カッパのロードスター

幌を開ければFeelin`good。カッパーレッドの
路渡☆くんとの楽しいドライブ日誌。

めでたさも・・・

2019-01-14 18:32:21 | しゃじ
お正月はあっという間、もう成人の日なんですね。私がスローペース過ぎるのかな
今年も2日に例年通り山科の毘沙門堂へ初詣に行って参りました。



護法山安国院出雲寺、もともとの出雲寺は703年、行基が開いたと伝わる由緒を持つお寺。盛衰、移転を繰り返し江戸初期にこの地に興された門跡寺院である。
ほぼ毎年初詣に来るようになって50年近いかな?別に特別ご利益があるわけではないのですが・・・



毎年変わらない光景、焚き火と甘酒のふるまいに癒されます。



今年はちょっと変わった初詣客もおりましたけど・・・(^_^ゞ




春は桜、秋には紅葉で知られているお寺ですが、冬の境内は赤い実が目立ちます。


ナンテン(南天)
「難を転じる」縁起の良い木といわれ、鬼門に植えたりしますね。お正月には福寿草とセットで飾られることがあります。「難転福寿なす」かな。



こちらは金運アップ?名前からして目出度い、正月の縁起物に使われます。
マンリョウ(万両)



        クチナシ(梔子)

ツバキ(椿)

いつも仲良しな夫婦タヌキさん


小林一茶の句に「めでたさも ちゅうくらいなり おらが春」があります。
ちょうど200年前の1819年、一茶57歳の1年間折々の出来事に寄せて詠んだ俳句・俳文を集め、没後25年に刊行された『おらが春』に編纂された最初の句で正月を詠んだものです。
「中くらい」は、真ん中、まずまず・・・くらいの意味だと思っていましたが、じつは「あいまい、あやふや」いいかげんなものという信濃地方の方言のニュアンスだそうで。ちょっと捨て鉢な感じも・・・

この句の前文には「から風の吹けばとぶ屑家はくづ屋のあるべきやうに、門松立てず、煤はかず、雪の山路の曲り形りに、ことしの春もあなた任せになんむかへける。」とあります。
新年を迎えて、今年もあなた任せ・・・って?この“あなた”というのは阿弥陀如来のこと。他人任せってことではありませんでした。一茶は熱心な浄土真宗の門徒であり、親鸞の教え“他力本願”からくるものなんです。
一茶は生涯でざっと2200句を残したそうですが、その人生は波瀾万丈、決して幸せだったとは思えませんが心は満たされていたのでしょうね。

『おらが春』の最後の句は「ともかくも あなた任せの 年の暮れ」で結ばれます。
始まったばかりの一年、思い通りにならないことの方が多いでしょうが心は豊かにありたいものです。





2019.1/2、毘沙門堂(護法山 安国院出雲寺)にて。

六角さんは、はなととりと・・・

2018-12-28 22:54:54 | しゃじ
[一言願い地蔵]

紫雲山 頂法寺、587年に聖徳太子が創建したと伝えられている。通称:六角堂、京都では「六角さん」の愛称で呼ばれています。
華道発祥の地としても知られている。聖徳太子に仕えていた小野妹子がここで入道し、ご本尊に花を供えるようにしたのが始まりとされ、頂法寺の本坊である六角堂が太子が沐浴された池のほとりにあったころから「池坊」と号した。そして現代に亘り住職であり家元でもある池坊が代々務めているのだそうです。
トップ画の一言願い地蔵さんも花束を持ってますね。少し首を傾げたお姿は、願いを叶えてあげようかどうか考えておられるのだとか・・・意地悪じゃないですよ、信仰心を見極めてられるのだそうです。



[十六羅漢像]


京都の街中にあって小さな境内ですが、多くのお地蔵さんが安置されています。
それと和顔愛語の十六羅漢さんもね。「和顔(わげん)愛語(あいご)」の教えを実践し、いつもにこにこされています。その周りには邪鬼もいて、改心する姿も見られます。



創建されたのが京都に都が遷る200年以上前って伝えられていますが、平安京造営の際、計画予定の道の真ん中に建っており困っていたところ、堂は自ら北方へ15m動いたという伝説がある。今はビルに囲まれてしまって・・・



この日は池坊いけばな展で、境内にも花がいっぱい。


[へそ石]



花は花でも「番茶も出花?」、お弁当タイムを楽しむJKさんたち。(^_^ゞ



寺院にとって鳩は困り者のはずですが、人懐っこい鳩がいっぱい。餌やり禁止にする寺もあるのに、ここでは名物?になっている。いつ頃からか何故なのかは知りませんが、おみくじやお守り、願掛けなど鳩グッズが揃えられています。






聖徳太子沐浴の古跡と伝えられる池には白鳥が浮かんでいます。この白鳥には「餌を与えないで」って注意書きが・・・近づくとかみつくそうです。
この池は池坊会館のビル内にまでつながっていますが、その池坊会館内には文鳥が飛んでいたし・・・鳥好きなお寺?



見逃しそうになりますが、境内のクスノキの枝にフクロウさんが留まっています。木彫のようですが、何羽かいるので数えてみてください。



[鳩みくじ]
期間限定カラーの金色の鳩みくじがあったので、そちらをゲット。10月にはここで「CHANEL MATSURI」ってあのシャネルのイベントがあって、その期間中はシャネルカラーの真っ赤な鳩みくじが出たようです。






2018.11/11、六角堂にて。

満足じゃ?

2018-05-01 23:47:57 | しゃじ
大胆不敵?自信満々のその名も『満足稲荷神社』、以前から気になっていたので
ちょっとお詣りしてみました。満足できるのか・・・?(^_^ゞ


〈舞殿〉
場所は東大路通仁王門下ル、近くに平安神宮や国立美術館があります。
「小さな神社で、大きな満足」とHPに謳っている通り小さな神社。



御祭神は倉稲魂命(うがのみたまのみこと)、お稲荷さんですね。


〈元御本殿、岩神さん、ご神木〉


〈元御本殿を守る狛犬?〉
左がコン吉、右はツネ松。ミッキーマウスのような耳だけど、狐だということらしい。体中ケガだらけで痛々しいけれど、健気にお役目を勤めている。


〈ご神木・もちの木〉
樹齢400年ともいわれるご神木・クロガネモチの木。一本の幹から八本の幹が枝分かれし、末広がりでたいへん縁起がよいとか。確かに迫力はある。



さて、名前の由来、ご由緒は・・・豊臣秀吉が文禄の役の戦勝を稲荷大神に祈願、その霊験におおいに満足。伏見桃山城の守護神として勧請し、満足神社と呼した。

豊臣秀吉の稲荷信仰は、幼少の頃より出世開運の神である稲荷大神を信仰。
天下統一を果たし、京に聚楽第を造営、その邸内に稲荷社を勧請。
後陽成天皇が行幸の際、立身出世を成し遂げた秀吉に因んで「出世稲荷」の号を授けられた。その稲荷社は聚楽第取り壊しの後も残ったが平成24(2012)年に、京都大原に移転している。
また秀吉は実母・大政所の大病平癒を伏見稲荷大社に祈願、成就したことから大規模な寄進を行ない、応仁の乱で灰塵と化していた伏見稲荷を現在の姿にしたといいますから、お稲荷さんの神使はキツネじゃなくサルでもいいかもね。(^_^ゞ


〈岩神さん〉
この霊石をさすり、その手で身体の悪い所をさすると治ると伝えられている。



本殿はこの神社の規模にしてはしっかりしたものでした。小さな神社なのでお詣りもあっという間に済んでしまい、満足できるかどうか・・・
とりあえず、秀吉を満足させた霊験、ご利益にはあやかれるかも。


2018.1/12、満足稲荷神社にて。


ここでのお持ち帰りは・・・


「白ぎつねおみくじ」。神の使いとして狐が百年修行すると白ぎつねに格上げされる、そんなご本殿の満足白ぎつねがモチーフになっている。
じつはこれ左右(巻物/宝珠)が1対となっている。それに気がつかず巻物を咥えた方だけお持ち帰り。
一体500円、二体セットだと900円・・・さすが商売の神様、セットはお得に。



「変わりみくじ」が結構たまってきました。そろそろ積極的に集めて新しいブログカテゴリーでも始めるかな・・・(^_^ゞ



世界遺産にカフェ。

2017-07-28 23:47:17 | しゃじ
世界遺産、国宝だらけの寺院「龍谷山 本願寺」通称:西本願寺(お西っさん)。
去年の10月1日から今年5月31日までの間、ココに出現したのは・・・
古い情報なのでボツにするつもりでしたが。(^_^ゞ



訪ねたのは5月19日でした。降誕会(ごうたんえ):親鸞聖人の誕生を祝う法会。
親鸞誕生は5月21日なんですが、それを前に全国の保育連盟加盟園の園児たちが
お祝いにやって来ていたようです。賑やか賑やか♪

そんな境内にでで〜んと、店舗が建てられていました。





『おてらかふぇ&まるしぇ』だそうです。



国宝の建造物に囲まれて・・・ええんかいな。(^_^ゞ



とりあえず入ってみました。ホットドックとスパゲティでも食べようと・・・
えッ! まだお昼前やのにSOLD OUTってか?
一日限定40食のランチはまだあるのに?

仕方ない、リュミエール風っていう「牛肉と豚肉のハンバーグ」にしました。


不味くは無いけれど、スペシャル感無し、量も少ない。これで¥1,620。

家内は「京野菜を使ったゴロゴロ野菜サラダ酵素ドレッシング」を。


名前はスペシャル、やたら長い。(^_^ゞ これも量は少ない。¥680。
ミシュラン7年連続星獲得のフレンチの名店(大阪心斎橋)だそうだけど
私の舌には贅沢過ぎた?



雰囲気だけでも楽しめたらもっと価値が上がるのだろうけど、
どう見ても仮設だし、店内も食堂って感じだし・・・
こんなことまたやるんだろうか、お西っさん。



国宝の唐門





ちょっと傷みが出てきたのかな、2018年6月から3年10ヶ月の予定で
修復されるようです。その間は観られないのかな?




鐘楼(重文)、この奥に滴翠園がある。


豪華な彩色、彫刻に飾られた美しい鐘楼です。
滴翠園には国宝の飛雲閣がありますが、ここも今月から2年9ヶ月の
予定で修復工事に入っています。



仮設のマルシェでゲットした塩おこし、これ後を引きます。美味しかった♪
ちょっとご機嫌が治ったかも・・・(^_^ゞ



2017.5/19、西本願寺にて。

清水寺開創の地?牛尾観音 法厳寺

2017-05-26 19:14:04 | しゃじ
京都の東端には音羽山があり、山を越えれば近江の国って位置。
その支峰に牛尾山という山があって、ハイキングコースになっている。
子供の頃は、ここでキャンプや飯盒炊爨をしたものです。
なのに、このお寺の存在は知らなかった・・・(^_^ゞ



鎌研ぎ橋登山口から音羽川に沿って登るハイキングコース。
今は舗装されクルマでも登れるが・・・蛙岩、十字刻印石、大師堂、
お経岩、聴呪ノ滝、仙人窟、橘青龍の滝、夫婦ノ滝、しずく谷不動尊、
音羽の滝、大蛇塚、牛尾白糸の滝、牛尾苔の雫滝を経て、
牛尾山桜の馬場に到着。四輪はここまでで、駐車スペースにもなっている。
昔はここがキャンプ場だったはず。今もクルマで来る人は少ないかな、
ほとんどがハイカーです。

私は苔を観にバイクで来たので、七廻りと呼ばれる九十九折れの山坂道を
登って行きました。
ここには「苔の雫滝」とか「苔滑洸(こけこっこう)の滝」なんて名前の
場所があるから、苔探索にはちょうどいい?



途中フェンスがあったので、牛尾観音の境内までは行けず、
ここでバイクを降りて、あとは徒歩で登ります。
ちょうど「天狗の足跡」・・・なんのこっちゃ分からんけど。(^_^ゞ




牛尾山 法厳寺(うしおさん ほうごんじ)通称:牛尾観音。778年創建。
音羽山 清水寺が建てられてからは「清水寺奥の院」となる。
清水寺の開祖・延鎮は夢告に従い、伝承の僧・行叡の沓(くつ)を拾った
とされた。この地の音羽山により、清水寺の山号を音羽山としたとも。

山科といえば赤穂浪士、大石内蔵助が毎夜、人目を避けて訪れ、
祈願したんだとか。幕末には尊王攘夷派の志士達の談合の場に・・・
そうとう山奥の隠れ寺だったということでしょうね。
現在は本山修験宗の単立寺院。

       〈手水舎〉

〈記念碑〉何の記念かしらんけど。
手水舎の横には西国三十三所霊場と四国八十八所霊場のお砂踏み場が
ありました。便利過ぎる?(^_^ゞ







崖のような斜面に「天狗杉」と呼ばれる杉の巨木があり、その前に
大杉堂が建てられている。ここには火を司る男神・大杉坊大権現と
水を司る女神・八頭龍王尊を音羽山の山の神として祀られています。






〈本堂〉1689(元禄2)年に再建。
本尊は天智天皇自刻とされる十一面千手観世音菩薩、脇侍に
不動明王、毘沙門天を安置する。



香炉の紋は行者輪法、本山修験宗だからかな?
鰐口の奥には方位盤が天井に貼られている、何か意味があるのかな。






ここには「六大具足 修験道場」の案内が・・・
一.地=地主大神、二.水=五智瀧、三.火=護摩堂、四.風=天龍王神、
五.空=釣鐘堂、六.識=大弁財天。となっているが、修験道のことは
よくわからない。(^_^ゞ


〈釣鐘堂〉空の道場
…梵鐘は大日如来の心を表しており、その音は法身の説法と言われます。
多くの迷いや煩悩を鐘の音と共に消滅させて下さい…
梵鐘には「京清水寺奥院」の文字が刻まれています。

釣鐘堂の奥の堂宇が〈護摩堂〉火の道場
…日常生活で作り出した業や煩悩を護摩木に托して、佛の智恵の火で、
全てを焼き尽くして清浄にする道場です…

〈天龍王神〉風の道場
…火が風を呼び、風に乗って天龍王神に降臨頂く道場です。
地・水・火・風の四大が崩れますと死に至り、清浄になれば神佛の
世界に至れます…


〈大弁財天〉識の道場


〈五智瀧〉沐浴道場へ続く踏み石


〈五智瀧〉水の道場
…十八界を清浄にする為、十八尺の高さから 五佛の三摩地に位した
五智如来の加護を頂いて下さい…
ここで滝行ができるようです。水は出てませんでしたが、申し込めば
出してくれるのかな?

〈地龍王神〉地の道場

〈霊水 金生水〉
…当山の開祖、延鎮上人が金色に輝く一筋の水の流れの源を尋ねて
来山され、行叡居士の導きで、法厳寺が建立されました…



シニア世代のハイカーグループを何組か見たが、修験行者は見ず。
寺務所にも人影はなく、お寺の方とも出合わなかった。
ハイカー以外、見向きもしない寺なのかな?

興味深いのはここの寺伝と、あの世界遺産である清水寺の縁起が共通?
清水寺縁起では、778(宝亀9)年、延鎮が霊夢をうけ音羽山麓にある清泉に
辿り着き、そこで行叡居士と出逢い、その遺命でこの観音霊地の山を
守った・・・というのが清水寺開創のくだり。
この法厳寺創建の寺伝と一致している。どういうことなのか
そもそも清水寺は音羽山麓ではない、東山三十六峰のひとつ清水山の
山麓になると思われる。清水寺の近くの地名に東音羽町というのが
あるが、この「東」と付くのがキモ?
一方、法厳寺はまさに音羽山麓にあり、ふもとは音羽という地名、地域。
清泉・金生水が流れ出る音羽川には本物の(?)音羽の滝がある。
あの有名な清水寺の音羽の滝とは全くの別物、自然の姿のままで。

どうも清水寺縁起に書かれている開創の地は、ここであると考えるのが
自然だと思われる。
ならばここも、もう少し知られていてもいいのかな。

ちなみに清水寺創建は、音羽山に鹿狩りに来た坂上田村麻呂が延鎮と
出逢い、延鎮より殺生の罪を説かれ、観音に帰依して観音像を祀るために
自邸を本堂として寄進したとある。780(宝亀11)年。
その後、征夷大将軍となった坂上田村麻呂は東国の蝦夷平定を成し、
無事に都へ帰ることができて798(延暦17)年、本堂を大規模に改築。
したがって坂上田村麻呂の自邸があった場所が今の清水寺で、
草創伝承の地はこの法厳寺ってことですかね。そこのところが
うやむやにされている気がする。
なお、清水寺では行叡を元祖、延鎮を開山、田村麻呂を本願と
位置づけているようです。現在の奥の院は舞台のある本堂のすぐ近く
音羽の滝の奥にあります。


2017.4/6、牛尾観音 法厳寺にて。

狸山谷で四国遍路逆打ちお砂踏み。

2016-06-17 11:56:55 | しゃじ
えっちらおっちら、タヌキさんに見守られながら250段の石段を
上がって行くと、ちょうどひと休みしたくなるところに・・・



狸山谷不動院、250段の中間である126段目の平地には弘法大師を祀る
大師堂「光明殿」が建っています。







堂の周囲には四国八十八ヶ所霊場のお砂踏があり遍路の功徳が得られる。
なんとも便利な都合のよいシステム♪
西国三十三所霊場巡りはリアルにしましたが、その多くの寺でも
同じように四国八十八ヶ所のお砂踏み場がありました。



前に大きな錫杖(しゃくじょう)が置かれているので、まずは神社で
鈴を鳴らすように、こちらでは錫杖をシャクシャクッと鳴らします。

四国八十八ヶ所霊場巡り・お遍路は四国にある空海(弘法大師)ゆかりの
88か所の寺院を巡礼するものですが、その全行程は約1400kmに及び、
東京~鹿児島間に匹敵するとか。
徒歩で廻れば約40~50日、鉄道・バス等利用で約25日、自動車・バイク
でも約8日の日程が必要。それがお堂の周りを一回りするだけで・・・
ま、同じ功徳をいただけるとは思えませんが、とりあえずね♪

今年は60年に1度という、ご利益が倍の倍増しの年だそうで。
本来ならリアルに巡礼したいところですが、お砂踏みで済ませます。
知らなかったのですが、普通の年は第1番札所から順番に88番まで
回るのが定番の「順打ち」というもの。
4年に1度、うるう年にはその逆に回る「逆打ち」をすると、ご利益が
倍になるとか。しかも今年は「丙申(ひのえさる)」の年。
うるう年の丙申は、60年に1度。倍の倍になる大チャンスの年です。
ちなみに、ご利益倍増の逆打ちは今年中に始めればいいとのこと。
結願するのは何年か先でも良いそうです。


ここのお砂踏みはトップ画のように、番号がふられた踏み石が順番通り
並べられています。踏み石の下にはその番号の札所の砂が仕込まれていて
その上を踏みしめることでお遍路したことになる、というもの。

それではここで、お砂踏みの逆打ちを実践。普段なら出口にあたる
成就門の第88番からスタートします。(^_^ゞ




1歩づつ確実にね♪ 途中、石造りの十三仏にお参りしながら。



真言宗のことはよく分かりませんが、こういう信仰があるのですね。



十二支お守り本尊にもなっているので、書き出してみましょう。
1:不動明王〔酉〕 2:釈迦如来 3:文殊菩薩〔卯〕 
4:普賢菩薩〔辰・巳〕5:地蔵菩薩 6:弥勒菩薩 7:薬師如来 
8:観音菩薩〔子〕9:勢至菩薩〔午〕 10:阿弥陀如来〔亥・戌〕 
11:阿しゅく如来 12:大日如来〔申・未〕 13:虚空蔵菩薩〔丑・寅〕
となります。





順打ち、逆打ちは四国を時計回りか反時計回りに順番通りに札所を
回りますが、バラバラに回る場合は「みだれ打ち」と言うそうです。
それとは他に、国(県)ごとに回る「区切り打ち」と言うのがあって、
阿波(徳島県)を発心の道場、土佐(高知県)を修行の道場、
伊予(愛媛県)を菩提の道場、讃岐(香川県)は涅槃の道場と呼び
その順番で区切りをつけて廻るようです。

ここのお砂踏みでもその区切りで石の門が設えてあります。
発心門、修行門、菩提門、最後は涅槃門ではなく、成就門に
なっていましたが。



ちなみに今年が60年に1度、何故にご利益が倍々になるかというと・・・
こんな伝承、伝説によるものらしいです。

以前、51番札所「石手寺」を訪ねた時のレポ『石手寺探訪』にも
詳しく書きましたが、要約すると

およそ1200年前、ある修行僧が伊予の国の長者の家を訪ねた。
本来なら修行僧は手厚くもてなすものですが、その長者(衛門三郎)は
修行僧(空海)を追い返してしまう。
その後、衛門三郎の家では8人の子供が次々他界する不幸が起ります。
長者は「あの時に修行僧を追い返してしまった自分が悪いんだ」と
自ら過ちに気づき、修行僧に謝罪しようと家を捨て、遍路を重ねます。
四国を回ること20回、どうしても空海に会うことができず、疲労困憊。
ふと逆に回ってみようと最後の力を振り絞って逆回りしてみたところ
遂に力尽きるのですが、その臨終に空海が現れ、衛門三郎は極楽へ
行けたというものです。
その後の石手寺のエピソードも面白いのですが、省略します。

遍路を続けた衛門三郎が逆打ちをして遂に空海に出会ったというのが
「うるう年の丙申」だったことから、この60年に1度の年回りには
ご利益が倍増するってことになったようです。











「木食上人 参籠之地」の石碑も建てられていました。



本来ならここからスタートするはずの「発心門」の第一番踏み石。



さぁ、逆打ちお砂踏み完了♪ご利益はいかばかりか・・・(^_^ゞ

ま、家は門徒(浄土真宗)ってことになっているので、ご利益の
考え方は全然違います。個人的には空海より親鸞の方が教えとして
理解できますけどね。
ただ、日本の風習文化としてお遍路やお守り札なんかも在りかと♪



2016.5/1、狸山谷不動院・光明殿にて。

お不動さんの目線の先は・・・

2016-06-14 19:27:18 | しゃじ
狸谷山不動院のつづきです。本殿まで250段の階段を上がることに
なりますが、境内らしい広場までだと206段、まだ44段残ってます。



広場の奥の方にある階段(11段)を上って行くと・・・

「左 不動明王、右 たき」と彫られた石標があります。

「たき」の正体ははこれ。

宮本武蔵修行の滝です。
「慶長9年(1605)、時の剣豪武蔵が吉岡清十郎一門数十人を迎えて
山麓「下り松」で決闘に臨むに当たり、この滝にうたれ、修行の末、
ついに不動尊の右手に持する降魔の利剣の極意を感得した。
敵への憎悪ではなく、己の恐怖、煩悩に打ち克った事を悟ったのである。
自信を得た武蔵は悠然と山を下り吉岡一門を一撃のもとに倒した。」
HPより引用









吉川英治原作、中村錦之助主演の「宮本武蔵 一乗寺の決斗」なんて
映画もありましたね。
決闘の地、一乗寺下り松(さがりまつ)はというと、ここの麓、
詩仙堂の近くにあります。詩仙堂に隣接する八大神社には、
武蔵が立ち寄ろうとして、神仏に頼ろうとした自分の弱さに気づき、
寸前に止めたという逸話が残っています。



今は一筋の雫が繋がったような水量で、とても滝とは言えません。

ここから先は〈女厄坂(33段)〉


その横には〈恵比須・大黒天〉


女厄坂を上りきると、ちょうど250段になりますね♪

上りきった後、本堂に至るまでの参道には


〈水子不動尊〉        〈石室〉役の行者・神変大菩薩を祀る

山手を見ると・・・わぉ、でっかい役行者さまがッ!



他にも何やら仏像が・・・



水子地蔵さんもずらりと並んでいます。




本堂下の広場から本堂へ行くには、女厄坂から上がるルートの他に
もうひとつ〈男厄坂〉で一気に上がるルートがあります。
これで250段。あれ?男厄坂は42段だろうから、2段分足りない?
よく見ると、この階段、2段分調整してありますね。(^_^ゞ



という訳で、計算通り250段♪・・・数える人も居るんやろな。

ところで「足腰元気宣言!KENKO250」ですが、


250段の階段を1回上れば1個スタンプを押してもらえます。
スタンプ用紙(健康カード)も置かれていました。スタンプ10個貯めて
満願達成申請書を出せば「健康の証」を発行してもらえます。
ここまでは誰でも無料で参加できますが、健康の証2枚目以降は
手数料として100円必要になります。

2012年の新聞記事の切り抜きがありました。5周年の時の記事ですが
この時点で延べ4000人が達成、写真が載っている方は1日数回上って
240枚以上獲得された68歳の方です。単純計算すれば60万段!

山寺で250段の階段はそれほど多い方じゃないと思いますが、
1日数回上り下りするのは・・・

4年前の記事だから現在何枚獲得されていることやら、
もちろん、ご健在だとは思いますけど・・・(^_^ゞ




舞台からの景色です。HPでは「舞台から京都市内が一望」とありますが
一部しか見えません・・・



境内は一望できます♪



この広場で毎年7月28日、不動明王の縁日に護摩法要・火渡り祭が
行なわれます。
この日は250段の階段に千灯の「祈り灯ろう」が置かれます。



健康推進を提案している寺院ですが、バリアフリーかというと、サッパリ。
本堂の裏の方でこんなものを見つけたのですが、作業用のモノレール。
果樹園とかに使うものでしょうね、おそらく売店の商品とかを運ぶため
用意されているものなんでしょうが、これを利用すれば・・・




カラスちゃんも願掛けに来たのかな?
舞台の願掛け柱には沢山のお札が・・・ほとんどがガン封じでした。
乳ガン封じの願い札もあるようですね。



本殿を参拝するには入山料500円が必要です。しかし、ここには
お金を徴収する小屋とか無くて、本堂横にお金を入れる箱が
置かれているだけ。パンフレットも自由に取れます。
このシステム、誠意を問われているようでズルはできませんね。
小銭を持っていないと、ちと困りますが。

もちろん、ちゃんと500円玉を入れてから本堂に入りましたよ♪



寺紋、桔梗輪に真言宗輪宝ですかね。



触れると活力がみなぎる「巨大念珠」不動明王パワー念珠だそうで。



ご本尊の不動明王像は眼力鋭く、眼光を放っているが如し。
外陣からも拝めるのですが、
この日は「春の特別洞窟内陣参拝」(4/28~5/8)でして、内陣まで
入って参拝することができました。写真は撮れなかったのですが
想像以上に迫力のある眼でしたよ。

高さ深さ共に約6mの石窟があり、その中に背丈約1.5mの石像の不動尊が
安置されています。2018年には300年を迎えるそうです。

この鋭い眼力、その目線の先は何処なのだろうとGPS等の最新科学技術を
駆使して調査されたところ、狸谷不動明王の目線は、ピンポイントで
「高野山 金剛峯寺」を向いていることが判明したのだそうです。

狸谷山開基 木食正禅朋厚は、木食行(もくじきぎょう)奥義の伝授の為、
高野山へ入山し、その木食行を実践する地として現洞窟に山居した
という経緯があります。それにしてもピンポイントで
高野山 金剛峯寺を見つめているとは、不思議な話しですね!




ところでお不動さん、不動明王(ふどうみょうおう)って・・・?
仏教には如来、菩薩、明王、天部、権化とかいっぱい居られて
宗派によっても解釈が違うので整理するのは大変です。

明王は密教系特有かな、密教と言っても空海(弘法大師)が開いた
真言宗(東密)、最澄の天台宗(台密)が大きな宗派。
最近、檀蜜って宗派も出来たとか出来ないとか・・・ウソ(^_^ゞ
不動明王、梵名アチャラ・ナータは、大日如来の化身とも言われる。
また、五大明王の中心となる明王です。
禅宗、日蓮宗等の日本仏教の諸派および修験道で幅広く
信仰されているので、お馴染みですね。


さて、勢いに乗って「奥の院」へと、山道に突入!



入り口からしてかなり手強そうですが、ここまで来たら・・・



「三十六童子 順拝道」とあります。不動明王の使者である三十六童子
に導かれて、東山三十六峰の九峰目、瓜生山の鎮守である幸竜大権現を
祀る奥之院へ行けるようです。


〈第一番 矜迦羅(こんがら)童子〉

「元勝軍地蔵尊道」の石碑もありました。かつて近江の六角氏が
安置したという勝軍地蔵が祀られていたようです。
現在は少し南の勝軍地蔵堂(バプテスト病院)に遷されいるとか。


〈第二番 制叱迦(せいたか)童子〉




う〜ん、童子くんの案内してくれる道は・・・何ともなぁ
多少厳しくても“動じ”ないんだろうな。(^_^ゞ

〈第三番 不動恵(ふどうえ)童子〉

      〈第四番 光網勝(こうもうしょう)童子〉

ここまで来て、あと8倍の道のりがあるかと思うと、めげたッ!



というわけで、奥の院へ登るのはあっさり諦め、
昼なお暗い道を下山します・・・って、ほとんど登ってませんが。(^_^ゞ



2016.5/1、狸谷山不動院にて。

狸谷山のポンポコは足腰強い?

2016-06-06 22:17:54 | しゃじ
有名な観光スポット「詩仙堂」から山の方へと向かうと、そこには
タヌキさんが・・・狸谷山不動院(たぬきだにさんふどういん)。
真言宗修験道大本山です。開基は木食正禅(もくじきしょうぜん)。

そうそう、狸谷山って山はありません。あくまでお寺の“山号”で、
このお寺がある山は左京区一乗寺、東山三十六峰の北の方にある
瓜生山(うりょうさん)と言います。お寺はこの山頂近くです。

桓武天皇が平安京の鬼門守護として『怒鬼(たぬき)不動明王』を
この地に祀ったのが始まりとされています。

鎌倉時代の建長年間に現在の本堂内にある石窟に不動尊を遷して
安置したといわれ、江戸時代になり若くして禅、律、真言、天台の
四宗の要義を学び、また木食行(穀断ちし木の実や草のみを食べる修行)
を体得するため高野山に登り木食大戒を修めて大阿闍梨となった
朋厚房正禅法師(木食正禅養阿上人)が、さらなる高みを目指して
参籠修行の場を探し求めていたところ、洛北一乗寺村の狸谷と呼ばれる
ところに高さ、深さとも2丈からなる洞窟の存在を耳にします。
その中には長年風雪にさらされながらもなまめかしく輝く尊像があった。
剣豪宮本武蔵が滝に打たれて修行を続け、己に克つ不動心を感得したのも
この地と知った朋厚法師は、この狸谷こそ自身が籠って行法を修するに
ふさわしい場所と決意した。
享保3年(1718)、これをもってこのお寺の創建年とされています。




正式名は「修験道大本山一乗寺狸谷山不動院」、一般には"タヌキダニの
お不動さん"として親しまれ信仰を集めています。
ご本尊は眼光鋭く鬼をも叱る「咤怒鬼(たぬき)不動明王」なんですが
信楽焼のひょうきんなタヌキさんがいっぱい出迎えてくれています。



タヌキ=他抜き、他を抜くってことでスポーツ関係者にも信仰されて
いるようですね。阪神タイガースの1985年、2003年の優勝記念碑が
目を引きます。懐かしや~小林繁さんのお百度参拝記念もあるやん!
吉田監督時代には選手と狸谷不動院に優勝祈願に来られていたんやね、
またここに来れば優勝できるかも?
・・・捕らぬ狸の皮算用になるかな。(^_^ゞ

ところで、京都市民にはよく知られたお寺なんですが、観光客の方は
詩仙堂どまりで、ここにまで来られることは少ないようです。
この日も詩仙堂周辺は人で溢れていましたが・・・詩仙堂からここまで
結構な登り坂を10分ほどは歩かないといけない、それから本堂までは
250段の急な石段が待ってますし、多少体力が要ります。

ただ、参道の麓には駐車スペースがあるし、クルマで行くのは便利。
だいたいこの「狸谷山不動院」は、交通安全にも霊験あらたかと
されていて京都を走る自家用車やタクシーにはここのお守りステッカー
を貼ったクルマをよく見ます。おそらく京都では最も多い。




参道に入るとすぐに見えてくるのが、プチ伏見稲荷?その先は竜宮城?



ここに祀られている白龍弁財天は、木食上人参籠修行のみぎり、
「一切衆生の苦難、恐怖を除き、財宝、福利を与え給え」との
誓いをもとに奉安したもの。






白龍弁財天は、インドのサラバチ河を神格化したものといい、水神
として祀られている。左手に弓、刀、斧、羂索を持ち、右手に矢、
三鈷、宝輪を持つ。15の童子に守護され、竜神が付き添っている。
・・・よく見えなかったけど。(^_^ゞ



さて、この先からいよいよ250段の階段を上がって行くことになります。
京都市と提携して『KENKO250』なる健康増進事業が展開されています。
250段の階段を10回登頂することで満願達成・・・もちろん1日にでは
なく、1回登頂するたびにスタンプを押してもらい10回分貯まると
「健康の証」を授与して頂け、本堂横に名札も貼り出してもらえます。

タヌキさんが今何段目かを案内してくれます。


50段目あたりで待ち構えているのが七福神の面々♪





69段目には「迎え大師」さまがお出迎え・・・











ちょうど中間点あたりですかね「弘法大師 光明殿」があります。



光明殿の周りは、四国八十八ヶ所お砂ふみ霊場になっていて
今回の目的はここで逆打をすることでした。
詳しくはまた後の記事にて・・・(^_^ゞ



もうひと息、80段ほど上がると境内に到達します。



まだ44段残ってますね、本堂まで行ってやっと250段になります。


境内に辿り着いてすぐ右側、本堂の向かいにあるのが



トイレの神さま、烏枢沙摩明王(うすさまみょうおう)の社。
その奥には凝った木彫の三社明神堂(写真上)があります。



うすさま明王は、猛々しい烈火で不浄を清浄と化す神力を持つ明王。
日々の生活のあらゆる不浄を清める功徳があることから
「トイレの神様」としての信仰が篤い。
ヒット曲がありましたね、植村花菜は一発屋に終わったカナ。(^_^ゞ

三社明神は衣食住愛の神。玉姫大明神(衣)、清隆大明神(食)、
白玉折木大明神(住・愛)が祀られています。

〈手水舎〉

      〈護摩壇?〉
ここでの有名な行事に『火渡り祭』があります。
7月28日、どなたでも参加でき、火渡り修行が体験できますよ(無料)


本堂はと言うと、プチ清水の舞台?



清水寺と同じく懸崖造りの舞台があります。






懸崖に掛けられている巨大な弓と矢が左右に一対。法弓ですかね。




さて、今回はここまで。まだ250段を登りきってないし、
光明殿の四国八十八ヶ所お砂ふみ霊場もまだだし・・・
その内、アップするつもり。(^_^ゞ



2016.5/1、狸谷山不動院にて。

三十三間堂廻リ町

2016-04-20 18:55:57 | しゃじ
熊本・大分を中心にした九州地方の大地震、被災された皆様には、
心からお見舞い申し上げます。
未だおさまらない余震、交通網、ライフラインの復旧もままならず
避難されている方々の不安、いかばかりかと心が痛みます。
私に出来ることは何か、を模索しつつ今は見守り、応援するだけですが



う~ん!まだ三十三間堂の記事が残っていました。
ちょっと京都の地震事情も加筆してアップしてみます。

三十三間堂の東側は、三十三間堂廻り町と言います。まんまですが!



東大門(ひがしおおもん)から続く修復されたばかりの回廊塀。
その先に見えるのが南大門(みなみおおもん)重要文化財建造物です。

〈南大門〉

      〈太閤塀〉
三十三間堂の門なのですが、境内から一度出ないと観られない・・・
大きな門です、普通乗用車・軽・ライトバンは通行可。

現在はこのように三十三間堂の南東角の外に建っていますが、
そもそも豊臣秀吉が造営した大仏殿・方広寺の南門として造られた
もので、秀吉没後、秀頼がこの位置に移したと伝えられています。
三間一戸の八脚門で、それに続く築地塀(太閤塀)は屋根瓦には
五七の桐の紋があります。
熱田神宮(名古屋市)の信長塀、西宮神社(西宮市)の大練塀と
並び、日本三大塀のひとつなんだそうです。


南大門からの通路を挟んで、東側には一見、塔頭かなと思われる寺院が
並んでいます。



二軒並んでいるのですが、その内のひとつが「養源院」。



おぉ!「桃山御殿 血天井」の文字が・・・(◎_◎;)



今は浄土真宗遣迎院派の寺院ですが、このお寺の見所は
こんな1枚の高札だけでは済みません。
一時代の歴史と芸術のエキスがぎゅうぎゅうに詰まっています。



今はそれほど大きなお寺では無いですが、1594(文禄3)年に豊臣秀吉の
側室・淀殿が父・浅井長政らの二十一回忌の供養のために秀吉に願って
創建したのが始まりです。
一度は落雷のため焼失しましたが、淀殿の妹で徳川秀忠の夫人であった
お江(後の崇源院)の願いにより、1621(元和7)年に伏見城の遺構を
移築して再興されました。以降は徳川家の菩提所となり、2代秀忠から
15代慶喜まで徳川幕府歴代将軍の位牌が祀られているそうです。

ちょっと複雑な浅井三姉妹、大河ドラマ『江~姫たちの戦国』で
描かれていましたからご存じの方も多いでしょうが、簡単に整理すると
近江北部の戦国武将・浅井長政は織田信長の妹であるお市(おいち)と
政略結婚しましたが、後に信長との同盟に離反し“姉川の合戦”で、
織田・徳川の連合軍に敗れ、自ら命を絶ってしまいました。
その後、残されたお市は清洲会議の承諾を経て信長の重臣・柴田勝家の
後妻となりますが、勝家と秀吉が対立、賤ヶ岳の戦いで敗れたため、
勝家とともに自害。残された三姉妹はお市の遺言で、秀吉に託されます。
茶々(淀殿)は秀吉の側室となり、豊臣秀頼を産み。次女・初(はつ)は
京極高次の正室に。三女・江(ごう)は後に徳川二代将軍となる徳川秀忠
の正室になり、三代将軍・家光、中宮源和子(後水尾天皇の中宮(正室)
となり、明正天皇の生母)たちを産みます。

ちなみに養源院を再興した徳川秀忠って人物、秀吉の小田原征伐の際、
家康から出された実質上の人質ですが、秀吉の養子的な扱いによって
秀忠という名前も秀吉がつけたもので、豊臣姓、羽柴姓を名乗っていた
時期もあります。関ヶ原の戦いでは真田の上田城攻めに失敗、関ヶ原に
間に合わなかったり、大阪の役でも真田丸に苦戦するなど、今年の
大河ドラマにも出てくるでしょうね・・・(^_^ゞ
結果的には総大将として大阪城を落城させ、豊臣家を滅ぼしますが、
豊臣秀頼の正室として実娘・千姫を嫁がせていますから、考えてみると
妻の姉と義理の息子を攻め、死に追いやったことに。
千姫は落城寸前の大阪城より戻されていますが・・・

ところで、養源院に置かれている秀忠とお江の位牌には「桐:豊臣」、
「葵:徳川」「菊:天皇家」の家紋がついていて、他では見られない
ものなのだとか。複雑さが窺い知れますね。



養源院は豊臣秀吉、淀殿が創建した寺院ですが、豊臣家滅亡の数年後、
1619年に落雷で焼失。1621年に徳川秀忠、お江(崇源院)が再建、
徳川家菩提寺として江戸時代を通じ、特別な寺院だったようです。
将軍家や大大名という身分の者だけに参拝が許されており、養源院が
発行する「桃山の印」が押印されている証書は、要求通りに幕府から
資財を調達できたといいます。

さて、今は誰でも拝観料を払えば拝観が許されるので・・・しかも
ガイドさんの案内付です。録音テープによる説明もありますが。(^_^ゞ



血天井は後に回して、私的にはこれが観たかった♪
俵屋宗達の描いた「杉戸絵」。杉の板戸に彩色されたもので、
線に見える部分は色が塗られてなく、板のままだったりします。
「獅子」「白象」「麒麟」が、それぞれ1枚の杉戸に1頭ずつ描かれて
おり、2枚1組になっています。
撮影は禁止されているので、写真は拝観料を払ったらもらえる絵はがき。
杉戸絵は6種あるのかな、販売もされていたと思います。
この他にも本堂松の間では宗達の「金地着色松図」が観られます。
部屋の中央に座れば4面の襖絵が3方に、合計襖12面に囲まれますが
10人ほどのグループで案内が進められますから、マイペースで観られ
ないのが、ちと残念。杉戸絵ももっとじっくり観たかったな。

養源院、本堂の廊下は左甚五郎が手がけたと伝わる「うぐいす張り」、
庭園は小堀遠州作庭と、当時売り出しの人気アーティスト勢揃い?
再建にあたり徳川家の菩提所に相応しいよう集められたのでしょうね。


さてさて、メインの見せ物?「血天井」ですが、これも少し経緯を
整理する必要があるかな・・・
簡単に言ってしまえば、1600(慶長5)年、関ヶ原合戦の前哨戦で
伏見城が落城した際、家康から同城守備を命じられた鳥居元忠以下の
380余名が討死、自刃した時の床板を天井に用いたものと言われ、
俗に血天井と呼ばれている。
ここの他、京都の数カ所以上のお寺に残されているようですが・・・

そもそも伏見城とは、すでに大阪城を築城、関白の位と京都における
政庁聚楽第を豊臣秀次に譲った秀吉が、大阪と京都を結ぶ要衝の地で
あった伏見に自らの隠居所として屋敷構えの城でした。
ただ、最初に築かれたこの城は秀吉が入城、1596年に完成しましたが
その直後、慶長伏見地震によって倒壊。ここだけでも600名近い死者が
出たとか。秀吉一家は無事に助け出され、近くで避難生活をしていた
ようです。
京都を襲ったこの地震では秀吉が創建した方広寺に安置するはずだった
東大寺大仏をしのぐ大仏が開眼前に倒壊しています。

この慶長大地震、1596年9月1日に愛媛(伊予)でM7.0の地震が発生。
その3日後の9月4日には大分(豊後)でM7.0~7.8の地震を起こし、
翌日9月5日に近畿地方を襲ったもので、淡路島~神戸~大阪北を走る
六甲・淡路島断層帯での地震と考えられています。
余震は翌年春まで続いたとか。
中央構造線沿いの連鎖地震、今回の熊本・大分の地震と無関係とは
思えませんね。ちなみに慶長年間には1605年に紀伊半島沖と房総沖が
連動したM8.0の地震津波、1611年、会津地方で直下型地震、同年に
三陸沖を震源とした地震、大津波も。1614年にも広範囲の地震が
記録されているとかで、18年の間に度重なる地震被害が出ています。

伏見城の話しに戻ると、地震で倒壊した当初の伏見城、火災は起きな
かったので、その資材を再利用してすぐに再建にかかります。
すでに捨丸(秀頼)が誕生、秀次を追放・切腹させ聚楽第も破却し、
淀城などからも資材や建築物を移築、同時に大土木工事も行ない
城下町も整備された本格的な城構えが超ハイスピードで築造された
ようです。完成した伏見城は日本の城郭史上、最高の豪華絢爛な
ものだったとも・・・しかし在城期間わずか4年、秀吉はこの城で
5歳の秀頼を残して病死します。

秀吉に秀頼の行く末を託され、約束していた徳川家康、五大老の
前田利家が翌年に病死すると、全権掌握?。すぐさま石田三成を
追放し、伏見城へ留守居役として入城。
間もなく、幼い豊臣秀頼の居城・大阪城へと移り実質上の天下人の
ふるまい。そりゃおかしい、あかんやろ!と、三成が蜂起の動きを
見て取ると、1600年、家康は上杉景勝征伐に会津攻めに向かいます。
案の定、三成は反家康派の諸大名を叫号して挙兵、大阪城を制圧し、
伏見城明け渡しを迫るが、伏見城を任されていた徳川譜代の家臣・
鳥居元忠を総大将とする1800名の兵が4万の大軍を相手に徹底抗戦。
落城まで2週間近く足止めするという予想外の奮戦をみせるが、
内通者により火をつけられ、支えきれず鳥居元忠はじめ、380余名が
討死に自刃した。武将達の遺体は夏場1ヶ月以上も放置されたとか。
その血が城内の床板に沁み込み、痕が残ったと言われます。
将兵達の霊を供養するため、その床板を天井に上げたものが
「血天井」です。
今も生々しい血の痕があちこちに残る血天井、ガイドの方が棒などで
指し示し、これが手の跡、足はこっちね。これで一人分、こっちの
跡は首が無いでしょ・・・などと丁寧に説明してくれます。

この伏見城の戦いは家康の“仕掛け”だったとも言われてしますね。
これで敵が誰かを把握できた。鳥居元忠が奮戦、足止めをしてくれた
お蔭で、敵側諜略の準備の時間が稼げた。現に家康は会津に向かわず
江戸城に留まっていたようですから・・・
この約1ヶ月半後、満を持して決戦の地、関ヶ原へ向かいます。
ところで、捨て駒になった鳥居元忠。家康より4歳歳上で13歳の頃より
家康に仕えていた古参中の古参。家康に頼まれこの役割の意味を
承知した上で、命と引き換えに家康の天下取りを援護したもので、
家康はその忠義を「三河武士の鑑」と賞賛。この時の血染めの畳を
江戸城伏見櫓の階上に置き、登城した大名たちに元忠の忠節を
偲ばせたのだとか。同じような意味合いであちこちの寺に血天井を
置かせたのかもしれませんね。

ふぅ~っ、やっと養源院の解説が終えられそうです。(^_^ゞ
少し他も見て回っとこ。




〈毘沙門天〉と〈白衣弁財天〉


〈勅使門?〉・・・勅使門(北門)からの参道の奥にある門です。


さて、お隣りの『法住寺』も入ってみますか・・・



三十三間堂の東向かい、養源院の南隣りにあります。今は小さな寺院
ですが、ここも歴史の波に翻弄された寺院なので詳しく調べると・・・
今回はちらっと寄っただけなので簡単に。(^_^ゞ



988年、平安中期に藤原為光によって創建された寺院ですがその後、
後白河上皇が院政を行なうため広大な院御所を造営。その南殿として
法住寺殿が築かれ、蓮華王院(三十三間堂)などと同じく包摂された
ものとなります。上皇と平家の栄華を象徴する法住寺殿でしたが、
20余年後には木曾義仲により攻められ、焼失。(法住寺合戦:1183年)
後白河上皇は逃亡し、平家も都を追われます。
1192年、上皇崩御により法華堂がつくられ、御陵とさだめられます。
現在の法住寺の北に隣接したところに後白河天皇陵がありますが、
平日しか入れないようです。

そう言えば、法住寺合戦の2年後、1185年には文治地震M7.4が発生。
平忠盛(清盛の父)が鳥羽上皇(後白河上皇の父)のために造営した
得長寿院・三十三間堂が崩壊しています。ちなみに壇ノ浦の戦いで
平家が滅亡したのがこの年です。



豊臣政権下では、秀吉が造営した大仏殿・方広寺の寺領に包摂されます。
江戸時代は徳川の庇護があったようです。
元禄期には赤穂浪士・大石内蔵助がこの法住寺に参拝したと伝えられ、
その縁から四十七士木像が安置されています。
そう言えば大石内蔵助は、前述の血天井・鳥居元忠の子孫なんです。
忠臣のお家柄?それにしても縁がありますね。



後白河上皇を守った「身代わり不動尊像」、毎年5月1日から7日に
御開扉され参拝できる「後白河法王御木像」、親鸞聖人が自ら刻んだ
阿弥陀如来立像、聖人座像(蕎麦喰いの御像)などなどあるのですが。



竜宮門ですね、旧御陵正門の石標が立っています。
「あそびをせんとやうまれけん」と彫られた石碑もありましたよ。



なんと!このお寺、サザエさんの作者・長谷川町子さんの遺骨が安置
されています。生前、訪れた時に気に入られたということで。
サザエさんやタラちゃん、ワカメちゃんなど、直筆のイラストも
飾られているそうです。気がつかなかったけど・・・



ここを訪ねたのが2月14日、早くも梅の花が満開♪だと写真を撮った
のですが・・・アップするのが今になるとは。(^_^ゞ







三十三間堂の駐車場に停めて養源院と法住寺も訪ねようと思っていた
のですが、一応ルール違反ってことで。国立博物館の有料駐車場に
停めてから行ったのですが、養源院も法住寺にも無料駐車場が
あったみたいです。






智積院(ちしゃくいん)にも無料駐車場があります。
いずれ訪ねてみたいと・・・ここも充分前調べする必要がありそうです。
見落としがないようにね。(^_^ゞ
ここの寺紋は加藤清正の桔梗紋なんですね。
加藤清正といえば、熊本城。日本三名城のひとつですが、
今回の地震で・・・
すでに日本財団が熊本県や大分県の被災者に93億円規模の緊急支援を
行うと発表。このうち30億円は熊本城の再建に充てるそうです。

日本は自然災害の多い国です。日本人はそこから復興、立ち直る術を
学び、知っている民族だと思います。それは支え合うことが大切だと。
今回も大災害、家族や家を失い、生活すらままならない被災された方の
気持ちを考えれば、いたたまれないです。
直接何もできませんが、わずかばかりの支援募金、それと応援すること
くらいですかね・・・こういう時こそインターネットは力を発揮できる
と信じたいです。

くまモンがネット配信を自粛してますね。そんなくまモンを応援する
イラストメッセージ、素敵だと思います♪『くまモン応援』
「クマモンがクマっている 助っ人にいくベア」



2016.2/14、三十三間堂にて。

三十三間堂、算数計算どぉ?

2016-03-27 18:30:37 | しゃじ
行かれたことがある方も多いでしょうね。天台宗妙法院の境外仏堂、
通称:三十三間堂。
本堂は国宝、中には国宝の木造千手観音坐像、木造風神・雷神像、木造
二十八部衆立像と重文の木造千手観音立像(1001体)が詰まっています。



後白河上皇が平清盛に命じて1165年に創建したもので、もともとは
院政を行なう離宮として建てた法住寺殿であり、その本堂でした。
創建当初は五重塔などもある本格的な寺院だったようです。

〈法住寺殿(ほうじゅうじどの)・址碑〉


後白河天皇は在位わずか3年で譲位した後、上皇となり後白河院として
34年に亘りここを院御所とし、院政を行ないました。
当時の法住寺殿は広大なもので南殿、西殿、北殿の三御所があり、上皇の
住まいがあった南殿に建てられたのが蓮華王院(三十三間堂)です。

当時は大きな池があったようですが、今は名残りだけ・・・



後白河院の治世は保元・平治の乱、治承・寿永の乱と戦乱が相次ぎ
二条天皇・平清盛・木曾義仲との対立により、幾度となく幽閉・院政停止
に追い込まれますがそそのたびに復権を果たしている。
大河ドラマ・平清盛をご覧になった方は思い出して下さい、松田翔太を。
印象的だった伊東四朗は白河上皇ですからね。(^_^ゞ

ま、この頃は平安末期、権力争いで乱れに乱れていたので、なかなか
頭の整理が難しいです。この法住寺殿も1183年、木曾義仲の夜襲により
焼失します。ただし三十三間堂は奇跡的に焼失を免れました。

法住寺殿は1191年、源氏の援助により再建されますが、後白河院は
戻ってすぐに体調を崩し、翌年1192年春に崩御されます。
この年号、1192年。私らは「いい国作ろう鎌倉幕府」の語呂合わせで
日本初の武家政権、鎌倉幕府成立の年として覚えたのですが・・・
今は「いい箱作ろう鎌倉幕府」、1185年が新定番のようですね。
しかも初の武家政権ではなく平氏の武家政権に次ぐ。となっている。



〈法然塔・名号石〉        〈写経奉納塔〉
後白河法皇の13回忌にて、法然上人が「六時礼讃」という法要を
修したことを記して建てられた石塔。(鎌倉時代)
参集の人々に紙筆を与えて写経を勧めたという。
南無阿弥陀仏と刻まれた文字は法然上人の筆跡から起こしたもの。

      〈夜泣き泉〉


平安時代、堂僧が夢のお告げにより発見した。夜、水の涌く音が
人のすすり泣きに聞こえることからこの名が付いたという。
やがて地蔵尊が祀られ、子どもの夜泣き封じの信仰が生まれた。


〈手水鉢〉
「いつも冷たくて美味しく、お腹を痛めることのない極楽井で、
汲んでも尽きず、汲まないときも余ることのない不思議な泉」と
古今著聞集に記されているそうです。
あくまで伝承で、今は当時と位置も違い飲料水ではありません。

〈鐘楼〉

      〈東大門〉


〈東大門からつづく回廊塀〉

修復されたばっかりか(一部まだ途中)朱塗りが鮮やかでした。
本堂のくすんだ佇まいとは対照的ですが、創建当時の本堂は
朱塗りで内部も極彩色だったそうです。いずれ復元されるかも。




訪ねたのが2月14日だったから、木瓜の花と蝋梅。季節外れですね。



南大門、西門もありますが、本堂正面に位置するこの東大門が
正門なんでしょうね。


ここも荒廃していたのを秀吉、秀頼が再建に尽力しました。
これが太閤椿かな・・・?



護摩焚きの跡かな?

庶民からは「頭痛山 平癒寺」と言われていたようです。
今でも頭痛封じのお守りもありますが・・・
その訳は後白河上皇が酷い頭痛に悩まされていたところ、上皇の前世は
蓮花坊という修行僧で、その髑髏が熊野・岩田川に沈んでおり、髑髏を
貫いて柳が生え、風に揺られて柳が当たることが頭痛の原因だとの
お告げを受け、川底より引き揚げた髑髏を観音像の頭に収めて祀ると、
以後頭痛は消えたとか。柳は棟木に使われたとも言われています。

しかしこの逸話、江戸時代の浄瑠璃によって伝えられており、
真意のほどは・・・実際、観音像の頭に髑髏が収められている事実は
ありませんし、棟木に柳は使われておりません。
蓮華王院の名がこの逸話によるものだと言われたりしますが、そもそも
千手観音の別称は蓮華王ですし。(^_^ゞ
とはいえ、ここでは毎年成人式の日の「大的大会:通し矢」と同じ日に
「楊枝のお加持(やなぎのおかじ)」という頭痛平癒祈願の法要が
行なわれています。




本堂正面の向拝、蟇股(かえるまた)の部分に彫刻があります。
彫刻は犀(さい)・獅子・麒麟の3種類。西本願寺唐門の彫刻に似た
雰囲気があります。これも極彩色だった名残りはあるのですが・・・


〈麒麟〉             〈犀〉


〈獅子〉




鬼瓦も国宝に相応しい立派なものでした。
阿形と吽形が見られ、梵字も書かれています。




三十三間堂、さすがに凄いお堂です。地上16m、奥行き22m、南北120m
の長大なお堂は、世界一長い木造建築だと言われています。

ご存じのように中はもっと凄いですが、撮影禁止なので・・・
ちょっと算数レベルの計算も交えて数字遊びを。(^_^ゞ

まずは「三十三」という数、これは観音菩薩の変化身三十三身に
もとづく数を表しています。この数にしたがって三十三間なんですね。
ここで言う「間(けん)」は長さの単位ではなく、社寺建築の柱間の
数を表す建築用語です。
柱間が33あるのは本堂の内陣で、建物外部から見る柱間は35あります。
そもそも1間は約1.82m、×33なら60mほどなので半分にしかなりません。
三十三間堂の柱間は2間だとも言えるのですが・・・ムリヤリ?

堂内中央に本尊千手観音坐像を安置。その左右には階段状の仏壇に
なっていて、各10段50列に1,000体の千手観音立像が並んでいます。
壮観、圧巻、おかんもビックリですね。しかも一体一体の表情がすべて
異なっている。体型も微妙にぽっちゃりだったり、痩せてたり・・・
1体見るのに30秒でも1000体見ていたら30000秒=500分、
8時間以上かかります。(^_^ゞ

千手観音さん、頭上に11の顔をつけ左右に20本づつ、両脇に40の手が
ついています。1本につき、それぞれ25の救いの働きがあるといわれる
ので、40×25=1000。つまり「千」の救いがあると考えられています。
千の手が千体、百万もの救いの手が・・・

ところで、千体、千体と言ってますが、千手観音立像は本尊の背後にも
1体あり、計1001体なんです。その1体だけ室町時代に作られたもので、
かつては各地に出張してご寄進を募るために用いられていそうで
「行像尊」の名前で呼ばれています。
これでご本尊も入れれば、1002体の千手観音像が置かれていることに。
ただし、5体は東京・京都・奈良の国立博物館に寄託されていますし、
年に10~20体は専門家による修理・清掃が施されます。その立ち位置
には「現在修復中」の看板が置かれています。
フルメンバー揃うことはまずありませんが、もし揃えば合掌印の2本
真手(しんしゅ)も含めて、42,084手と12,024の頭が見られる?



現在の三十三間堂は、平清盛が後白河上皇のために建てましたが、
実は先代、平忠盛(清盛の父)も鳥羽上皇(後白河上皇の父)のために
同様な三十三間堂を造くっていました。お互い父の真似をした?
左京区岡崎にあったようですが、現存していません。
1185年、京都で起こった大地震によって崩壊してしまいました。
折しも平家一門が壇ノ浦で滅亡した直後のこと、なんとも歴史の
奇縁を感じるできごとです。



この日本最長の軒下(トップ画)を使って行なわれたのが「通し矢」。
全長(小口から小口まで)121.7m、高さ4.5~5.3m、幅2.36m。
三十三間堂の西側軒下を南から北に矢を射通す競技です。いくつかの
種目があったようですがメインイベントは、夕刻に始め、翌日の同刻
まで24時間一昼夜1万本前後の矢を射続ける「大矢数」が有名です。
軒下だから、かなり強い弓で座ったままの姿勢で的をめがけて射る。
10,000本の矢を放つには、8.64秒に1本、それを24時間射続ける
ことになります。まさに“矢継ぎ早”・・・
ちなみに総矢数や通し矢(命中)は「矢数帳」に記載されています。
最高記録はと言うと、紀州藩士・和佐大八郎の総矢数13,053本、
通し矢8,133本。このとき大八郎は18歳、なんとも凄い!これって、
36400秒(24時間)÷13053本=約6.62秒。的中率は約62.3%。



現在は「大的大会」という通し矢にちなんだ大会が毎年、成人式の
日に行なわれています。
新成人の晴れ着姿での競技は、正月ならではの華やかさで、
京都の風物詩のひとつです。
これは、お堂の西隣の広場で60m先の的をゆっくり狙います。(^_^ゞ


さて、写真が撮れるのはお堂の外観と周りだけ・・・ザンネンナコトニ!


〈久勢稲荷大明神〉        〈宝篋印塔〉


      〈太閤塀〉
安土・桃山時代、1588年頃築造。方広寺の遺構。
豊臣秀吉が方広寺大仏殿を創建した際、蓮華王院(三十三間堂)も
方広寺の境内に取り込まれたためその工事に伴って築造されたもの。
かつては西にもありましたが、現存する当時のものは南の塀のみ。


〈歌碑・梁塵秘抄〉        〈百僧供養碑〉


〈西門〉
内側から見た画像です。外側には「洛陽古跡 通し矢射場」の木札が
掲げられています。この門から外部への出入りはできません。
もともと秀吉が方広寺を造った際に建てられた西大門は、
東寺の南大門として移設され、現存しています。


修学旅行の定番スポットなんでしょうが、京都に住んでいると
逆に行く機会がなく、初めて訪ねましたが素晴らしいところですね。
ここもまた歴史の坩堝、ディープなドラマを感じられました。


2016.2/14、三十三間堂(蓮華王院)にて。

舌も抜かれそうな・・・

2016-03-25 01:41:22 | しゃじ
家隆山光明遍照院石像寺(かりゅうざん こうみょうへんじょういん
しゃくぞうじ)…名が長ッ!
通称「釘抜地蔵」、くぎぬきさん。
ちょっと駈け足状態でしたが、初めて訪ねてみました。



819年、弘法大師空海が開いたとされるお寺、石像寺(しゃくぞうじ)。
名前に“石像”とあるように、弘法大師が唐より持ち帰った石に、自ら
地蔵菩薩の尊像を彫り、人々を様々な苦しみから救うことを祈願した
のが始まりとされています。



西陣・千本通上立売(かみたちうり)上ルにあるこじんまりした
お寺ですが、京都では知らない人は居ないのでは無いかと思える
ほど名前は知れ渡っています。



人々の諸悪・諸苦・諸病を抜き取る「苦抜(くぬき)地蔵」と
言われていたのですが、「釘抜き地蔵」に変わったのには
こんなエピソードが・・・室町時代に両手の痛みに悩まされていた
商人が苦抜地蔵にすがり願掛けしたところ、夢の中に地蔵菩薩が現れ
「お前の前世が人を恨み、藁人形を作って、その両手に八寸の釘を
打ち込み、呪ったことが原因だ」とお告げになり、前世のしたこと
であり、真面目なお前に報いがあるのは可哀相だからと、両手に
刺さった釘を抜かれたのだとか。
夢から覚めると痛みは消えており、苦抜地蔵にお礼参りに行ったところ、
お地蔵さんの前に血の付いた2本の八寸釘が置かれていた・・・
と言うお話です。

そんなことで「釘抜地蔵」と呼ばれるようになったのですが、
中門の前に置かれた釘抜き、デカッ!
これを使えば、かなり重症の痛みも抜いてくれそうな・・・(^_^ゞ

      〈開山大師堂/観音堂〉

〈絵馬堂?〉床几が置かれ、休憩所になっていました。





八寸釘や釘抜きと釘がセットで括り付けてある板があちこちに見え
ますが、これは願い成就して苦が抜けた暁に、釘抜地蔵菩薩様に
御礼として奉納した絵馬なんです。



〈本堂〉

本堂前にある巨大なブロンズの釘抜きモニュメントは、日本画家・
堂本印象氏がご自身の母親の満願成就のお礼に奉納されたものです。

この釘抜きなら舌でも抜けそうですね。嘘をついたら閻魔さまに
舌を抜かれる・・・子供の頃、そう言われたものです。
データー改ざん、デザイン盗作、経歴詐称・・・云々
今こそそんな 脅し 躾が必要なのでは?




ご本尊は秘仏で地蔵盆の際しか御開帳されませんが、そのご本尊・
地蔵菩薩からは結縁紐(けちえんひも)が伸びており、紐の先には
左手に宝珠、右手に五鈷杵(ごこしょ)が結ばれています。
それを撫でるなり握るなりして願い事を伝えるのかな・・・

住職さんでしょうか、読経されていました。この住職さん、心の痛みを
抱えてお参りにこられる方の力になればと、臨床心理士の資格をとり、
「心の相談室」を開いてカウンセリングされています。



本堂の軒下にも例の絵馬がずらりと・・・
このセット、ホームセンターでは置いてないだろうな。(^_^ゞ



〈阿弥陀三尊像〉【重文】

本堂背後の小堂に安置された石造阿弥陀如来像、脇侍像に観音・勢至
菩薩像が立っています。鎌倉時代、元仁元年(1224)に彫り、翌年に
開眼供養したという銘がある貴重なものだとか。
堂内には石造弥勒仏立像もあり、これも重文。

      〈おさすり地蔵さま〉

〈撫ぜ仏・賓頭盧尊者(びんずるそんじゃ)さま〉

どちらも病んでいる部位を撫でると除病の功徳があるといわれています。




本堂の側面、裏手の壁は・・・!
千枚もの釘抜き絵馬が貼られています。これだけ御利益があったのか?



ね、すごいやろ・・・(^_^ゞ


〈開山大師堂/観音堂の中〉
弘法大師の後ろに、行基作という藤掛観音菩薩」が祀られている。
写真、真っ黒で分からへんけど・・・
ただ、寺院内の西陣織と思われる金襴がやたら目につきました。



手水舎には深い井戸があり、つるべのバケツで水を汲むらしい。
ここには「弘法三井」と呼ばれる弘法大師が掘られた井戸が
あるのですが、それは境内の奥、墓地の中にあります。
加持水といわれるありがたい水が今も涌いているそうです。



不動明王やら十一面観音、ここはいろいろ願掛けができそうですね。




さすが庶民的なお地蔵さんがご本尊だけあって、信仰の場でもあり
地元の方にとっては憩いの場、コミュニティの役割も果たしている
そうです。毎月24日(地蔵尊の縁日)は「地蔵しるこの日」として
住職さんの法話のあと、「おしるこの唄」をみんなで歌うのだとか。
その後、おしるこのふるまいも頂けるようです。
私が訪ねたのも24日でしたが、気がつきませんでした・・・



2016.01.24、釘抜地蔵にて。

おかめさん

2016-03-18 23:48:49 | しゃじ
千本釈迦堂(大報恩寺)は、おかめ伝説発祥の地といわれています。

ここの本堂を建築する際、棟梁を務めた大工「長井飛騨守高次」の
妻がおかめさん。その物語はHPによると・・・

「高次が重要な柱の寸法を間違えて短く切り過ぎた際、枡組で補えば
良いと助言して、窮地を救いながらも「専門家でもない女性の知恵で
棟梁が大仕事を成し遂げたと言われては夫の恥」と上棟式を迎える
前に自害した」
有名な「おかめ」のふくよかな笑顔は明るい人柄を今に伝えています。
悲話の主人公「おかめ」の“助け合う円満な夫婦であり続けたい”
という強い思いがお参りする人を応援してくれるのかも知れません。

・・・と、結ばれていますが、現代人にとっては何か理不尽に感じて
しまいますね。今ならおかめさん、良妻賢母で機智知に富んだ人気の
コメンテーターになれたかも。経歴詐称をしなければね。(^_^ゞ

時代とは言え、夫の危機を救うベストアドバイスをしたのに
世間の目を気にして、自ら命を絶ち口封じ??
自殺するほどの強い意志があれば、秘密を守れると思うけど
そういう性格じゃなかったのかな(笑)



境内には江戸時代、京の大工がおかめさんの冥福を祈り建てたという
宝篋印塔(おかめ塚)があります(写真右端)。
阿亀多福像は昭和54年、有志によって置かれたものですが、ちゃんと
手には枡組(ますぐみ)を持っていますね。
この像を造立された有志には大林組、清水建設、飛島建設など
建築関係も名を連ねています。
無事建設成就し、度重なる戦乱にも残った本堂とも結びつき厄除、
招福のおかめ信仰につながっているようです。

これで分かりますよね、新築で棟上げの時(上棟式)、関西だけかも
知れませんが、おかめの面をあしらった「おかめ御幣」と言われる
お飾りを棟の高いところに工事の安全や魔除けの目的で飾ります。
そうそう、「となりのトトロ」の屋根裏のシーンでちらっと出て
きたりしますね。まっくろくろすけも出てきますが・・・(^_^ゞ

こんなやつね。

こんな話が残っています・・・
一番の功労者でありながら本堂の上棟式を迎える前に自害して果てた
おかめさん。夫であり棟梁であった高次は、扇を二つ広げて円にして、
妻おかめの顔を描き、木の先にそれを付けて高々と上げ、女性に対し
人前で感謝をすることも無かったこの時代に、おかめ有難うと叫んだ
そうで。これを見た者はみな涙したといいます。
以来、世の大工たちは、棟上げにはおかめの御幣を上げるようになり、
今に継承されているのだとか。


本堂内には信者さんによって寄進されたおかめの置物や面が数多く
展示されていました。



ところで、ぺちゃんこ鼻におちょぼ口、ぷっくりほっぺのおかめさん。
醜女の代表のように言われてますが、下ぶくれのふっくらしたお顔は
平安の昔から美人の条件。意外と絶世の美女と言われていたのかも♪



何よりも笑顔が素敵ですね、たくさん福を呼んでくれそうな
お多福顔。人気者であったのは間違いなさそう。






今ならマツコ・デラックスと人気を二分できたかも・・・(^_^ゞ



笑う角には福来る。笑うって免疫力を高め、健康にも良いそうですね。
そう言えば子供の頃、お正月はおかめの福笑いで大笑いしてたな♪

おかめ顔のお面は古くから存在し、お亀、阿亀、お多福、阿多福とも
書かれ、文楽人形ではお福、狂言面では乙御前(おとごぜ)あるいは
乙(おと)ともいう。
やはり滑稽な醜女として扱われることが多いですが・・・



そもそも起源は、日本神話のアメノウズメ(古事記では天宇受賣命、
日本書紀では天鈿女命と表記されている)。
「岩戸隠れ」のくだりなどに登場。太陽の神・天照大神が岩屋に
こもり、世の中真っ暗闇。困った八百万の神々は策を講じ岩戸の前で
どんちゃん騒ぎ。そこでアメノウズメがおっぱいもおまたも丸出しで
踊り、盛り上げたお蔭で岩戸を開けることができたとさ。
おかめの始まりアメノウズメは日本最古のストリッパー踊り子として
芸能の女神として信仰されていますね。

そんなことからか、ちょっとセクシーなおかめさんも・・・






不細工な女性を「オカチメンコ」なんて呼びますが、その語源は
オカメチンコ・・・じゃ無いですからね!(^_^ゞ

語源と言えば「俳優」という言葉が初めて出てきたのは日本書紀。
「わざおき」と読むようですが「天鈿女命(アメノウズメノミコト)
…手に茅纏(ちまき)の矟(ほこ)をもち,天石窟戸(あまのいわやど)
の前に立たして,巧に俳優(わざおき)す」とあるのが初見だそうです。
これも読みようによっては、かなり意味深?



このエロじいの手のようにね・・・




それにしても国宝の本堂の中に、これですから♪
ぜひ外国の観光客の方にも見て欲しいですね、日本の文化を(笑)




千本釈迦堂では2月3日の節分に「おかめ福節分会」があります。
見ものは本堂で行なわれる茂山社中奉納による
狂言「鬼追いの儀」・・・
鬼が登場して、打ち出の小槌を振り回し暴れまわります。暴れる
鬼達を「鬼は外」と豆まき攻撃の武力行使、一時は退散させますが
再びやって来て暴れ出す鬼達。今度も豆まきで鎮めようとしますが、
逆に鬼に襲いかかられ占拠されてしまう始末。
そこに、おかめが愛嬌を振りまきながら登場。鬼達はおかめの愛嬌に
へなへなとへたってしまい、無抵抗に。おかめにさとされた鬼達は
武装解除、打ち出の小槌を渡します。おかめに改心させられ、今後は
人を守護する事を誓い、おかめと共に去っていく・・・

この後、ここでの福豆まきは「福は内!」「福は内!」の掛け声で
行なわれ、「鬼は外!」とは言いません。
この一風変わった節分行事、何やら現代の外交にも通じそうな・・・




お多福に化けたお狸?そのまんまやん・・・(^_^ゞ


何故か河童も見かけましたが・・・


2016.1/24、千本釈迦堂にて。

応仁の乱を生き延びた千本釈迦堂。

2016-03-16 17:22:11 | しゃじ
西陣にある真言宗智山派の名刹、瑞応山 大報恩寺(だいほうおんじ)。
『千本釈迦堂』と呼ばれています。承久3年(1221年)創建。

京都ではもうひとつ「嵯峨釈迦堂」があり、そちらは浄土宗
五台山 清凉寺(ごだいさん せいりょうじ)。寛和3年(987年)創建。
嵯峨釈迦堂の方が古いのですが、知名度は千本釈迦堂の方かな・・・
タクシーに「釈迦堂へ」と告げると千本釈迦堂へ向かうようだし。(^_^ゞ



ぶらぶら歩いて西門から入りました。
大きな樹が目を引きます。樹齢どのくらいだろ・・・
西門を入ればすぐに寺務所があり、拝観料600円で本殿・霊宝殿に
入れます。クルマで来ても境内に無料で駐車できるようです。



霊宝殿には、快慶作「十大弟子像:重文」、定慶作「六観音像:重文」
などが間近に観られて、仏像ファンならずとも感動ものです。




五辻通(いつつじどおり)からだと参道、山門を通って本堂正面に。

本堂までの左手に稲荷社、北野経王堂 願成就寺が並んでいます。
〈北野経王堂〉

     〈稲荷社〉

北野経王堂 願成就寺、現在は大きくもないお堂なんですが、
足利義満が明徳の乱で倒れた敵(山内氏清)味方の冥福を祈るため、
北野天満宮の門前に建立したもので、建立当時は東山三十三間堂の
二倍半もあるという大きなお堂だったといいます。
江戸時代、荒廃したお堂を縮小しここに移転されました。その際に
貴重な仏像や経典、義満の宝物なども移され、現在は霊宝殿に保存
されています。

稲荷社は茶吉尼天尊、天上多田稲荷大明神を祀る。
前に置かれている石には「千度石」と彫られていました。
お百度では済まないんですねぃ・・・



〈千体地蔵塔〉
本堂の右手、境内の一番奥にあります。近くには行けませんでした。
おそらく明治の廃仏毀釈で廃棄されたお地蔵さんを集めたものかな?
組体操、人間ピラミッド・・・いや、地蔵ピラミッド状態ですね。




〈布袋尊像〉
本堂右にあり、立派な石像で目を引きますが、なぜ七福神が?
弥勒菩薩の化身とされているのでよいのかな・・・

それよりこちら♪ このお寺を有名にしているのは「おかめさん」。


〈阿亀多福像〉
本堂造営の際の棟梁・長井飛騨守高次とその妻・阿亀(おかめ)の
悲しくも切ないエピソードが美談として伝えられています。
この横には高次が阿亀の菩提を弔うために建てた宝篋印塔があり、
このお寺は、おかめ伝説発祥の地なんです。


〈阿亀桜〉
本堂前の右手に樹齢90年ほどといわれるしだれ桜の大木が!
御室仁和寺(おむろにんなじ)の御室桜は背が低く花が低いところから
おたふく桜と呼ばれていますが、ここのおかめ桜は花が高く立派?
「わたしゃお多福 御室の桜、はなは低とも ひとは好く」



黄桜、御衣黄桜も咲くようですね、お花見が楽しみ♪ すぐ近くには
境内全域に約60種類400本の桜銘木が咲く平野神社がありますしね。


さて、本堂へと・・・



全景の写真を撮るのを忘れていましたw(^_^ゞ
承久3年(1221年)に義空上人により創建、本堂は800年ほど前に建て
られたそのままで、京洛の中でも最古の木造建築物。国宝に指定
されています。※もちろん、解体・復元の大修理はされています。
京都のお寺はそのほとんどが応仁の乱で焼失してしまい、その後も
幾度も大火に見舞われていますから意外と古い建造物は無いです。



ここももちろん、明徳・応永の乱(1391年・1399年)に始まり
応仁・文明の乱(1467-1477年)の戦乱の渦中にあり焼失を逃れたのは
奇跡的かも。そもそもこの界隈を西陣と呼ぶのは、応仁の乱の際、
西軍の陣が置かれたことが由来ですから、まさに戦禍の真っ只中だし。
西軍の大将・山名宗全の特別な計らいもあったとか・・・
とは言え、この本堂の柱には当時のおびただしい刀、槍の傷跡が
残っています。



それにしても、室町幕府・足利氏、大内氏、山名氏、細川氏・・・
南北朝の動乱・・・この室町時代の争乱は脳がぐちゃぐちゃに?
大河ドラマ・花の乱を観なかったのが悔やまれる・・・(^_^ゞ

日本史上最大の内乱といわれる応仁の乱。京都は焼け野原となった
ことから、京都で「戦後」と言えば応仁の乱の後のことだか。
もう一つ言えば、京都人が腹黒なのはこの応仁の乱が原因だとも。
なにせこの戦乱、日本全国を二分しただけじゃなく親兄弟まで分裂
どちら側かが問われ、裏切り寝返りが当たり前。
腹の内、本音を言おうものならどうなることやら・・・
ちなみにこれがきっかけで日本は下克上、戦乱の世になります。




この桔梗紋は、真言宗智山派の宗紋ですね。



さて、本堂でもあちこちに「おかめ(=お多福)」さんのお姿が
見られます。
おかめさんに関する話題は次回に・・・(^_^ゞ



2016.1/24、千本釈迦堂にて。

蟬丸神社、三社完結。

2016-01-18 12:01:52 | しゃじ
さて、最後は12月にも訪ねた「関蟬丸神社 下社」です。
旧称:関清水大明神蝉丸宮。主祭神は豊玉姫命、創祀は弘仁13(822)年。

三社の中ではここが一番大きいかも。それでも一般からすると
小さい方です。しかも荒れ方、傷み方が酷いです・・・

国道161号線沿いで、参道には京阪電車の踏切があります。

「関蝉丸神社」と「音曲藝道祖神」の標石が並んでいます。

石灯籠には「関清水大明神」「蝉丸宮」と彫られている。



狛犬さんは、踏切り番?

境内の中を電車が走り抜けてる感じ・・・

これが「関清水神社」



〈神楽殿〉

社記によると
琵琶の名手で、後撰集の歌人でもある蝉丸が鎮座地の逢坂山に住む
ようになり、没後に上・下両社へ合祀された。
その後、蝉丸伝承は時代と共に全国各地へ広まり、歌舞音曲の神として
信仰されるようになり、次第に音曲を始めとする諸芸に関係する人々の
信仰が厚くなった。江戸時代には諸国の説教者(雑芸人)を統轄し、
免許を受ける人々が全国的規模で増加した。
とあります。

ここで前回の続き、蝉丸さんの謎。
琵琶法師たちが職業集団としてまとまっていく過程で、始祖と仰いだのは
蝉丸ではなく、仁明天皇の第四皇子である“人康(さねやす)親王”で
あった。と小松和彦氏(日本の文化人類学者・民俗学者)は『能のなかの
異界・逢坂山』で述べられています。

人康親王は28歳の時に病で盲目となり山科に隠遁し、盲人たちを集めて
音曲を楽しみとした・・・何かダブりますよね。
親王亡きあと、その霊を祀りその社を四宮と呼んだ・・・事実、山科の
地名として残っています。
「平家物語」では山科の四宮河原に醍醐天皇の第四皇子蝉丸が居たと
語られる。ところが山科四宮の地名の由来は仁明天皇の第四皇子である
人康親王なので、どうもこの二人が混同されているように思えます。
それにしても54代仁明天皇と60代醍醐天皇の同じ第四皇子、似たような
境遇の人物が居たものですね・・・ここらが疑問。
「今昔物語」での蝉丸の方が信憑性がある気がします。

ま、蝉丸人物像の考察、推測はここらにしておいて、蝉丸が諸国の
芸能民たちに歌舞音曲の神として信仰されたのは事実のようですから。







三社とも管理状態は良いとは言えませんね、特に下社は傷みが激しい。


〈本殿内の狛犬〉
三社を通して狛犬が目につきました、一体何対あっただろうか・・・
この下社の本殿内にあった狛犬は彩色がなされた立派なもの。

向かって左は口を閉じた吽像で角がある狛犬。右には口を開けた
阿像、角無しの獅子になっています。
これは典型的な日本独自の「狛犬」。阿吽形式の狛犬・獅子像です。

神社では必ずと言ってもいいほどよく見る狛犬、二つとして同じものは
無いはずなので、探索ネタにすると面白いだろうな。時代や地域に
よってかなりディープだと思われますが・・・










ほとんど人の姿を見ることは無かったですが、お詣りされる方も
居られるようですね。(^_^ゞ






三社の中で唯一の重要文化財じゃないかな?「時雨灯籠」。
鎌倉時代の特色をもった貴重な石灯籠のようです。


〈お地蔵さん〉


句碑がいくつもあったので・・・


これやこのゆくもかへるも別れつゝ しるもしらぬも逢坂の関 蝉丸
逢坂の関のしみづに影見へて いまやひくらし望月の駒 貫之


逢坂の 流れはし 初桜 椿
木の間もる 月あをし 杉十五丈 子規


蝉丸の 学びの宮ぞ 春の風
近松も 小町もめでし 山桜 淳


裏山に小町塚があるというので、行ってみました。


〈小町塚〉
六歌仙のひとり、絶世の美女 小野小町の塚としては・・・w
小町塚と右から横書きにされた下には
花濃以呂は宇つりにけりないたづらに わず身世にふるながめせしまに
と彫られているようですが、ほとんど読めず。(^_^ゞ

小町の墓は全国各地にあり、wikiでも8、9ヵ所あげられていますが
ここは記されていません。
晩年にこの辺りに住んでいたという伝承があり、この近くにある
月心寺内には、小野小町百歳像が置かれているそうです。


〈小町塚から見た境内〉


こんな小さな荒れた神社ですが、掘り起こせばいわく因縁?話題が
出てくるものですね。
まだまだ尽くせませんが、これにて完結とします。(^_^ゞ


2016.1/6、関蝉丸神社 下社にて。

謎の琵琶法師、蝉丸。

2016-01-16 00:04:40 | しゃじ
蝉丸神社・分社から、国道1号線沿いにたらたら下って来ると
上社(旧称:関大明神蝉丸宮)の参道、石段のところに着きます。
分社、上社、下社とも旧東海道に面していたようですが、今はこの
上社のみ国道1号線(東海道)に面しています。

上社の主祭神は猿田彦命、下社は豊玉姫命。合わせて関大明神として
関の守護、旅の安全を守る道祖神の役目だったのでしょう。
平安末期になり、上下両社それぞれに相殿神として蝉丸霊を合祀。



さて、蝉丸さんですが・・・調べ出すとどうも実体がつかめず。(^_^ゞ
ミステリー小説を読むようで(こんなん大好き♪)



百人一首のこの句は後撰和歌集のもので、この他にも

秋風になびく浅茅の末ごとにおく白露のあはれ世の中(新古今和歌集)
世の中はとてもかくても同じこと宮もわら屋もはてしなければ(同)
逢坂の関の嵐のはげしきにしひてぞゐたるよを過ぎむとて(続古今和歌集)

の3種を含め、4首の和歌を残しているから、蝉丸という名の歌人は
10世紀の半ばまでには実在した人物だといえるでようです。

プロフィールはと言えば、これが生没年不明。詳しいことはさっぱり
分かっていません。







この神社も無人、人の気配がしませんでしたが
まだ松の内だったので、鳥居には注連縄など正月飾りをされていた。
それにしても鉄パイプの鳥居?
以前はもっと太い木の鳥居だったようですが・・・


〈神楽殿・舞殿〉






どうやら地域の方が守ってられるのかな。




蝉丸のプロフィールのように扱われているのが、
能の演目、謡曲「蝉丸」。筋書きをかいつまべば・・・
延喜の帝の第四皇子として生まれた蝉丸、幼少の頃から盲目であった。
天皇は、蝉丸を逢坂山に捨てるよう命ずる。 捨てられた蝉丸は、
琵琶を抱き、杖を持ち、逢坂山の関に住む。
蝉丸の姉、第三皇女逆髪(さかがみ)は、髪が逆立つ奇病。
弟蝉丸を訪ね、やがて琵琶の音に導かれて再会を果たすことになる。
ふたりは障害をもった身を慰め合うが、悲しい別れの結末となる。
世阿弥の作ともいわれているが、ここに描かれている
醍醐天皇(延喜帝)の第四皇子・盲目・琵琶の演者というのが
キーワードになりそうです。

近松門左衛門作の人形浄瑠璃「蝉丸」では、蝉丸は女人の怨念で
盲目となるが、最後に開眼する・・・と、なっているようです。



〈本殿〉




関蝉丸神社の由緒書きには・・・
蝉丸に関する様々な伝承は『平家物語』などの文献に登場する。
和歌・管弦の名手であった鴨長明の『無名抄』にも当社に関する記述が
見られる。また、『今昔物語』巻第二四第二三話には管弦の名人で
あった源博雅が、逢坂の関に蝉丸という琵琶の名手が住むとの噂を聞き、
当時蝉丸だけが伝えていた「流泉」「啄木」という秘曲の伝授を
乞うため逢坂山に通い、三年の月日が流れた八月十五日、ようやく
秘曲を聞くことができたという逸話は有名である。
・・・と書かれています。

平家物語には「四宮河原になりぬれば、こゝは昔延喜第四の皇子蝉丸の
関の嵐に心を澄まし、琵琶をひき給ひしに・・・」
謡曲と同じく醍醐天皇の第四皇子、琵琶。四宮が新たなキーワードかな。

一方で、今昔物語では
「会坂ノ関に一人の盲 庵を造て住けり。名をば蝉丸とぞ云ける。
此れは敦実と申ける式部卿の宮の雑色にてなん有ける・・・」
この後、蟬丸は琵琶を弾くとも記されている。
逢坂の関、盲目、琵琶のキーワードは共通するのだが、
式部卿敦実(宇多天皇の御子)に仕える雑色(ぞうしき)だったと
されている。
※雑色とは当時の職位のひとつ蔵人(天皇の秘書的役割)の見習い。
昇殿も許されない身分、皇子とは随分違いがありますね・・・

尾崎雅嘉(江戸末期の国学者)の論では「蝉丸の姓氏詳らかならず。
古説に仁明天皇の時の道人なり。常に髪を剃らず世の人翁と号し、
或は仙人といひ、また延喜帝の第四の皇子などといへるは、いづれも
拠り所なき説共にて時代も違へり。また蝉丸の像を盲人の様に描く事、
笑ふに堪へたり。」と述べています。「百人一首一夕話」

ここまで言われると、盲人ですらなくなる。(^_^ゞ

蝉丸のことは、また次回にもう少し。ってことにして・・・
関蝉丸神社 上社をあとにします。


〈本殿より神楽殿を見る〉
この上社、山の斜面にあるので、本殿と神楽殿、鳥居なども
平面にありません。それぞれ石段で繋がれた踊り場の様です。

下は国道1号線、昔の東海道。右に行けば逢坂の関、越えれば京都へ。
登坂車線が設けられていますね。



ここにも常夜灯が立っていました。下の石台は車石が再利用されて
います。これもレプリカかな?
大津米屋中が建てた「逢坂常夜燈」、以前安土で見ましたが。


また余談ですが、百人一首には逢坂山を歌った和歌もありました。
「名にしおはば 逢坂山の さねかづら 人に知られで 来るよしもがな」
作者は三条右大臣(藤原定方)

子供にも教えられる意味は、その名(逢うという意味)を持っている
逢坂山に生えているサネカズラよ。サネカズラの蔓を手繰るように、
人に知られずに、来る方法はないものかなぁ・・・と、なりますかね。

も少しディープにこの句を楽しみましょう♪
「名にし負はば」=その名に背かなければ。
「逢坂山」は、逢う(密会の場所)の掛詞。
「さねかづら」は、マツブサ科サネカズラ属の常緑つる性樹木。
雌雄異株で、別名:美男葛(ビナンカズラ)。漢字表記は実葛・真葛、
核葛とも・・・。掛詞として「小寝」=一緒に寝る(大人の男女がね)
「人に知られで」は、人に知られずに。「よし」は、方法、手だて。
「もがな」はは願望の終助詞になります。さて、「来る」は?
「繰る」の掛詞なんです。素直に葛のイメージで、たぐり寄せるって
意味でも良いですが、ちち繰る=男女がひそかに会って情を通じる。
密通する。って意味も出てくる?
掛詞を駆使して色っぽい部分をオブラートに包み、品良く表現して
いますが、ムラムラした情熱も感じられますね。(^_^ゞ


これは真葛の実に似ていましたが、違うようですね。

2016.1/6、関蝉丸神社(上社)にて。