日々の雑感記によるヘボ・マイ趣味紹介です。
ダッペの悠友ライフ
群馬高崎・新町にある「正一位於菊稲荷大明神」に寄って来ました
ひな祭りも過ぎて閑散とした群馬高崎市の新町・橋場町にある「行在所公園」の奥には、朱塗りの少しはで目な神社が建てられています
神社の名は、「 於菊稲荷神社(おきくいなりじんじゃ)」といって、ちょっと変わった名前がつけられています
「於菊稲荷神社」の由緒書によると、
「古くより鎮座いたします稲荷神社は、天正十年(1582)八月小田原城主北条氏政と厩橋城主滝川一益と神流川原に於いて、天下分け目の決戦を行いたる時、北条氏は、先祖以来の守護神稲荷の社頭に戦勝祈願をいたしました
その甲斐有りて大勝利を得た北条氏政は、御神徳の偉大さに感激し小祠を立派な社に再建して報賽の誠を捧げ当社の起源となりました」 とありました
「正一位於菊稲荷大明神」 参道入口 ・・・ 朱塗りの鳥居が幾つも続いていました
更に由緒書きは続きます
「その後、時移り太平の徳川の御代となりて、新町宿にも幾多の妓楼が立ち並ぶようになりました。
宝暦年間(1751~)大黒屋の娼妓於菊は、新潟の貧農の娘であったが、美貌で気だてもよく、新町随一の売れ妓ともてはやされていた。
稲荷神社に日参りする多くの娼妓達のなかでも、於菊は特に熱心なる信者でした。
また子供好きで、境内で遊ぶ子供達にいつも、あめ菓子を買い与えたり一緒に遊んであげたりと子供達親達にとても慕われておりました。
しかし、ふと風邪をこじらせた於菊は、ついに足腰たたぬ病となってしまいました。
これをとても心配した子供達の親は日頃から於菊が信仰していた稲荷神社に小屋を建て看病を三年間続けました。
彼女の信心、親達、子供達の願い遂に神に通じてか、ある夜半枕辺に稲荷の霊あらわれ不思議に病気も全快いたしました。
人々は喜び合って神の恵みと感謝し、彼女は一生涯神明奉仕と世の人々の為に尽すことを決意し稲荷社の巫女となりました。
巫女となった於菊は、日々の神明奉仕を続けるうちに神の霊移ってか神秘的な力を授かりました
彼女の言葉は、天候をはじめとして世上の事の予言また困っている人の手助けをしておりました。
そして人々は、口々に「困った事は稲荷の於菊に聞けばよい」「於菊に聞いて稲荷に参ればよい」と言われておりました。
於菊の稲荷、稲荷の於菊と誰言うとなく於菊稲荷神社と呼ばれる様になりました」
これが、「於菊稲荷大明神社」の謂れだそうです
その後、益々神社は弥栄えて文化文政から、嘉永初旬まで最も隆盛を極め、遠くは江戸、横浜、長崎からも参拝する者多く、中には吉原の遊女、歌舞伎の名優、両国の力士、詩人、名僧等と参詣に来た人たちの枚挙にいとまもなかったそうです
社には数々の文化財は昔時を語る宝物として残っているそうです
朱塗りの鳥居の足元に、祀られた双体道祖神 依願者たちの寄進した鳥居群・・・境内を抜け社まで続いていました
「正一位於菊稲荷大明神」 ・・・ 朱塗り鳥居奥: 拝殿社 、 向かって左: 手洗舎
鳥居をくぐると、すぐに狛狐像があり、左側の狛狐の裏側には手水舎があります
この水屋は文政六年(1823)、町人の浄財で作られたもので、大久保詩仏「冰香」の筆跡がある水盤や、狛犬の彫刻がある珍しい水屋になっています ・・・ 高崎市指定文化財
鳥居を潜っていくと、左側に授与所があり、最奥に拝殿前に出ます
手水舎内の様子・・・正面下:水盤、 上部:彫刻が見えます 暗くて分かりにくかったのですが、欄間彫刻
拝殿
拝殿前には狛犬のすぐ裏側に狛狐がありました
狛狐の背中に子狐が乗っていたのが、珍しく、かわいらしかったです