カッパのロードスター

幌を開ければFeelin`good。カッパーレッドの
路渡☆くんとの楽しいドライブ日誌。

ゆかいな、床。

2015-07-31 01:08:34 | しゃじ
西本願寺の御影堂、阿弥陀堂と言えば、国宝。その縁側や廊下に、
いつの時代か、きっと伝統的に?大工さん達によって節穴や亀裂を
補修する「埋め木」が施されています。
それがなんとも、遊び心満載の小粋な悪戯?
これもまた、まさに文化遺産かも。(^_^ゞ



Please put your footwear in a plastic bag and take it with you.



お堂に行くには靴をビニール袋に入れてね、持って上がってください。
階段にもすでに埋め木で補修されているのが分かりますね。

見っけ、お魚さん・・・♪









長い歴史をもつお堂、大切に補修を重ねて・・・
それにしても参拝者を楽しませようとしたのか、これは面白い。



これって、探し出すとキリがないくらい。
しかもハマってしまい・・・







こっちにヒヨコが! これは、ひょうたんかな? 富士山発見ッ!
これ、何に見える?・・・てな、具合。



参拝するの忘れて、下ばかり床を見ては、おおっ!って。(^_^ゞ






河童の頭に見えたり、河童の足跡だったり・・・?



トランプ・・・?




モンローのキスマークかな・・・発想が古るかった?

お天気マーク?



おッ、世界遺産つながり。




腰をかがめて、あれこれ言いながら、床ばっかり写真に撮っている
熟年夫婦の姿はちょっと怪しかったかも・・・(^_^ゞ




他にも見どころがね、案内されてます。



「沓石(くついし)」は、縁側の束柱を受けるためのもので、
創建時は柘榴の木で造られていたのを、江戸末期の修理の際に
腐らないようにと石に変えたのですが、昔の面影を残すため
一見、木造に見えるよう表面を木で覆ったのだそうです。




隙間をよく見ると、みかげ石が確認できます。


さてさて、愛嬌たっぷり?の天の邪鬼(あまのじゃく)さん。



御影堂正面の左右にある石の天水受けを支えている
ほぼ二頭身の天の邪鬼さん。今のお堂が再建されて380年近く
健気に力強く、重い天水受けを支え続けています。



筋肉隆々だけれど、どこか滑稽な表情で・・・



8体の天の邪鬼、それぞれ違ったポーズ、表情が面白い。




他にもいろいろ見どころがある国宝、世界遺産。
楽しいお寺ですね、訪ねられたら見逃さないようにね♪
こちらで『埋め木の動画』も見られます。


2015.7/5、西本願寺にて。

Go West、西本願寺へ。

2015-07-26 18:45:04 | しゃじ
♪東へ、西へ。ガンバレ、ガンバレ・・・井上陽水の歌のように?
今回は西本願寺しか訪ねていませんが、東本願寺との違い、
分かっているようで、知らないことも多かったので
簡単にまとめながら、書き留めておこうと思います。


〈御影堂門〉重文。



境内東面、堀川通に面しており、一番南にある門です。


〈総門側より堀川通を隔てた・御影堂門〉

総門から真っすぐの位置にあります。ということは正面通りの
どん突き?いやいや、西本願寺の境内西面は大宮通に面しており
正面通りはそこから千本通まで続いています。
すなわち正面通りは、大和大路通の方広寺から千本通までの間、
渉成園(枳殻邸)、東本願寺、西本願寺などで中断しています。

門の正面からは白壁の塀しか見えません。
これ目隠塀(めかくしべい)と言い、東本願寺にはありません。

〈目隠塀〉重文

〈阿弥陀門〉重文




〈阿弥陀門から御影堂を見る〉


〈阿弥陀門、境内外からと内から〉

ちなみに境内を囲んでいる築地塀(ついじべい)も重文です。



〈大銀杏〉天然記念物

御影堂の前にある大きなイチョウの樹、樹齢約400年。
「水吹き銀杏」とか「逆さ銀杏」と呼ばれている有名な樹です。



この樹が「水吹き銀杏」と呼ばれるのは、天明の大火(1788)や
元治元年(1864)の大火の際、水を吹いて御影堂などを火災から
守ったからだそうです。水を吹いたかどうかは分かりませんが、
社寺や城郭にイチョウがよく植えられるのは、この樹が耐火力が強く、
火を食い止める効果があるからのようです。
「逆さ銀杏」とは、まるで根っこを天に広げたような特徴的な
形状からで、ある高僧が苗木の時に逆さに植えたために横に
広がったという言い伝えもあるようですが・・・見事に横に
伸びているのは、手入れが行き届いているのだと思います。



〈大銀杏〉保存樹



阿弥陀堂と経藏の間にも大きなイチョウの樹があります。
黄葉の時季は綺麗でしょうね。
ちなみにGoogleストリートビューで、境内散策ができますが
ちょうど黄葉した銀杏が見られます。粋なことを・・・(^_^ゞ



〈御影堂前の青銅製灯籠〉


〈御影堂前(左)と、阿弥陀堂前(右)の青銅製灯籠です〉



〈御影堂〉国宝


〈阿弥陀堂(本堂)〉国宝

御影堂と阿弥陀堂は渡り廊で繋がっています。
どちらも国宝の建造物ですが、無料で自由に入れます。
西本願寺は世界遺産で国宝の建物も数多くありますが、
一方、東本願寺には国宝、重文の建造物は皆無。
世界遺産にも指定されていません。


ここらで少し、西本願寺(浄土真宗本願寺派)と
東本願寺(真宗大谷派)の違い、経緯を書き留めておきます。

元々は一つで、どちらも親鸞聖人が開祖の浄土真宗の本山です。
本願寺は第7世の存如上人までは不振窮乏の中にありましたが、
第8世「蓮如上人」の時代に、一気にその教線を拡充しました。
蓮如上人は山科に本地を構えましたが、第10世 証如上人の時、
細川・六角氏や日蓮宗の攻撃を受け、山科本願寺は焼け落ち、
証如上人は大坂に本願寺を再興します。(石山本願寺)
第11世「顕如上人」の時、織田信長が退去を要求してきます。
それに反発した本願寺との間に、石山合戦が勃発、11年に及ぶ
信長を最も苦しめた戦も、本願寺が屈する形で和議となります。

和歌山・鷺森に退去。本能寺の変で信長が没した後も豊臣秀吉に
その力を押さえ込まれ、大阪の地を点々とするもののその間、教団は
徹底抗戦を主張していた顕如の長男「教如」の抗戦派と穏健派が対立。
顕如は穏健派が推す三男「准如」に第12世を継がせます。教如は隠居。
それにより秀吉に支持を受け、現在の地に寺領を与えられます。

天下が徳川に変わると、家康は「教如」に本願寺の東側の土地を与え、
ここに西本願寺と東本願寺という構図ができてしまいます。
これは多分に家康の本願寺勢力を分断する為に東西に分けた政略と
考えられますね。

「石山本願寺・顕如」vs「信長」
「西本願寺・顕如三男准如」=「秀吉」
「東本願寺・顕如長男教如」=「家康」
あの戦国三傑が深く関わってますね。ちなみに信長にとって最強の
敵であった顕如は、武田信玄と正室同士が姉妹の義兄弟でした。
秀吉は強固であった石山本願寺跡を利用して大阪城を建てたし、
親秀吉側の本願寺を東西に分裂させ、まんまと力を削いだ家康。
そのツケは幕末にやってくることに・・・






西本願寺には、秀吉の色彩が色濃く、安土桃山文化の遺構が多く
残されています。絢爛豪華と侘びさびの両極の建物、広間があり
国宝や重要文化財だらけ。
東本願寺は、江戸期以降の建物や文化で、大きく、荘厳な建物が
並びます。内部も、絢爛豪華と云うよりは金ぴかで新しい感じ。
国宝や重文の建物は無く、御影堂や阿弥陀堂も登録有形文化財どまり。





家康の意向かどうかは知りませんが、秀吉色を嫌ってか、
御影堂や阿弥陀堂の伽藍配置は全く逆、畳の向きまで
西本願寺の南北方向に対し、東本願寺は東西方向。
柱も「西」は角柱を使うのに対して、「東」は丸柱を使う徹底ぶり。

こういう違いは、仏壇仏具にも表れ、浄土真宗の仏壇を作る際は
「お東さんどすか?そうかお西さん?」って訊かれます。
違いを簡単に言うと、「西」用は金ぴかの仏壇に渋い仏具。逆に
「東」用は仏壇が少し地味で、仏具は金ぴか・・・



京都タワー、京都の人は未だにこれを恥ずかしいと思っている。
私は、他とは違う形態でオリジナリティがあって良いと思うのですが


屋根瓦、獅子口と言われる部分、何か可愛い・・・♪


そうそう、「南無阿弥陀仏」が本願寺派では「なもあみだぶつ」、
それに対して大谷派では「なむあみだぶつ」と唱えます。
ちなみに違いばかりではありません。どちらも浄土真宗ですから。
般若心経は唱えませんし、線香も立てずに折って横にねかせて
くゆらせます。戒名・位牌もありません。(法名・過去帳です)
祈祷・まじない・占いなどを否定するので、おみくじはもちろん、
お札やお守りはありません。御朱印も無いです。
焼香の際、抹香をつまんで香炉に入れるとき、額の位置で"香を
いただく"という動作をしない。
ただし本願寺派は1回、大谷派は2回します。
それと、お盆に特別な飾りや迎え火、送り火などはしません。
霊魂感の助長は本来の仏教にそぐわない行為と考え、御法度です。



〈飛雲閣〉国宝
金閣、銀閣とともに京都三名閣の一つ。秀吉が建てた聚楽第の
一部ともいわれており、三層からなる楼閣建築です。
写真は隣りの興正寺から塀越しに撮ったもので、南面?

通常非公開の対面所、南能舞台、白書院、北能舞台、飛雲閣など
ほとんどが国宝。事前に龍虎殿(075-371-5181)に申し込むと、
無料で一日2回案内して頂きながら拝観できるらしい。



〈経藏〉重文



〈手水舎(ちょうずや)〉重文



〈太鼓楼〉重文


幕末、本願寺を一時的に屯所としていた新撰組による刀傷が、
今も残っているそうです。

ここで、幕末における西本願寺と東本願寺のスタンスの違いを・・・
古くは信長と戦った11年に及ぶ石山合戦の頃、当時中国の最大勢力
毛利輝元は本願寺を支援しており、強い絆がありました。
豊臣時代は五大老にまでなった輝元、関ヶ原の戦いで総大将であった
責任を問われ、周防国・長門国(長州藩)に減封されます。

その頃、本願寺を継げなかった教如は家康に接近、関ヶ原でも
後方支援に回ったり。逆に准如は石田三成に説き伏せられ、
西軍側にくみすることになります。
結果、教如は家康から東本願寺を与えられ、教団は東と西に
分裂させられてしまいます。

そんな経緯から、幕末動乱期には東本願寺は佐幕派、西本願寺は
倒幕派のスタンスをとることになります。
特に西本願寺は尊攘派の志士の密談所を提供したり、蛤御門の変では
敗走する長州兵を匿います。この露骨な“長州びいき”が京都守護職
松平容保の怒りをかい、傘下の新撰組を西本願寺に乗りこませることに。

それまで壬生にあった新撰組屯所を西本願寺の境内北側にある
600畳敷きの北集会所に移したのですが、新撰組は境内で砲術訓練や
酒宴など騒動が絶えず、大変なやっかみものであったと言われ、
二年後の不動堂村屯所への移転の際には、その費用を西本願寺が
全額負担したという話も残っています。

維新後は、東本願寺が苦しい立場に追いやられますが、西本願寺と
歩調を合わせ、新政府に戊辰戦争の軍資金を出資するなど、償いの
姿を見せることで生き延びたようです。

宗教や歴史、本来専門的で難しいですが、簡単にでも頭の隅に
置いておくと、観光が確かなものになると感じます。


2015.7/5、西本願寺にて。太鼓楼

西本願寺、おとなりさん。

2015-07-21 19:32:25 | しゃじ
西本願寺の南隣りにあって、どうも影が薄いのですが・・・
『円頓山 興正寺(えんとんざん こうしょうじ)』だって
浄土真宗・真宗興正派の「本山」なんです。
とはいえ、かつては西本願寺の脇門跡。1987(明治9)年に独立して
本山となりました。


〈三門〉



京都の人でも興正寺、西本願寺の南隣りのお寺。と言っても
ピンとこないかも。西本願寺の一部に思ってしまいます。



堀川通沿いに堀があり、その上に橋が確か6本続いています。
一番南が興正寺三門の前、北へ次が阿弥陀堂門前、そして北小路門前で、
その先は西本願寺の御影堂門、阿弥陀堂門、御成門の前に架かっています。



〈興正寺・阿弥陀堂門〉


〈北小路門〉


寺伝によると「創建は鎌倉時代にさかのぼり、当初は京都の山科に
建立されました。興正寺は創建後数年を経て、山科から京都東山の
渋谷(しぶたに)へと移りますが、その際、ご本尊が光を放ったこと
から、後醍醐天皇より佛光寺の寺号を賜り名を改めます。
佛光寺の教勢は飛躍的に拡大し、隆盛を極めました。室町時代、
蓮教上人は本願寺の蓮如上人と歩みを共にし、佛光寺を弟に譲り、
再び山科の地に多くの門徒と共に興正寺を興しました。
その後は本願寺と歩調を合わせ、度重なる移転にも常に行動を
同じくしています。
桃山時代、現在の地へ移転し、堂舎が隣接して建てられているのも
本願寺との深い関係を示しています。」とあります。



〈御影堂〉

本堂は起工から128年の年数をかけ、日光東照宮の本廟・知恩院の
三門とともに、日本三建築の一つと称せられた壮大華麗な大伽藍で
あったが、明治35年11月、不慮の火災により、本堂その他、
ほとんど焼失。明治45年、阿弥陀堂とともに大伽藍が再建され
現在に至るというものです。



結構立派なものです。隣りの本願寺が凄過ぎますが・・・


〈御影堂内〉

御影堂、宗祖などの像(=御影)を安置するお堂のことですが、
知恩院や東寺では「みえいどう」と読みますが、親鸞上人の
場合は「ごえいどう」と読むようです。
「見真」の額は、祖師が見真大師だからです。誰のこと・・・?
弘法大師が空海だと言うのはよく知られていますが、
親鸞は見真大師だとはあまり知られていないかも。
ちなみに伝教大師は最澄、慈覚大師は円仁、立正大師は日蓮。
法然は?いっぱい大師号があったりして・・・ワケワカラン


〈渡り廊で阿弥陀堂と繋がっています〉


〈阿弥陀堂内〉


南に御影堂、北に阿弥陀堂がある伽藍配置は西本願寺と同じ。
仲良しですもんね。
東本願寺はというと、これが全く逆!
南に阿弥陀堂、北に御影堂になります。畳の向きも逆です。



〈鐘楼〉
1774(安永3)年建立。皇太后 恭礼門院から、桃園天皇の供養のため、
梵鐘と共に寄進されたもの。明治35年の火災の際、難を逃れたため、
興正寺では一番古い伽藍として残っています。

〈手水舎〉


〈経蔵〉


1848(嘉永元)年の建立。孝明天皇より「法宝蔵」の勅額が下賜。
あまり見かけたことが無いユニークな経蔵ですね。
石積みの段上に、花崗岩の高欄が廻らしてあり、その上に
白壁の土蔵造り、扉の上に唐破風の軒。屋根は、経蔵によくある
宝形造ですが、やはり唐破風を設けた豪華なものです。

西本願寺に行かれたら、訪ねられても良いかも知れません。
観光客もうんと少ないようだし・・・♪



2015.7/5、興正寺にて。

おにっさんの伝道院

2015-07-18 12:41:22 | レトロ建築
見どころいっぱいの『龍谷山 本願寺』通称:西本願寺を訪ねました。
西洞院通りを真ん中に、左右に東と西の本願寺がありますが
東本願寺は真宗大谷派の本山。正式名称:真宗本廟で、
西本願寺は浄土真宗本願寺派の本山。正式名称:本願寺です。

京都では「おひがっさん」「おにっさん」と呼んでいます。
そこのお兄さん、「おにっさん、参ったか!」と訊かれても
「参りました、降参です」と勘違いしたらあきまへんどすぇ。(^_^ゞ

本願寺の歴史を辿れば・・・長くなるので、後々憶え書き程度に
まとめることとして。
現在の東・西本願寺は仲良うしたはるようです。



〈御影堂門築地塀越しに見える本願寺伝導院〉




境内北側、聞法会館(もんぼうかいかん)のところに
広大な無料駐車場があります。



〈総門〉重文

境内に入る御影堂門の真東、堀川通を隔てて総門が建っています。
この門は「高麗門」と呼ばれる形式で、門扉の上に大きな屋根、
左右の控柱(脇柱)の上に小さな屋根を設けている。
写真では左右に塀が続いているように見えますが、実際はすぐに
途切れていて・・・何か変。(^_^ゞ
片側3車線、中央分離帯、歩道もある京都にしては広い堀川通が
境内の間に通っており、ちょっと特異な立地かも。

重要文化財ですが、西行き一方通行の正面通りにあり、門扉は無く
普通にクルマがくぐり抜けて行きます。
正面には西本願寺の御影堂門、目隠塀が見えています。






総門を出た門前町、正面通りは仏具店ストリート。
ずっと先には東本願寺も見えています。
ちなみに仏壇や仏具、浄土真宗だと言うと「お東さんどすかお西さん?」
と訊かれます。結構違うんです。お東さんの方が地味だったかな。

そうそう「正面通り」の由来は、本願寺の正面だから、ではなく。
かつて東山山麓にあった方広寺大仏殿の正面に通じるからなんです。


さて、この建物を観て、誰が仏教施設だと思うでしょうか・・・


〈本願寺伝道院〉重文

1895(明治28)年に設立された真宗信徒生命保険株式会社の社屋として、
東京帝国大学教授 伊東忠太の設計により建築されたものです。
様々な使用を経た後に現在は「本願寺伝道院」となり、僧侶の教化育成の
道場として使われているとのこと。









近代レトロ建築ファンには見逃せない建物ですね。
様々な国の建築様式が融合されたような・・・
レンガ張りに石造り風の装飾をあしらった外壁、2階窓枠はギリシャ風?
塔やアーチ状の門はサラセン様式、塔の窓は日本古来の花頭窓にも
見えるし、千鳥破風のカタチも・・・何とも見応えのある建物です。

設計者の伊東忠太は、東京駅など多数の近代建築を残した辰野金吾の
教え子でもあり、欧化でも和洋折衷でもなく、木造の伝統を進化させる
ことにより生み出さなければいけない、という「建築進化論」を提唱し、
日本の建築界に大きな影響を与えた人物です。
数多くの作品が残っていますが、築地本願寺や一橋大学兼松講堂、
震災祈念堂(現・東京都慰霊堂)、京都では祇園閣などが有名かな。




そしてこの伊東忠太の作品には、もうひとつ特徴があります。
それは、こんな怪獣?妖怪たちの姿・・・









伊東忠太は妖怪好き。「妖怪研究」なんて著書も残されています。
もともと画家(漫画家)になりたかったということで、本格的な
日本画や、妖怪などを描いた軽妙な漫画も多く残されていて、
建築でもここだけではなく、兼松講堂や震災祈念堂などには
摩訶不思議な動物の彫刻が付けられています。






2015.7/5、本願寺伝道院。

近く&そば、ランチ。

2015-07-15 23:56:31 | ランチ/カフェ
久しぶりの更新です、ランチねたが残っていました。
まずはご近所の洋食屋さん、『キッチン はたけ』



こぢんまりとしたお店、いかにも町の洋食屋さん。目立ちません。
場所的には悪くないのですが・・・旧国道1号線(三条通)に面しているし
ほぼ隣りに、Honda Cars東京都←「ひがしきょうと」です。
その隣りは京都薬科大学。
ウチから徒歩7分ってとこかな、ずっと見逃していて
行くのは初めてでした。





日替りランチ(800円)を注文してみました、ご飯にみそ汁。家庭的♪



おばんざい風?前菜、おかずの6種盛り。これ、NICEです。


2015.6/14
この日のメインは、ヒレカツ。なかなかこれも美味しくて・・・
メニューは、いわゆる洋食屋さんメニュー。特にビーフシチューが自慢だそうで。
フランス料理歴20年のご主人、丁寧でしっかりとした仕事をされる♪

そんな洋食メニューのなか、店頭貼りの品書きにカレーうどんと
テイクアウト用に「洋食屋さんの特製豚まん」って。これは気になる!
早速注文してみたのだが、この日は夕方から仕込むと言うことで
ゲットできず。(-。-;)

ちょうど私らと同年代のご夫婦でされている洋食屋さん。
奥さんは気さくでお話好き?いろいろお話させてもらって、好印象。
これからもちょこちょこ来ることになるかな・・・
ちなみに僕らが行った後日、関西ローカルのテレビ番組「よ~いドン!」の
取材が入って「となりの人間国宝さん」に認定されてましたよ♪



もう梅雨明けかな・・・撮影したのは6/9日。

我が家の庭の金糸梅〈オトギリソウ科〉




次はもう何度か来ているお気に入りの蕎麦屋さん。『蕎麦切 塩釜』
東大路をずっと上がって行って修学院手前の一乗寺にあります。



美味しくて、ボリュームがあって、メニューも豊富。それに価格も親切。
四拍子揃ったコスパの高い、おすすめのお店です。
そんな店、誰もが放って置くわけも無く、人気店です。



もう1時半だと言うのに・・・それにしても今日はえらい行列やな。
と思ったら、いつの間にか隣りに出来たラーメン店。これまた人気のようで
アホみたいに行列ができとる・・・w『麺屋 極鶏』

蕎麦屋の方も空席待ちがあるようだが、それほどでも無さそうなので
近くのコインパーキングを探しに行く。いつものところは予想通り
満車なので、少し離れたところまで・・・
なんでよりによって隣りに人気ラーメン店なんかできたんやろw



30分ほど待ったかな、この日も相席やったけど・・・
いつも相席、要はいつ来ても満席?

入り口のすぐ脇には電動の石臼粉挽き機が働いていて、
自家製粉、手打ちを主張。



それなりに本格的な味を楽しめますが、メニューも魅力でいつも迷います。
で、結局いつも家内が「天せいろ」、私は「天丼セット」(^_^ゞ



これで並盛り!天丼も充分一人前のボリューム、それにお蕎麦も・・・
食べきるのが苦しいけど、美味しいので何とか食べきりますが
お腹は置いてある、たぬきの如く・・・


2015.6/13


にゃんの脈略も無く、サラくんのプロフィール。
視線の先には窓に張り付いたヤモリくんがおります。(=^δ^=)


2015.6/27