カッパのロードスター

幌を開ければFeelin`good。カッパーレッドの
路渡☆くんとの楽しいドライブ日誌。

第二十番札所 西山 善峯寺(完結編)

2012-09-14 18:42:52 | 西国三十三所巡礼
経堂、多宝塔の前に“日本一の松”と言われる天然記念物「遊龍の松」があります。
樹齢600年の五葉松。以前は54mあったそうですが、松食い虫の被害に遭い
15m切断したそうです。それでも充分、ビックリしますが・・・



全体像がどうしても写せませんでした。(^_^ゞ






このお寺で有名な桂昌院お手植えの枝垂れ桜ともみじもここにあります。
遊龍の松の端には開山堂があり、源算上人117歳の姿の像が祀られています。
長寿のご利益があるらしいですが、何故か見逃しました・・・






「幸福地蔵」(しあわせじぞう)
季節によって枝垂れ桜、あじさい、もみじの園が一望に見渡せる崖に
小さな懸造りの地蔵堂があります。中には約300年前のお地蔵様が立っておられる。
自分以外の人の幸せをお願いしましょう・・・ってことでした。



「釈迦堂」
ここに祀られている釈迦像は石仏で、合掌されている珍しいお姿だそうです。


九目結紋(ここのつめゆいもん)
このお寺ではアチコチでこの家紋を見ることになります。
これ桂昌院さんのご紋なんですねぇ~~(渡邊あゆみアナウンサー風に)
 私、録画して欠かさず観てます・・・NHK歴史秘話ヒストリア。(^_^ゞ
「大奥 シンデレラ・ストーリー」として桂昌院さんも取り上げられていました。
江戸時代、京都の八百屋の娘として生まれたお玉。とても家紋の持てる
身分ではありませんでした。それが・・・詳しくは後ほど。

さらに上へと登って行きます。



洛中、東山三十六峰が一望できます。


「出世稲荷」
坂の途中にお稲荷さんが。
ここからの眺望も素晴らしく、記念撮影ポイントになっていました。



京都タワーも見えますね。
でもまだまだ登りの途中です・・・はぁ、 はぁ・・







かなり登ってきました。もうひと息、奥の院の手前に休憩所を兼ねた東屋のような
「けいしょう殿」があります。景勝の地で桂昌院を祀る・・・って、
案内パンフにも駄洒落(?)で紹介されているとおり、ここからの眺望も見事です。
お堂の中央には傍らに子犬が寄り添う桂昌院の像が置かれています。



「玉の輿」の語源となった桂昌院のシンデレラ・ストーリーをちょいと・・・

京都・堀川の八百屋の娘として生まれた名前を「お玉」という女の子、
まだ幼いときに父親を亡くします。支えを失ったお玉とその母は寄る辺を求め
この善峯寺に奉公に出ます。そんなお玉に、父親がかつて野菜を納めていた
縁で、下級武士ではありますが本庄家の養女になることが決まります。
(桂昌院の紋、九目結紋はこの本庄家の家紋なんですね)

そして、本庄家の紹介で公家出身の尼僧の待女となったお玉。13歳の時に、
尼僧が徳川三代将軍家光に謁見することになり、そのお供で江戸城に登ります。
そこでなんと家光は、尼僧に一目ぼれ、尼僧はお万の方と名を改め
家光の側室になります…そしてお玉も京都に一度も帰ることなく、
お万の方の侍女として江戸城大奥で暮らすことになります。

なんとなんと家光さん、19歳になっていたお玉をも見初め側室に!
ついに八百屋の娘、お玉は「お玉の方」と呼ばれる身分に。
信心深いお玉の願いが叶い、20歳で見事、男子を授かります。しかしその子は
家光の三番目の男子。世継になる可能性は薄かったのですが・・・
運命の女神はここでもお玉に微笑みかけます。家光の後を継いでいた
四代将軍家綱が突然病死。家綱には世継となる男子がおりませんでした。
次の候補である家光の二男・綱重はすでに亡くなっており、遂にお玉の子
綱吉が徳川五代将軍に!
時に、お玉(桂昌院)54歳。念願かなって将軍の母に。



↑本堂にある「お守り納めどころ」
子犬が玉の輿を担いでいる姿だそうです。玉の部分に前年のお守りを納める。
これも桂昌院に因んだものですね。

綱吉と言えば「生類憐みの令」。犬公方と揶揄され治世の評価は低いですが
将軍になるまでかなりの年月がかかっている。その間も夢を諦めなかった母、
桂昌院は綱吉に学問や文化を身に着けさせたかなりの教育ママだったようです。
そんなインテリ将軍の時代は元禄。世は決して平穏じゃなかったようですね。
富士山が噴火したのもこの頃かな・・・大火や飢饉にも見舞われました。
政治的には水戸光圀(黄門さま)は生類憐みの令に反発して、
綱吉に犬の毛皮を送ったって逸話もあります。対立していたのですね。

母である桂昌院の悩みは次の将軍、後継ぎです。綱吉には将軍になる直前に
生まれた長男がいましたが、5歳で病死(七五三の祝いは、この綱吉の子の
健康を願ったのが始まりとされています)
その後、子を授かることがなく躍起になった(?)桂昌院は「子が授からないのは
仏教の功徳が足らないから」と考え、常識を越えた規模の功徳を積みます。
かつて幼少のころ身を寄せた善峯寺の大規模な復興はもとより、東大寺、
法隆寺、唐招提寺、室生寺などの有名なお寺や全国各地、数百に及ぶお寺の
復興に尽力されたようで、九目結紋を見つけたらここも綱吉・桂昌院が
助けたお寺なんだなと感じて下さい。ただ、そのせいで幕府の財政は困窮。
結局、願い叶わず世継もできず・・・1704年、59歳になった綱吉は、
自らの子を諦め養子を迎え入れます。その翌年、我が子の血筋を残すという
シンデレラの最後の願いは叶わないままその幕を閉じます。
桂昌院 死去(享年79歳)




さて、奥の院に繋がる階段は・・・ふぅ~ッ!
興味の無い日本史話を読まされるのとどっちが楽やろ。(^_^ゞ


奥の院「薬師堂」



奥の院からの眺望はさすがに一番高台、素晴らしいです。



「蓮華寿院庭」の池、「青蓮の滝」にもモリアオガエルの巣がいっぱい。


??
奥の院よりまだ先(上)にありました。何だったのかな?


???
これまた、何コレ!


「阿弥陀堂」
もう中腹?まで下ってきました。


緩やかな石畳の参道、ほっとします。    「本坊」の門。




「遊龍の松」越しに「経堂」「多宝塔」がちらり・・・ここまで降りれば
もうすぐです。本堂、山門、そして駐車場まで。



2000年にオープンした「寺宝館文殊堂」。 駐車場も近代的?

来た時はほぼ満車状態、アジサイ満開見頃だったしね。
帰りは、ここでもまた閉門時間まで居ましたから・・・


おまっとぉ~はん。(=お待ちどうさん。たまには京ことばを♪)





2012.6/24、善峯寺にて。



○宗派:天台宗単立 ○開基:源算上人
○御本尊:千手観世音菩薩 ○創建:長元2(1029)年

御詠歌「野をもすぎ 山路にむかふ 雨の空 善峯よりも 晴るる夕立」

第二十番札所 西山 善峯寺

2012-09-11 23:58:04 | 西国三十三所巡礼
京都市西京区にある『西山 善峯寺(よしみねでら)』、第二十番札所です。
京都盆地は単純に言って東山、北山、西山に囲まれています。それぞれ
ひとつの山の名前ではなく連峰ですが、このお寺はその西山に創られた
広大な寺院です。春は桜、初夏は紫陽花、秋は紅葉の名所として、
関西随一の景勝地である山寺と言われています。
紫陽花の様子は前に紹介アップ済み。

とにかく広いですが山の中腹ですから平地はほとんどない。
境内での移動は坂道、石段の連続です。
土地には余裕があるので駐車場も広く、かなりの台数が停められるよう
整備されています(有料)。

バス停から徒歩だと、これまた長い階段を登ってくることになるようです。
そして駐車場の端っこのここ↓に到着です。


駐車場からてくてく坂道を登っていくと、重厚で立派な山門が現れます。






このお寺、1029年(長元2年)源算が創建。(西国三十三所の中では最も新しい)
1034年(長元7年)には後一条天皇により鎮護国家の勅願所と定められ
「良峯寺」の寺号を賜り、以来歴朝の御崇敬篤く、鎌倉時代には慈円大僧正や
浄土宗西山派の祖、証空上人が、また、青蓮院の宮様が代々当寺の住職を
されたので「西山宮門跡」と呼ばれました。
鎌倉時代初期には源頼朝との親交も深くなり、1192年(いいくに創ろう鎌倉幕府)には、
鳥羽上皇より慈円のために「良峯寺」を「善峯寺」と改め、自筆の寺額も賜ります。
このように朝廷・幕府の庇護により僧坊52の多きに及んだ善峯寺も、
応仁の乱の兵火にかかり、焦土と化してしまうのですが・・・
江戸時代に桂昌院(徳川家光の側室で、5代将軍綱吉の生母)の寄進によって
再興され、山林42万5千坪を寺領とし明治に至ります。(現在の境内は3万坪)
今もあちこちに「桂昌院寄進」が目立つお寺です。



山門には源頼朝が寄進したと伝えられている運慶作の文殊菩薩像が楼上に、
両脇には仁王像が安置されています。



山門をくぐると緩やかな傾斜の参道がありますが、
すぐに急な石段を登ることになります。



伽藍の建つ場所はさすがに平地ですが、狭いです。それらを結ぶ通路は
坂道、階段ばかり・・・
このお寺を創建するにあたり、こんな言い伝えが残っています。
 山が険しく建立は困難を極め、困り果てていた源算上人。
 ある夜、上人の夢枕に一人の老翁があらわれ、「カを貸してあげよう」
 とのお告げ、 次の夜、野猪の大群が、一夜にして牙で大岩をうがち、
 地ならしをしてくれたそうです。
そのおかげで、この山中に伽藍を建立することができたと伝えられています。
何か「もののけ姫」のワンシーンを思い出しますが・・・





「観音堂」本堂です。
ご本尊は仁弘法師作の十一面千手観世音菩薩。脇立に源算上人作の
十一面千手観世音菩薩。開基である源算上人の作が脇とは、逆な気が
するのですが何か事情があるのでしょうね。「脇の本尊」と呼ぶ人も
いるようですが、このダブル千手観音像は秘仏とされています。





「御香水井戸」
本堂の横にあります。この御香水をいただけば長寿のご利益があるとのこと。
お寺の開基、源算上人は117歳の長寿を全うされたとか、ご利益ありそうです。
生水は身体に悪そうなので飲みませんでしたが・・・(^_^ゞ



本堂に向かい合うように休憩所がありました。中には賓頭盧尊者さんや
三十三所の御本尊レプリカが並べてあります。



休憩所にはこんな貼り紙が・・・阪神大震災の際に、高架が落ちた阪神高速の
ギリギリで停止して、墜落を免れたバスの運転手さん(ミラクル・フクちゃん)が、
善峯寺のお守りを肌身離さず持っていたそうです。
そこから「落ちない」お守りとして、受験生などに話題になったのだとか。


「大師堂」             「手水舎」


「弘法大師像」


「つりがね堂」           「護摩堂」
桂昌院が徳川五代将軍綱吉公の厄除けのため寄贈されたことから
「厄除けの鐘」と呼ばれています。


「多宝塔」             「経堂」(絵馬堂)


経堂の屋根には何やらキャラクターっぽい・・・



経堂には桂昌院が鐵眼の一切経を納めらてます。
その周りには祈願成就の絵馬がたくさん並んでます。どんな願い事が
書いてあるか読むのも面白いもので・・・(^_^ゞ




これ誰やったかな・・・思い出せません。

追記>傅大士像でした。
傅大士=中国、南北朝時代の在俗仏教者。斉の東陽の人。本名、傅翕(ふきゅう)。
善慧大士と号し、双林寺を建て、大蔵経を閲覧する便をはかって、転輪蔵を創始した。
後世、経蔵などにその像が置かれ、俗に「笑い仏」といわれる。


2012.6/24、善峯寺にて。