このため六道珍皇寺は「死の六道」、福正寺は「生の六道」と
呼ばれています。


〈六道珍皇寺・2009.8/9撮影〉
ここには『以前行ったこと』があります。ちょうど六道参りの時期でした。

六道珍皇寺の庭には「冥土通いの井戸」が残されています。さらに
近年、隣接の旧境内で「黄泉がえりの井戸」が発見されたとか。
元祖?福正寺の「黄泉がえりの井戸」はといえば、宅地の開発の際に
7基の井戸が発掘された。ただしこの井戸は間もなく埋め戻され、
宅地となっているそうです。残念ながら井戸の跡は見られません。

昼は朝廷の役職をこなし、夜は閻魔さまの右腕として冥官をこなす
篁さん、あるとき地獄に赴いた際、猛火の中で苦しむ亡者を救い、
その身代わりとなって自ら焼かれている地蔵菩薩のお姿を見ました。
篁はその地蔵菩薩の尊さに心を打たれ、そのお姿を彫刻し、
冥土の出口にある福正寺にお祀りしたそうです。

京都では、8月の13日から始まり16日の五山の送り火に終る
盂蘭盆(うらぼん)の前に、7日から10日までの4日間に精霊を迎える
ために六道珍皇寺に参詣する風習があります。これを「六道まいり」
あるいは「お精霊(しょらい)さん迎え」と言うのですが、
五山の送り火を終えても冥土に帰られてないお精霊さんもいるようで
そのため8月24日には最後の送り火が行なわれます。
嵯峨薬師寺で行なわれる地蔵盆はそう言う意味があるようです。

この日、年に一度だけ公開される本堂の小野篁が刻んだという
生六道地蔵菩薩像の前には、「湯葉でこさえられた帆の立っている
七種(なないろ)の野菜の船(かぼちゃの舟に湯葉の帆)」が
供えられています。
この船に「お精霊さん」を乗せて、彼岸へ送りだすという信仰です。
この時の火が京都最後の送り火となるのだとか。
ちょっと大人の地蔵盆が味わえそうですね、ぜひ来年は・・・(^_^ゞ


さて、怪奇なヒーロー?小野篁に少し触れられた(石碑だけやったけど)
ことだし、また清凉寺に戻ります。


〈秀頼公首塚〉
薬師寺の隣りには「大坂の陣諸供養の碑」とともに豊臣秀頼公の
首塚があります。昭和55年に大阪城・三の丸跡地の発掘現場から
出土した豊臣秀頼の首を、昭和58年、ここに納められたもので、
首に介錯の跡があるそうです。このお寺とは秀頼公が再興に力を
入れていたことの由縁からです。



この先は方丈庭園(有料拝観)かな

〈桂昌院殿遺愛の井戸〉


井戸と言えば・・・と、一瞬思いましたがこちらは五代将軍
徳川綱吉の生母、桂昌院のエピソードがあるのかな?
ま、このお寺の再興を実現したのは桂昌院でしたからね・・・



〈本堂と方丈をつなぐ渡り廊下でしょうか〉



〈放生池(ほうじょうち)と弁天堂〉
中には入らなかったのですが、秋には結構きれいそうなお庭です。
拝観料を払って本堂で「三国伝来の釈迦如来像」をお参りし、
放生池と弁天堂を眺めながら渡り廊下を進むと方丈に行けるようです。
本堂の東後方には、方丈と庫裡そして澄泉閣が並んでいます。



〈渡り廊下の下からちらっと弁天堂を眺める〉



〈阿弥陀堂の前から本堂〉

歴史のエピソードが詰まっていて、見どころもいっぱい。
いつかまた紅葉のシーズンにでも訪れてみたい寺院でした。






2015.7/20、清凉寺(嵯峨釈迦堂)にて。

涼しいのかな?清凉寺。

2015-08-23 23:34:10 | しゃじ
名前は清凉寺ですが、特別涼しいわけではありません。
シュワッ!ともしないし・・・(^_^ゞ
ちなみに、清凉寺の「凉」の字は「にすい」なのです。ご注意を。
意味的には涼と同じく「すずしい」で良いのかな。
そう言えば「冷」(ひえる・さめる)も「にすい」ですね。

『五台山 清凉寺(ごだいさん せいりょうじ)』
創建は987(寛和3)年、「嵯峨釈迦堂」の名前で知られています。



嵐山 渡月橋の道を真っすぐ北へ20分ほど歩くと、この山門に
突き当たります。(有料駐車場もあります)







「五臺山(五台山)」と書かれた額が掲げられているこの山門は
1776(安永6)年に再建されたもので、楼上には十六羅漢が祀られて
いるそうです。室町後期のものといわれる赤い阿形吽形一対の
金剛力士像を置いた仁王門になっています。






〈山門(仁王門)・京都府指定重要文化財〉


結構広い境内ですね、訪ねたのは7月20日、暑かったです。
・・・清凉寺やのに。(^_^ゞ


〈本堂〉


〈振り返って仁王門〉



〈多宝塔〉
1700(元禄13)年、江戸護国寺で行われた釈迦如来の出開帳の際の
寄進により、江戸で造られたものだそうで、部材を廻船で運び、
1703年に清凉寺の境内に建立されました。

※多宝塔とは、釈迦・多宝如来の二仏を祀る塔。
二重の構造をもつ宝塔で、下は方形、上下の連続部分は饅頭形(亀腹)
となっている。二重の軸部は円筒形、屋根は方形。


        〈弥勒多宝石仏〉
空也の作とも言われており、表に弥勒菩薩、裏に宝塔が彫られていて
宝塔は扉が開き釈迦・多宝如来が彫られています。



〈一切経蔵〉
善慧大士座像、普浄、普賢像、四隅に四天王像が祀られ、
中央に輪蔵、経蔵があるようですが閉まっていたので入らず。
法輪一回転100円で回せるという記述があったのですが・・・

        〈愛宕権現社〉

〈聖徳太子殿〉
八角殿堂、奈良法隆寺の夢殿を模しているそうです。



〈法然上人像〉
正式には「法然房源空二十四歳 求道青年像」?
法然は、当寺を訪ねられたようです。



〈然(ちょうねん)上人墓所 〉


〈嵯峨天皇(右)と壇林皇后(左)の宝筐印塔〉
幕末期までは御陵とされていました。現在、嵯峨天皇の陵墓は、
大覚寺の西北、嵯峨野の北にある御廟山の山頂にあります。
嵯峨山上陵(さがのやまのえのみささぎ)。


〈鐘楼〉            〈狂言堂〉
狂言堂では、国の重要無形民俗文化財に指定されている
「嵯峨大念仏狂言」が演じられます。無料で観られますよ♪
壬生寺、千本閻魔(ゑんま)堂とともに京の三大念仏狂言の一つです。

4月第1日曜日と第2土・日曜日、秋は清凉寺大念仏会の創始者円覚上人の
命日である10月26日に近い日曜日に開催されます。
その他、釈迦如来入滅の陰暦2月15日にちなんで毎年3月15日に行われる
清凉寺の涅槃会とお松明式にあわせて開催されます。狂言の上演が
終わってしばらくすると、お松明のおねりと点火が始まります。
清凉寺のお松明式は京に春の訪れを告げる行事として親しまれ、
これと「五山送り火」「鞍馬の火祭り」が、京都の三大火祭りです。


〈鐘楼〉
嵯峨十景の一つ「五台の晨鐘」がこの鐘楼の梵鐘です。



〈本堂・釈迦堂〉
945(天慶8)年に重明親王妃が棲霞寺(せいかじ)の寺域に新堂を
建てたのが始まりで、度重なる焼失に遭うが、その都度再建され、
現在の本堂は1701(元禄14)年に徳川五代将軍綱吉の母・桂昌院、
大阪の豪商泉屋(後の住友)らの発起により再建されたものです。

本堂内には、国宝・本尊釈迦如来立像が安置されていますが、
この釈迦像は大変貴重なもの。
日本三如来※の一つとされる「三国伝来の釈迦如来像」です。
※三如来:天竺伝来の3体の如来。長野善光寺の阿弥陀如来、
京都嵯峨清涼寺の釈迦如来、京都因幡堂の薬師如来。

釈迦の在世中インド(天竺)で作られた釈迦像が中国に伝わり、
奈良東大寺の僧、然(ちょうねん)上人がそれを中国で模刻して
持ち帰ったというもので、インド→中国→日本と三国を伝来。
元の像は中国で焼けてしまってないそうですから、
清凉寺の釈迦如来像は世界で唯一の生身の釈迦像です。

釈迦が37歳のときの生き姿を刻んだものだそうで、162センチの等身大。
体内に内臓を形どった納入物があり、生身如来といわれています。
これは1954(昭和29)年に発見されたもので、模刻の際、中国尼僧が
絹で作った五臓六腑を収めたものだとか、中国において千年の昔に
人間の体構造を知っていた事を示す、解剖学的にも貴重な資料です。
この五臓六腑模型も国宝に指定されています。



美術的にも「清凉寺式釈迦像」として、かつて日本各地で流行した
仏像の一様式であり、その模刻は奈良の西大寺をはじめ
全国に100体ほどあるのだそうです。
なお、清凉寺は「京都十三佛霊場」の第二番札所になっています。


〈本堂の扁額〉「栴檀瑞像」黄檗宗開祖・隠元 筆
釈迦如来立像は栴檀(せんだん)の木で造られていることに因みます。





〈香炉〉寺紋:加賀梅鉢紋
菅原道真を祀る天満宮と関係があるのかと思いましたが、どうも
江戸時代、このお寺を再構した桂昌院がお玉と呼ばれていた頃にいた
野菜屋の紋というのが通説に?「玉の輿」の話ですね。
菅原道真公の末裔、加賀藩主前田氏の家紋が由来とも。菅家党の
漆間(うるま)氏からは法然上人が出ており、法然上人と所縁の深い
清涼寺は寺紋に梅鉢を使っているという説が正しいのかな?

この香炉は蓮花の形で、ツボミや実までついている凝ったモノですね。



〈阿弥陀堂〉
嵯峨天皇の皇子で、源氏物語の主人公 光源氏のモデルともされる
左大臣 源融(みなもとのとおる)の別荘・栖霞観(せいかかん)が
あった場所に融の死後、遺族が阿弥陀三尊像を造立し、阿弥陀堂に
安置したことに始まる。
現在の建物は、1863(文久3)年に再建されたものです。



木造阿弥陀三尊坐像は国宝で、この建物の奥にある霊宝館で、
同じく国宝の釈迦如来五臓模型を拝観することができます。





ちなみに『霊宝館』は、毎年春季(4月~5月)、秋季(10月~11月)に
特別公開されているようです。要確認。



2015.7/20、清凉寺(嵯峨釈迦堂)にて。

残暑、ざんしょ!

2015-08-15 19:04:01 | ランチ/カフェ
今日の京都は、またしても猛暑日復活。35度オーバーでした。

さてこの夏、暑さが本格化しだした7月終わりから8月初め頃、
今年もまた「冷やし中華始めました」のフレーズに誘われて・・・

いつも同じお店では面白くない、「京都 冷麺」でネット検索してみると
京都で冷麺といえばココ!って店を発見、今まで知らなかった店です。
創業昭和14年(1939年)それって第二次世界大戦勃発の年?(^_^ゞ
知らなかったけれど冷麺では昔から有名な店、ネットのグルメサイトでも
ランキング1位だったり、某有名雑誌のお取り寄せランキングで去年も
日本一のお取り寄せで、麺類1位として紹介されていた。



『みその橋 サカイ』、冬でも冷麺やってるみたい・・・(^_^ゞ



普通に中華料理のメニューもありますが、やはりトップメニューは冷麺。

それほど大きな店ではありません。王将や(みんみん)の小さめ。
駐車場は第一、第二とありますが、午後2時でしたが、駐車待ちあり。
お店も空席待ち・・・まぁ、回転が速いので15分程でしたが。



「名物」とされている焼豚冷麺。もちもちの太麺。特別な自家製麺だと
思われる。タレもかなり特殊?味噌味みたいな色ですが味噌味でも
ゴマだれでも無いような、マヨネーズベースかな・・・?
太い麺とこってりなタレで食べ応え感はありましたが、私の口には
合いませんでした。もっとサラッと清涼感のあるほうが好きかな。



餃子もフツー・・・

昔からの人気店、食べてみないと分からないので行きましたが、
ハマるとここでしか味わえないような魅力があるものの
私の思っている冷麺とはかなり違った気がします。


で、このところ毎年1度は冷麺を食べに行くお店で口直し?(^_^ゞ



『天狗』さんに、90歳になる母親も連れて行きました。
開店前に着いたので待ち時間は無し♪店はあっという間に満席でしたが。



ここはいわゆる「うどん屋さん」のメニューですが、冷麺は定評あり。
「ささめん」と名付けられた自家製の麺がご自慢。



この日は一番客、限定10食の「揚げなすと豚しゃぶの冷し中華」、
お昼の定食をいただくことに!母と妻、私も3食分ね♪



具沢山で、豪華。でも冷麺をおかずにご飯を食べるのは初めて。(^_^ゞ



「ささめん」は、太さも、つるつる、もちもち、しこしこ感が絶妙で
美味しいのですが、どうも具が邪魔をして・・・
あっさりレギュラーの冷麺にすればよかった。ここの冷麺に付いてくる
自家製マヨネーズが好きだったのに、これには無し?ガッカリ

来年はどこの冷麺を食べに行こうかな?
「そうだ京都、行こう」の特集『京の冷麺』巡りでもしてみるか。
この中では一番口に合いそうなのは、やはり「おかる」かな。
昔ながらっぽいしね♪


2015.8/1、天狗にて。サカエは7/20。

ぶらり、山科疎水。つづき。

2015-08-12 11:51:33 | 京都徘徊記
山科疎水探索オフミーティングの続きです。
7月12日ですが、この日も猛暑日。駅員3さん、すーさんはすでに
大津から山越えなどして歩いて来られていますが、お二人とも
健脚なので、ちょっと寄り道にお誘いしました。



山科疎水には何本か(14本?)の橋が架かっているが、中でも
ひときわ異彩を放っているのがこの正嫡橋と呼ばれる本圀寺参道。
この橋だけ朱塗りの欄干がある。



石碑には「南無妙法蓮華経」と書かれているのか、日蓮宗ですね。
750年の歴史がある、大本山『大光山 本圀寺(ほんこくじ)』
歴史があるとはいえ、ここに移転したのは1971(昭和46)年のこと。
私が高校へ通っていた頃にはまだ出来ていなかった。

この寺もまた時代に翻弄され移転を繰り返したようですが、この地に
来る直前は西本願寺の北側、六条に広大な寺領を持っていたようです。
日蓮宗は身延山久遠寺が総本山、寺院数は5200寺の巨大な宗教グループ。
7寺の大本山があり、本圀寺はそのひとつです。


〈開運門〉
出陣門とも呼ばれ、加藤清正の寄進による。
寺内には清正の墓もあります。


〈仁王門〉?
境内の真ん中に建っている門、ガラス張りの中に金ぴかの
金剛力士像が・・・あれ?こんなだったけな?





これでも充分異色な像だが、以前は・・・

私が以前この寺を訪ねたのは6年前、ちょうどNHK大河ドラマで
「天地人」を放映していた時ね、番組最後にやる紀行で、ここが
ゆかりの地として紹介された。上杉景勝と直江兼続が上洛した時の
宿舎としてね。実際は移転前の六条にあった本圀寺ですが。



1345(貞和元)年に鎌倉から京都に移った本國寺は、足利氏の庇護を
受け、北は今の五条通、南は七条通、東は堀川、西は大宮という
大寺院だったようですが、天文法華の乱により焼失。
後に再建され、織田信長が擁した足利義昭を入洛させ「六条御所」
となるものの、本國寺の変を機に信長が解体、二条城建築に用いた。
豊臣秀吉にも守られるが、西本願寺建立のため南半分を取られる。
徳川家康は本国寺の寺領を安堵。徳川光圀との縁があり寺名を
圀の文字をもらって、本國寺から本圀寺に改名。
1788(天明8)年の天明の大火では経蔵を除く全ての伽藍が焼失。
経蔵は唯一、重要文化財として現在の寺に現存しています。


〈鐘楼〉
豊臣秀吉の姉が寄進した大梵鐘・・・あれ、これも金ぴかのはず?


        〈清正宮〉


なんだかな~、折角案内したのに地味になってしまって。



龍さんは何とか健在。執拗にまとわりついています。



実はねぇ、6年前に訪ねた時はこうだったのですよぉ。









絶対驚いてもらえる、機会があれば誰か案内しようと思っていたのに
当日ははっきり思い出せず、こんなんぢゃなかったよな・・・って!
帰って以前の姿を確かめたら、あら残念。
調べたら何年か前に、104世伊藤日慈貫首に代わった際、
金ぴかを止めたそうです・・・ま、気持ちも分かるけど。(^_^ゞ

つまらない寄り道をさせてしまったかも知れませんね。スイマセン


さて、私はここでもう限界?第2トンネルの東口(入口)です。





扁額には井上馨の揮毫(きごう)による論語の一節
「仁以山悦 智為水歓」が彫られています。
(じんはやまをもってよろこび ちはみずとなるをよろこぶ)
仁者は知識を尊び、智者は水の流れをみて心の糧とする



「扁額でたどる琵琶湖疎水」も推奨されています。
ちなみにこの第2トンネルの出口、西口には
西郷従道(西郷隆盛の弟・初代海軍大臣)による「随山到水源」。
西口はまだ観ていないので、ご一緒したかったのですが
無理をせずここでお別れすることにしました。
猛暑の中、家にまで辿り着いたら12000歩。普段400歩やのに・・・

最後にレトロ建築もちらっと・・・


〈旧鶴巻邸(栗原邸)〉

1929(昭和4)年に京都高等工芸学校(現・京都工芸繊維大学)
校長・染織家でもある鶴巻鶴一氏の邸宅として建設されたもので
設計者・本野精吾氏が当時の最先端建築技術「中村鎮式コンクリート
ブロック造」で建てたものです。



外から観るだけではイマイチ分からないのですが、年に1回(5月頃?)
一般公開(入場料1000円)されるようです。
機会があれば訪ねてみたいです。リンク『レトロな建物を訪ねて』



2015.7/12、本圀寺にて。

ぶらり、山科疎水。

2015-08-10 17:00:28 | 京都徘徊記
1ヶ月程前になりますが、我が町、山科の疎水道をブログ仲間と
ぶらり散策しました。
ソネブロの『駅員3』さんが東京から来られて、大津の取水口から
蹴上げの方まで歩かれる計画。私もお誘いを受けたのですが
体力、脚力に自信が無く。(^_^ゞ
山科の部分だけご一緒させていただくことにしました。
『すー』さんは、大津で駅員3さんと合流、ご一緒に踏破された
ようですが・・・

まずは四ノ宮、諸羽トンネル東口(入口)前でお二人と合流しました。
お二人とも取水口から第1トンネル入口を観て、それからは小関越えで
ひと山越えてこられたのに、全然お元気。タクマシイ(^_^ゞ

ちょうどお昼時だったので、四ノ宮の駅前まで降りて来て・・・
実は私はここまでクルマで送ってもらったので、家内も一緒に。



料理が来るととりあえず写真、ブロガーの習性?(^_^ゞ四人四様♪





さて、腹ごしらえも済んで、山科疎水遊歩道を散策開始♪


〈四ノ宮船溜まり・諸羽(もろは)トンネル東口〉
諸羽トンネルは520mなので、出口が見えます。



昔の水路の名残りらしきものが右側にあります。
諸羽トンネルは1970(昭和45)年に出来た新しいものです。以前は
船溜まり跡、諸羽ダムと言って、そこで遊泳が出来たのですが、
赤痢が流行したのをきっかけに全面遊泳禁止になりました。
現在は公園となり、ニャンコの棲家に・・・



〈第2疎水のトンネル試作物〉

第1疎水は1890(明治23)年に完成しましたが、需要増大を受けて
1921(明治45)年に第2疎水が造られています。
このコンクリート構造物は、建設技術を習得するため、トンネル
上部の複製を製作したものだそうです。


〈???〉
探索していると何でも気になるんですよね。おそらく現在のもの?
それとも第2疎水の関連?第2疎水は暗渠で見えませんが、
も少し北になるはず・・・


〈諸羽トンネル・西口〉



オッと、また気になる橋を?



橋が架かる道は、『毘沙門堂』へ至る参道、毘沙門道。
疎水が造られた明治23年当時は毘沙門堂橋、これは昭和3年に架替え
られた橋だと思うのですが、それも老朽化のため平成12年に全面補修
されたようです、外観は変わっていないように思います。


さて、ここは絶対案内しないとね。



安祥寺川と疎水が立体交差。南北に流れる安祥寺川の上を
東から西へ琵琶湖疎水が通る、珍しい川の立体交差。



この水路橋は、明治22年に完成したそのままのようです。



〈洛東橋〉


橋を渡れば我が母校、3年間疎水を渡って高校生活を過ごしました。
そう言えば安祥寺川に架かる橋は〈3年橋〉と呼ばれていますが
4年間通った子もいたのにな・・・(^_^ゞ




山科疎水道は桜並木、楓も多くお花見、紅葉狩りの隠れた名所です。
ところどころ南の眺望が開け、山科盆地が俯瞰できます。
JR東海道本線や京阪電車も上から見ることができ、特に東海道本線は
マニアにはSL時代からよく知られた山科築堤、「山科大カーブ」が
東側から俯瞰できる撮影ポイントにもなります。


少しひんやり?・・・・・


この4地蔵、今までどんな謂れがあるのか知らず、ご挨拶だけは
していたのですが・・・ネットに「4人の兄弟姉妹が溺れて亡くなった
そうで、お地蔵さんがあります。」って記述を発見。
写真右の泉は未だに謎ですが・・・

昔は疎水道も整備されておらず鉄柵もなくて、よく転落事故が
ありました。転落してしまうと、流れは早く、逆アーチ状の
コンクリート側面には水苔が生え、這い上がることができません。
その側面に溺れた方の爪痕がくっきり残っていたり。
夜中に疎水端に行くと、水音にまぎれて「たすけ・・・」って声が
聞こえるとか・・・子どもの頃そんなことをよく聞かされたものですw

山科疎水、散策オフミーティング。後編に続きます。(^_^ゞ


2015.7/12、山科疎水にて。

ぶっちゃけ、仏教系。

2015-08-07 21:31:43 | レトロ建築
西本願寺境内と隣接する龍谷大学大宮キャンパスに寄ってみました。
龍谷大学は、1639(寛永16)年に西本願寺境内に設けられた学寮を
前身とする仏教系の私立大学です。
龍谷大学を知らなくても、高校野球でお馴染みの付属平安高校は
ご存じでは?(^_^ゞ

〈東黌(とうこう)〉本館の向いにある教室棟。比較的新しいがユニーク。


本館のほか、校舎である南黌・北黌、正門、旧守衛所などは、
1879(明治12)年に竣工したもので、関西における洋風建築の
先駆を成す斬新な建物として、重要文化財に指定されています。



〈正門・重文〉
明治初期に建てられたままの景観を残し、ドラマのロケにも多く
使われているそうです。



鉄製の門扉はロンドンから取り寄せたものだそうで、当時
日本の軍艦などを造っていた英国のアームストロング社製。
現在の扉はレプリカで本物は東黌に展示されているそうです。

正面には本館、右に北黌(ほくこう)。手前に守衛所があります。
「ごめんやすな、写真撮らせてもろてもよろしおすか」と
声をかければ(別に標準語でも良いけど)快諾いただけます。
見学用のパンフレットも貰えるらしい・・・
左には南黌(なんこう)、手前にはこれも重文の旧守衛所が。



〈龍谷大学大宮学舎 本館・重文〉

モダンな洋風建築で、とても仏教系の大学とは見えませんね。
もうひとつ驚きが、この建物、木造なんです・・・(^_^ゞ



擬洋風建築といわれるもので、日本の技師、大工が見よう見まねで
造った?内部も含めて思いっきり和洋折衷の美が堪能できます。
ちなみにここの住所は、七条通大宮東入大工町。
居たのですね、こんな建物を建てる大工が・・・(^_^ゞ
木造石貼り建築は、比較的早い時期に外国人が居住した横浜などで
よく用いられたそうですが、現存するのは珍しいそうです。
窓や手摺等には前述の英国製のものが設えてあります。



〈南黌(なんこう)・重文〉

白亜の美しい壁とアーチ型に連なるヨーロッパ調の窓が印象的な
優雅な建築物。これも木造で、ベランダの連続アーチは、木を弓形に
組んで石灰モルタルを用い、石造りのように見せています。

〈渡り廊下〉南黌と本館を結んでいます。柱は昔の駅のイメージ?

〈北黌(ほくこう)・重文〉
2階の窓も優美、南黌、北黌は本館を挟んで建っています。
現在、教室として使われていますが、もともと寮として建てられました。
今でこそレトロですが、当時の学生たちはこんなにモダンな寮で
生活していたんだなぁ。



さて、煉瓦マニアにはお待たせ。小型建築物ですが、これは木造ではなく
煉瓦積み、側廻り四隅砂岩石材の明治初期のものです。
今は龍谷大学オリジナルグッズ展示館になっています。
〈旧守衛所・重文〉

(北小路通から北黌の北面を観る)




北小路通を挟んで西本願寺境内。台所門、大玄関門(工事中)、
唐門が並んでいます。



ところで、西本願寺系がこれなら東本願寺系は?
・・・ありますよ、北区にですが大谷大学尋源館(旧本館)が。
ここより少し遅れて1913(大正2)年に建てられた煉瓦造りの建物。
これまたレトロ建築として充分見る価値ありかな。



2015.7/5、龍谷大学大宮学舎にて。

売り切れました・・・

2015-08-04 23:07:24 | ランチ/カフェ
最近、ランチに行くと「もう切れました」って・・・
立て続けにそんな目にあってます。ま、混雑を避けて
ランチタイムぎりぎりに行くのがいけないのですが、それにしても
限定でもなく、時間内なんだから、切れたは無いでしょうに。



西本願寺を訪ねた際、伝道院を観た後、七条通りにあるこのお店に。
『食べログ』でもそこそこの評価。ハヤシライスが美味しいようで、
期待して行ったのですが・・・ライスが切れました、ランチももう
一人分残っているだけ。って。



こちらがキレそうになりましたが、お店の方が丁寧だったのと
申し訳無さそうなので・・・とりあえず、最後のオープンサンドランチと
手作りケーキのセットをお願いすることに。





それなりに美味しくはあったのですが、やはり食べたかったものが
食べられなかったのは、ザンネン。
ケーキセットじゃ、さすがにお腹もふくれないしね・・・

ほんと、最近多いな。私だけかな「売り切れ」に遭うのはw
よくあるのが、ライスが切れました、パンなら・・・ってやつ。
メニューの種類も少ない店に限ってそう言うことがあります。
町の洋食屋さんや定食屋さんでは、そんなことはまず無いんですがね。

ここのお店だけがどうのこうのじゃなく、そういうお店が増えて
いる気がします。サービス業としての自覚はどうなのって感じ。
このお店は雰囲気もよく、癒しの空間を提供。コーヒーの焙煎機が
どんと置かれていたり、好感度が悪い訳では無いですけど。


さて、気を取り直し、西本願寺に戻る途中の道すがら・・・



ちょうどランチで入ったお店のお隣りになるかな、何やら
昭和初期のレトロな建物。精肉屋さんのようでした。
調べてみたら、やはり昭和初期から営業されていて、商店兼住宅建築。
木造2階建で、磁器タイル張りの建物。珍しかっただろう陸屋根で、
1階突き出し部の屋根は2階部分のテラスになっているようです。
両側に丸い飾り壺があったりして、当時はさぞモダンだったでしょう。
2階の軒下には凝った洋風な飾りがあったりして、銀行みたい?
肉屋には見えなかったかも。(^_^ゞ



京都駅周辺はかなり新しくなったけれど、少し離れるとまだまだ
昭和の香りがする風景を見つけることができます。



昔も今も火の用心・・・だよね。



2015.7/5、七条堀川周辺にて。

もんもんもん・・・だもんッ!

2015-08-02 17:19:30 | しゃじ
西本願寺には多くの門がありますが、中でも際立っているのが
国宝「唐門」。あまりの見事さに日が暮れるのも忘れて
見とれてしまうので「日暮し門」とも呼ばれています。

まずは西本願寺の門を振り返ってみると・・・


〈御影堂門(ごえいどうもん)・重文〉〈阿弥陀門(あみだもん)・重文〉


〈御成門(おなりもん)・重文〉   〈総門(そうもん)・重文〉

興正寺との間に〈北小路門〉があり、その先の北小路通には
〈唐門〉〈大玄関門〉〈台所門〉が並びます。
西側にあたる大宮通にも〈大宮門〉があるようですが、確認せず。


なんといっても、これを見ずして西本願寺を去れません。


〈唐門(からもん)・国宝〉


(境内側・北面、内側から)


(北小路通側・南面、表側から)

桃山時代の豪華な装飾彫刻を充満した檜皮葺き・唐破風の四脚門、
伏見城の遺構とも伝わります。

京都の国宝三唐門の一つで、他の二つは豊国神社の拝殿の唐門と
大徳寺の唐門、これは秀吉の聚楽第から移されたもののようです。
日光東照宮の陽明門も日暮御門と呼ばれていますが、あれに比べると、
かなりこじんまりしたものです。ただし、こちらの方が先。(^_^ゞ



(内側)


(表側)

よく見ると、微妙に違います。


(内側)


(表側)


(内側)


(表側)

ちなみに、架空の動物「麒麟」ですが、某ビールメーカーの
商標はここの彫刻を見本に作られたとか言われていますが・・・
知恩院の三門の楼上の天井の麒麟の絵がモデルだとも?
どうやら、実際は長崎のグラバー邸にある狛犬を参考にした
というのが真相のようです。


決定的な違いは、内側には無く、表側には・・・


(内側)


(表側)
見えますか?菊の御紋の上に見事な孔雀の彫刻が。
菊御紋があるということは、勅使門として使われていたのかな、
迎え入れる側にだけ孔雀を配したのかもしれませんね。
その下には豊臣の桐紋が見られます。



側面の破風には鶴が。これは西側だったかな?
反対側の鶴はくちばしを開いて羽ばたいている姿でした。
左甚五郎作と言われ、夜な夜な飛び立つので首を切り落とした
てな話が伝わります。こんな逸話多いよね・・・(^_^ゞ



ここにも豊臣の紋が。天下をとった徳川がよく許したものですね。
ま、東本願寺を造って対抗したから?
強大な本願寺の勢力とトラブルを起こしたく無かったのかな。



(北東角・内側から見て左角)
側面軒下に虎が2頭、柱をはさんで向き合っています。
木鼻(きばな)は、彩色された唐獅子と牡丹の彫刻で賑やかです。
正面は上に獅子、下は麒麟。真ん中に鳳凰の金箔細工、
あちこちに桐と菊の金箔細工が散りばめられていますね。


(北西角・内側から見て右側)
こちらの側面軒下は、奥(表側)に豹がいます。向かい合わずに
虎に威嚇されて豹が逃げ腰のような・・・

獅子に虎、豹、麒麟。孔雀や鳳凰、鶴・・・まるで動物園。(^_^ゞ
植物も菊に桐、松、竹、牡丹や唐草・・・その他まだありそう。
大層な美術品、しかも国宝なのに気軽に無料で鑑賞できるのは
嬉しいのですが、保存管理が心配ですね。
ただ不思議なことに、この門には鳥も蜘蛛も巣を作らないのだとか
そう言えば蜘蛛の巣も見られないし、本堂や御影堂の軒下には
鳥除けの金網が張られているのに、ここにはありません。


袖壁の部分です。写真は内側(北)の左右(東西)






表面(南)には、黄石公と張良の故事が透かし彫りで表されており、
この内側は、許由と巣父の故事になっています。

※黄石公(こうせきこう)と張良(ちょうりょう)の逸話(簡略版)
張良が始皇帝の暗殺に失敗し身を隠していた時、馬上の老人と
出会う。老人は沓を橋の下に落とし、張良にむかって「拾え」と
命じ、張良は怒らずそれに従った。老人はにんまりして去ったが、
戻ってきて五日後の朝に再会を約束。
五日後、日が昇ってから現れた張良に、先に来て待っていた老人は、
「目上の者と約束をしておきながら遅れてくるとは何事か」と、
また五日後に会う約束をし、去る。
張良はまた五日後、今度は日が昇ると同時に約束の場所へ行ったが、
またも老人はすでに来ていて、以前と同じことを言う。
三度目には日が昇る前に行くと、老人は後から来て「その謙虚さ
こそが宝である」と言い、張良に「太公望兵書(六韜)」を与え、
「この書を読み10年後には王者の軍師となるだろう」と告げる。
さらに「13年後にまた逢おう。済北の穀城の下にある黄色い石が
私である」とも。

※許由(きょゆう)と巣父(そうふ)の逸話(簡略版)
許由・巣父はともに中国古代の伝説上の帝王堯(ぎょう)の時代の
高士(世俗を離れて生活している高潔な人物)で、許由は帝堯の
国を譲るとの申し出に対し、耳が汚れたと川の水で洗ったとか。
巣父はそのため川の水が汚れたと牛に水を飲ませず帰ったという。
理想的な高士というものは、権力は汚らわしいものとし、そんな
誘惑に負けない意思を持っていること。許由はそれを実践して
みせたのですが、さらにそのことを知った巣父もまた、許由に
よって洗い流された権力の誘惑が流れる川の水を牛に飲ませまい
とした。高士とは皆こうあるべきという戒めの話なのかな。
水を欲し飲もうとする牛は、無欲を嘲笑するような俗欲、あるいは
心に潜む俗欲を象徴する存在として描かれているのかも知れない。

ちなみに黄石公と張良の俗世の立身出世話が門の表側に置かれ、
許由と単父の戒めが内側にあるのは、意味がある気がしますね。


細かく見ると、ほんと日が暮れるかもね。表と内側でこれほど
違いがあることも気付かず、写真を撮らなかった。
ぜひまた、もっと詳しく観に行きたいものです。



メインとも感じられる扉の獅子の彫刻。黒漆塗りの門に彩色を
施された彫刻が扉一枚を四枡に分けて張られている。
この美感性は素晴らしいですね。
獅子だけに表裏で、シシ16・・・ってか♪(^_^ゞ





写真は、内側だけです。片手落ちになってしまった・・・

表はと言えば、

(北小路通りからの唐門)



表側は柵が高くて、扉などは見にくいです。



実は母子(?)の獅子も見られるのですが…左はじゃれる子獅子、
右はちょうど見えませんが、乳を飲む子獅子の姿が・・・


唐門のすぐ西隣りには〈大玄関門〉があるのですが、補修工事中で
見ることはできませんでした。


〈浪の間玄関・重文〉
切妻に2羽の鳳凰が彫られています。


〈中雀門〉


〈中雀門〉           〈書院の屋根〉

この向こうに白書院・黒書院・北能舞台など、国宝建築物がずらりと
建ち並んでいるのかな。
西本願寺の『国宝・重文 建造物』



2015.7/5、西本願寺 唐門にて。