デラシネ日誌

私の本業の仕事ぶりと、日々感じたことをデイリーで紹介します。
毎日に近いかたちで更新をしていくつもりです。

タキエさんが死んだ

2012-10-11 13:19:45 | お仕事日誌
打ち合わせを終わって携帯でパソコンに来ているメールをチェック。いつかは見なければならない、でも見たくはないタイトルのメールが入っていた。「タキエさんが亡くなりました」。
プーシェルの丸山さんからだった。丸山さんはこの春ドイツに行かれたときに、タキエさんと会ってきている。その時は自分が書いたものと、タキエさんを最初に紹介してくれた高校の同級生と一緒にビデオレターをつくって持っていってもらった。帰国した丸山さんははっきりとは言わなかったが、ガンが進行していることはわかった。たぶん丸山さんは余命三カ月と言われたタキエさんが何度もそれを克服して10年以上になることを知っていたので、また今度もきっと克服するにちがいないと思っていた、信じたかったのであろう。丸山さんから状況を聞いて、きっといつかこんな知らせをもらわないといけないと覚悟はしていたのだが、やはりどこかでタキエさんだったらまた奇跡をおこしてくれるんじゃないかと思う気持ちもあった。
どこかでしかたがないとわかってはいるのだが、やはり辛いし、悲しい。タキエさんがいなかったら、マンフレッド沢田一家とあれだけ親しくなることはなかったろうし、それはつまり自分が「海を渡ったサーカス芸人」という本が出せるようになったということだ。なんどドイツ・ノイマルクのお宅を訪ねたのだろう。タキエさんと大きな猫たちがいつも歓迎してくれた。まるで自分の家に帰るように自然にドアをあけていた。本当に明るい、笑顔の素敵な元気なお母さんだった。どんだけ苦労したか、でもタキエさんはいつも明るかった。そして涙もろかった。通訳しているうちにかわいそうだと言って、僕に訳してくれる前に、ボロボロ涙をこぼしていた。
ほんとうに忘れられないのは、マンフレッド一家が野毛の招待で横浜に来る前の日に、タキエさんから送られてきたFAXである。いつもの大きな字で、まるで自分が日本に戻るように、それまでのマンフレッド一家の苦労、そして今回ここまでたどりつけたことの喜び、そして親戚の人たちや日本人が自分を受け入れてくれるかという不安が連綿とつづられていた。これはマンフレッドの手紙ではないかと思うぐらいだった。
タキエさんじゃなければずっと夢見ていた国に帰るというマンフレッドの喜びはわからなかった。だからタキエさんにいつのまにかマンフレッドのそして父豊の気持ちが乗りうつったのだろう。
タキエさんには何もできなかった。ガンになったというときも何もできなかった。
それでいいのかという忸怩たる思いもある。
でもなにより悲しいのは、もうタキエさんとは生きて会うことができないということだ。
会社に戻って、タキエさんを知っている人たちにタキエさんご逝去の知らせを流す。
今日は19時から世田谷パブリックシアターで、「ファウスト」の芝居を見る。
23時過ぎに帰宅。

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